ブローチ
嵐が過ぎ去った翌朝は、まるで何もかもが嘘であったかのような不気味なほどの静寂に包まれていた。
空は昨夜の狂騒で全ての塵を洗い流されたかのように、どこまでも青く澄み渡っているのだろう。
あの激しい嵐の音が、今はまるで聞こえない。
窓から差し込む陽光は、私の肌に穏やかな温もりを届けてくれていた。
小鳥のさえずりだけがやけに大きく、そして無邪気に屋敷の庭に響き渡っている。
けれど、その穏やかな外の風景とは裏腹に、屋敷の中は凍りついたような緊張感に支配されていた。
空気が、重い。
廊下を歩く侍女たちの足音はいつもより忍びやかでぎこちない。
私とすれ違う時、彼女たちは慌てたように挨拶をすると、すぐに壁際に寄って足早に去っていくようだ。
その背後から、ひそひそと囁き声が聞こえる。
私の鋭敏になった聴覚は、その残酷な言葉の断片を拾い上げてしまう。
「お嬢様は、あの化け物と毎夜……」
「一体何を話しておられたのかしら……」
「呪われていなければよいのですが……」
恐怖と好奇と、そして私を異質なものとして見るわずかな侮蔑を感じる。
それらが見えない針となって、私の背中にチクチクと突き刺さる。
私は一夜にして、この屋敷の中で孤島に置いて行かれたようになってしまった。
昨夜からほとんど一睡もしていない。
寝ようと横になればアレンの優しい声とミランダ様の悲しい人生が交互に浮かんで消え、私の思考をかき乱す。
そして、あの逃げ去る間際に彼が立てた、切迫した骨の軋む音。
その全てが一つの巨大な解けない謎となって、私の心を重く圧し潰していた。
今はただ父が約束してくれた、あのブローチだけが私の唯一の希望だ。
昼過ぎになって重々しい足音が、私の部屋の前で止まった。
父だ。
その足音には、どこかいつもと違う響きがある。
彼と共にもう一つ、年老いた執事セバスチャンの革靴の足音が聞こえる。
「エリアーナ。約束の品が見つかった」
父の硬い声と共に、私の前のテーブルにゴト、と重いものが置かれる音がした。
続いて古い木材の乾いた匂いと、長年光の届かぬ場所に放置されていた埃の匂いが鼻をつく。
恐らく木箱。
それも相当に古い物。
「……セバスチャン、開けてくれ」
父の命令に、老執事が応える。
音から察せるその手つきに、わずかなためらいが感じられた。
彼にとっても、これは長年触れることを禁じられてきた、いわば禁忌の箱のようなものなのかもしれない。
ギィィィィ……、と錆び付いた蓋の蝶番が何十年という長い眠りから覚めるように悲鳴を上げた。
そして、ひやりとした金属の塊が、父の手によって私の包帯の巻かれていない方の左手のひらへと乗せられた。
「これだ。ミランダ様のブローチだ」
ずしり、とした確かな重み。
それは単に装飾品が持つ重さの話ではない。
一人の女性の人生そのものの重みが、私の小さな手のひらに重くのしかかってきているかのようだ。
表面は滑らかに磨き上げられている。
けれど、その滑らかな表面の下に、無数の細かな傷が刻まれているのが指先で感じ取れる。
これはミランダ様が冒険者であった頃に負った名誉の傷なのだろうか。
それとも、この屋敷に来てからその心を苛んだ悲しみの傷跡なのだろうか。
指で、そっとその表面をなぞる。
中央には何か複雑な紋様が浮き彫りにされているのがわかる。
翼を持つ獣のようにも、あるいは鋭い棘を持つ茨が絡み合っているようにも感じられる。
それは大空を自由に駆け巡っていた彼女の魂と、彼女を縛り付けた逃れられぬ運命を同時に象徴しているかのようだ。
私はその冷たい感触を指先で確かめながら、祈るような気持ちで、そっとブローチを裏返した。
裏面は表とは違って、少しざらついている。
長年彼女の衣服に触れて擦れてきたのだろう。
その、ほぼ中央に。
何か細い針のようなもので、故意に引っ掻かれ何度も何度も同じ場所を強く削ったような、深く、鋭い溝があることに気が付いた。
これは、文字だ。
私の心臓がドクン、と大きく跳ねる。
息を詰める。
周囲の音が、遠のいていく。
父とセバスチャンが、固唾をのんで私を見守っている気配だけが肌に伝わる。
私は全ての神経を左手の指先に集中させた。
何度も指先を往復させ、頭の中の文字の形と照らし合わせるのに長い時間を要した。
震える指でその魂の傷跡を一文字、また一文字と確かめていく。
『す』
『ま』
『な』
『い』
すまない。
その言葉が私の頭の中に残る。
誰への謝罪なのか。
私の指は吸い寄せられるように、次の行へと滑る。
力強い線。
『ア』
揺るぎない感触。
『レ』
最後の響き。
『ン』
アレン。
その名前に指先が触れた瞬間、私は確信した。
これは彼に、宛てられた言葉だ。
私の心臓が激しく鼓動を打つ。
まだだ。
まだ、続きが、ある。
私の指はまるで聖なる遺物を扱うかのように、慎重に最後の一行を、辿る。
『あ』
『い』
『し』
『て』
『い』
『る』
指先から、その言葉の意味が奔流となって私の魂に流れ込んできた瞬間、ぶわり、と全身の鳥肌が立った。
ああ……。
ああ……!
これはミランダ様が、アレンに遺した言葉。
伝えられなかった、本当の気持ち。
彼女は彼を忘れたのではない。
どうしようもない運命の濁流に呑み込まれながら、それでもただひたすらに彼を愛し続けていたのだ。
涙がもう止まらない。
枯れたはずの泉から再び熱いものが止めどなく溢れ出してくる。
それは自分のための涙ではない。
あまりに残酷な運命に引き裂かれた、二つの魂のための慟哭。
「どうした、エリアーナ。何かわかったのか」
父の心配そうな声が遠くに聞こえる。
私は言葉を続けることができなかった。
ただ、このブローチに刻まれた言葉があまりに悲しく、そしてあまりに切実な真実を物語っていることだけは確かだった。
アレンは、この言葉を知っているのだろうか。
そして私は決意した。
このブローチに刻まれたミランダ様の魂の叫びを。
私がアレンに届けなければならない。
彼がなぜ骸骨の姿になってまで私の前に現れたのか、その理由はまだわからない。
けれど、この言葉こそが全ての謎を解く鍵であるような気がしてならなかった。
私が時を超えた二人の架け橋にならなければならない。
たとえ彼が世にも恐ろしいアンデッドの姿をしていたとしても。
たとえ世界の全てが彼を化け物として拒絶したとしても。
私だけは彼の、そしてミランダ様の味方でいなければならない。
私は彼に会わなければならない。
もう一度、必ず。
この指先に触れた、温かい言葉を伝えるために――。




