空白の吹き出しを埋める、授業~未完成の一コマを、子どもたちと一緒に完成させる~
教育実習も折り返しに入った。毎日子どもたちの元気に押されっぱなしで、正直へとへとだ。けれど、その分だけ自分が本当に先生になれるのかを試されている気がする。
来週はいよいよ、私自身が授業を企画してやってみる番だ。担当は「総合的な学習の時間」。テーマは自由。――その言葉が、今の私には一番重かった。
自由といえば聞こえはいい。でも「何でもいい」と言われると迷ってしまう。
仲間の実習生たちは「友達と協力すること」「環境を守ること」といった無難な題材を選んでいた。私もノートにアイデアをいくつも書き出したものの、どれも平凡すぎて心が動かない。『私だからできる』授業ってなんだろう。
机にうつ伏せながら、ふと高校時代のことを思い出す。あの頃、私は本気で漫画家を目指していた。毎日タブレットに向かい、寝る間も惜しんで線を引いた。『私だから書ける作品』を目指して、毎日毎日頑張っていた。
一度だけ、全国誌の新人賞で佳作を取ったこともある。編集部の講評に名前が載ったときは、本当に夢をつかめる気がした。けれど、壁は高かった。最終候補までは行けても、そこから先に届かない。受験勉強との両立も難しくなって、私は進路を切り替えた。親も教員だし、なんとなく教育学部へ進んだ。
でも――最後に書いた漫画のラストシーンが未完成だったことが、今も喉に刺さった小骨のように心に残っている。あれは『最後の作品にするぞ』と受験前に少女漫画の公募用に書いた青春物の話だった。あの公募を最後に、漫画家の夢はすっぱり諦めようと決めていたのだ。
ラストシーンは校舎裏で男女が向き合う場面。女の子の口は開いているのに、吹き出しは空白のまま。私はあのシーンを最後まで描き切れなかった。――これを仕上げて、応募してしまったら、漫画家を目指す夢も一緒に終わってしまう気がして、結局応募もできなかった。
***
そんなある日の放課後、私は指導教諭の山崎先生をお手伝いして、職員室で『学年だより』のイラストを描いていた。運動会のお知らせだ。
山崎先生が「何か余白が目立つ」と悲しそうにしていたので、紅白帽子でリレーをする子どもたちの姿や、玉入れをする姿で余白を埋めてみた。
山崎先生は「すごい、すごい」と絵を描くたびに手を叩いてくれるので、嬉しくてどんどん描いてしまう。
「笹川さん、絵が上手いねえ。こういうの描けるって、教師としてすごく強みだよ。僕なんか絵が苦手で、いつもフリーイラストに頼っちゃうから、ほんと羨ましい」
「いえ、そんな……」
「美術部だったのかい?」
「……高校のとき、漫画を描いてたんです」
「なるほど。納得だ。……じゃあさ、自作の絵を教材に使ってみるのも面白いかもしれないよ」
その言葉に、胸がちくりと疼いた。
夜、1人暮らしの家でタブレットを開く。昔のフォルダを漁ると、あった。制服姿の男女が向かい合う、あの一コマ。吹き出しは、空白のままだ。
(……これを、授業で使ってみる?)
無謀な気もした。小学生に恋愛漫画のシーン。保護者の目を思うと、クレームになったらどうしようという考えも頭をよぎる。けれど「気持ちを言葉にする」教材としてなら意味がある。むしろ、未完成のこのコマだからこそできる授業があるんじゃないか――そう思った。
次の日、仲間の実習生に話すと、案の定眉をひそめられた。
「え、小学生に告白シーン? やめときなよ。絶対茶化されるって」
「でも、気持ちを言葉にするのは、恋でも友情でも同じだし。挑戦してみたいんだ」
「……美波、度胸あるね」
呆れ半分、感心半分の視線。でも私はもう決めていた。
***
授業当日。黒板の前に立つと、心臓がドキドキして手のひらが汗で濡れていた。
「今日は、“気持ちを言葉にする”というのを、やってみましょう」
私は大きくコピーした一コマを黒板に貼った。女の子が男の子に話しかける寸前の場面。吹き出しは空白。同じコマを印刷したプリントをクラスに配布する。クラスが騒めきたった。
「これは、先生が高校生の時描いてた漫画のラストシーンなの。セリフが思いつかなくて、完成できなかったんだ。みんなで、セリフを入れて、完成させてくれるかな?」
「先生が描いたの?」「すげー!」と反応は上々だ。
「この二人はクラスメイトです。女の子がこれから男の子に言葉をかけます。みんなは、このコマだけ見て、どんなシーンだと思う? セリフを入れて書いてみてね」
「えー! 絶対これ、告白だろ!」
後ろの男子が叫び、教室がざわついた。
「恋愛じゃなくてもいいんだよ。たとえば『宿題忘れないでね』とか『明日一緒に遊ぼう』でもいい。大事なのは“気持ちを伝える言葉”です。書けたら、発表してもいいよーって人は手を挙げてくれると嬉しいな」
そう言うと、みんな、かりかりと鉛筆を動かし、思い思いの台詞を書き出した。
このクラスは、わりとみんな発言してくれるクラスだけど、発表してくれるかな……。
そんな私の心配を打ち破ってくれたのは、クラスの『おふざけ担当』で、ムードメーカーの男子、田口くん。
「はい! できた! 『君、鼻毛出てるよ!』」
「ぎゃははは!」
「それいい!」
爆笑が広がる。私は笑いをこらえて黒板に貼ったイラストの横にチョークでセリフを書いた。
「『今日の給食カレーだよ!』」
「『サッカー部やめんなよ!』」
「『宿題写させて!』」
「『消しゴム貸して』」
「『そのノートかわいいね』」
田口くんに続くようにふざけたり、日常を切り取ったり。賑やかさで教室が満ちていく。
「じゃあ私は……『あなたの机の落書き、ばれてるよ』」
女子が言うと、また笑いが広がった。
少しずつ雰囲気が変わり、真面目な声も混じり始める。
「……『ずっと友達でいよう』」
「『ありがとう』」
「『がんばって』」
その一言で、胸が熱くなった。
(“がんばって”。これはキャラクターへの言葉。でも、どうしてだろう。まるで私に向けられているみたいだ)
私は大きく「がんばって」と黒板に書いた。チョークの文字が少しにじんで見えたのは、緊張のせいじゃない。
「いろんな言葉が出ましたね。人によって違うけど、言葉には相手を笑わせたり、安心させたり、元気づけたりする力があります。だから、みんなも自分の気持ちを大事にして、ちゃんと言葉にしてみてください」
子どもたちが誇らしそうに自分のノートを見ている。私は確信した。
(この授業は、子どもたちのためだけじゃなかった。私自身のためでもあったんだ)
***
放課後。山崎先生が声をかけてくれた。
「笹川さん、今日の授業、よかったよ」
「ありがとうございます。でも……保護者の方の反応とか、大丈夫でしたかね……?」
「確かに保護者から一本、電話はあったよ。“告白シーンのような漫画を題材にするのは早いんじゃないか”って」
胸がきゅっと締まる。
「でもね、その保護者さん、こうも言ってた。“子どもが家で授業のことを嬉しそうに話してたんです”って。子どもが家で授業の話をするのは、いい授業だった証拠だよ」
「……本当ですか」
その言葉に、胸の奥がふっと軽くなった。
***
夜。下宿に戻り、机の上にタブレットを置く。昔のフォルダを開くと、あの未完成のコマが現れた。女の子が口を開いているのに、吹き出しは空白のまま。
私はスタイラスペンを握り、カーソルを吹き出しの中に置く。ゆっくりと文字を打ち込んだ。
――がんばって。
その二文字が浮かび上がった瞬間、胸の奥に小さな灯りがともった。
私は少し笑って保存ボタンを押した。
無心でペンを握って、ページを埋めていった日々は無駄ではなかったんだ。
――今でもちゃんと、私の中に存在している。




