第七話 明山雨は書院から逃げようとする
鵲姐は目をつぶっている。寝ているのか気づかないふりをしているのかは分からない。いずれにせよ、動くつもりはないようだった。
「まあいいや」
明山雨はひとりごち、昼食どころか夕食も済んだであろう夕空の下、今度は川を目指して歩を進めた。道々森の木の実や野草で空腹を満たし、竹筒から水をのんだ。疲れたら足を休め、辺りの様子を眺める。そんな余裕のある明山雨を、探しに来る者はいなかった。あれだけ外に出すまいとしていたのだ。見逃してくれたとは思えない。諦めるのを待っているのだろうか。
月が東に昇る頃、山雨は川岸に到着した。
「ありゃ、増水が戻ってないや」
明山雨は、倒木にでも乗って渓流下りをしようと算段していたのだ。昨夜の暴風雨の影響が、日の落ちる頃になってもまだ残っているとは予想外だった。水嵩と勢いが増した岩の多い川に、生身で入る勇気はなかった。
「仕方ない。歩こう」
どうせ歩くなら遡るほうがいい。流れに任せるなら下ることになるが、自ら進むなら逆方向を選びたい。山雨はそう思って、石の多い岸辺を上流へと辿り始めた。
「やあ、魚捕るの手伝ってくれない?」
川沿いの移動を始めてから間も無く、背中に温良な声がかかった。雲風楽大師兄である。
「こんな夜中に漁をするの?」
「寝込みを襲うのさ」
にこにこしながら物騒なことを言う。流石は大師兄だ。
「夜食?」
明山雨は、じりじりと楽から距離を取る。走ったところで、摸魚功を使われたらあっという間に詰む。山雨は、散仙に教わった生き延びる為の技術を、記憶の中から必死に探し出そうとした。
「一杯やろうと思ってさ。今夜は月がいいからね。君もどう?」
「お酒は飲めないよ」
「ふうん?」
楽は優しい垂れ目を細めて、山雨が腰に下げた水筒を見た。明山雨は咄嗟に牽制した。
「水だよ」
「水ねぇ」
目を開いて穏やかな笑顔に戻ると、楽は天気の話でもするかのような無頓着さで一言足した。
「命の水?」
「命の水ってなに?」
山雨は警戒して額に皺を寄せた。頭の中はフル回転である。
「僕も呑んだことないんだけどさ。奇跡の仙薬らしいよ」
「へえ」
「知らない?」
「知らない」
「養老派の絶世秘功を使って仕込んだ薬酒なんだってさ」
山雨には分からない言葉が出てきた。知りたいと思わないので、黙って後ろに下がり続けた。楽は動かなかった。
「命の水は俗称で、本当の名前は他にあるらしいよ」
山雨と雲風楽の間は、もう表情が見えない距離になっていた。川面に映る弦月は早瀬に揉まれて形を忙しなく変えている。
「蛛、絲、閃」
楽は様子を伺っているようだ。岩走る急流の音が妙にはっきりと聞こえる。楽の丸顔が青白く月光に照らされていた。遠くでフクロウが鳴いた。もうすっかり夜である。
「雨上がりの蜘蛛の巣に光る雫って意味らしいね」
山雨の耳には、楽の声が届かなかった。散仙に教わった「殆どの危険から逃げられる歩き方」を思い出したのだ。普段は使わないので記憶の底に眠っていた。熊や狼程度なら、「いつもの山歩き」として教わった歩き方で充分である。争わず静かに立ち去ればよい。散仙に歩き方を教わってからは、野生動物に追われたことが一度もない。
「ありゃ。こりゃ逃げられちゃうかな?」
夜風に吹かれながら楽は穏やかな笑みを浮かべた。
「あいたっ!痛いですよ、師父」
突然、棹で背中を打たれたのである。笑いながらも眉を下げ、楽は抗議した。
「ほれっ!早く追いかけんかっ!」
「徒児不走」
「またお前さんは!」
のらくらと逃げようとする一番弟子を、院長は再度棹で叩く。
「いたっ、痛いですって、師父!」
「嘘をつくんじゃない!龍鱗葯櫃功を使って防御と治療を同時に行っているだろう!」
「それでも痛いですよう!」
「えい、白々しい。こっちはたいした力も込めていないのに」
「ほんとに痛いんですって!龍鱗葯櫃功は編み出したばかりで未完成なんですから!」
楽は食い下がる。独自の防御技術を使っていることは否定しない。未熟だという点を強調し、師弟の情に訴える作戦だ。
「龍鱗葯櫃功開発の土台は魚龍鱗功だろう!この程度の打擲なぞ、真面目に鍛錬しておれば、小雨に降られるようなものに過ぎないはず!」
「師父、師父、師、父ー!」
「楽よ!お前さんの魚龍鱗功は、岩だらけの激流に巻かれてもかすり傷ひとつ追わないまでに、練り上げたじゃないか」
「師父の竹は激流より痛いですよ!」
「いいかげんなことを!」
「わああ!やめてくださいよ!」
院長が棹を振り上げた瞬間のことだ。
「徒児去!」
桃の声が星空から降ってきた。不毛な争いを続けている師匠と弟子のコンビを尻目に、桃は鵲姐の脚に掴まって飛んでゆく。この度は文字通り飛んでいた。
「え、大丈夫ですかね?」
背中を丸めて防御の姿勢をとりながら、楽が垂れ目を見開いた。
「鵲姐、明弟のこと嫌ってましたよね?」
「そうだったな」
院長は大師兄を叩くのをやめて空を見上げた。
「追いかけるか」
「そうしましょう」
二人は何事もなかったかのように、すっと姿勢をただした。
「行くぞ」
「明白!」
珍しく抵抗せずに、楽は院長と共に追跡を開始した。
魚龍書院のたった一人の教師とその一番弟子が、逃亡中の侵入者に追いついたのは、弦月が夜空の真ん中に来た頃だった。山雨が楽から逃げたのは、まだほんの宵の口だ。距離から言うと、最初に楽が声をかけた場所からたいして離れてはいない。だが、探すのに時間がかかったのだ。
「ハッ、魚龍山でこうも翻弄されるとは」
雲風天院長は、嬉しそうである。大木の陰で竹筒を傾ける明山雨の背中にむかって、満足そうに頷いた。
「鵲姐はどうしたんでしょう?」
隣に立つ楽が不思議そうに山と空を見渡した。
「神鳥といえども、養老派の障眼歩法・好酒想歩を使われたら追跡は不可能だろうて」
声の届く距離にいるのだが、明山雨は立ち去ることなく平然と水を飲んでいた。
「けど、軽功は本当に使えないみたいですね」
「そうだな。普通の速度でも充分追うものを惑わすんだから、たいした高手だ」
「やはり、散仙と名乗る人物の手解きを受けたのでしょうか」
「決めつけることは出来ないが、どこかで身に付けたのは確かだな」
「ええ。明らかに好酒想歩ですからね」
「山雨が養老派と関わりのある奴だってことは間違いないだろう」
高手とはこの国で達人を指す言葉だ。山雨は何故自分が達人と言われたのか分からなかった。養老派というのも聞いた覚えがない。勝手な思い込みで引き止められては敵わない。山雨は竹の水筒に栓をすると、「殆どの危険から逃げられる歩き方」を再開した。
「見つけたー!」
木の葉や小枝が落ちてきた。ザザっという音を立てて桃が空からやって来る。同時に風の渦が巻き起こった。
「ギャギャーッ」
「鵲姐!まって!」
鵲姐が、キリのように身体を真っ直ぐにして突進したのだ。桃が慌ててとめようとした。掴んでいた脚から手を離し、鵲姐の顔近くまで落下する。院長と雲風楽は素早く跳び上がった。首にしがみつく桃、棹を振り翳す院長、そしてお団子に巻きつけていた長い紐を解く楽。魚龍書院の先生と生徒が三人がかりで巨大な鵲を止めようと奮闘した。
紐を解いた大師兄は、髪がバラリと解けた。高い位置で一つに束ねた黒髪が、枝間から降る月光の波に洗われる。さながら天の海を泳ぐ龍のように見えた。解いた紐は地味な茶色で、夜の岸辺では目立たない。白い靄のようなものがうっすらと紐の周りに漂っていた。院長が達人たちを吹き飛ばした靄と同じ力のようだ。
「鵲姐落ち着けっ!」
桃は説得を繰り返す。だが山雨が休んでいる所まではもうすぐだ。
「ギギャッ」
楽の紐が鵲姐の身体を、閉じた羽ごとぐるぐる巻きにした。身を捩る拍子に、鵲姐は桃を振り落とす。桃は回転してまばらに木の生えた草地に着地した。楽は紐の端を手に持って、鵲姐を川に放り込もうとした。鵲姐は、紐の弾みで空中に浮きあがる。しかし鵲姐も、ただやられているだけではなかった。羽の自由を奪われたまま、身を翻して楽の茶色い紐の上を跳ねた。かなりの速度でピョンピョンと近づいてきた。院長が着地の瞬間を狙って、棹で鵲姐の脚元を掬う。
鵲姐がバランスを崩した隙を逃さず、楽が長い紐を操る。鵲姐は月夜の急流に投げ込まれた。だが、鵲姐は諦めない。茶色い紐から自由になった途端、川から飛び出して、ぶるると水を撒き散らす。山雨の顔にも川の水が飛んできた。
それまで呆気に取られていた山雨だったが、水を浴びて我に返った。
大家好だいがあはお
みなさんこんにちは
障眼法は好きですか
枝を持つ程度の迷彩から幻術まで、武侠世界では様々なものがありますね
後書き武侠喜劇データ集
来年20周年の「経典」作品
全編ネタまみれ
香港電影ではないです
最初から「外伝」しかないです
正伝はたくさんの本家経典作品群です
武林外伝
邦題不明
My Own Swordsman
2006
CCTV連ドラ、2025/3/18現在公式全話無料配信中
2011年に映画化
古装 武侠 喜劇
監督 尚敬
スタメン配役
本家経典の関係者たちという設定なので「外伝」
佟湘玉 閆妮
「同福客桟」のおかみ。いろんな意味でつよい。
閆という字は日本にもある漢字。漢字検定配当外で、意味は「村の中の門」だが現在では使われることがない文字だとか。
中国では姓として使用されるそうです
白展堂 沙溢
イケメン枠
客桟従業員
呂輕侯 喻恩泰
秀才枠
客桟の帳簿係
三話で自作小説の題名を「武林外伝」と決める
が、ドラマは劇中劇ではないです
郭芙蓉 姚晨
脳筋枠
客桟の居候
李大嘴 姜超
おでぶ枠
調理師
莫小貝 王莎莎
子供枠