第六話 明山雨は写本に取り掛かる
寝転んでいる山雨を、院長が見下ろした。厳しい顔つきでしばらく黙っていたが、やがてニヤリと笑った。
「へっ」
院長は嘲り笑いを漏らすと、再び笑顔を消す。
「さあ、立ってこれに掴まれ」
棹が地面に突き立てられる。
「ぐずぐずするな。弟子どもは先に戻っている」
「わかったよ」
明山雨は身体の土や枯葉を払って立ち上がった。
「今回は失敗ってことで」
「帰ったら鯊魚宝典の写本作業にとりかかるように」
約束なので仕方ない。山雨は承諾した。
「うん。でも文字を知らないから、写すの遅いと思うよ」
「見た通りに写せばいいんだ」
山雨は院長の差し出す長い竹の棹に掴まって、書院の建物へと帰って行った。
書院の教室には一人用の座卓がいくつも並んでいた。弟子は三名なのでたくさん余っている。積極的に入門者を募るつもりは無さそうなのに、席だけは多い。
既に席についていた弟子たちが、院長と新入りを振り返る。院長に促され、明山雨は雲風楽の隣に座った。
「机は書卓って呼んでるけど、まあ覚えなくてもいいよ。師父の席は特に呼び名はないかな」
楽は大師兄のくせに、どうにも胡散臭さが漂う。この青年の言うことは、話半分に聞いておいたほうが安全である。昨日自白剤を飲まされたことも、秘孔を突かれて動けなくされたことも、山雨は忘れていなかった。
雲風楽の後ろに雲風桃、明山雨の後ろに雲風舟が座っている。二人とも姿勢良く授業が始まるのを待っていた。山雨は、桃が生真面目に座っているのを少し面白く思った。だが、考えてみれば、桃は雲風天の弟子である。三人の達人と一群の弟子たちをひとりで下した老人が師匠なのだ。しかもその恐ろしい老人の二番弟子として、師と生活を共にしているほどの人物だ。よほど真摯に修練を続けているに違いない、と山雨は考えを改めた。
院長が弟子それぞれに課題を与える。先ずは、ひとりひとりが師の前に呼ばれ、昨日までの成果を見せた。院長は頷いたり、一言二言アドバイスをしたり粛々と確認を済ませた。新しい課題を受け取ると、弟子たちは静かに自分の席に戻った。
最後に明山雨が呼ばれた。院長の前まで進み出ると、後ろの戸棚から取り出した文房具一式を渡してくれた。山雨は書院で学ぶつもりなど端からないので、ありがたいとは微塵も思わなかった。
「道具は机に置いたままでよい」
山雨は胸を撫で下ろす。渡された文房具には持ち運び用の箱がなく、毎日持ち帰るように言われたらどうしようかと思っていたのだ。
「道具の使い方は解るか?」
「分からない」
「では教えてやろう。席に戻りなさい」
文房具一式を抱えて戻る山雨に、院長がついてきた。硯や墨という名前から始まり、墨の磨りかたから筆の持ち方まで、丁寧に教えてくれる。山雨は意外に感じた。自分で考えろと突き放されるかと思っていたのだ。目付きは鋭く声音は厳しい。だが、山雨が何度間違えても、あるいは失敗を続けても、苛立つことなく指導してくれたのだ。
山雨がなんとか筆を正しく使えるようになった頃、午前中の授業が終わった。
「昼食までは自由時間だ」
院長の一声で、三人の弟子は一礼する。山雨はちらりと弟子たちを見たが、礼はしない。口をへの字に曲げて両手を後ろについた。その姿に楽はにこにこして立ち上がり、舟はふっと笑って口元を長い袖で隠す。銀糸の混ざる上等な薄衣が、流れるように膝へと垂れた。
桃はキッと山雨を睨みつけた。
「雨雨!師父に頭を下げなよ!」
「なんで?弟子でもないのに?」
山雨は不満そうだ。
「何ぬかしてんだ!道具の使い方を教わっただろ!人に何か世話んなったら、頭下げて感謝しな!」
「頼んでないよ?むしろ嫌なんだけど。無理に教えられるのに、頭下げるの?」
山雨はどこか飄々とした風情で反論した。
「しなやかに垂れる柳の枝に爽やかな風が吹き抜けるごとく、雨上がりの岸辺に立ちその趣ある景色を観るもののこころを清々しい心持ちに致しますね」
くすりと笑った舟だったが、はっと何かに気がついたような表情を作る。
「いえ、むしろ、吹き抜ける風に髪を乱された人が気にも留めない風情でございましょうか?世俗の煩わしさがなんだと申しましょうか。突風に吹かれたとしても悠然と過ごすだけでございますね」
「三師弟、食事の用意はしなくていいのか?」
「ふふ、そうでした」
舟は儚げに微笑むと、たおやかに立ち上がった。
「擾擾成何事 悠悠送此生」
節をつけて囁くように口ずさみながら、舟は厨房へと去った。悠然たる詩句の味わいとは裏腹に、物悲しい雰囲気だけが後に残った。
「小うるさいってことかよ!いちいちくどいんだよ!」
桃はスラリと高い舟の背中に向かって悪態をついた。雲風舟の白い裾がゆらゆらと揺れて、織り込まれた銀糸の光が戯れる。
「悪口だったの?」
「そうだよ」
苛立ちを露わにする桃に、山雨は思わず破顔した。
「はははっ!」
「ちっ、笑ってんじゃねぇよ!」
山雨は、頭を下げろと言われた不服を綺麗さっぱり忘れてしまった。胸の支えが取れた気がした。怒る桃は可愛らしかった。嫌味を言われて短気を起こす雲風桃が、毛を逆立てて唸る仔猫のように見えたのだ。
「ははははは!」
「うるせぇっ!ちっ、呑気な奴だな!」
桃は怒る気が失せたのか、へっと笑って跳び去った。摸魚功である。明山雨は、軽功を使えたら便利かも知れないな、と少し心を惹かれた。
「不行不行不行、ダメだ」
気になっている素振りを見せようものなら、忽ち三拝とやらをさせられるだろう。人間を吹き飛ばしてしまうような力はいらないのだ。武力抗争に巻き込まれたくはない。
明山雨は、たった一日の滞在で自分が毒されてしまったことに愕然とした。このままでは、日常感覚が狂う。魚龍書院の日常は、軽功と陣形、謎の白い靄などで出来ている。どれも山雨の日常には必要がないものだ。
山雨は部屋を出ると左右を確かめた。廊下に人影はない。屋根のある干場に行くと、服は殆ど乾いていた。泊まった部屋に戻り、着替えて竹筒を下げる。中身が半分ほどに減っていたので、朝貰った水差しから足した。その間、近くに人の気配はなかった。
庭に出ても誰もいない。水溜まりは残っていた。舟が、適度な風雨は通すと言っていたことを思い出す。院長の魚龍飛天陣は建物を暴風雨から守ったが、庭はかなり濡れたようだ。
外へと通じる木戸は開いていた。何事もなく通る。書院の人々は軽功で跳躍するからなのか、木戸の外には道がない。
「これじゃ、門がどっちにあるのかわかんないや」
人が居ない隙に門から出ていこうという思惑が外れた。この場所からは川も見えない。川伝いに脱出する当ても外れた。
「うーん、そうだなあ」
山雨は、昨日門を通った時と、今朝門に行った時の様子を思い出す。書院の建物の周囲がどんな様子だったか。門の辺りはどうだったか。記憶の中から太陽の位置を探し出し、凡その方角を割り出した。
「こっちかな?」
普段は気の向くまま彷徨っている。方角が分からなくても大丈夫だ。幼い日に出会った散仙と名乗る男が教えた凡その方角を知る知識は、今の今まで忘れていた。魚龍書院から逃げ出したい一心で思い出したのだ。
書院の建つ魚龍山には食べるものが沢山あると聞いた。山で生き延びる方法は知っている。山雨は軽い気持ちで門を目指す。軽功は知らないが、山道は慣れていた。しっかりとした足取りで進む。
書院では、そろそろ昼食が始まっただろうか。明山雨がいないことに気づかれた頃だろう。そうは思えど、山雨は焦ることなく歩いて行った。門を通る挑戦は、いつでも何度でもして良いことになっているのだ。咎められる謂れはない。
それに、魚龍書院一体の地区から離れられれば良いのだ。元々が理不尽な罰なのである。逃げてしまえば構わないだろう。もし鵲姐がまだ門の前に居座っていたとしても、川ルートがある。川からは侵入者も来るのだ。明山雨は昨日、三組も見た。それ故、川を辿れば容易く外界に出られると踏んだ。
「やあ、鵲姐、まだいたね」
果たして石の門には、白黒二色に染め分けた羽を持つ巨大な鵲が留まっていた。
大家好だいがあほう
みなさんこんにちは
古詩や民謡はお好きですか
本文中の詩句:
宋代詩人陳與義(1090-1138)「春雨」より
後書き武侠喜劇データ集
監督繋がり。テンプレを超絶美麗な映像センスと緊迫感ある間の使い方、意外性は少ないものの目が離せないチャンバラで魅せまくる監督
残念ながら、往年の香港電影のような純粋に動きで楽しませる作風ではありませんが
念念無明
命がけブライダル~宮廷密使の花嫁は暗殺者~
The Killer Is Also Romantic
2022
古裝、愛情、懸疑、武俠
あれ?喜劇は?このタグだと「御賜小仵作/宮廷恋仕官~ただいま殿下と捜査中~ 」みたいな作品だと思っちゃうよ。客層だいぶ違うと思う。
監督 曾庆杰
脚本 赵林 虚顏でも監督と組んでいる
主な配役
司小念 胡丹丹
善人不殺のアサシン、針遣い
染織からする仕立て屋
中の人は人気女優
晏無明 楊澤
政府の情報組織トップ。退職即ち抹殺で部下も上司も仲間ではない。だが愛する家族が揃ってチートなので四人仲良く逃げ切る。
無明の声を担当した許凱は、人気俳優とは同姓同名の別人です
司寶兒 肖然心
武器開発の天才、ヒロインの妹。やばいひと。
かわいい。古装劇「危険良人」で主演だそうだが、観てない。ポスターの男装の役人姿が可愛い。
文房 王钧浩
孤児時代から無明と本当の兄弟のように育った
暗衛指揮使の私設部下という立場で守られている
終盤に活躍、漢を見せる
やばい人のやばさを秒で受け入れる超やばい人
劇中最も善良な変人
中の人は「與君初相識」に出ていたらしいが、話そのものを全く覚えていない
追記2025/3/29
编辑と編劇を間違えて覚えていたことが発覚
なおした