第二十二話 下山
突然押しかけて来た散仙一家が、嵐のように去って行った。いつも優雅な様子を保っている舟が、心なしか落ち着かない様子であった。
「なんだ、阿舟。音功を学びたいのか?」
雲風天院長が声をかけた。音功は風天では教えることが出来ない。雪鶴は達人である。
「いえ、そういうわけでは」
「ではどうしたのだ?家族が恋しいか?」
舟はゆったりと瞼を下げる。
「わたくしは、嘘偽りなく、天涯孤独の身の上でございます」
「そうなのか」
「はい、左様でございます」
意外なことに、雲風舟の素性は、風天院長でも知らないらしかった。
翌朝早く、明山雨は石門にいた。門さえ潜れば自由である。散仙に貰った名札があれば出入り自由なのだ、と判明した今、失敗への恐れは消え去った。考えてみれば、軽功を身につける必要はもとより無かったのだ。それに、急流で魚をひたすら捕まえれば、摸魚功は身につくのだ。軽功を学びたかったとしても、修行は、なにも魚龍渓谷で行わなくても良いはずである。
明山雨は、手には流木を持っている。桃に貰ったものだ。もうすっかり相棒である。明山雨には名前をつける趣味はないので、無名の流木だった。
「ふむ」
これ見よがしに並べられた、陣の通り道となる石や木片を、明山雨は眺めた。前回で懲りたので、触るのはやめておいた。その代わり、その上の空間に流木を差し込む。特に反応はない。名札を首から下げている明山雨が手に持った棒だからだろう。
「大丈夫そうだな」
明山雨は、どんぐり眼をくりっと動かして陣の反応がないか確認した。安全だと判ると、大きく息を吸った。
「ふーっ」
そして勢いよく息を吐き出して景気付けをした。明山雨は、門から距離を取る。顔が引き締まった。両手でしっかりと流木を握る。肩に担ぐように流木を持ち、明山雨はやおら走り出した。次第に速度を上げ、門のやや手前で腕を突き出す。流木は門の向こうまで届いている。
明山雨は、軽やかに踏み切った。流木の先が、門を抜けた先にある地面に触れた。大きな身体がしなやかに宙を舞う。空中を走るような仕草で、明山雨は、とうとう石の門を潜り抜けてしまった。
「最初から、地面にあるものなんか飛び越えれば良かった」
着地して振り返った明山雨は、気が抜けたように独りごつ。朝の爽やかな空気には、竹の香りが満ちている。山雨は、清々しい気分で笑顔になった。
「松阴竹影当行窝」
山雨は、子供の頃に聞いた一節を謡いながら、山の麓へと下りて行った。散仙が口ずさんでいた詩の一つである。松の木陰や竹の落とす影が住処とするに相応しい、という旅人の心境を詠み込んだ言葉だ。何物にも執われない、漂泊者の人生観である。書院の庇護下に入ることを嫌い、気ままな流離いに戻った明山雨にはぴったりな一節だった。
石の門の内側には、院長と三人の弟子たちが並んでいた。陣の作動に気がついてやって来たのだ。しかし明山雨には、彼らの姿が見えなかった。それも陣の効果である。
山雨はしばらく歩いて、数日前に離れた街道まで辿り着いた。魚龍山へと至る細道の出口で、明山雨は水を飲んで休憩した。もうすぐ昼時である。この辺りには茶舗も客桟も無い。山雨は、街道沿いに生える植物の実や根で腹を満たすことにした。
「さて、どっちに行こうかな」
街道を東に進むと、港湾要塞都市・鉄鱗港がある。ひたすら西へ向かえば、都である神鵲京に至る。途中には、小都市がいくつか控えていた。山雨はまだ、神鵲京に行ったことがない。
「都に行ってみるか」
山雨はいつもの通り、軽い気持ちで歩み始めた。擦り切れた服、無造作に束ねたボサボサの髪、不恰好な流木を杖につき、土埃の立つ路を裸足で行く。
「うん?階段かな?」
かつて脇道だったらしき道があった。木が不自然に途切れているのだ。よく見ると、馬車道の脇に石段が刻まれていたようだ。いまは崩れて、丈の高い草に覆われている。坂道に生える木々は疎で、明らかに周囲のものより若かった。
「道じゃないけど」
上に何があるのか気になった。明山雨は叢の中を登ってみることにした。両腕で構えた流木を使って藪を漕ぎながら、山雨は鼻歌混じりに進む。「いつもの山歩き」を使っているので、虫にさえ襲われずに歩いてゆく。
ただし、この歩法は目眩しに過ぎないので、草や石などの障害物には通用しない。そこは怪我をしないように避けて通った。見通しの悪い藪なので、毒草が紛れていても目立たない。魚龍山に程近い斜面ではあるが、植生は違っていた。明山雨は、未知の毒草があったら、と思うと怖かった。
山雨は緊張しながら藪を抜け、半分崩れた門を見つけた。ここの門は石ではなく木で造られていた。僅かに残った門柱には、見事な透かし彫りの名残が見えた。かつては贅の限りを尽くして塗り上げられていたであろう。今では、朽ち果てて蔦で覆われている。足元には扁額の残骸もある。かろうじて額縁と解る飾り彫りの一部が残るばかりで、そこに書かれた文字を知ることは、もう出来なかった。
そこからまた階段と坂道が続き、虫食いだらけの門がもう一つ現れた。この門には古い扉が片側だけ付いていた。錆びた蝶番で門柱にぶら下がっている。昔日の役割を必死に守り侵入者を威嚇するように、風が吹くたびに軋んでいた。勿論、昔は立派な観音開きの扉だったのである。
門の内側には、かつて広大な屋敷があったようだ。水廊や太鼓橋、蓮池に張り出した四角亭、石造りの舞台に、凝った細工を施した幾つもの離れ。それらは一様に風雨に晒されて、見る影もなかった。
「迷子かい?」
古びた石の伎楽殿に入った時、頭の上から少年の声が降って来た。見上げると、石造りの梁に寝そべった人がいる。畝りのある黒髪を高い場所で束ね、前髪がいく筋か落ちていた。目を瞑ったまま頭の下で腕を組み、脚も組んでいた。
「ここらには何にもないよ」
明山雨が黙っていると、少年は目を閉じたままもう一言付け加えた。
「階段の跡を見つけたから、上に何があるのか見に来たんだよ」
明山雨は素直に伝えた。すると少年はパチリと目を開いた。
「わざわざ?」
「わざわざ」
明山雨のシンプルな答えを聞いて、少年が石の梁から飛び降りて来た。
「跡って言ったって、すっかり藪に呑み込まれちゃってるだろ?」
「呑み込まれてた」
「物好きだねえ」
「暇だからね」
少年はひとしきり口をパクパクしてから、また一言加えた。
「水もないし、泊まるのにも向かないよ」
「水はあるよ」
山雨は腰に下げた竹筒を振って見せた。微かにチャプチャプ音がする。
「それに、屋根が残っている場所もあるじゃない。充分泊まれるよ」
「うんまあ、屋根があるにはあるね。殆どが無くなっちゃってるけどね。どうしても泊まるつもりなら、家具は形を留めているように見えても、使わない方がいいよ。中が腐ってて危ないから」
少年は親切に忠告をしてくれた。
「そうなの?ところで君はここで何してるの?」
腐った家具で怪我をして動けなくなった、というわけでは無さそうだ。どう見ても無傷である。山雨のように好奇心から登って来たとも考えにくい。それにしては山雨の行動に驚きすぎであった。
少年はパッチリとした眼で明山雨を見た。
「気になる?」
「気になる」
少年は長身でやや肉付きが良かった。高い梁の上からひらりと降りて来たくらいだ。武術の達人に違いない。服は焦茶地に金茶色の斑ら染めだ。激しい動きに耐える、しっかりとした生地である。揃いの稽古着を渡されるような大きな門派の人かもしれない。
大家好だいがあほう
みなさんこんにちは
本文中の古詩は、
方岳1199~1262「竹下」より
後書き武侠喜劇データ集
射鵰英雄傳之東成西就
大英雄
The Eagle Shooting Heroes
1993
監督 劉鎮偉
動作指導:洪金寶
黄药师 张国荣
欧阳锋 梁朝伟
洪七 张学友
段王爷 梁家辉
王重阳 钟镇涛
周伯通 刘嘉玲
素秋 王祖贤
三公主 林青霞
国师 张曼玉
皇妃 叶玉卿
「东邪西毒」撮影の合間に、同じ出演者を使い、プロデューサーで参加していた劉鎮偉が仕上げて公開した映画
射鵰の英雄たちが若かりし日の物語、というコンセプトも共通している
豪華な学芸会
オープニングテーマで一応原作のあらすじっぽいものが分かるようになっている。
射鵰の英雄たちが若かった頃は酷かった、というナレーションとともに、酷すぎるドタバタが幕を開ける。
現代視聴者は、ひたすら唖然とするかもしれない。
武侠とドタバタ喜劇が好きな人からは熱烈に支持され続けている、武侠喜劇の大傑作。