第二話 旅人は雨の庭で長話を聞かされる
桃に襟首を掴まれて、若者は山の木々を飛び越えた。何度か枝や梢の葉を踏んだが、地面に足を着けることなく進んだ。あっという間に降りた所は、ごく普通の田舎屋だった。
「やあ、戻ったね。風桃師妹」
広い庭で作業をしていた小太りの青年が声を掛けた。背は低くも高くもない。木の棚に並べた平笊に山で採れた果実を並べている。干し果物を作っているのだろう。青年は、茶色っぽい木綿の服をきちんと着ている。桃と違って清潔だ。髪は頭の上で綺麗なお団子に結い上げてあった。
「新弟子かい?」
「師兄!違うすよ!こいつ、侵入者っす!結界門を突破したっす!」
優しそうな兄弟子は、垂れ目をパチクリさせた。
「侵入者?そんな高手には見えないけども」
「だから尋問するんす!師父に尋問しとくようにって言われたっす!」
「うん、怪しいよね」
兄弟子はにこにこしながら若者に近づいて来た。
「何の心得もなさそうな顔してるけど、魚龍書院の石門を潜って来たなんて」
「えっ、怪しくないよ、やめてよ」
眉を寄せる若者に、兄弟子は袖から取り出した包みを差し出す。
「どうぞ」
若者は襟首を掴まれたままで、怪訝な顔で包みを見た。
「怪しくないよ、どうぞ」
若者は唇に力を入れて首を振った。無闇に物を受け取っては危ないと思ったのだ。
「干し果物だよ、ほら、美味しいよ?」
青年は包んだ布を開くと、中から干した杏の実を摘み出した。庭先で並べていた物とは違う果物だ。書院の庭にも、飛び越えて来た山の中にも、杏の樹は見当たらなかった。庭にも杏の樹は生えていない。
「師兄、それなんす?」
「杏子だよ」
「どっから持って来たすか?ここらに生えてないすよね?」
「うん、まあ、気にしなくていいよ」
青年は干杏子を一つ自分の口に入れたあと、もう一つを若者のほうへと近づけた。
「あっ、師兄!勿体ない!そんな珍しいものを!」
桃は猫目をますます吊り上げて叫ぶ。
「風桃師妹も食べていいよ」
兄弟子は、干杏子の包みを桃に向けた。桃は嬉しそうに笑って、いそいそと干杏子をつまみ取る。いくつもの杏子を食べながら、しっかりと若者の襟首は掴んでいる。
「それで、君は誰なの?」
ひとしきり干杏子を食べた後、兄弟子が若者に問いかけた。しばらく上目遣いに兄弟子を眺めていた若者だったが、やがて観念したように名前を告げた。
「名前は明山雨」
「どんな字を書くんだい?」
「知らない。文字は読めないよ」
「なるほどねえ」
兄弟子はにこにこと頷いた。明山雨は警戒を解かず、風桃は脅すように山雨を睨んだ。兄弟子は、穏やかな口調で質問を続けた。
「明が苗字かな?」
「うん」
「名前は誰に付けて貰ったの?」
「覚えてない」
「ほんとに?」
「覚えてないよ」
明山雨はきっぱりと言い切った。だが、兄弟子は食い下がる。
「嘘だよね?ねえ、誰に付けてもらったんだい?」
桃が拳を振り上げた。
「嘘つくと殴るよ」
「覚えてないんだ」
「困ったなあ」
「言わんと痛くするよ」
「覚えてない」
「教えてくれてもいいんじゃない?」
それきり明山雨は口を閉ざした。桃と兄弟子が代わる代わるに言葉を変えて聞いたが、明山雨は一言も喋らなかった。
「思い出さないと痒くするよ」
「痒く?」
思いがけない内容に、明山雨がつい口を開けた。その瞬間、兄弟子がヒョイと丸い物を喉の奥へと投げ込んだ。
「ぐっ」
反射的に呑み込んでしまい、明山雨は涙目になる。
「で、誰に名前を貰ったんだい?」
「うううっ、小さい頃救けてくれた人」
秘薬の効き目は抜群である。兄弟子が明山雨に呑ませた丸い物体は、即効性の自白剤だった。
「恩人の名前は?」
「散仙」
「うん、それはたぶん名前じゃないよね」
「自分で散仙って言ってたよ」
「散仙て言うのは、立派な仙人でありながら流浪の生活をして人々を救ける方々のことだよ。名前は別にある筈だね」
「別に?」
「他にも名前を聞いてないかい?」
「うーん、聞いてないなあ」
「師兄、ほんとに知らんみたいすね」
自白剤は強力である。嘘はつけない。
「その散仙に何か貰ったかい?」
兄弟子は質問を変えた。
「これ」
明山雨は襟元から紐に通した木札を取り出した。表には「明山雨」と書いてある。
「ほほう?見事な功力が感じられるね」
「師父なら誰が刻字したか解るすね」
「うん、きっと解るよ」
「けど、仙力じゃないすね」
「うん、散仙てほんとにただの名前かもしれないね」
「師父なら解るすね」
「うん、解るはずだよ。干魚点穴指」
兄弟子が明山雨の胸の辺りを三箇所指で突く。桃は襟首を離した。
「え、ちょっと、ねえ」
ふたりは建物の中へと消えてゆく。庭に取り残された明山雨は身動きが取れなくなっていた。
雨が降って来た。
「ちょっとー、雨だよー、軒先くらい貸してよー」
明山雨が硬直させられたまま騒いでいるところへ、長い袖をヒラヒラさせた高身長な少年が、傘を片手に舞い降りて来た。白地に墨で渓流と船を描いた風流な絵傘である。
これまでに明山雨が見かけた魚龍書院メンバー三名とは随分と雰囲気が違う。少年は、白地に銀糸が煌めく上等な薄絹の衣を着ている。彼は色白で手足が長い。切れ長の眼がどこか儚く幻想的だ。後ろ髪を長く垂らした髪型が良く似合う。
「新弟子さんですか?」
音もなく、また泥水を跳ねさせることもなく、優雅に降りたつ少年が、陰のある様子で問いかけた。
「違うんだけど、せめて雨を避けさせてくれない?」
明山雨は首も動かせないので、目だけ動かして答えた。少年は少し離れた所に姿勢よく立っている。
「違う?じゃあ、お客様でしょうか?」
「いや、そうじゃないけども」
「ふむ?書院に親戚がおいでの筈はありませんね?」
「ここに親戚はいないよ」
「その筈です。雲風天師父も、雲風楽大師兄も、雲風桃ニ師姐も、みんな天涯孤独ですし、わたくしめも親戚とは絶縁しております」
弱弱しい少年は、小声で話し続けた。
「では、一体どういったご縁でわたくしどもの魚龍書院にいらしたのでしょうか?」
大師兄の自白剤は未だ効力が切れていない。明山雨は嫌が応でも正直に話さざるを得なかった。
「竹林を歩いていたら石の門があって、門を潜ったら石段があって、昇ったら細道に出て、右は山で左が谷でした」
「少しお待ちを」
傘の少年は、明山雨の言葉を遮るように白い手を揺らす。柔らかな動作であるが、どうしたわけだか気圧される。弱すぎるものには、人は恐怖を覚えるのかもしれない。少年の揃えた指は、雨に流れて消えてしまいそうな危うさがある。
「門を潜られたのですか?」
明山雨はいい加減うんざりしていた。泣き笑いで愚痴のような返答をする。
「何度もそのことを聞かれるんだけど、一体なんだって言うんだよ」
「おや、これはまた、なんとも、なんと申しましょうねえ?」
「はぁ」
明山雨は溜息を吐き、目だけを天に向けた。雨足は段々と強くなっていた。明山雨はもうかなり濡れてしまった。今更軒下に避難したところで変わりはあるまい。事態は悪いほうへとばかり転がってゆく。
「在下、雲風舟と申します。魚龍書院の学徒はみな、師父の姓をいただき雲と呼ばれるお許しを得ております。風の字も師父から受け継いだ大切な文字でございます。舟で気絶して流されているところを師父に救けていただきましたゆえ、舟の一字もいただきました」
この人は、聞かれもしないことを長々と話した。余所者に多くは語らない他のメンバーとは、やはり違う。
「そちらの方、お名前は?」
「明山雨」
「明、山、雨。なんとも爽やかなお名前でございますね。緑深い美しい山、小鳥が歌い鹿が鳴く、谷間の清水は滔々と走り、船頭は巧みに棹を操る。一途に道を求める修練の徒が川面の岩を渡ってゆく」
明山雨は目を白黒させて雲風舟の語りを聞かされていた。何の話が始まったのか分からない。口を挟む隙もなく、黙って拝聴する外はなかった。
「山の上では我等書院の静かな学徒が、心を込めて青みがかった幽玄の黒を夢の如き海へと導く墨を磨り」
明山雨には、もはや一言も理解出来なくなってきた。「山」とか「海」とか知っている言葉のはずなのだが、意味が全く分からないのだ。一方の語り手は、ほとんど表情を変えず囁くように話し続けていた。
大家好だいがあほう
みなさんこんにちは
傘キャラを見たら刺客だと思ってしまう
それとは無関係に後書きには武侠喜劇データをば
一本目はやっぱりこれ
醉拳
日本語題名 酔拳
英語題名 Drunken Master
製作年1978
監督 袁和平
類型 喜劇 動作 コメディ アクション
主な配役
黃飛鴻 成龍 ジャッキー・チェン
実在のファン・フェイフォンは19世紀の武術家で、記念館には本人とされる写真もあるそうです
人気の武術家なので他にも有名な作品があります
昔、霊幻道士の林正英が黄飛鴻役で魔教主を倒す奇幻劇観たよ。ビデオだったと思うんだけども。今調べても出てこない。日本未発売かな?学生時代に変なビデオレンタル店でバイトしてた時に借りて観たと思われる。店長の私物だった可能性もある。ツイ・ハークのシリーズじないよ。電影じゃないのかもしれない。喜劇ではなかった。
蘇化子 袁小田
架空人物
この人を主役にしたスピンオフ「酒仙十八跌」邦題: ドランクマスター酒仙拳 は、袁小田が武術指導をしております。日本劇場未公開。ビデオ発売されたことがあるようですが。観てない。観たい。
監督は郭南宏 。この監督は「少林寺十八銅人」邦題: 少林寺への道 を撮った人。
閻鐵心 黄正利
この俳優さん、青森県生まれの韓国人だそうです。今回来歴を調べて初めて知りました。顔濃いから草原の民かと思っていたよ。
データ集なので感想は極力控えます