第十三章 明山雨の名札
夕飯は山鳥の肉が載った麺だった。山菜やきのこがたっぷりと入っている。山雨は、疑わしそうに匂いを嗅いだ。
「いっただきまーす!」
桃は、元気よく挨拶をして食べ始めた。この人は百毒不侵である。体質もしくは訓練によって、毒が一切効かないのだ。全く心配せずに何でも口にすることができる。毒を盛られているかどうかの判断材料にはならない。
「これとこれ、この辺りでは見かけないけど」
ここ数日、山と川辺を歩き回った明山雨は、およその植生を把握していた。軽功で梢を越える時にも、枝の隙間から森の中が見えた。山雨は、生きる為に環境を把握する能力に優れていたのだ。魚龍山には自生していない植物は、すぐに認識できた。
「へえ、ほんの三日でもう解んのか」
桃が感心する。院長も満足そうだ。
「うん、これとこれは見たことない」
桃に褒められて、山雨は嬉しそうである。山雨が見分けた野草は、ありふれた様子の植物だった。奇妙な形やどぎつい色、或はきつい匂いなどとは無縁だ。魚龍山に生えているものの中には、似たような植物もある。
「気にしなくていいよ」
雲風楽大師兄は、相変わらずである。胡散臭い笑顔で、穏やかに座っていた。山雨は用心深く未知の草を見下ろしていた。
舟が流れるような動作で袖から紙包みを取り出した。
「ご心配でしたら、念のために、これを服用なさったら幾らかはおよろしいでしょう」
茶色く薄い紙を畳んだ包みだ。舟はしなやかな白い指先で、山雨の方へついと押してよこした。受け取った包みの裏を見ると、重なっている部分に小舟の絵が描かれていた。
「誰かが開いてなにかを混入したならば、すぐに解るように工夫しているのですよ」
細かい絵に感心していた山雨に、舟が陰鬱な声で言った。一度開いて畳み直した場合には、線がずれてしまう。描かれているのは、墨の濃淡や線の強弱を付けて、細部まで書き込まれた小舟の絵だ。開いたかどうかは一目瞭然である。
「墨に内功を込めてるし、小舟もただの絵じゃないから、誰が何したかまで解るんだよ」
桃は箸を止めて解説してくれた。楽はツルツルと美味しそうに麺を啜っていた。
翌朝も、魚龍書院の石門には、これ見よがしに罠が仕掛けられていた。今日、山雨は流木を持ってきている。離れたところから陣が仕込んであるらしき石や木片をつついてみる。つつく度に、銀や黄色の靄が生まれた。石の中から噴き出した色付きの靄は、周囲の落ち葉を砕いて吹き飛ばす。
「うわぁ、当たったら痛そう」
最後につついた布から出た靄が、小魚の形をした光となって地を走る。
「あっ、これは、まずいのでは?」
山雨が魚龍書院に閉じ込められてから、既に四日目である。陣の基本形にはすぐ気がつく。光の魚が、門柱の周りに設置された石や木片を繋いで行く。黄色い光なので、桃が設置した陣だろう。あたかも渓流を自在に泳ぎ回るかのように、光の小魚は矢のように走る。
「うーん、でも、戻されるだけなら、別にいいかな」
怪我をさせられたり、毒を盛られたりするのでなければ、試しに通ってみても良い。運が良ければ、何事もなく門の外へ出られるかもしれない。
明山雨は流木を抱えて、陣の図形が描かれて行く様子を眺めていた。勾玉が二つ組み合わさった形が出来上がると、勾玉が魚になった。二尾の魚は一つの円に収まったままで、ぐるぐると追いかけっこを始めた。魚たちは速度を上げる。次第に光も強さを増した。
明山雨は、ひょいと流木で陣を形作っている布を持ち上げた。繋がった線を切ったらどうなるのか、試してみたかったのである。
「うわあっ!」
山雨は叫び声をあげて、後ろ向きに吹き飛んだ。陣の自衛機構が作動したようだ。山雨の視界が黄色く染まり、強く押されたような感覚を味わった。運悪く、山雨は竹が密集しているところに打ち付けられた。
「いたた」
かなり強く背中を打ったので、山雨はしばらく蹲っていた。ぶつかった弾みに、木札が襟元から飛び出した。散仙に作って貰った大切な名札である。この札を貰ったのは、十年近く前のことだ。内功を使って彫りつけられた「明山雨」という文字は、現在でもはっきりと読み取れる。
明山雨は、いつから独りだったのかを覚えていない。親のことは全く知らない。物心がついてからずっと、たったひとりで彷徨っていた。通り過ぎた町や村で人の言葉は自然に学んだ。だが、食べ物を毎日くれる人はいなかった。仕事を教えてくれる大人にも出会えなかった。
野山には獣がいて危険だが、食べる物はあった。山雨は気ままな性格だったので、人恋しくなると人里に立ち寄り、お腹が空くと野山に入った。そんなある日のことである。山雨は水辺に下りて行った。そこには、もじゃもじゃの人が倒れていた。髪には黒い部分もあるが、殆ど白くなっている。川を流されて来たらしく、全身水浸しである。
「おじいちゃん、だいじょうぶ?」
「う、う」
行き倒れの男を移動するには、幼い山雨は非力すぎた。見たところ頭は打っていないようだ。だが、あちこち怪我をしている。服は上等なようだが、刃物で斬られたような裂け目がついていた。腰に下げた瓢箪にも、浅い刀疵が見える。
水に浸かっていたせいか、見ている間にも傷口からは血が滲み出していた。そこで山雨は、血止めになる草を採ってきた。
「痛そうだねぇ」
「うう」
見つけた日の男は、ただ呻くだけだった。数日後、男は自分で魚や鳥を捕らえることが出来るようになっていた。白かった髪もほとんどが黒に戻っていた。顔の殆どを覆う髭も、白から黒に変わった。
「おじいちゃん、髪、黒くなったね。それに、治るのも速いねえ」
「ぼうず、秘密を教えてやろうか」
「秘密?なになに?」
男は見た目より若々しい声であった。
「俺は散仙なんだ」
「さんしん?」
「そうだ。で、坊主、名前はあんのか?」
「ないよ。小僧とか坊主とかチビとか呼ばれる」
「ふうーん、そうだなぁ、よし、俺が付けてやろう」
男は川を見て、空を見上げ、また視線を戻して川の行末を眺めやる。新緑を濡らす柔らかな雨が、辺りをぼんやりと包んでいる。
「移舟来听明山雨 明山雨」
男は歌を口ずさみ、幼年山雨をにこりと見た。
「明山雨、ってのはどうだい?」
「みんさんゆう?」
「そうだ。美しい山に降る雨って意味だぞ」
「今みたいなかんじ?」
山雨は小さな掌で雨粒を受けた。
「賢いな。その通りだ」
「へええ、いいね、綺麗な名前だね」
山雨は嬉しそうに声を弾ませた。
「明を姓にしたらいい。どうだ?」
「うん。明山とか明月とか、綺麗な物に使う言葉でしょ?」
「坊主、山ん中で暮らしてるのに、よく知ってんなあ」
「人里に下りることだってあるからね」
山雨は胸を張る。
「そうか」
男は愛しむように目を細めた。それから手近な枝を折り、手を翳すと名札になった。その時の山雨は知らなかったのだが、男は内功を使って加工したのである。男が説明しなかったので、山雨はそれが自分の名前だということも知らなかった。
「これをやる」
「ありがとう」
男に名札を掛けてもらい、二人は明るい笑顔を交わした。その後、いつのまにか男は川辺を去り、山雨もまた放浪を始めた。それ以来、ふたりは会っていなかった。
「ほほう、それでか」
痛みに顰めた顔の側で声がした。院長がしゃがんで、山雨の名札を覗き込んでいる。明山雨は黙って院長の顔を見上げた。何のことを言っているのかわからない。
「どうりでな。なんだ、そんなことだったか。わははははは」
院長は独りで納得している。明山雨には訳がわからず、どうにも面白くない。口を思い切りへの字にまげた。
「ははは、なんて顔だ。そいつを作った奴が子供だった頃によく似ているぞ。懐かしいなあ」
「あっ、聞くのすっかり忘れてたっす」
桃の声もした。山雨は目だけを上に上げて、院長の後ろを見た。桃がこちらを見下ろしている。舟が物憂げに佇んでいる。楽はちょうど地面に降り立つところだった。陣の自衛機構が発動したのを感じて集まって来たのだろう。
「師父も、名前の文字をお尋ねにならなかったですね」
「わたくしめは、この名札を拝見する機会には、これまで恵まれませんでした」
三人の弟子たちは、三人三様に反応した。舟は、実際に名札の存在を知らなかった。山雨が楽に自白剤を飲まされたことまでは聞いた。そこへ院長が帰って来たので、名札の件まで話が辿り着かなかったのだ。
「誰が作ったか、なんで知ってるの?」
息が整うと、山雨は竹に寄りかかって、院長に訊いた。門の方を見ると、光の魚が描く陣は消えていた。どんな効果が込められていたのだろう。山雨はそれも気になったが、今は名札の件を優先したかった。院長の目をまっすぐに見つめて返答を待つ。
大家好だいがあほう
みなさんこんにちは
本文中の古詩は、
陳與義 1090-1138 : 忆秦娥・五日移舟明山下作 より
忆秦娥は、詩の形式のひとつ
ここでは、明山は地名ではなく、秀水明山の明山、風光明媚の明
後書き武侠喜劇データ集
医館笑伝
邦題不明
Laughter Medical Center
2015
古装 探案 喜劇
あれ?武侠は?普通に武侠のテンプレ使ってますが
このタグだと双生神捕とか大理寺日誌とかみたいなジャンルを想像しそう
監督 丁仰國
朱一品 陳赫
神医の一番弟子で写真記憶の持ち主
楊宇軒 王傳君
銀髪イケメン設定だけど若くない
柳若馨 姜妍
女侠。反派から仲間になる。ヒロイン。
陳安安 張子萱
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趙布祝 佟磊
気持ち悪いんだけど素晴らしいキャラ
第二季は姜妍以外の主角演員に続投無し、制作会社まで変わってしまいました。それでも正統続編ならいいんだけども。一期の続きではないよね。開幕早々に楊宇軒が殺されてるし、別物と思った方がいいような。
後書きデータ集では、現在筆者の環境で再視聴出来る作品、もしくは以前観た時の記録が手元に残っているものを収録しています。可能な限り再視聴しておりますが、回数の多い長尺ものは、現在私の好みに合わない場合、再度の完走はせず。