第一話 旅人は書院の門を潜る
広大な竹林の奥に古びた石の門がある。大人が三人肩車してもまだ余るほどに高い。扉の無いこの門へと招く道は、街道から分かれた細道だ。街道を東に向かえば港湾要塞都市があり、北に三日ほど行けば長閑な山村に着く。首都は遥か西に位置している。人通りの途絶えた竹林に、鳥や獣の鳴き声が時折響く。そんな寂しい石門の下で、今、ひとりの若者が門を見上げて足を止めた。
若者は全体的に薄汚れている。伸び放題で汚れた髪の毛を首の後ろで適当に束ね、荷物は持たず裸足である。見上げる門には石の扁額が掲げてある。扁額とは、横長の看板のようなものだ。門の上に設置して、建物の名前やそこに住む人が大切にしている訓戒を、書いておく板だ。
「なんて書いてあるんだろうなあ?」
ここ鵲の国では、文字を読める者が少ない。擦り切れた木綿の服を着て、裸足に手ぶらの若者には、石の額に刻まれた文字が理解できる筈もなかった。なお、文字が読める人には「魚龍書院」と書かれていることが解る。書院とは学問所のことである。つまりは学校だ。
「客桟か?」
疲労の見える様子で呟くと、若者はそのまま門を潜った。客桟とはこの土地の言葉で、宿屋のことである。
「厩の隅にでも寝かせてくれるといいんだが」
囲いと屋根があれば、野宿よりはいくらかマシというものだ。
竹に囲まれた石門からしばらくは緩やかな斜面が続く。その後は長い石段をてくてくと昇る。折れ曲がった石段は、やがて渓谷沿いの山路へと旅人を誘う。左に斜面、右には石の手摺りがある。その間に挟まれた細道を、裸足の若者はぶらぶらと呑気そうに歩いて行った。
「川風が気持ちいいな」
谷底から吹いてくる涼しい風が、うっすらと汗ばんだ額に心地よい。近くに獣はみえず、人通りもない。裸足の若者は腰に下げた竹筒を外して立ち止まった。木で作られた栓を抜くと、きゅぽんと小気味良い音がした。
「ふうー」
口を拭い、若者は何気なしに渓流を見下ろした。歳の頃は十六、七。上背がありしっかりとした顎を持つ。ともすれば野蛮にも見える骨格だ。しかし、きょろりとしたどんぐり眼が愛嬌を添えている。
川の上で動くものがある。若者は、よく見ようとして目を凝らした。その時、ギラリとなにかの反射光が若者の目を眩ませた。若者は思わず手で目を覆い、顔を顰めた。
そっと手を退けて恐る恐る谷底を覗き込む。若者の目に飛び込んで来たのは、激しく争う一群の武人たちだった。どの武人もよく動くので、男か女か、また若者なのか老人なのか分からない。長く薄い赤布を伸ばしたり引き戻したりしながら跳びまわる人物がいる。何かをしきりと投げつけているらしき黒い服を着た者もいる。若者に反射光を浴びせたのは、刃を閃かせて駆け回る剣士のような青い人影だろうか。
瀬音に紛れて、岸辺の枝が折れる音や岩が砕ける音がする。金属がぶつかり合う鋭い音も聞こえてくる。観ていると、ひとりを数人が襲っているようであった。竹を連ねた筏のようなものを操る灰色の人が、棹を振り回して独り忙しなく応戦している。竹の筏は、所々に岩が顔を出す急流に浮かぶ。
襲われている人がひときわ大きな動作で棹を振り上げた。棹が川面を叩くと、物が破裂するような音が立つ。川の水が天高く噴き上がった。太さは大寺院の柱ほどもある。
「ええっ?うわぁ!」
水飛沫が若者の頭に降りかかった。慌てて逃げようとするその鼻先に、三角の竹笠を被った老人が舞い降りて来た。小柄ながらにがっしりとした老人で、長い白髪をすっかり川の水で濡らしていた。竹笠の陰から、用心深く若者を観察している。若者も負けずと老人に猜疑の眼を向けた。
「何奴」
重苦しい刹那の後に、老人は低く言葉を響かせた。若者は尚も疑わしそうに老人を眺めていた。口は開かない。老人を追って川から飛び上がって来た三人の武人が、棹の一振りで弾き飛ばされた。布遣い、投擲達人、剣士の三人である。残りの武人たちはそこまでの実力を持たないようだ。三通りある服装から察するに、彼等は達人三人の弟子たちなのだろう。悔しそうに渓流の岩頭や岸辺の木々に足を乗せ、若者と老人が立つ山の小道をふり仰ぐ。
「言え!貴様は何者だ?」
老人は厳しく問いただした。若者はジロジロと老人の全身を検分し、相変わらずの沈黙だ。三達人は休まず攻撃し、老人は片手で相手をしている。近くに来たが皆動きが速すぎて、やはり老若男女の区別はつかなかった。
「どうやって門を通ったのだ?」
老人の言葉に苛立ちが募る。目の前には質問に答えない侵入者がいる。横からは攻撃をやめない三達人がいる。片手で足りるものの、完全には三達人を追い払えない。それもまた気に触るのだろう。
「門?石の?」
若者は初めて答えを口にした。
「そうだ」
老人は竹笠の陰から睨みつけてくる。
「そんなに睨まないでよ」
「答えろ。どうやって通ったんだ?」
「どうやってって言われてもなあ。普通に通っただけなんだけど」
「んん?」
老人が凄む。若者は困ったように眉を下げた。
「何か作法があるの?」
「貴様!年長者に対して何たる態度を!」
老人は空いている方の手を若者の方へと向けた。開いた掌からは、白い靄のようなものが勢いよく噴き出した。
「うわぁっ、えええっ?」
衝撃を受けて、若者は尻餅をつく。
「な、何?触れても無いのに強く押された気がするよ?」
若者が驚いて地面に座り込んでいる間にも、三達人は攻撃を繰り出していた。
「ええい、うっとおしい!」
老人は勢いをつけて棹を振る。棹からも白い靄のようなものが噴き出した。
「ぐわぁっ!」
三達人は谷底へと落ちてゆく。待ち受ける弟子たちから悲鳴が上がった。どうやら衝撃は下にいる弟子たちにまで届いたようである。老人はヒョイと谷底を覗き込む。
「ん?やり過ぎたか?」
激流を流される布遣い。長く赤い布が水に揉まれながら激流に彩りを添えている。対岸の岩壁を崩して岸辺に落下した剣士。自分の弟子たちを下敷きにしたようだ。剣士が崖に衝突した弾みで砕け散った岩が石礫となった。川中の岩に立っていた弟子たちは、三門派入り乱れている。石礫に撃たれて逆巻く波間に落ちる。彼等は声もなく急流を流されてゆく。投擲達人は大枝に引っかかっている。その弟子たちは斜面のあちこちで倒れたままだ。
そこへ、若い娘が飛んで来た。若者と似たような年頃である。
「師いい父ううう!」
「わっ、人が飛んでる!妖怪か?」
「師父!この失礼な小僧は何すか?軽功も知らないんす?」
軽やかに着地した猫目の少女は、山賊のような出立ちである。脚には丈長の布靴を履いていた。老人は靴まで灰色だったが、この少女が履いている靴は黒い。服は汚れた黄色だ。よく見れば細面の美少女だが、がさつな雰囲気で容貌の美しさが目立たなくなっている。
「桃よ、尋問しておきなさい。師父は見廻りをして来る」
「徒児尊命!」
老人は棹を手に跳び去った。
「わぁっ、また人が飛んでる」
「飛んでねーっつの。身体を軽くして跳ねてんだって。ジャンプよ、跳、躍!」
「えええ。跳ねてるたって、あんなに」
若者は困惑した様子で跳び去る老人を見送った。桃と呼ばれた少女は、得意そうに腕組みをした。
「へへんっ我等が師父の摸魚功は、そこらの跳躍術とは違うんだよ!超速の絶技なんだからっ!」
若者はぼんやりと少女の顔に眼を向けた。彼には少女の言葉がまるで理解出来なかった。せいぜい「そこらの」「違う」くらいしか解らないのだ。
「異国の人?」
「はっ?脈絡のないことぬかしやがって!」
ようやく口に出したその言葉は、桃を怒らせるに充分だったようである。外国人と言われて腹を立てたのではなく、師匠自慢を無視されたことが気に食わないのだ。
「軽功も知らん無知な小僧がっ!こいっ、尋問してやる!」
「えっ、ちょっと、うわぁぁぁ」
桃に襟首を掴まれた若者は、こうして生涯初の大跳躍を体験させられることになった。
大家好だいがあほう
みなさんこんにちは
日本では漁師さんというと早起きの重労働というイメージがありますが、魚を捕るという意味の摸魚は、ネットスラングだとさぼるって意味なんですって。太公望とかのイメージなのかな?
しふとは
師傅 先生
師父 唐代から現れた言葉、師傅と同義。明代には僧侶や道士を指すことも増えた。武侠世界では弟子を養子にすることもある
さて、武侠喜劇はお好きでしょうか
狭義だと時代劇だけみたいですが、広義では武で侠な主人公なら現代劇も含めるようです
筆者は詳しくないから語れないんだけど小さい頃から観るのは好きです
広東語をちゃんと聞こうとし始めたのはごく最近
華ドラはほぼ武侠と古装しか観ないので、中国語が出来るようには永遠にならない
水戸黄門と遠山の金さんと暴れん坊将軍と必殺シリーズ観てたら、いつの間にかちょっとだけ日本語覚えちゃった外国人みたいなものです
正しい古文ですらない
後書き武侠喜劇データ集
本文とは無関係
《酔拳》酔拳
《肥龍過江》燃えよデブゴン
《天師撞邪》妖怪道士
《武林外伝》邦題不明
《龍門鏢局》邦題不明
《縈縈夙語亦難求》邦題不明
《念念無明》命がけブライダル~宮廷密使の花嫁は暗殺者~
《鹊刀门传奇》邦題不明
などなどなどなど
そんなかんじでよろしくお願いします