第五話 三随臣 犬飼健命
針間の地を発した大和国軍は、西へ西へと進み、ついに吉備中山へと至った。
そこで彼らは、先行していた諸進命軍の残存兵と合流を果たした。
七千を数えたはずの兵は、今や二千。
夥しい屍と共に削られた数が、温羅一族の恐るべき戦力を、何より雄弁に物語っていた。
諸進命が大和へ帰還した為、軍の大将には伊佐勢理毘古が据えられた。
彼は即座に軍を再編し、将たちを集めて軍議を開く。
張り詰めた空気の中、口を開いたのは稚武彦だった。
「兄上…、温羅一族の強さは報告の通りです。神出鬼没、個々の戦闘力も高く、用兵も巧み。想像以上の強さです…。これは、一筋縄ではいきそうにありませんね…」
言葉を選びながらも、声には隠しきれぬ緊張が滲む。
「私もそう思う」
伊佐勢理毘古は静かに頷いた。
「しっかり準備を整えなければ、温羅一族には勝てない。噂の鬼ノ城も簡単には落とせないであろう。まずは、こちらも拠点を構えよう」
その声は柔らかく、しかし揺るぎがなかった。
伊佐勢理毘古は、拠点をつくるという明確な目標を示すことで、将兵の心を恐怖から引き離す。
一時的なものではあるが、今の将兵たちには十分効果的な采配であった。
伊佐勢理毘古は吉備中山に本陣を構え、稚武彦に西方の片岡山に矢を防ぐための石の楯(城)を築かせ、先陣とした。
本陣三千、先陣に四千の兵を配置。臨戦体制をとる大和国軍。
だが、伊佐勢理毘古には不安要素が残っていた。
温羅が神出鬼没であるのは、こちらが吉備国の地理を知らず、後手に回っているからに他ならない。
そして、温羅一族の戦闘力を鑑みれば、現存兵力では敗北する可能性が非常に高かったのだ。
(これらを解決しなければ温羅には勝てない。どうすればよいのか)
本陣で思案に暮れる伊佐勢理毘古。眉間には、深い皺が刻まれている。
その沈黙を破ったのは、副官の進言だった。
「伊佐勢理毘古様、よろしいでしょうか?」
「うむ。申してみよ?」
「ここは、吉備国の豪族たちを味方に引き入れてはどうでしょうか? 大和国と親交の深い者たちも多くおります。彼らなら土地にも詳しく、さらに兵力の強化にも繋がるのではないでしょうか?」
伊佐勢理毘古の目が見開かれた。
「それは名案だ! すぐに協力者を募ることにしよう」
彼は自ら親書をしたため、急ぎ使者を各地へと遣わした。
近隣の有力豪族たちの元へーー。
「吉備国の平和を取り戻すべく、山賊、海賊たちを征伐するために大和国より派遣されて参りし候。どうか、我々に力を貸して頂きたく候」
◇
最初に名が挙がったのは、矢部郷の犬飼健命であった。
郷に入った使者は、思わず息を呑む。
至る所に犬がいる。それも、無秩序ではない。郷の入口、家々の周囲、要所要所に配置され、見事な統制を保っていた。
練兵場では、人と犬が一体となって鍛錬に励んでいる。
「ほぉぉ…。これは、まるで軍隊じゃ。あ、そちらのお方! 失礼仕る。私、大和国軍より参った者でござるが、犬飼健殿にお目通りさせて頂きたいのです。どちらへ参れば宜しいでしょうか?」
「遠いところ、ご苦労様です。わしがご案内しよう。こちらへどうぞ」
使者は、郷人により一軒の長屋へと案内された。
案内された長屋の一室は、陽光に満ちていた。
犬の寝床が並び、奥には白い甲冑。そして――
そこに座していたのは、若き青年だった。
ふわふわとした短い黒髪、凛とした眉、くりっとした黒い眼。左目尻のほくろが、どこか愛嬌を添える。
上下とも麻で織った簡素な衣を着用し、獣の皮を鞣してつくった上着を羽織っている。
首からは、なにやら笛らしきものが紐に通してかかっている。
部屋中には多くの犬たちが静かに伏しており、彼の隣には一際大きな白い犬が静かに座していた。
使者は彼の前に立ち、一礼してから挨拶した。
「犬飼健命殿。我が主、伊佐勢理毘古様より親書をお預かりして参った。ぜひ、お力をお貸しくださいませ」
「使者殿、拝見致す。」
親書を受け取り、じっくり目を通す犬飼健。親書を読むその表情はみるみる綻ぶ。
「これは有り難い申し出である。喜んで助力致すとお伝えくだされ。準備が整い次第、吉備中山に参陣致す」
「ありがとう存じまする! 御助力感謝申し上げる」
「我々は、賊たちに長い間苦しめられてきました。この長い戦いで、民も疲弊する一方…。この申し出は、当方にとっても願ったり叶ったりです」
その返答に、使者は深々と頭を下げた。
◇
数日後のよく晴れた日の午後。
白甲冑を纏った犬飼健は、百の軍犬を率いて吉備中山に現れた。彼の白い甲冑が陽の光で眩しく輝く。
彼は多くの番犬、軍犬を育て従えている事で有名だった。この日も、百の軍犬を従えてきた。
「犬飼健命殿、参陣のご挨拶に参られました」
「おぉ! 犬飼殿が参られたか! すぐに通してくれ」
大和国の兵に案内され犬飼健が、大きな白い犬を連れて本陣へと入る。
「お初にお目にかかる。犬飼健命と申す。此度の賊征伐の御助力に、心より御礼申し上げる。共に戦えること大変嬉しく思います」
「こちらこそ感謝の念が耐えませぬ。共に、吉備国の平和の為に尽力致しましょうぞ」
二人は固く礼を交わす。
「犬飼殿。そちらの大きな犬? それとも狼ですか? 素晴らしい佇まいじゃ。紹介して頂いてもよろしいか?」
「もちろんです。こちらは名を白と申します。狼に見えますが犬なのです。私の一番の親友です」
犬飼健とハクは見つめ合いにっこりと微笑む。
伊佐勢理毘古は膝を折り、ハクに目線を合わせると優しく語りかける。
「ハクよ。私の名は、伊佐勢理毘古。これから共に戦う仲間じゃ。よろしく頼む」
「わん、わん」
「おぉ、そうか。伊佐勢理毘古殿、ハクもよろしくお願い申し上げる、と言うております」
「ははっ」と笑う伊佐勢理毘古。
二人と1匹は、これからの友誼に深く礼を交わした。
◇
その後、互いの戦力と指揮の質を見極めるため、両軍は共同で山賊討伐へ向かうこととなった。
目標は、吉備中山の北東――街道を荒らし、村々を脅かしている山賊の一団である。
伊佐勢理毘古は、熊翁たちを含む五十の兵を、犬飼健は人間五十、軍犬五十を率いて出陣した。
人と獣、二つの力が肩を並べて進む、これまでにない編成であった。
山の麓へと到着した両軍。ここから山賊の根城を探す。
「伊佐勢理毘古殿、ここは地理にも詳しい私が先導致しましょう」
「かたじけない。お任せ致す」
犬飼健は、胸元にかけた笛に手をかける。
「ハクよ、頼んだぞ」
彼は笛を咥えると息を吹き込む。
しかし――音は、鳴らない。
それでも次の瞬間、軍犬たちは一斉に反応した。
低く身を沈め、影のように散開し、木々の間へと溶け込んでいく。白毛のハクが先頭に立ち、風を切って山中へ駆け出した。
広範囲に放たれた斥候。
犬という存在を最大限に活かした、無駄のない動きである。
犬たちからの報告があがるまでその場で待機する一行。
伊佐勢理毘古と熊翁は、犬飼健の胸の笛を不思議そうに見つめた。
「桃様。犬飼殿の笛は音が鳴ってないと思うじゃが……。わしの耳が衰えたのかのぅ? それとも壊れとるのか?」
「翁よ、壊れていては犬たちは動かぬ。犬が動いている以上、笛は正常に働いておるはずだ。しかし、なぜ音が鳴らぬのに合図が出来るのかは、私にも皆目わからぬ。ここは本人に聞くが良いな」
二人は顔を見合わせ、やがて犬飼健のもとへ歩み寄る。
「犬飼殿、その胸にかけている笛を吹かれていたが、音がなっていないのに犬たちが動いておりました。一体、どういうことなのですか?」
「あぁ。これは、犬笛と呼ぶ物なのですが、特殊な音が鳴るのです。我々人間には聴こえないが、犬たちには聴こえる音があるのです。その音の組合せや型で、合図を送っているのですよ」
「ほぉ。そのような物があるのですね! 初めて知りました」
伊佐勢理毘古たちは心底驚いた。
未知の技。世界の広さと、まだ見ぬ叡智の存在に胸を打たれた。
そのとき――
わぉぉぉぉん、という長い遠吠えが、山の奥から響いた。
「犬たちが山賊を見つけたようです。参りましょう!」
そう言うと犬飼健は先導し、再び進軍を開始した。
伊佐勢理毘古たちも遅れないようそれに続く。
荒れ放題の山道は、木木と伸び放題の草木に覆われ、人が進むには難儀な道だった。
先頭を行く犬飼兵が鉈で道を切り拓き、犬飼健は軍犬と視線と仕草で連携しながら、最短の進路を選び取っていく。
その練度は、もはや一つの生き物のようであった。
「見事な連携です。的確な進路指示と、それに応える兵の動き。そして、犬たちの斥候能力の高さ。どれをとっても一級品ですね」
伊佐勢理毘古は、思わず感嘆の息を漏らす。
「ありがとうございます。犬たちの力を知って頂けてうれしい限りです」
犬飼健は、誇らしげというより、どこか嬉しそうに微笑んだ。
彼の優しい人柄と、本当に犬たちのことを愛していることが伝わってくるようだ。
◇
数刻の行軍ののち、一行はひらけた場所へ出た。
そこには、朽ちかけたあばら屋が三軒、寄り添うように建っている。
すでに軍犬たちは木々の陰に潜み、等間隔で包囲を完成させていた。
静かで、完璧な陣形だった。
犬飼健は笛を吹き、犬たちを呼び戻す。
「よくやった、お前たち! 後は我々がやるから、後方で待機しておいで」
犬たちは兵に付き添われ、後方へと下がっていく。
ハクだけが、主の隣にそのまま残った。
犬飼健はゆっくりと剣を抜く。
「では、次は私の武威をご覧にいれましょう」
「犬飼殿、お待ちくだされ」
伊佐勢理毘古の制止に、犬飼健は眉をひそめる。
「伊佐勢理毘古殿、どういうことか? 賊を討ちに来たはずでは?」
訝しむ犬飼健に、伊佐勢理毘古は微笑みを向ける。
「私は、無益な争いは望まない。血が流れないようにできるならそうしたい。彼らも、吉備国に住まう民の一人なのだ。私はこの国も、民も愛し、守りたい」
その声は柔らかく、しかし芯があった。
「もし、彼らにまだ幾許かの良心が残っているなら正しい道へ導く手伝いをしたいのです」
「私は、今までそのような事を考えもしなかった。確かに、それは素晴らしいお考えだと思うが、賊相手にそんな事が本当に出来るのですか?」
伊佐勢理毘古は、熊翁の方を見てにっこり笑い、
「出来ますよ」
と言った。
そんな伊佐勢理毘古の爽やかな笑顔と熱い想いに、犬飼軍の面々は心を打たれる。
やがて、伊佐勢理毘古は熊翁と九名の家臣を連れ、あばら屋の前へと進み出る。
あばら屋には人の気配がしており、窓の隙間からこちらを窺う数十の視線があった。
伊佐勢理毘古は両手を広げ、優しくも凛とした声で告げた。
「私は大和国軍大将、比古伊佐勢理毘古命と申す。抵抗せず降伏するのであれば命まではとらぬ。二度と悪事に手を染めぬと誓うのであれば、我が軍にも加わることを許す。畑や山の仕事がしたいなら口を聞くこともしよう。さて、如何いたす?」
「ふざけるな!」
あばら屋から荒々しい声が飛ぶ。
「そんな上手い話信じられるわけがねぇだろう!そう言って、無手で出た所を殺すに違ぇねぇ!」
頭領であろう者の声があばら屋より聞こえる。常識的に考えればそんな上手い話はない。
これまで、賊たちはみんな朝廷や豪族たちに討たれ処刑されてきたのだ。
到底信じられることではない。
「桃様。わしに話をさせてもらえんか? あいつらは昔のわしらじゃ。わしの話なら聞いてくれるかもしれぬ。なんとか助けてやりたい…。お頼み申す…」
「よかろう。翁よ、頼む」
熊翁が、一歩前に出る。
手に持つ大戦斧を地に突き立て、腹の底から声を張り上げた。
「信じられんのも無理はない…。しかし、うちの大将。桃様はそんな卑怯なことはせん。真に民を想う心優しい方なんじゃ。わしも十年前までは山賊じゃった。しかし、大将に誘ってもらってここでこうして戦働きしとる。改心し、国のため、民のために働ける意志をもてるのなら誰でも許してくださる。さぁ、自分たちの未来を自分たちの意志で掴むときぞ!」
熊翁の言葉が、山の空気を震わせる。
それでも山賊たちは、「やはり信じられぬ」とあばら屋から出てくる気配はない。
「私もずっとここにいるわけにもいかぬ身、あの太陽があそこの木にかかる頃までには決断頂きたい。本当に無益な争いはしたくないのだ……。皆でよく考えて欲しい」
伊佐勢理毘古たちはそう告げると、すこし離れた場所にある木陰に腰を下ろした。
そして、目を閉じその時を待つ。
木々の枝葉の間から、キラキラと輝く陽の光が漏れ顔に差し込む。
山賊たちは、話し合いを始めた。
当然ではあるが賛否両論吹き荒れる。
「信ずるに足る言葉であった」「否、やはり信じられぬ」など意見の一致をみない。
議論が白熱している中、ある山賊がふと以前聞いたある噂を思い出した。
「あの大将の羽織の紋様て桃だよな? 大和国で桃ゆうたら、あの桃太郎様じゃねぇのかい? 桃様とも呼ばれとったし」
「じゃあ、あのさっきの爺さんが熊翁か! 以前は山賊だったと言うておったし。噂は本当じゃったのか。なら、本当に助けてもらえるのじゃないか?」
桃太郎の噂は、しっかりと吉備国の民にも根付いていた。
一気に降伏案が優勢となり、ついには山賊たちは全員降伏することを決めた。
山賊たちは、全員武器を捨て、両手をあげてあばら屋より出てきた。
「大将、我々は降伏を決めた。あんた、桃太郎様だよな? 噂は聞いとる。信じてもいいんだよな?」
伊佐勢理毘古は、「もちろん」と優しく頷いた。
伊佐勢理毘古の前に跪き、忠誠を誓う山賊たち。
一滴の血も流すことなくこの場をおさめたその神々しい姿に、犬飼健は感動のあまり自然と涙が溢れた。
(この方は、心より信ずるに値するお人だ。このお方なら吉備国の未来を必ず救ってくださるに違いない)
犬飼健の魂がそう判じた。
「伊佐勢理毘古殿、私は感服致した。あなたなら忠をつくせる主だと確信しました。これより、犬飼軍はあなた様に全権をお預けいたします。存分にこの力をお使いくだされ」
夕暮れの山に、凱旋の足音が響く。
だが――
遠く、木々の上から、それを見つめる影があった。数人の茶色の衣を着た男たち。全員布で頭部を覆い、顔を隠している。
布の端が風ではためく。
「あれが噂の桃太郎か…。これが、時代が求める流れなのか? どちらにせよ、良いものを見せてもらった。皆、帰るぞ」
そう呟き、影は風に消えた。
不穏な気配が近づく秋の夕暮れ。
彼らの目的とは一体何なのか?
そして、時代が求める運命とは…。




