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日本おとぎ伝奇 桃の章  作者: なお。


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第四話 いざ、吉備国へ 後編

 諸進命敗走の報は、経由地である讃岐の地において、伊佐勢理毘古と稚武彦のもとへもたらされた。

 それはあまりにも突然で、あまりにも重い知らせであった。

 思いもよらぬ凶報に、大和国軍の陣中には目に見えるほどの動揺が走る。

 同じ轍は踏めぬ――伊佐勢理毘古たちは、進軍ルートについて再考することを余儀なくされた。


 その翌日のこと。

 伊佐勢理毘古と稚武彦は、以前より讃岐に派遣されていた姉・百襲媛の元を訪れていた。

 補給のためしばし軍が留まると聞き、近くまで来た今こそ顔を見ておくべきだと、二人は考えたのである。


 百襲媛が住まう宮は平地のただ中、農地のすぐ近くにあった。

 現在の香川県高松市にある田村神社がある地だ。

 農地開発を民と共に共同作業するために、このような場所に宮を造営したらしい。

 百襲媛の民を想う慈しみの心がうかがえる。


 伊佐勢理毘古と稚武彦が宮に足を踏み入れると、百襲媛と侍従が笑みを浮かべて迎えた。

 長い年月を経て、百襲媛はひときわ麗しい女性へと成長していた。

 二重瞼に、切れ長で少し垂れ気味の目。まっすぐ伸びた鼻筋に、艶がありふっくらした唇。

 絹のようにしなやかな翠の黒髪は、背に流れるたび微かな光を宿す。

 その姿を目にした者は、自然と言葉を失い、ただ息をのむであろう。


「二人とも久しぶりね。よく来てくれたわ」


「姉上。お元気そうでなりよりです。それにしても、すごい所に宮をお造りになりましたね」


「皆と一緒に作業するんだもの、皆と同じところに住まなきゃね」


 「姉上らしいですね」と言う二人を、百襲媛は客間へと招き入れた。

 三人は、百襲媛が大和国を離れてからの出来事や近況、他愛もない世間話まで、時を忘れて語り合った。


 陽が西へ傾き、影が長く伸び始めた頃、一人の伝令が静かに現れた。


「失礼致します。伊佐勢理毘古様、まもなく補給が完了します。御確認のため、一度軍にお戻りくださいませ」


「あいわかった。御苦労である」


「姉上。聞いた通りですので、我々はそろそろお暇致します。会えて本当に嬉しかったです」


「私も二人に会えてうれしかった。とても楽しい時間だったわ、ありがとう。また近くまで来たら必ず寄ってね。あ、そうだわ!」


 百襲媛はふと何かを思い出したように微笑む。


「少し帰らずに待っててもらえるかしら?」


「わかりました。なんでしょう?」


「ふふふ」


 百襲媛は意味深に笑うと、侍従に命じた。

 間も無く、鹿の肩甲骨と火のついたた棒が運ばれてくる。

 百襲媛は、慣れた手つきで火の棒を鹿の肩甲骨へ押し当てる。

 ――バキッ。

 乾いた音とともに、骨にひびが走る。

 それを見て頷いた百襲媛は、ゆっくり瞼を閉じた。

 水を打ったように静まり返る室内。そして寸刻の後、彼女は静かにその目を開く。

 再び開かれたその瞳には、淡い青の光が宿っていた。


 稚武彦は息をのむ。

 一方、伊佐勢理毘古の胸には、忘れ得ぬ記憶が鮮やかによみがえっていた。

 ――稚屋媛が攫われた、あの日と同じ光。


「姉上、何が視えたのですか? 稚屋媛の時もそうだったのでしょう? 此度はどのような光景がその瞳に映ったのですか」


「あら、気づいていたのね」


 百襲媛は静かに語り始めた。


「此度は、あなたが針間氷河の岬で祭祀を行い、針間を吉備国への入口とするところが見えたわ。そして、太占ではそれが吉兆と出ているわ。これに従わねば――叔父上と同じ運命を辿るでしょう」


「なんですと! 讃岐から直接吉備国へ入るのではいけないのですね。針間か… しかし、なぜわざわざ東へ迂回する必要があるのでしょうか?」


 稚武彦には全く理解できない話であった。

 百襲媛の能力、東へ迂回する意味。全く想像が及ばない。

 そんな稚武彦に、伊佐勢理毘古は静かに言葉を継ぐ。


「姉上は未来を予知する力をお待ちなのであろう。そして、卜占が大変得意であられ、その的中率もとても高いのだ。だから、姉上の助言は必ず我々を助けてくれるはずだ。十年前に稚屋媛を見つけ出せたのも姉上の助言のおかげだった」


「そうだったのですね。であれば、此度も姉上の助言に従うのが道理ですね」


 伊佐勢理毘古は「そうだ」と言い、予知の内容についても自身の所見を述べた。


「我々は天照大御神様の御裔。ゆえに、太陽を背にして戦わなければならない。初代・神武天皇が東征の際に西から東に向けて進軍・開戦したがために、猛将である長髄彦に敗北し、兄上を亡くされたのだ。そして、太陽を背にするため紀伊山地を紀伊半島の方から迂回し、東から西へ向けて進軍、再戦の際には見事長髄彦の軍を破られたのだ」


「だから、我々もここ讃岐から針間の方へ一度迂回し、東側から吉備国へ進軍すべき、という事ですね?」


「そういうことだ。姉上、どうでしょう?」


「私もそれが良いと思うわ。二人に、天照大御神様の御加護があらんことを」


 ◇


 その夜、讃岐にて借り受けた家の一室に、伊佐勢理毘古と稚武彦、そして数名の家臣が集まっていた。

 机の上には、吉備国周辺の地図が広げられていおり、地図にはバツ印や丸印などが書き込まれている。

  伊佐勢理毘古は、百襲媛からの助言と、その意味を一つ一つ語って聞かせた。


「……、なるほど……」


 感嘆の声とともに、一同は深く頷く。


「伊佐勢理毘古様。素晴らしい考察でございます。それが正道でございましょう。明朝、全軍にそう通達致します」


 翌朝、全軍へ新たな行軍路が通達された。

 諸進命軍残存兵の救援のため、出航準備を急ぐことも併せて命じられる。


 その日の太陽の日が天に頂く頃、大和国軍は讃岐を後にした。此度は七日程の航海日程である。

 讃岐の港郷には、補給を済ませた多くの舟が居並ぶ。

 その先頭に立ち海原を眺める伊佐勢理毘古。胸の桃のお守りを握りしめ航海の無事を祈る。

 その後、海のはるか先にあるであろう針間の方を指し号令をかけた。


「さぁ、参ろうか。全舟、出航!」


「御意! 全兵に告ぐ。本舟に続き順次出航せよ! 各舟遅れずついて参れ!」


 副官の指示により大舟団が次次と針間を目指し大海へと漕ぎ出ていく。

 讃岐の人々は、その背を歓声や拍手と共に見送った。


 ◇


 大和国軍は、讃岐を出発し現在でいう瀬戸内海から播磨灘を越え、針間氷河の岬近くの浜辺(現在の加古川辺り)から上陸した。

 磯の香りが鼻を打ち、風が絶え間なく耳元を鳴らす。

 舟を降りた足に、冷たい海水が染み渡った。砂浜を踏むたび、サクサクという乾いた音が響く。


 全兵が浜に集合した頃には、黄昏時となっていた。

 この日の行軍はここまでとし、少し陸の方へと入った場所で野営が始まる。

 街灯などない時代。

 火を灯さねば、辺りは漆黒の闇に包まれる。

 不慣れな土地、経験のない大軍での野営――不安を抱えながらの一夜であったことは想像に難くない。

 


  翌朝、夜明け前に軍は動き出した。

 岬には防風のためか黒松が立ち並び、松風が冷たく頬を打つ。

 大和国軍は松風に逆らいながら林道を通り抜け岬の先端へと向かう。


「少し肌寒いな。だが、今日中に吉備国へと至りたい。まだ朝早いが、昨日伝えた通り出発致す。稚武彦にもそう伝えて欲しい」


「畏まりました。すぐに伝令を出します。さぁ、出発だ! 各自準備を整えよ」


  命が下り、軍は慌ただしく動き出す。装備を確認し整列する兵たち。

 ふと目に入った熊翁の部下たちにはまだ眠気まなこの者もいるようだ。

 「仕方のないやつらだな」と半ば呆れていると、翁に頭を叩かれ起こされた。


「桃様! 我々は、軍の後方から参ります。何かあればすぐにお声かけくだされ」


「承知。すぐに伝令を走らせる故、その時は頼む」


 「あい」と返事をした熊翁は大戦斧を高く掲げ部下に合図し、一団を率いて後方へと下がっていった。


 大和国軍は、山際が少し橙色に色づき始めた頃、なんとか岬の先端へと辿り着いた。

 伊佐勢理毘古は軍を停止させ、稚武彦を呼んだ。


「兄上。お呼びでしょうか?」


「うむ。岬へと到ったので、姉上の助言通り祭祀を行う。お主に補助を頼みたい」


 「畏まりました」


 伊佐勢理毘古は、兵たちの方を向き大きな声で言い放つ。


「ここで忌瓮いわいべをすえ、神を祀り、針間を吉備国への入口とする。皆も共に神に祈りを捧げよ」


 「御意!」


 その後、静まりかえった場に祭祀官が様々な道具を持ち登場する。


「伊佐勢理毘古様、準備は整ってございます。こちらをどうぞ」


 伊佐勢理毘古は「うむ」と言い、祭祀官より忌瓮を受け取り祭祀をはじめた。

 稚武彦は祭祀官と共に補助に努める。


 祝詞があげられ、場が清められる。


 大和国の兵たちは一心一意に戦勝を祈願する。


(天照大御神様… どうか我々に御加護を…)


 すると、朝陽が差し出し、一気に大和国軍を照らした。

 それは、まるで天照大御神に祝福されているかのようだった。


「我々の願いは通じた! 我々には天照大御神様がついておられる! いざ、参ろう!」


 伊佐勢理毘古は、軍を反転させ吉備国へ向けて出発した。

 岬から平野を通り山陽道の方へと向かう。

 平野部の辺り一面には田園が広がる。

 初秋の冷たい風がそよぎ、金色の稲穂が波打っていた。



 これにて、ようやく吉備国へ入る準備が整った。

 孝霊五十三年、伊佐勢理毘古はついに吉備国へ上陸する。

 この時、大和国を出発してからすでに約半年が経っていた。

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