第一話 稚屋媛誘拐事件 前編
伊佐勢理毘古は、瑞々しい若枝が空へ伸びるようにすくすくと成長し、十歳の年を迎えていた。
その身体は同じ年頃の子どもたちよりもひとまわり逞しく、力も少年離れしたものを持ち、二重瞼で大きな丸い目からは、幼さの奥に凛々しさを放ち始めている。
年相応のあどけなさこそ残るものの、弓の腕前は大人を凌ぎ、その才知は誰もが舌を巻くほどであった。
カン! ヒューーーーーー、ドン!
初夏の穏やかな風が吹き抜ける早朝の練兵場に、甲高い弓矢の音が響き渡る。
伊佐勢理毘古の手から放たれる矢は、次から次へと的の中心を正確に射抜いていく。
「今日も朝から精がでるな、伊佐勢理毘古。見事な弓の腕前じゃ」
父である皇太子が顎の髭に手をやりながら感心している。
息子の著しい成長にどこか誇らしげだ。
「おはようございます、父上。私などまだまだでございます。やはり日々の鍛錬が大事かと思います。この積み重ねにこそ真の力が宿るのだと信じております。それに、民を守るため、国の平和を守るために、この力は必ず必要となる時がくるはず。その時までにもっと力をつけたいのです」
「よき心がけじゃ。ぬしも知っておると思うが、世は倭国大乱の最中。未だ終結の目処はたっておらぬ。ぬしたちのような若者がいてくれるだけでわしは心強く思える」
皇太子は傍に置かれた弓矢をおもむろにその手に取る。
「どれ、わしも鍛錬につき合おう。みておれ……」
無駄も淀みもない、まるで水が流れるような優雅な所作で皇太子は弦を引いた。
キリキリ、と張り詰めた弦の音が空気を震わせ、カンという甲高い音と共に放たれた矢は鋭い音を立てて飛び、見事に的を射抜く。
「父上! お見事でございます! 弓の腕前も一流なのですね。感服致しました」
「いやいや、それ程のものでもない。それに、お主もあと数年もすれば身体がしっかり出来上がり、あっという間に私を追い抜いていくであろう」
「そうなるよう、しっかり鍛錬致します」
その後、一刻ほどの間、親子は弓を競い合い、清々しい汗を流した。
短いながらも尊く、かけがえのない親子の時間である。
皇太子が政務へ向かった後も、伊佐勢理毘古は父を超えるべく、さらに黙々と鍛錬に励み続けた。
◇
午前の鍛錬を終え太陽が天頂に登ろうかという頃。伊佐勢理毘古は離宮に戻り、姉の百襲媛と共に食事を摂っていた。
その和やかな空気を破るように、その急報は届けられた。
宮中に響き渡るバタバタと人が駆ける慌ただしい足音。
息を切らし正殿へと駆け込んできた伝令の顔は、汗が滝のように流れ落ちていた。
「た、大変でございます! 稚屋媛様が攫われたとの報が入りましてございます!」
宮中に雷が落ちたかのような衝撃がはしる。
さすがの皇太子も驚きを隠し切れない。
自分の愛娘が攫われたのだ、親として当然の反応といえよう。
「なんたること⁉︎ 護衛たちは何をしておったのじゃ」
「誰に攫われたのか? 情報はあるのか?」
文官たちは右往左往し、声だけが飛び交う。
混乱が頂点に達しようとしたその時、皇太子の一喝が響き渡った。
「静まれ! そのように慌てふためき混乱していては、解決出るものも解決出来ん。まずは、落ち着くのだ」
「はっ」
「取り乱しまして、誠に申し訳ございませぬ。もう大丈夫でございます」
皇太子の声に場の熱が引き、文官たちは冷静さを取り戻す。
老いた文官の長が先頭に立ち、すぐさま策をまとめあげる。
「捜索隊を十隊編成し、すぐに大和国全土に向けて出発させよ。軍はすぐに動けるよう征伐隊を編成のうえ待機、捜索隊の報を待つのだ」
「畏まりました」
伝令たちは、すぐに各署へと指示を伝えるために駆け出した。
◇
宮中の空気に揺らぎを感じ取り、伊佐勢理毘古は眉を寄せた。
「姉上、何か正殿の方が慌ただしい様に感じます。何かあったのでしょうか?」
「たしかに騒がしいわね。皆んな深刻な顔で走っていくわ。どうしたのかしら?」
「気になるので父上のところへ行って、お伺いして参ります」
「お仕事の邪魔しない様にするのよ」
「はい!」
伊佐勢理毘古はそう言い廊下へ出て、執務室の方へ向かう。
廊下では文官も武官も使用人も、波のように忙しなく行き交っていた。
(何が起こっているんだ? この慌ただしさは只事じゃないぞ…)
どんな情報でも良いので聞き出したい伊佐勢理毘古は、目の前を通りかかる使用人を呼び止める。
「もし。皆、何を慌てているのですか? 何かとんでもない事でも起きているのですか?」
「稚屋媛様が――何者かに誘拐されたとの報にございます。只今、捜索隊が全土に向けて出発するところとのことです」
「なんだって⁉︎ ありがとうございます……」
伊佐勢理毘古はあまりに衝撃な内容に、一瞬理解が追いつかなかった。
その衝撃に頭の中が真っ白になったのだ。
寸刻の後、正気を取り戻すと、取り敢えず姉の元へ戻り相談することにした。
部屋に戻った伊佐勢理毘古は、百襲媛に使用人から聞いた話を伝える。
「なんですって! 稚屋媛が攫われた…、そんな……」
「 私も衝撃的でした。すぐに捜索がはじまるようですが、私は心配でじっとなどしていられません。私もすぐに救出に向かいます!」
「いけません! あぶないわ。あなたはまだ子供なのよ。ここは大人に任せましょう」
「しかし、こうしている間にも稚屋姫は一人不安で泣いているかもしれません。それをここでただ待っているだけなど耐えられませぬ。私はどれだけ止められようとも行きます!」
百襲媛は深い溜息をついた。
「はぁ…… わかったわ。言い出したら聞かないんだから。でも、絶対に無茶をしてはだめよ。必ず無事に帰ること。約束よ?」
「わかりました。約束します、姉上」
百襲媛は、伊佐勢理毘古の固い決意に押されついに折れた。
彼女はすぐに自分の侍従を呼ぶ。
「伊佐勢理毘古が稚屋媛の救出に向かいます。すぐに、弓矢と鎧を用意して。あと、護衛の手配もお願い」
「かしこまりました」
侍従はすぐに部屋を飛び出し、急ぎ準備を整えてくれた。
伊佐勢理毘古は弓矢と小さい鎧を身につけ、頭には白い鉢巻を巻いた。
「姉上、ありがとうございます。稚屋媛と共に無事帰ります。いってきます!」
そう言い踵を返し部屋を出ようとしたが、百襲媛に呼び止められる。
「少し待ちなさい!」
「どうしたのですか? 準備はばっちりです。すぐにでも出発したいのですが」
百襲媛は瞼を閉じてじっとしている。そして、すっと静かに目を開いた。
――その瞳が、淡く青く光っている。
「姉上? それは一体…?」
「伊佐勢理毘古。山が近くにある郷へ行くのです。そこで話を聞きなさい。きっと、稚屋媛の行方がわかるでしょう。それ以上は私にもわからないわ」
「え? はい? 山の近くの郷ですね、わかりました。ありがとうございます。いってきます」
「いってらっしゃい。気をつけてね」
百襲媛はにっこり微笑み、弟を送り出した。
伊佐勢理毘古には彼女の真意はわからぬが、当てなど何もない、まずは言われた通りにしようと決めた。
そして、数名の家臣を引き連れ、山が近くにある郷を探して離宮を飛び出した。
◇
伊佐勢理毘古は、家臣たちと共に山が近くにある郷を一つずつ足を運び、郷の者に話を聞き集めた。
いくつもの郷をめぐり、耳が痛くなるほど聞き込みを重ねたが――稚屋媛の行方につながる情報は、ついぞ得られない。
時間だけが流れ、胸の奥で焦燥がじりじりと膨らんでいく。
(稚屋媛はどこにいるんだ? どうか無事でいてくれよ)
そう念じながら巡った九つ目の村で、ようやく一本の糸がつかめた。
「伊佐勢理毘古様。村人へ聞き込んだところ、あそこに見える山の方へ、長い黒髪で羽矢の紋様が織り込まれた背子を着た女子が連れて行かれるのを見たとのことです。おそらく、あの山を根城にしている山賊の仕業でしょう」
「……ようやく手がかりが見えた! あの山へ急ぎ向かいましょう。あの山に詳しいこの郷の杣人にも同行をお願いして下さい」
家臣たちはすぐに杣人を手配し、再び山賊の棲家へ向けて出発する。
杣人とは、杣木を切り倒したり運び出したり造材したりすることを職業とする人のことである。
杣人は稚屋媛の危機と知り、喜んで協力を申し出てくれた。
郷を出ると見渡す限りずっと田畑が続く。
田にはきれいに等間隔に稲が植えられ、太鼓打や谷繁の姿も見える。
畦では蛙が跳ね、横を流れる水路では目高たちが水面をつつきながら気持ちよさそうに泳ぎ、日に照らされてきらきらと尾を揺らしていた。
「雄大な自然は平時と何ら変わらぬな。一刻も早く稚屋媛を救い出し、私たちもこうありたいものだ」
「伊佐勢理毘古様…、一刻も早く稚屋媛様をお助けしましょう!」
「では、参りましょう。山の麓まで一気に駆け抜けます。杣人の方のペースに合わせますよ」
「御意!」
掛け声とともに、伊佐勢理毘古たち一行は勢いよく田圃道を駆け抜けた。
その物々しい姿は農夫たちを驚かせた。
「おお……、伊佐勢理毘古様とお付きの方々がすごい形相で駆け抜けて行かれたのう。何かあったべか?」
「聞いた話だがよ、稚屋媛様が攫われたとかなんとか…」
「そりゃ一大事じゃ。はよう助かるとよいなぁ」
農夫たちは作業の手をとめ、皆で太陽を見上げ、天照大御神に稚屋媛の無事を祈った。
◇
山の麓までくると、杣人の案内で山へ分け入り山賊の棲家へと向かう。
鬱蒼と茂る草木は、人の侵入を拒むように枝葉を広げ、薄暗い緑の影が大地に揺れていた。
ここから先は、何が待ち受けているかわからない。
「これよりは山賊の縄張りとなる。各人警戒を怠らぬように。まず、ニ人は斥候として山賊の拠点を調べて報告を。他の者はここで待機し、周囲を警戒しつつ、いつでも出られるように準備しましょう」
「承知しました」
伊佐勢理毘古の指示は明瞭で、十歳とは思えぬほど整然としていた。
家臣たちはその命を受け、迷いなく動き出す。
二人の家臣は、案内役の杣人を守りながら斥候に出る。
他の者は、伊佐勢理毘古を囲うように陣取り、周囲に眼を光らせる。そして、大木を背にし背後を守り、木陰で暑さを凌ぐ。
木々を揺らす風の音と、小川の澄んだせせらぎが耳に心地よく響く。
大自然の優しい音が満ちているにもかかわらず、背筋に流れる緊張感は消えない。
一行は体力を温存するため、静かに斥候の帰還を待った。
◇
数刻の後、斥候を行っていた家臣と案内役の杣人が山賊の棲家を調べて戻ってきた。
「伊佐勢理毘古様、山賊たちは現在山の中腹辺りにある棲家にいるようです。私どもが先導します」
「よろしく頼みます。各人このまま周囲を警戒しながら山賊の棲家へ向かいます。必ず、稚屋媛を無事助け出しましょう」
伊佐勢理毘古たちは山賊の棲家へと向かう。
道中にはどんな罠があるかわからない。
全員が神経を尖らせ厳戒態勢で進む。
「家臣団が前後左右を囲みお守りします。前後二人ずつ、左右一人ずつの配置で行きますので伊佐勢理毘古様は杣人と二人で中央にお入りください」
「あいわかった。お任せ致します」
道中に、獣用の罠がいくつか仕掛けられていたが、人を直接害するような罠は見当たらない。
そして――何より奇妙だったのは、山賊がまったく襲ってこないことだった。
それはまるで、彼らを棲家へとわざと誘導しているかのようだった。
不穏な予感が彼らの胸を過った。
それでも進むしかない。
半刻ほど獣道を歩むと、ようやく目的の棲家が姿を現した。
それは、あばら屋が数軒建っているだけの小さな集落だった。
周囲は多くの木々に囲まれ、中には畑が細々とあるだけの一見貧しい郷のようだ。
家屋の近くには、鞣された獣の皮やその肉が干されているのが見える。
「伊佐勢理毘古様、あちらの集落に山賊の棲家がございます。真ん中の少し大きな建物に稚屋媛様は囚われているようです」
「よし。まず皆に伝えておきたい事があります。山賊も大和国の地に住まう民であることにかわりない。出来れば、話し合いで解決したいと考えています」
家臣たちの表情は見る見るうちに真顔となる。
荒くれ者で、罪を犯す彼らがそのように甘い対応に従うはずがない。
家臣は伊佐勢理毘古の護衛なのだ、反対するのが道理である。
「それはかなり難しいと存じます。相手は荒くれ者たちです。話し合いに応じるはずありませんよ。さすがに危険ですのでやめましょう」
「それでもです! 彼らも最初から山賊であったわけではないでしょう? 大和国の民であるなら極力血は流したくありません。武力制圧は最終手段としたい。無理を承知で言いますが、どうか私の我儘に付き合ってください。お願いします!」
「わかりました。しかし、一人では行かせませぬ。護衛に一人だけつけさせてもらいます。これだけは譲れませぬ」
「それで構いません。ありがとうございます」
伊佐勢理毘古の信念と、民への想いに心打たれた家臣たちは護衛の任務よりも、彼の意志に従うことを決意する。
「では、説得にいきましょう。交渉決裂となるまでは待機願います。杣人の方は危険ですので離れた場所に隠れていてくださいね」
伊佐勢理毘古たちは集落に入り、中心にあるひらけた場所で立ち止まる。
そして、あばら屋にむかって、大きく明瞭でよく通る声で言った。
「山賊の皆様、私は大和国皇太子 大倭根子日子賦斗邇命が子、伊佐勢理毘古。そちらにいる稚屋媛を返して頂きたく参上しました。どうかお姿を現しください」
伊佐勢理毘古の口上に、あばら屋よりぞろぞろと山賊たちが出てくる。
二十人ほどの山賊たちにあっという間に包囲されてしまう。
最後に、一際巨躯で全身に熊の毛皮で作った服を纏った男が、羽矢の紋様が織り込まれた白い背子を着た少女を連れて出てきた。
白髪黒眼、深い皺を刻んだ老齢の男。
しかしその身体は獣のように逞しく、分厚い筋肉が鎧のように盛り上がっている。
手には大戦斧。軽々と構え、全身に歴戦の猛者の気配をまとっていた。
彼が山賊たちの頭領であろう。
彼の歴戦の猛者然とした自信溢れる佇まいから、たった数名の伊佐勢理毘古たちを棲家まですんなり通したのも頷けた。
「兄様ーーー」
稚屋媛は伊佐勢理毘古を見つけた瞬間、震える声で叫んだ。
その大きな瞳は泣き腫れて真っ赤だ。
「稚屋媛よ、もうしばしの辛抱だ。待っていておくれ」
伊佐勢理毘古が優しく声をかけると、山賊の頭領が口を開いた。
「せっかく攫ってきたものを、はいそうですかと言って返すわけがなかろう。二人で来た勇気は認めてやるがそれは無謀と言うんじゃ。お前らを殺し、金目のものを奪ってそれでしまいさ。なぁ、お前たち?」
「そうだ! そうだ!」
山賊たちは武器を掲げて下卑た笑みを浮かべる。
「私はあなたたちも大和国の民であると考えています。そうであるなら同じ国の民同士血を流したくはない。どうか、このまま稚屋媛を返して頂けないでしょうか?」
「この童はとんだあまちゃんだ」
頭領は嗤い、戦斧を肩に担いだ。
「俺たちは荒くれ者の山賊稼業。これで、まんま喰ってるんだ。おいそれと言うことはきけぬわ。お前たち、さっさとそいつらを殺して朝廷に送りつけてやれ」
山賊たちはじりじりと距離を詰めようとする。
猛者の頭領と二十人の山賊たち、こちらは十歳の童一人に護衛が一人。
戦力差は火を見るより明らかであった。
それをみた家臣たちの表情が一気に険しくなり、急いで郷へ駆け込もうとする。
「待って下さい!」
それでも、伊佐勢理毘古は家臣たちに待機の合図を送り話を続ける。
「まもなく軍が出動してくるでしょう。そうなればここにいる貴方達、この郷の戦えない民たち、皆の無駄な血が流れます。そんなこと誰も望まない。何か別の血を流さずに済む解決方法があるはずだと私は信じたい」
だが話はかみ合わず、膠着状態が続く。
その時、山賊の頭領が視線を横にそらし、一本の桃の木を見つけると――ふっと口元を吊り上げた。
「よし、わかった。伊佐勢理毘古とやら、ここは一つ賭けをしようではないか」
「賭けですって…?」
山賊の頭領が提示する賭けとは一体どんなものなのだろうか――。




