第十参話 最終決戦 前編
それぞれの道を歩みはじめた温羅と王丹。
温羅たちは、住居のある岩屋山と阿曽郷へと拠点を移し、鬼ノ城を王丹たちに明け渡した。
その顛末を聞いた伊佐勢理毘古は、静かに、しかし深く息を吐いた。
(やはり、全員を説得する事はできなんだか。よりによって、あの王丹と戦で雌雄を決さねばならぬとはな…)
胸に澱のように溜まった思いを、ため息と共に吐き出し、伊佐勢理毘古は覚悟を定めた。
朝餉の後、彼は全兵を集める。
頬を撫でる春の風は柔らかく、あまりにも穏やかであった。
「先ほど、温羅より知らせが届いた」
静かな声で切り出す。
「温羅一族は、温羅の和平派と王丹の強硬派に別れた。和平派は、岩屋山と阿曽郷に拠点を移し、我々と共に歩んでくれるとのことだ。こちらとは、密に連絡を取り合い、策を講じていくつもりだ。留玉媛よ、連絡役を頼む」
「承知しました」
留玉媛は力強く頷き、温羅の元へ通信兵を派遣するべく部下に指示を出す。
「問題は強硬派の王丹軍だ。未だ我々への怒りは鎮まらず、戦の準備をしている。――決戦は避けられぬ」
その言葉が落ちた瞬間、兵たちの間に緊張が走った。
つい先日の大敗。王丹の武、その恐怖は、今なお鮮明に脳裏に焼き付いている。
伊佐勢理毘古も、それは痛いほどにに理解していた。
だからこそ、あえて声を和らげ、語りかける。
「皆よ、よく落ち着いて聞いて欲しい。先の大敗で、我々は大きな悲しみを負った。しかし、それは温羅一族にとっても同じことなのだ。昨日説明した通り、此度の戦は我々の侵略行為にほかならぬ。我々は、彼らの仲間の命を多く奪った。“お互い様”などという言葉で済ませられるほど簡単なものではない」
兵たちは黙したまま、伊佐勢理毘古の言葉を受け止める。
「王丹たちを許せとは言わぬ。熊翁や命を散らした仲間たちの事は忘れられぬであろう。――もちろん私も同じ気持ちだ。しかし、怒りや憎しみは負の連鎖を生み続ける。翁たちが願った吉備国の平和を実現するために、ここでその連鎖を全て断ち切らねならない。吉備国の平和を取り戻すまででも良い……、その感情を胸の奥へ収めてはくれまいか」
深く頷く者。
なおも葛藤を抱く者。
それぞれが、それぞれの形で心を鎮めようとしていた。
「王丹たちを我々でとめてやろう。王丹の武はやはり脅威だ。大きな犠牲が伴うかも知れぬ。しかし、これは我々にしか出来ぬこと。今暫し、私に力を貸してくれ!」
その時、伊佐勢理毘古の胸の辺りが眩い光を放つ。
光は波紋のように広がり、兵たち一人ひとりを包み込み、大和国軍全てに広がる。
暖かく、慈しむような光。
恐怖は溶け、心は静まり、代わりに確かな希望が胸に満ち溢れていく。
「やってやりましょう! 真の吉備国の平和のために!」
どこからともなく、ひとつの声があがった。
それは合図でも号令でもない。ただ抑えきれずにこぼれ落ちた叫びだった。
しかし、その声は瞬く間に別の声を呼び、また次の声を呼ぶ。
叫びは波紋のように広がり、やがて無数の喉が同じ熱を帯びて響き合った。
誰が先で、誰が後かなど、もはや意味をなさない。
その熱は前列から後列へ、兵から兵へと伝播していき、
大和国軍全体を包み込む一つの巨大な鼓動となった。
士気は否応なく吊り上げられ、ついには絶頂の域へと達するのであった。
◇
孝霊五十四年、春。
太陽が天の頂に昇る頃、大和国軍、王丹軍は吉備穴海の前で相対する。
ついに――最後の決戦が幕を開ける。
伊佐勢理毘古と王丹は、それぞれ自軍の前に立ち、互いを見据えた。
潮の香りを含んだ風が、二人の間を吹き抜ける。
「王丹よ!」
伊佐勢理毘古が声を張る。
「この戦どうしても止めることは出来ぬか? 我々は出来ることなら、もう終わりにしたい。共に、吉備国の平和のために手を取り合いたいのだ」
王丹は、しばし沈黙した。
その眼差しは揺れていたが、やがて鋼のように固くなる。
「……できぬ」
低く、しかしはっきりと言い切る。
「お主たちの言いたい事はよくわかる。しかし、我らは納得しきれなんだ。もはや後にはひけぬ」
王丹は剣を抜き、前に突き出した。
「話は終わりだ。あとは――これで語るのみ。参るぞ」
そう言い放ち、王丹は踵を返して自軍へ戻る。
伊佐勢理毘古もまた、静かに後方へ下がった。
大和国軍は、中央に伊佐勢理毘古、左翼に稚武彦、右翼に夜目山主父子という布陣。
犬飼軍は戦場全体を撹乱すべく散開する。
対する王丹軍は、王丹を中心に兵数を均等に配した正攻布陣。
そして、決戦の火蓋が切られる。
王丹軍の歩兵が雄叫びを上げ、雪崩れ込むように突進を開始した。
大和国軍は即座に大盾部隊を展開し、弓兵が一斉に矢を放つ。
空を埋め尽くす矢の雨。
だが、此度は王丹軍も対策を講じてきた。
盾で矢を防ぎながら突撃を継続する。その勢いは全く衰えない。
次の瞬間。
轟音と共に、大盾部隊が衝突した。
吹き飛ばされる大盾兵とそこから雪崩れ込む王丹兵。
すぐさま兵を動かし、穴を塞ぎにかかる大和国軍。
想いをぶつけあうように、両軍は激突する。
数刻にわたり、一進一退の攻防が続く。
「……やはり王丹軍は強い」
伊佐勢理毘古は歯を噛みしめた。
このまま消耗戦を続ければ、先に力尽きるのは大和国軍である。
「このままではいかん。楽楽森彦殿、何か良策はないか」
楽楽森彦は戦場を見渡し、やがて静かに口を開いた。
「大将、我々の方が兵数が遥かに多い。ここは遊撃隊を編成し、密かに東側の森を迂回して王丹軍側面から強襲しましょう。その後、我々と挟撃態勢に持ち込めれば、戦況を変えられるでしょう」
伊佐勢理毘古は即断した。
「留玉媛、これを夜目山主に送ってくれ!」
急ぎ書き記した指示書を手渡す。
「承知しました」
留玉媛は伝鳥に文を結び、天へ放った。
「さぁ、頼んだわよ。いってらっしゃい!」
伝鳥は、空高く舞い上がり戦場を一気に駆けた。
「夜目山主様! 大将より指示が届いております。どうぞ」
「うむ、ご苦労。ふむふむ。わしに奇襲をせよとな。よし、すぐに準備に移る! 夜目麿よ、こちらへ参れ!」
名を呼ばれた夜目麿は、敵を斬り伏せつつ駆け寄る。
「父上、如何されましたか?」
「大将からの下知で、わしはここを離れ奇襲を行う。お前はわしが抜けた穴を埋めよ。わしが抜けたことを決して敵に気取られるなよ」
「承知しました。必ず成し遂げて見せます。父上――ご武運を」
「うむ、お前もな。では、任せた!」
息子の夜目麿に右翼を任せ、自身は遊撃隊を編成するべく少し後方へと下がる。
伊佐勢理毘古は敵に悟られぬように、自軍の兵を少人数ずつ後退させ、右翼へと移動させる。
夜目山主もその兵を少しずつ戦場から離脱させ、東の森に潜ませた。
準備が整うと、夜目山主も気配を消して戦場を離脱した。
夜目麿は、敵に気取られぬ様に父の抜けた穴をなんとか死守する。
太陽が傾き、戦場が橙色の光に包まれ始めた頃。
王丹軍の勢いが増し、大和国軍は押され始める。
その勢いのまま王丹も檄を飛ばし前へ出る。
「敵は崩れ始めた。今が好機ぞ! 我に続け! 突激ぃ!」
王丹軍が一斉に駆け出す。
意識が大和国本隊へ集中したその時を夜目山主は見逃さない。
「……今だ」
夜目山主は静かに号令を下す。
「全軍突撃せよ。王丹軍の側面を強襲。その後、本隊と挟撃に移る。いざ、参る!」
森から一斉に飛び出す夜目山主軍。
これは、完全な不意打ちとなる。
「な、何だと!? 伏兵か!」
王丹軍は混乱する。
ここでの奇襲にはさすがの王丹も驚いた。
「全軍守備陣形をとれぃ! このままでは挟撃の恐れもある。敵の攻撃を防ぎつつ、一時後退せよ。我が後続を断つ間に軍を下げよ」
しかし、王丹は瞬時に判断し、鬼神のごとく立ち塞がる。
王丹軍は一斉に守りを堅くし後退する。
追撃したい大和国軍であったが、王丹を前に突破口を開くことは出来なかった。
王丹の気迫がそうさせたのか、その姿は何倍にも膨れ上がって見え、完全に道を塞いでいた。
王丹は自軍の後退を確認し、自身もゆっくり下がっていく。
王丹軍は完全に虚をつかれたものの、王丹の機転と圧倒的な武により難をのがれた。
伊佐勢理毘古は舌打する。完全に虚をついたにも拘らず、王丹の武がそれを上回った。
改めて王丹のその武力に脱帽した。
そうこうしている間に、傾いていた太陽が地平線に沈んでいく。
戦場が闇に包まれ始める。
「……今日は、ここまでだな」
両軍は一旦、軍を退き野営に入る。
陣中には松明の火がゆらめく。
敵軍が目前にいることもあり、食事も簡単に済ませ、厳戒態勢で敵襲に備える。
空には雲が出始め、どんどん世界は漆黒の闇に包まれていく。
そんな中、伊佐勢理毘古と幹部たちは軍議を開く。
「今日と同じ戦い方では王丹には通じまい。奇襲も警戒されるであろうし、明日はもっと厳しい戦いとなろう」
一同は頷く。
何とか王丹を出し抜くための策を出し合う。
伊佐勢理毘古はなかなか良策が浮かばず、顎髭に手をやり唸る。
沈黙を破ったのは夜目山主であった。
「大将。一つ策がござる。わしら父子は、暗闇でも白昼同様に世界を見ることができます。辺りは一面、闇に包まれており好都合。今より夜襲を行い王丹を討ちます。土地勘もあり、逃げられても追撃が出来ますゆえ、わしに陣頭指揮を取らせて頂けませぬか?」
伊佐勢理毘古は、その進言について思案する。
顎髭をこねくり回した後、ついに決断した。
「さすがの王丹も暗闇ではその力を十二分には発揮できまい。討てずともその戦力を削れるだけでも効果はある、か……、よし。お任せ致す!」
策が決まったところで、楽楽森彦が口を開く。
「では、敵に気取られぬよう準備をしましょう。今から言うものを皆で揃えてください。麻の袋と、それから……」
楽楽森彦は集めさせた道具を前に、手振りを交えて説明を始める。
「麻の袋に衣や草木など、適当な物を詰めます。
それを各陣の幕の内側に並べれば、人のような影が映るでしょう。これで、陣に人が残っているかのように偽装できます」
「なるほど……」
「大将と私、それに留玉媛はこのままここに残り、軍議を続けているふりをします。表の兵、巡回の兵も同様。今まで通り、変わらぬ動きを心がけてください」
「つまり、我らが野営を続けているように見せかける、というわけか」
「その通りです。夜目山主殿たちは、麻袋と入れ替わる形で陣を抜けてください。そちらのことは、すべてお任せ致します」
準備が整うにつれ、兵たちは陣の裏手から一人、また一人と静かに抜け出し、闇へと溶け込んでいった。
兵たちは、灯りを全て消して暗闇の中を歩く。
暗闇の中を進むにつれ、目が徐々に闇へと慣れていく。近くの地形や、前を行く兵の輪郭が、ぼんやりと浮かび上がり始めた。
夜目山主父子の背を追い、大和兵たちは息を殺す。
全員が周囲に神経を研ぎ澄まし、一歩ごとに音を消すよう慎重に進む。
暗闇と無音の行軍――
そのため、進みは遅い。
一刻ほど歩き続けた頃だった。
前方に、揺れる松明の明かりが見えてきた。
王丹軍の陣営である。
いくつもの天幕が並ぶ中央に、ひときわ目立つ赤い幕が確認できた。
「あそこに、王丹がいるに違いなかろう」
夜目山主は低く言う。
「だが見ての通り、見張りも巡回も多い。中央へ辿り着くまでには敵が多すぎる」
夜目山主は何か良案はないかと、夜目麿に視線を向けた。
夜目麿は腕を組み、しばし黙考する。
王丹軍の野営地全体を見渡した、その時――
ひらめきが、稲妻のように走った。
「父上。ここより反対側に、少し広けた場所が見えますか?」
「うむ。あの辺りか。ちょうど、わしらの軍が入れるほどの広場であろう?」
その場所を指して答える夜目山主。
「そうです。私が、軍の大半を率いてあちら側より夜襲をしかけます。王丹軍は、それに釣られて出てくるでしょう」
夜目山主は、大きく頷く。
「私は、出来うる限り敵兵を多く引きつけ、王丹の周りをから引き剥がします。その隙に、父上たちが背後から王丹を仕留めてください」
「……おぉ、それは良い策だ」
夜目山主は、思わず感嘆の声を漏らした。
「全兵よ。今、聞いた通りだ。これより軍を陽動隊と本隊にわけて夜襲を行う」
兵たちの空気が、一段と引き締まる。
「しかし、これはあくまで夜襲である。王丹を討てるのが最良ではあるが、相手はあの王丹。そう易々とはいくまい」
一拍置き、夜目山主は続ける。
「敵の戦力と体力を削り、撤退するだけでも十分である。何よりも――自らの命を最優先とせよ」
闇の中、兵たちは無言で頷いた。
こうして、夜目山主父子の夜襲は、静かに動き出したのである。
そして、夜目麿率いる陽動隊は、気配を殺したまま反対側の地へと静かに移動していった。
定められた位置に布陣し、彼らはただその時を待つ。
雲間を漂っていた月は、やがて完全に姿を消し、世界は漆を流したような闇に沈んだ。
闇の底に、王丹軍の野営だけが、無数の灯となって浮かび上がる。
――今だ。
夜目麿はその機を逃さない。
闇の中で、音もなく手を振る。それが突撃の合図だった。
漆黒に統一された鎧と衣を着た夜目麿は、闇そのものとなる。影が影を呑み込むように、彼は一息の間に王丹軍の野営へと迫る。
巡回の兵たちは、敵が現れたという認識すら持てなかっただろう。
気づいた時には、すでに刃が喉元を裂いている。
何が起きたのか理解する間もなく、王丹兵たちは次々と地に崩れ落ちた。
夜目麿の合図で、陽動隊は最初の天幕へ雪崩れ込む。
そこでようやく、王丹軍は夜襲という現実を悟った。
乱打される銅鑼。
「敵襲! 敵襲!」
闇を切り裂く叫び声が野営に広がり、無数の足音が夜目麿たちへと殺到してくる。
「全兵、急ぎ後退!」
夜目麿の号令と共に、十名余りの敵兵を討ちとった陽動隊はすぐさま身を翻す。
狙い通り、戦場は広場へと移る。
そこへ、怒りと混乱に突き動かされた王丹兵たちが、次々と集結してきた。
仲間を討たれた憤怒が、怒号となって噴き上がる。
やがて敵兵のほとんどが広場に揃い、示し合わせたかのように、夜目麿たちへと一斉に駆け出した。
「来るぞ! 弓兵は牽制開始、大盾部隊しっかり構えて踏ん張れよ。槍隊も準備せよ!」
大和国軍の弓矢が闇を裂き、突撃の勢いを削ぐ。
続いて、大盾の壁が正面から敵を受け止める。
今度は、容易には崩れない。
夜目麿は事前に大盾の数と兵数を大幅に増強していた。
さらに、その背後には槍隊を密接に編成。
盾の隙間から突き出される槍が、確実に敵を貫き、自軍の被害を最小限に抑えていく。
王丹軍は、被害が増すにつれ陽動隊へと完全に意識が集中していく。
その中心に、王丹自身が動き出したことを夜目麿は見逃さない。
彼は、父と事前に取り決めていた合図を闇へと送った。
次の瞬間――
森の別の場所で潜んでいた夜目麿の別動隊が、一斉に駆け出す。
狙うは、王丹軍の松明。
兵には目もくれず、次々と倒し、踏み消し、火を奪っていく。
光が消え、戦場を闇が支配する。
辺り一面は完全な暗黒に包まれ、王丹軍は瞬く間に混乱へと叩き落とされた。
敵も味方も見分けがつかず、怒号と悲鳴だけが闇を満たす。
夜目麿はその隙を逃さない。
夜目の利く一族のみを残し、他の兵を音もなく後退させた。
暗闇と、なお残る夜目麿たちに注意が引きつけられている、その背後――
待機していた夜目山主たち本隊が、満を持して動いた。
闇に紛れ、混乱の只中にいる兵たちを次々と斬り伏せながら、夜目山主はただ一人を目指す。
王丹。
悲鳴だけが響く暗闇を一直線に駆け、距離はみるみる縮まっていく。
そして――
ついに、その刃が王丹へと届こうかという間合いに踏み込んだ。
夜目山主は迷わない。
剣を、王丹の身体めがけて真っ直ぐに突き出した。
(とった!)
――夜目山主が、勝利を確信しかけたその刹那。
甲高い金属音が闇を裂き、重い衝撃が腕を貫いた。
突き出した剣は、強烈な力で上へと打ち払われる。
「なに……!」
思わず声が漏れる。
夜目山主の眼前で、王丹が剣を構え直していた。
「馬鹿な……。それに、その目は何だ」
「ふしゅーーーー」
獣じみた呼気とともに、王丹の瞳が赤く妖しく発光する。
闇の中で、その瞳だけが不気味に浮かび上がっていた。
夜目山主は、瞬時に悟る。
完全ではない――だが、王丹は僅かながら闇夜に適応したのだ。
剣と剣が火花を散らし、闇の中で激しく打ち合う。
しかし、その動きは正直だった。
王丹の動きは鈍い。
昼間のような見事な太刀筋は失われている。
対して夜目山主は、闇を得たことでさらに冴えを増していた。
漆黒の鎧は完全に闇と溶け合い、姿は敵の視界から消える。
――消えては、突く。
――突いては、再び闇へと還る。
王丹は苛立ちを隠せず、舌打ちする。
「面妖な! これはさすがに分が悪い」
そして、決断は早かった。
「全軍、鬼ノ城へ退却せよ!」
「逃さぬ!」
夜目山主の声が、それを切り裂く。
「大和国軍は終結せよ。王丹を追撃する。我に続けぇぇーーー!」
二人の将の号令が、戦場に重なって響き渡る。
王丹は悟っていた。
この闇の中では、夜目山主には勝てぬと。
王丹軍は一斉に撤退を開始し、夜目山主たちは陽動隊と合流、即座に追撃戦へと移る。
夜目山主の声に、大和兵たちが応える。
松明を掲げ鬼ノ城へと走る王丹軍。
それを、闇を背負った大和国軍が追う。
やがて視界を取り戻した王丹軍は、地の利を活かし驚くべき速さで退いていく。
そして――
吉備穴海までもう一息という地点で、王丹軍の殿隊が突如として足を止めた。
そして、彼らは振り返り、夜目山主たちの前に立ち塞がる。
「ここより先にはいかせぬ! 死してなお、お前たちをとめる所存!」
決死の覚悟を固めた殿隊。
その瞳には、王丹を――仲間たちを必ず鬼ノ城へ帰還させるという、揺るぎない意志が宿っていた。
「……全軍、停止」
夜目山主の判断は早かった。
「今宵はここまでじゃ。今の彼らと戦えばこちらもただでは済まぬ。それに……、もう間に合わぬであろう」
死兵となったものほど厄介な敵はない。
自身の命を顧みない兵は、死と引き換えに甚大な被害を与える。
その覚悟の差が、戦場では大きな力の差となることを夜目山主はよく知っていた。
彼は、闇の向こうを見据える。
吉備穴海へ辿り着き、舟に乗り出す王丹軍の姿が、確かにその目に映っていた。
「王丹兵たちよ。これ以上の戦闘は無益である。わしらは退く。そなたたちも、鬼ノ城へ帰るがよかろう」
その言葉を受けた王丹軍殿隊長と夜目山主は、言葉を交わすことなく視線だけを交錯させる。
互いにに背を向け、両軍は静かに退いていった。
やがて空を覆う雲が裂け、月が顔を出す。
月光が、漆黒の闇に包まれていた世界を白く照らし出した。
吉備穴海から王丹軍野営地に至るまで――そこには、王丹兵たちのおびただしい数の屍が転がっていた。
この夜襲により死した王丹兵の数は四百にのぼり、対する大和国軍の死傷者は僅か五十。
夜目山主父子の疑いようのない完勝であった。
この報せを聞いた伊佐勢理毘古は驚愕と歓喜に打ち震える。
そして確信する。
――明日こそが、王丹軍との最後の戦いになると。




