第十弐話 理想と訣別
温羅の真実の姿を知り、新たな夢に向かい突き進む事を決めた伊佐勢理毘古たち。彼らに迷いはない。
過去の因縁も、流された血の記憶も、すべてを背負ったうえで、それでもなお前へ進むと決めた。
彼らのその内に秘めた意志は、確かに大地を踏みしめ、吉備国の真の平和のために歩き出す。
大和国軍は足守川を北へ遡り、吉備穴海を目指して進軍する。
川面を渡る風は冷たく、兵たちの鎧をかすかに鳴らした。
かつて幾度となく襲いかかってきた温羅軍の待ち伏せは、もはや影を潜めている。
前の戦での大勝により、温羅軍は小細工に頼る必要を失ったのだろう。
もはや彼らは、力をもって正面から対峙する覚悟を固めていた。
半日ほど行軍した頃、大和国軍の前に吉備穴海が姿を現した。
そしてその沿岸には、すでに陣を敷く温羅軍の姿があった。
大将は王丹。
兵数は千五百を超え、屈強な身体を持つ兵たちが、平野を埋め尽くしている。
赤々とした髪が風に揺れ、その光景は、まるで燃え広がる炎の群れのようであった。
人ならざる者と噂される理由を、嫌でも納得させられる異様な気配が、場を支配している。
「……、使者を出す。我々に戦う意思はない。この戦を、ここで終わらせたいと伝えるのです」
選ばれた使者は、一歩前に出た瞬間、その顔から血の気を失わせた。
恐怖か、あるいは張り詰めた緊張か。
唇はかすかに震え、指先は強く握りしめられている。
無理もない。
武器も持たず、たった一人で、あの異様な軍勢のただ中へ向かわねばならないのだ。
常の神経を持つ者であれば、恐怖を覚えぬ方がどうかしている。
「あなたの気持ちはよくわかります」
稚武彦は、できるだけ穏やかな声で語りかけた。
「敵陣へ向かうのはただでさえ怖いもの。それがあの軍勢ともなれば…」
「お心遣い感謝致します」
使者は深く一礼し、震えを押し殺すように背筋を伸ばした。
「しかし、これが私の仕事ですから。必ず職務を全うして参ります。では、いってまいります!」
そう言い切ると、彼は踵を返し、走り出した。
砂を蹴り、風を切り、次第に王丹軍へと近づいていくその背中は、あまりにも小さい。
だが、王丹は動かなかった。
武器を持たぬ無抵抗の者に刃を向けるほど、彼は無分別ではない。
しばしの後。
使者は無事に大和国軍の陣へと戻ってきた。
「吉備冠者が不在で判断しかねる。戻るまでお待ち頂きたいとのことです」
稚武彦は「わかった」と静かに頷いた。
しかし、その視線は温羅兵たちから離れなかった。
彼らの表情には、和議を受け入れる雰囲気など微塵もない。
侵略され、同族を殺された怒りが、全身から噴き出している。
憎悪を帯びた無数の視線が、大和国軍を射抜き続けていた。
(兄上…、早くお戻りになってください。私ではどこまでもつかわかりませんよ…)
空の色が、ゆっくりと鈍く濁り始める。
戦場には、言葉にならぬ不穏が満ちていった。
◇
「お初にお目にかかる。私は大和国軍大将、比古伊佐勢理毘古命と申す。此度の会合に応じて頂き、心より感謝申し上げる」
「我が吉備冠者、温羅である。桃太郎殿の噂は予々。お会いできて光栄だ」
二人はそう言い軽く礼を交わす。その所作に、敵意はない。
ここは、阿曽郷の郷長屋敷。
伊佐勢理毘古は、数名の家臣を伴い、当屋敷を訪れていた。
そして、彼の前に座していたのはあの「温羅」であった。
赤髪はくるくると巻き、大きな赤い眼が伊佐勢理毘古をみつめる。
その視線は鋭く、しかし理を量る冷静さを宿していた。
――これが、鬼と恐れられた男。
伊佐勢理毘古は、目の前の存在が単なる怪異ではないことを、すでに理解していた。
そもそも、この会談が実現したこと自体が異例である。
なぜ、二人がここで顔を突き合わせているのかと言うと、それは早朝に遡る。
伊佐勢理毘古は、夜明けとともに阿曽郷へ使者を走らせ、温羅との直接対話を求めた。
温羅と深い縁を持つ阿曽郷に仲介を頼み、武ではなく言葉による道を選んだのだ。
そして温羅もまた、その申し出を退けなかった。
阿曽郷の顔を立てたこともある。
だが何より、伊佐勢理毘古という男の真意を、この目で確かめる必要を感じたからである。
沈黙を破ったのは、伊佐勢理毘古であった。
「温羅殿。まず、謝罪をさせて頂きたく存ずる」
そう言って、伊佐勢理毘古は深く頭を下げた。
武人として、国の将として、これ以上ないほどの礼である。
「私は噂を鵜呑みにし、あなた方の地を侵してしまった。誠に申し訳なかった。流れた血は戻らない。謝罪しても仕切れないことは重々承知している。それでも、どうか聞いていただきたい」
温羅は腕を組み、黙して聞いている。
「私は、この戦を終わらせたい。そして、あなた方と和議を結びたい」
しばしの沈黙。
やがて温羅は、ゆっくりと瞼を閉じた。
そして、短く答えた。
「……、それはできぬ」
「何故ですか? 私はあなた方の本当の姿を知った。目的は同じ、吉備国の平和だ。もう争う必要はないであろう? これ以上、血を流しあう必要はない。悲しみを増やすこともあるまい」
それでも、温羅は首を横に振る。
「何が問題なのですか?」
温羅は目を開き、静かに語り始める。
「我としては、お主の話はとてもよくわかる。今すぐ戦は終わらせるべきであろう。だがな――」
声に、わずかな重みが加わる。
「王丹をはじめ戦場で共に戦った者たち、死した者の家族たちはそれを赦しはしない。そして、それを我の一言で抑え込むことは容易ではないであろう」
それは、統治者としての現実だった。
伊佐勢理毘古もまた、その重さを痛いほど理解している。
「それはそうであるが…。私はこの戦を終わらせ、あなた方と共に吉備国で起きている無益な争いをいち早くなくしたいと考えているのです」
その言葉に、温羅は目を見開く。
「お主は、天皇の詔で吉備国を征服しに来たのではないのか?
問いは鋭い。
「吉備国の民が、そなたたち大和人に虐げられることになるのではないか? それでは、民が虐げられることに何ら変わりがないのではないか?」
伊佐勢理毘古は、はっきりと首を振った。
「それは違う。私は今日まで吉備国にずっと感謝して生きて参った。この国、民の為に平和を取り戻したく、この地までやってきたのだ。
その声に、揺らぎはない。
「朝廷が、倭国大乱を終結させたいと考えているのはわかっているが、私は征服だけがその道ではないと信じている」
そして、はっきりと言い切った。
「私は、民を苦しめる賊を征伐するために来たのです」
その瞬間、温羅の表情が変わった。
「賊だと?」
眉間に深い皺が刻まれ、赤い眼が鋭く光る。
鬼と恐れられた所以が、そこにあった。
「各地で暴れている山賊、海賊や遠方の豪族たちのことを言っているのか? 根本的な解決には、我を殺す以外に道はない。それでは、温羅一族を止めることは出来ぬぞ!」
怒気が、部屋を満たす。
「戦禍は広がるばかりよ。それがわからぬお主ではあるまい」
焦った伊佐勢理毘古はすぐさま温羅に誤解であると宥めた。
「温羅殿。そうではないのだ。私もその事について頭を悩ませた。そして、私は鬼の噂がなくなればこの問題を解決できるのではないかと考えた」
温羅は鼻で笑った。
「ふん。それが出来ぬから我らは困っているのではないか。何か策があるとでもいうのか?」
温羅の問いに、伊佐勢理毘古は「もちろんだ」と話を続ける。
「新しい噂を広げ、温羅を鬼から吉備国を守る霊神に変えたい。温羅は、吉備国を守るものであると人々に信じさせたいのだ。そうすれば、鬼を騙ることは出来なくなり、鬼を騙り悪事を働く者もいなくなろう」
「そんな事が本当に出来るのか? どうするというのだ?」
「まず、これだけは言わせていただく。出来る出来ないではないのだ。やるのだ!」
伊佐勢理毘古の声が、強くなる。
「そのような弱気な考えではだめだ。吉備国の平和の為に我々で必ずやり遂げるのだ。その覚悟をもって、事にあたるのだ」
沈黙。
温羅の赤い眼が、伊佐勢理毘古を射抜く。
「……続きを、聞かせよ」
伊佐勢理毘古は、覚悟を込めて語った。
弱気は捨てよ。
理想は、信じ抜いた者の手でのみ現実となるのだと。
話を聞くうち、温羅の表情は徐々に和らいでいく。
幾度も頷き、時に問いを挟みながら、真剣に耳を傾けた。
すべてを聞き終えた時、
温羅の顔には、憑き物が落ちたような穏やかさがあった。
「……よかろう」
静かな声。
「無駄な血が流れぬよう、我も出来ることをしよう。しかし、全てが必ず上手くいくとは限らぬ。その時は、残った者がその意志を継ぎ、我らの大願を成就することを約束してくれ」
「承知した。そう、皆に通達し徹底させる。そして、そうならぬよう尽力しよう。温羅殿、決断頂き本当に感謝致す」
伊佐勢理毘古は、温羅に深くこうべを垂れた。そして、大願成就を祈念し二人は盃を交わす。
そして彼らは、吉備穴海へと向け、急ぎ駆け出した。
◇
一方、吉備穴海前の平野。
睨み合いは、すでに長い時を刻んでいた。
大和国軍と温羅軍は、互いに一歩も譲らず陣を構えている。
剣は抜かれず、矢も放たれない。
だが、空気は刃よりも鋭く、兵たちの神経を削っていった。
どれほどの刻が流れただろうか。
足を踏み出せば戦が始まる。
だが、踏み出さねば、この緊張は永遠に続く。
温羅兵たちの間に、苛立ちがじわじわと広がっていく。
侵略された土地。
奪われた命。
怒りを飲み込めと命じられても、それは容易なことではなかった。
やがて、空が唸りを上げ始める。
強い風が吹き荒れ、波が穴海の岸を叩いた。
雨粒がぽつり、ぽつりと地を打ち、瞬く間に豪雨へと変わる。
視界が奪われ、敵味方の輪郭が滲む。
戦場は、理性よりも本能が支配する領域へと近づいていった。
――その時である。
陣形の横合いから、突如として軍勢が躍り出た。
整えられた戦列ではない。
怒りと欲に突き動かされた、粗暴な突撃。
「奇襲です! あれは、温羅軍所属の吉備豪族たちです!」
報告が走る。
「なんですって!」
稚武彦は歯を食いしばった。
この戦は、まだ始まってはならない。
兄・伊佐勢理毘古が戻るまで、何としても停戦を維持しなければならなかったのだが…。
「すぐに、彼らを止めるのです! 今は争うべき時ではない」
稚武彦は、戦闘を収めようと奮闘する。
夜目山主たちが敵兵に向かって声を上げるも、叫びは雨音と怒号に掻き消された。
吉備豪族たちは勢いのまま、大和国軍へ突進してくる。
もはや、避けられぬ。
稚武彦は、瞬時に決断した。
「………、やむを得ません。大盾部隊を前面に展開、敵兵を阻め! 弓兵、一斉射撃準備」
命令が走ると同時に、巨大な盾が一斉に地へ突き立てられる。
次の瞬間、凄まじい衝撃音が戦場を揺るがした。
肉と盾、鉄と骨がぶつかる鈍い音。
盾は軋み、兵は踏みとどまり、敵の勢いを殺す。
稚武彦の声は、雨を切り裂いた。
「今です! 弓兵よ、放て!」
空が暗転する。
無数の矢が弧を描き、雨と混じり合いながら敵陣へと降り注ぐ。
矢は容赦なく突き立ち、吉備豪族の兵たちは次々と倒れていく。
悲鳴が上がり、血が雨に溶け、地はぬかるみへと変わった。
「よし。陣形を維持し、そのまま各個撃破するのです」
大和国軍は雄叫びを上げ、反撃に転じる。
訓練された動きが、混乱の中でも辛うじて秩序を保っていた。
だが――それを見て、耐え切れなくなった者たちがいた。
温羅兵の一部が、倒れる仲間を目にし、ついに理性を失う。
「……、もう我慢ならぬ!」
怒りに任せ、彼らは陣を破って突進した。
「稚武彦様! 温羅軍の一部の兵がこちらに突進してきます!」
報告を受け、稚武彦は奥歯を噛みしめる。
「こちらもですか! ついにという感じですね…。」
覚悟を決めるしかなかった。
「致し方ありません、温羅兵を迎撃します。楽楽森彦殿、こちらに大盾部隊を回せますか?」
「もちろんです。吉備豪族はそれほど脅威ではありません。大盾部隊の一部を残せばこと足りるでしょう。温羅兵に戦力を集中させるが宜かろう」
「わかりました」
稚武彦は声を張り上げる。
「大盾部隊は一番隊を残し、全て温羅兵への迎撃に回るのです! 夜目山主殿は、引き続き吉備豪族を抑えてください。他の兵は急ぎ温羅兵の迎撃準備!」
命令は次々と実行に移される。
陣は急速に組み替えられ、温羅兵の突進を迎え撃つ形を取る。
構わず突貫せよと叫びながら迫る温羅兵。
その眼には、憎悪と悲嘆が渦巻いていた。
再びの激突。
盾が鳴り、剣が火花を散らし、怒号が空を裂く。
戦は、完全に始まってしまった。
そこへ、王丹が前線へ姿を現す。
先走った兵を止めるため。
そして、これ以上仲間を死なせぬために。
しかし、始まってしまった戦闘を止めることは出来ず、手向かう大和国兵立ちに対しただただその武を奮うこととなってしまった。
だが、時すでに遅し。
刃を向けられれば、刃で応じるほかない。
王丹は歯を食いしばり、ただ武を振るう。
時間が経つにつれ、倒れる同族の数は増えていく。
王丹の胸に、抑えていた怒りが、ついに火を噴いた。
「………、図になるな!」
戦場の誰もが、もう止まれぬ地点へ踏み込んでいた。
小競り合いは、完全な戦へと変貌していた。
剣戟の音。
戦士の咆哮。
断末魔の叫び。
そのすべてが混じり合い、吉備穴海は、一瞬にして混迷を極める戦場と化した。
――そこへ。
伊佐勢理毘古と温羅が、戦場へ駆けつけた。
眼前に広がる惨状。
二人は思わず、手で顔を覆った。
「なんたること……。急ぎ軍を退かせるのだ! これ以上無益な血を流してはならぬ」
二人は同時に撤退の合図を出す。
銅鑼の音が、豪雨の中を貫いた。
その音に導かれるように、両軍は徐々に刃を下ろしていく。
完全に戦場が沈静化した頃、地に倒れ伏した者は、両軍合わせておよそ千。
戦闘の経緯を聞いた温羅は頭を下げた。
「誠に申し訳ない。この様なことになってしまうとは…。我は城に戻り、先の提案を皆に知らしめる。出来うる限りの説得はするつもりだ。そちらは任せるぞ。ではな」
そう言って温羅は帰城していった。
伊佐勢理毘古も、阿曽郷での顛末を皆に伝えるため自陣へと戻る。
日暮れの頃合いということもあり、まずは野営準備の指示を出した。
雨は静かに降り続ける。
彼らの血を洗い流すかのように……。
◇
野営準備が終わると伊佐勢理毘古は全兵を集める。
松明の揺らぐ火が兵たちの顔を照らし出す。
阿曽郷での温羅との約束を伝え、皆で吉備国の平和を取り戻すことを改めて誓い合った。
兵たちの覚悟はとても強く、それは本日の戦闘で揺らぐ程度の弱いものではなかった。
困難が待ち受けていることは、百も承知の上でここにいるのだ。
大和国軍は明日に備え食事を始める。
兵たちは理想と夢について熱く語り、その実現に向けて英気を養った。
それを見ていた伊佐勢理毘古は、あとは温羅の説得次第だと、遠く穴海に聳える鬼ノ城をみつめた。
◇
吉備穴海を覆っていた怒号と血の気配が、ようやく遠のいた頃。
温羅は、重く沈んだ足取りで鬼ノ城へと戻っていた。
鬼ノ城では、温羅の前に温羅兵が集結していた。
赤い髪が揺れ、その大きな赤眼が、一人ひとりを見渡した。
下を向く温羅兵、張り詰める空気。
兵たちの顔には冷や汗が浮かぶ。
「……何故だ」
低く、押し殺した声。
「我が戻るまで、待てと伝えていたはずだ。
それにもかかわらず、何故、こちらから戦端を開いたのか」
誰も答えることができない。
兵たちは視線を落とし、身じろぎ一つできずにいる。
王丹もずっと瞼を閉じており、面目ないと言っているかのようだ。
「侵略された怒りがあるのはわかる。仲間を失った憎しみがあるのも、当然だ」
だが、と温羅は言葉を強めた。
「だからといって、我の命を無視してよい理由にはならぬ。その結果、どれだけの命が失われたか、わかっているのか」
重圧に耐えきれず、兵の肩が小さく震える。
「奇襲を仕掛けた者はどうした?」
一歩前に出た家臣が、硬い声で答える。
「沙汰があるまで、かの族長は自害できぬ様に拘束し、檻へ入れてあります。」
「……わかった」
温羅は一度だけ頷いた。
「そちらの処分は、我の話が解決するまで保留とする」
そう言って、視線を兵たちへ戻す。
「今より、我の決断を伝える」
城内に、緊張が走る。
温羅は、阿曽郷で伊佐勢理毘古と交わした約束を、一つひとつ語った。
大和国軍との共生。
鬼の噂を終わらせ、吉備国を守る霊神として生きる道。
血ではなく、理によって平和を築くという選択。
話が進むにつれ、兵たちの間にざわめきが生じる。
納得の色を見せる者。
困惑する者。
そして――怒りを露わにする者。
王丹である。
彼の表情は、次第に険しさを増し、額には血管が浮かび上がる。
伊佐勢理毘古の甘さに、その夢物語に感化された兄に、そして散っていった同族の無念を晴らせない自分自身に怒りを覚えたのだ。
兵たちからは、様々な意見が飛び交った。
「阿曽郷のような人間もいる。信じても良いのではないか?」
即座に、反論が飛ぶ。
「大和人は、我らの同族をたくさん殺した。絶対に赦すことは出来ぬ」
しかし、それに対して別の声が上がる。
「彼らは我らのことを知らなかったから戦ったのだ。今は我らのことを理解してくれている。もう、戦う必要はないのではないか?」
議論は、次第に激しさを増していく。
和を選ぶべきだとする声。
いや、断じて許せぬという声。
温羅は、それらすべてを受け止めるように聞いていた。
そして、繰り返し語る。
「これは、我ら一族と吉備国の未来のための決断だ」
長い討議の中、皆が納得できるようひたすら説得を続ける温羅。
どれほどの時が流れただろうか。
灯火が揺れ、城内の空気が重く沈んだ頃。
突然、王丹が立ち上がった。
「……、兄者」
その声に、場が静まり返る。
「我は、従えぬ」
それに呼応するように、多くの兵たちが立ち上がった。
倒れた同族の顔が、脳裏をよぎる。
雨に濡れ、泥に沈んだ仲間たち。
王丹は、その怒りを何とか抑え込んだ。
彼の握りしめた拳は微かに震え、爪が食い込み血が滲んでいる。
「兄者が言うことは、あくまで理想であって実現は出来ぬ」
歯を食いしばり、言葉を絞り出す。
「我らは、今までのやり方で一族の平和を守っていく。そして、我らはやはりこの怒りを鎮めることがどうしても出来ぬ」
深く頭を下げる。
「これだけは……、兄者の命であっても、聞くことはできぬ。すまぬ」
温羅は、その言葉を否定しなかった。
ただ、少し寂しげな笑みを浮かべる。
「……、そうか」
ゆっくりと、頷く。
「お主たちの主張もよくわかる。そう簡単に割り切れるものでないことは重々わかっておった。我にお主たちをとめることは出来まいよ」
そして、はっきりと告げた。
「だが、我らは大和人と共にこの理想に向かい動く。こちらもこれは譲れぬぞ」
王丹たちは頷き、その場を後にする。
背を向ける弟。
それを見送る兄。
重い沈黙が残された。
温羅は大きく息を吐き、しばし瞼を閉じた。
そして、残った者たちと、これからの道について再び語り始める。
その夜、鬼ノ城には二つの決意が生まれた。
同じ未来を願いながら、交わることのない二つの道。
温羅と王丹。
二人はそれぞれの想いを胸に抱き、歩み出す。
その背中は、どこか寂しげで、まるで心の奥で、静かに泣いているかのようであった。




