第十話 いざ、吉備穴海へ 稚武彦編
伊佐勢理毘古軍と別れ、南の経路で吉備穴海へ向かう稚武彦軍。
先頭を行くのは、この地に明るい夜目山主。その後に稚武彦、後方には夜目山主の子・夜目麿命が配された。
夜目山主と夜目麿は、闇を梳いたかのような癖のある長髪を後ろで一つに束ねている。瞳までもが闇色で、昼は細く閉じられ、夜には獣のように大きく見開き、ぎょろっとしている。その眼差しは、光よりも影に親しんだ者のそれだった。
父子であるだけに面立ちもよく似ている。今は二人とも、真昼の太陽を煩わしそうに避け、わずかに顔を伏せていた。
稚武彦は、楽楽森彦から渡された地図を頼りに進む。
犬飼軍の軍犬たちは敏感に周囲を探り、足取りは確かだ。行軍は驚くほど滞りなく進んでいた。
進路は平野を抜ける道が多く、折に触れて西の方角に海が姿を現す。
海岸近くでは、陽光を受けた海面がきらきらと瞬き、潮の香を含んだ風が隊列をなでるように吹き抜けていった。
こちらの経路には軍犬除けもなく、待ち伏せの気配もない。
晴れた暖かな日に穏やかな行軍が続いた。
あまりに穏やかな行軍に、稚武彦の胸に小さな棘のような不安が芽生える。
(温羅軍は……すべて兄上の方へ集結しているのではないか)
「夜目山主殿、もしやこちらには温羅軍はいないのではないですか? 兄上たちはご無事でしょうか?」
夜目山主はしばし黙し、低い声で答えた。
「そうであるなぁ。しかし大将方の見立てでは、少数であれば十分に対処できるはず。わしらはわしらの役目に専心すべきであろうと思う。この先に何が待つか、誰にも知れぬ」
稚武彦は静かに頷き、不安を胸の奥へ押し戻した。
迂回している分、中々目的地には辿り着かないが、戦闘もなく着実に前へと歩を進めていく。
◇
太陽が天の頂にさしかかった頃、一行は足守川へ辿り着いた。さらに北へと進み、一刻ほど歩いた先で、川沿いにひとつの郷が姿を現す。
それは足守川中流右岸にあった。
楽楽森彦の地図には「阿曽郷」と記されており、そこに立ち寄るよう指示が添えられている。
「あちらに橋がありますね。あそこから向こう側へ渡りましょう」
「うむ。その奥に見えるのが阿曽郷だ」
橋を渡り切ると、道の両脇に広がる田畑が一斉に視界へ流れ込んできた。
水を満たした田は空を映し、畦道には人の手が行き届いた跡が見える。これほどの広さと整いようは、吉備の中でも屈指の豊かさであろう。
だが、その穏やかな風景とは裏腹に、郷へ近づくにつれて空気が重く沈んでいった。
「待ちな! ここから先は通せねぇ」
険しい顔つきの男衆が、稚武彦たちの前に立ちはだかった。
向けられる視線は鋭く、露骨な敵意を帯びている。
吉備国に入って以来、これほど明確な拒絶を受けたことはなかった。
両者の間を、生温い風が吹き抜ける。
稚武彦は一歩前へ出ると、腰の刀を外し、ゆっくりと地に置いた。
「私は、大和国より派遣されて参りました、稚武彦命と申します。私たちに争う意思はありません。楽楽森彦殿にこの村へ立ち寄るよう言われて来たのです。どうか話を聞かせて頂けないでしょうか?」
「楽楽森彦、だと……?」
男衆の間にざわめきが走る。
やがて、男衆の奥から一人の男が出てくる。
他の者たちに若頭と呼ばれるその男は、周囲を制してから稚武彦を見据えた。
「本当に、楽楽森彦がここへ行けといったのか?」
稚武彦は頷き、その男に地図を差し出す。
若頭は字と猿印を確かめ、短く息を吐いた。
「………、確かに本人のものだ。いいだろう、お前たちの言い分を信じてやる。取り敢えず、ここでは何だ、郷へ来てくれ」
若頭はそう言うと、一人の男を郷に走らせた。
稚武彦は、郷の者たちを刺激しないように大和兵をその場に待機させる。
そして、夜目麿と数人の家臣を伴い、若頭に案内され郷へと向かった。
◇
阿曽郷は足守川に寄り添うように築かれていた。
水車が幾つも並び、回るたびに澄んだ水音を響かせている。
郷人たちの視線は冷たかった。
訝しみ、ある者は怒りを隠そうともせず、稚武彦たちを睨む。
理由がわからぬまま、胸の内に重たいものが溜まっていく。
「あんたたちには、わからないだろうねぇ」
案内役の若頭が、低く言った。
「まぁ、その理由を俺から説明することはできねぇ。それについては、郷長と阿曽媛姉弟から話を聞いてくれ」
辿り着いたのは、郷の中心に据えられた大きな屋敷だった。
庭には桃の木をはじめとした果樹が植えられ、小さな畑には季節の野菜が実っている。生活の息遣いが、そのまま形になったような場所だった。
玄関には、一人の老人が立っていた。
齢八十を超えているだろうか。
頭の毛はすっかり白くなり、長い顎髭も真っ白だ。
顔中に刻まれた深い皺が、積み重ねた歳月を雄弁に物語っている。
「ようこそ参らましたなぁ。わしが阿曽郷の長じゃ。立ち話もなんじゃ、どうぞ中へ入ってくだされ」
稚武彦たちは会釈し、郷長に続き屋敷へと入った。
長い廊下を通り抜け客間へと案内される。
「準備がありますので、おかけになってこちらで暫しお待ちくだされ」
そう言い残し、郷長は部屋を出ていってしまう。
残された稚武彦たちは、他にすることもないのでその場に座る。
すると、い草の良い香りが鼻腔をくすぐる。
上を見上げると屋根や剥き出しの梁は黒く、この屋敷の時代を感じさせた。
暫くして、郷長が一人の女性と青年を連れて戻ってきた。
「お待たせしましたのじゃ。これらは、この郷の祝の子である阿曽媛と阿曽男ですじゃ」
紹介された二人は、「はじめまして」と軽く会釈をする。対する稚武彦たちも会釈を返した。
阿曽媛は、二十代後半くらいであろうか。
長い髪を頭の上に纏めている。丸い目とふっくらした唇。
彼女は、穏やかな笑みを湛えている。
阿曽男は、十八くらいにみえる。
姉と同じ丸い目は、その瞳の奥に優しい輝きを秘めていた。
稚武彦は、胸に溜まっていた疑問を一気に吐き出した。
「郷長。私たちは、楽楽森彦殿に言われこの郷を訪れました。この郷にはなにがあるのでしょう? 楽楽森彦殿の真意とは? そして、郷の者たちのあの視線にはどんな意味があるのですか?」
郷長は、瞼を閉じ、首を捻る。
「どこから話したものかのう。まず、あなた方に対する郷の者の敵意について端的に伝えますじゃ。この郷は、温羅と共生しているのじゃ。彼らには、これまで幾度となく助けてもらい、生活も豊かにしてもらった。彼らなくして今の阿曽郷はなかったのじゃよ」
「なんですと! 温羅と共生している…?」
その言葉に、稚武彦をはじめ大和人たちは息を呑んだ。
今まで、民を苦しめているのが温羅一族であると信じ、平和を取り戻すために温羅軍と戦ってきたのだ。
しかし、温羅と阿曽の民たちは平和に暮らしているという。
これは、一体どういうことなのか。
「落ち着きなされ。順を追って説明しますのじゃ」
郷長は諭すように言う。
「まず、温羅一族がどこからやってきたのかは、わしらにもわからぬのじゃ。本人たちもその事については一切教えてはくれぬ。朝鮮の方より海を渡ってきたという話も聞いたことがあるが定かではない」
「彼らには最初、わしらの言葉が通じなんだ。だから、吉備国の者たちに怖がられ、追いやられることで新山まで辿りつき拠点を構えたのじゃ。そして、彼らなりに新しい生活を始めたのじゃ」
稚武彦は頷きながら続きを促す。
「ある時、大和国への貢物を運ぶ人が通りかかるところに遭遇した温羅が、貢物の行先を聞いたのじゃが、怖い鬼に襲われたと思いその者は逃げ出したそうじゃ。その勘違いが鬼の噂となり、噂に尾鰭がつき、温羅を悪者にしてしまった」
「そんなことが…、ただの勘違いだなんて…」
悲しい瞳で郷長はさらに続ける。
「鬼の噂が広まり、わしらも温羅は鬼だ、怖いものだと思っとった。しかし、ある日その考えを改めさせられる事件が起きたのじゃ。阿曽男や、話しておやり」
「はい!」
稚武彦たちは、阿曽男の顔を見据える。
「温羅は私の命の恩人なのです」
「命の恩人? どういうことでしょう?」
稚武彦の問いに頷き答える阿曽男。
「あれは、私がまだ子供の頃のことです。その日は、山に採集に出かけたのですが、その道中で熊に襲われたのです。恐怖のあまり腰が抜けて動けず、死を覚悟しました。その時、どこからともなく温羅が現れ熊を退治してくれたのです。そして、彼は私に優しく微笑み、抱きかかえて郷の近くまで送ってくれたのです」
「そのようなことがあったのですか」
「そうなのです。そして、私はそれ以来、たびたび温羅の元を訪ねるようになりました。彼は快く迎え入れてくれました。そして、お土産に郷のものを持って行くと、お返しにと温羅たちがつくった鉄製の鍬や鋤、銛や錘などの農具や漁具をくれたのです」
稚武彦は黙したまま続きを促す。
「私はその道具を郷の皆に配ってまわりました。最初の内は、皆も鬼がつくった物は気味が悪いと言い、使ってはくれませんでした。しかし、試しに使ってみると温羅のつくった道具はとても優れた物ばかりで作業が格段に捗ったのです。そうして、温羅は少しずつこの郷に受け入れられていきました」
語られる一つ一つが、稚武彦の信じてきた価値観を静かに揺さぶる。
「そういうことだったのですね。温羅はあなたの命の恩人であり、この郷の生活を豊かにしてくれた恩人でもある。だから、郷の者たちは温羅と戦う私たちに対してあれだけの敵意を向けられたのですね。ごもっともな理由ですね」
しかし、話は終わらなかった。
阿曽媛がさらなる理由を語り出す。
「待ってください。話にはまだ続きがあるのです」
「まだ、他にも理由があるというのですか?」
再び驚く稚武彦は、ぜひ聞かせて欲しいと請願した。
阿曽媛は喜んで話してくれた。
「私は、弟が温羅にお世話になり始めてから、ともに鬼ノ城へ通うようになりました。私はきび団子をつくり彼に差入れをするようになり、彼はそれを一番の好物になるほどとても気に入ってくれました。そして、何度も通ううちにとても親しくなっていったのです」
相槌をうちながら話を聞く稚武彦。
「長い年月を重ね、私と温羅の間には深い愛が芽生えました」
「なんと!」
阿曽媛は、大きく頷く阿曽媛。
「私は、一度も郷に来たことがなかった温羅を郷に招きました。彼は、私たちが畏れているのではないかと遠慮していました。しかし、その頃には、温羅は私たちにとって恩人だったので皆喜んで歓待しました。そして、私たちはこの郷で夫婦の誓いをたてたのです」
その言葉は、雷のように稚武彦の胸を打った。
「あなたと温羅が夫婦! この郷と温羅は姻戚関係にあるということか! 恩人でもあり、真に家族なのですね。本当の意味で得心がいきました」
稚武彦は、得心がいったが、今後の戦をどうしていいかわからなくなった。
これを伊佐勢理毘古に伝えねばならないが、伝えれば戦どころではなくなる。
天皇の勅はどうする?
倭国大乱は?
しかし、この郷の平穏を守ることも伊佐勢理毘古の理念に入っているはずだ。
(これが、楽楽森彦殿の隠していた真実か…確かにこれは…)
夜目麿は言葉を発さず、ずっと瞼を閉じて下を向いている。
「夜目麿殿。まさか、あなたたちは知っていたのですか?」
「あぁ。知っていた。吉備国の豪族の間では有名な話だ。地域が違えば知らぬものも多いかも知れぬが、この周辺にいた私たち親子や、情報通の楽楽森彦はもちろん知っていたし、彼はこの郷にも度々訪れていたはずだ。だから、温羅を守っていたのであろう。真に悪いのは、鬼の噂に便乗してやりたい放題やっていた離れた地域の豪族と賊たちだ」
稚武彦は、衝撃の事実で混乱した。
これは、稚武彦一人で処理できる範囲を完全に越えている。
すぐに合流地点へ急ぐ必要ができた。
稚武彦は、その旨と話の礼を郷長と阿曽媛姉弟に伝える。
そして、必ず温羅の真実を伊佐勢理毘古に知らせる事を約束し、郷を後にした。
◇
稚武彦たちは急いで待機していた大和国軍と合流、進軍を開始しようとしたその時。
一陣の風が吹き、彼らの頭上に黒い影が舞う。
「急報! 合流地点変更。急ぎこの地図に従い向かってください。詳細は移動しながら話します」
王丹の脅威と、伊佐勢理毘古軍の危機が留玉媛により伝えられた。
報を聞き、伊佐勢理毘古の元へ急ぐ稚武彦。
今まさに、大和国軍にとてつもなく大きな運命の唸りが押し寄せていたのである。




