明日を夢見る気持ちなんて、もうずっと忘れてたよ
「何よ、思ったより普通ね?」
「そりゃ学生寮の一室なんだから、普通に決まってんだろ」
部屋に入るなり言い放ったリナの言葉に、俺は何とも言えない表情で答える。六畳ほどの個室は端にベッド、その正面に勉強机と椅子が一脚、他には小さめの衣装ダンスがあるくらいのシンプルな作りであり、椅子の背に脱いだシャツがそのまま掛かってるとか、ベッドの上に本が置かれていたりはするが、実際それほど散らかってはいない……と思う。あくまで俺基準ではあるけども。
「むぅ、アタシはもっとこう、ゴミとかがバーッと散乱してる感じかと思ったんだけどなぁ」
「何でだよ!? え、俺そこまでだらしない印象か!?」
「そうじゃないけど……ほら、アンタの前世? ってブラック企業勤めだったんでしょ? そういう人って家に帰って掃除とかする余裕がないから、シンクに洗ってない食器が大量に詰め込まれてるとか、ゴミ袋が部屋中に積み上げられてるとか、洗濯物が散乱してるとか、そういう生活してたんじゃないかなーって。
こっちに来てからは余裕のある生活してるんでしょうけど、たかだか一ヶ月や二ヶ月で暮らし方は変わらないだろうし」
「あー、なるほど……フッ、甘いなリナ」
その言葉にある種の納得はしたものの、社畜に対するリナの解像度の低さに、俺は思わずニヤリと笑ってしまう。
「いいかリナ、本物の社畜はそんな生活はしない。何故ならそもそも家に帰ること自体が珍しいし、帰ってきたら寝るだけだからだ。飯は家では食わず牛丼とかの外食で済ますから食器の洗い物なんて出ねーし、掃除はしねーけど普段歩く場所には埃が溜まらねーから、事実上ゴミも出ないのと同じだ。
洗濯物は基本ドラム式洗濯機に直接ぶち込んで、ある程度溜まったらボタン一つで洗濯&乾燥。で、乾いたらすぐ側に置いてる編み編みのプラスチック籠にそのまま突っ込めば終了だ。アイロンなんてかけねーから大体全部シワッシワだけど、着られりゃそれでいいしな。
わかるか? 社畜は家にいねーし、家で生活してねーし、身だしなみを気にする余裕なんてねーから、散らかしようがねーんだよ」
家にいないのだから、汚しようがない。そう言って胸を張る俺に、リナが何故か悲しげな視線を向けてきた。
「何か今、猛烈にアンタのことを抱きしめてあげたくなってきたわ」
「やめろよそういうの……違うから、そういうんじゃねーから」
「はいはい。それじゃあんまり時間もないし、早速勉強しましょ」
「おう! よろしく頼むぜ、リナ先生?」
「ふふーん、まっかせなさい!」
俺の言葉に、今度はリナが得意げな顔をして胸を反らす。テスト前ということで授業が終わったのが午後三時、それから自習室を三時間使ったので、今は六時を少し過ぎたところ。寮の門限は午後八時なので、もう二時間も余裕はない。
だからこそこの機会を、リナの好意を無駄にしないように、俺は一層集中して教科書の内容を覚えていく。いくのだが……
「ふーっ、少し休憩しましょっか」
「え? 俺はまだ――」
「自覚ないの? 大分覚え方が雑になってるわよ?」
「そう、か?」
言われて、俺は手元のノートに視線を落とす。すると確かに、アホみたいに同じ単語を連続して書いていたのに気づいた。
「集中が切れて頭が回らなくなった分、力業で無理矢理詰め込もうとしたんでしょ。仕事ならルーチンワークでいけるのかも知れないけど、新しいことを覚えるのにそれは逆効果よ?
テストで点を取るだけならしのげるでしょうけど、どうせならちゃんと覚えなさい。せっかくの勉強を使い捨てにするなんて、そっちの方が勿体ないでしょ」
「ぐぬっ……」
完全に正しく聞こえるリナの台詞に、俺は言葉を詰まらせる。確かにテストの点を取るだけの一夜漬けは、ある意味勉強のために使った時間や労力を無駄にするってことだからなぁ。
「…………わかった、少し休もう」
教えてもらう立場なのに、「お前の教えなんてその場しのぎにするだけだ」と宣言するのはあまりにも不義理過ぎる。ギュッと目を閉じ目頭を押さえてグリグリすると何とも言えない気持ちよさがあり、思った以上に疲れていたのだということを自覚させられた。
「それでよし! あー、お腹空いたけど、流石にここじゃ食べられないわよね?」
「そうだな、下の食堂に行けば何かあると思うけど……持ってくるか?」
「ううん、いい。流石にガッツリ食事までしちゃうと時間が掛かりすぎるし、あと食べたら眠くなっちゃうんじゃない? この体なら血糖値スパイクなんて何のそのだろうけど」
「ハハハ、そうだな」
日本にいた頃の俺の体は、慢性の睡眠不足と偏った食生活、酒とエナドリの過剰摂取などなどで、相当にボロボロだったと思う。まだギリギリ二〇代だったからどうにでもなったが、業界には四〇代くらいでぽっくり死ぬ人は珍しくなかったしな。
だが今の俺の体は、健康な一五歳の少年のものだ。今でこそテスト勉強で部屋に籠もっているが、普段は外を駆け回っているので運動不足はあり得ないし、夜更かしするような娯楽もないので、夜はぐっすり眠っている。これなら多少ドカ食いしたところで問題ない……というか、消費カロリーを考えればむしろそのくらいで丁度いいんじゃないだろうか?
そしてそれは、リナも同じだろう。結局のところ、食った以上に動けば太らない。この世界で太るなら、相当に怠惰な生活を送らないといけないだろうからな。
「……ねえシュヤク、気づいてる?」
と、そんなことを考えながらボーッとしていた俺に、ふとリナがそう声をかけてくる。俺がそちらに顔を向けるも、リナは天井を見つめたまま言葉を続ける。
「この世界って、私達の知ってる世界とズレてるわよね?」
「そりゃまあ、俺達は別に原作のシナリオを忠実に再現しようって考えてるわけじゃねーし、ある程度は仕方ねーだろ」
俺はこの世界が終わらないように魔王を倒すつもりではいるが、そのためにゲームのシナリオをそのままなぞるつもりはない。あからさまな悲劇なら変えたいと思っているし、ゲームではできなかったことをやったりもしている。
それにリナだって、そもそも主人公とヒロイン達が恋愛関係になるのを阻むため、初手から俺とロネットの出会いを邪魔したりしている。なので多少の違いがでるのは当然だと思うのだが、リナは小さく首を横に振る。
「ううん、違うの。それもあるけど……もっと根本的なところで違うっていうか……ほら、この前のクロちゃんの話」
「クロエの?」
「そう。アンタも知ってるだろうけど、ゲームではクロちゃんの両親は亡くなってるの。で、残った兄弟姉妹がそれぞれバラバラの家に引き取られてて、クロちゃんもまた親戚の家に引き取られる。
その親戚の人達はいい人だから、クロちゃんは血の繋がらない親兄弟と仲良く暮らしていくわけだけど、でもやっぱり本物の兄弟と一緒に暮らしたいとも思ってて……だからクロちゃんの夢は、『もう一度家族で集まって幸せに暮らすこと』だった」
「そうだな。それはつまり……」
それは俺の知っているクロエの物語。だがそうじゃないことを、俺は先日クロエ本人から聞かされた。その時思い至った推論の答え合わせを、今リナが口にする。
「多分だけど、ゲームの世界ではクロちゃんの両親は薬を飲まなかったんだよ。でも今のクロちゃんが予想した通り、生まれたばっかりとか一歳とかじゃ薬を飲んでも助からなかったんだ。
薬を飲むか飲まないか……言っちゃえばそれだけだけど、それって『些細な違い』でいいの? 実はこの世界って、アタシ達が何かするより前から、もうゲームとは違う世界に変わってきてるんじゃない? だとしたら……」
「不安か?」
未来を知っているというアドバンテージが、刻一刻と失われていっているかも知れない。ゲームが現実になって救えないものを救えるようになったと思ったのに、逆にその思い込みにより、救えたはずのものが救えなくなるかも知れない。
先が見えないという、当たり前の不安。そう問うた俺の言葉を、しかしリナは笑顔で否定する。
「まさか! アタシの知らない『プロエタ』の世界を知れるかと思うと、ワクワクしちゃうわ!」
「……そっか。リナはスゲーなぁ」
「何よ、褒めたって何も出ないわよ?」
「ははははは」
こっちを向いて言うリナに、笑って誤魔化す。不安の代わりに期待や希望を生み出すのは、本当に凄いことだと思うぜ? ま、言わねーけどな。
「……さて、そろそろ勉強再開しようぜ。これ以上雑談してたら、それだけで門限になっちまいそうだし」
「む、そうね。何か誤魔化された気がするけど、今は乗ってあげる。それじゃ――」
気を取り直したリナによって、俺の勉強が再開する。さっきまでより少しだけ厳しくなった気がするが……望むところだ、ちゃんと覚えて満点を取ってやるぜ!





