勉強が足りない……少しだけ足りない……っ!
「さて、今日はこのくらいだな」
「フニャー…………」
勉強を開始してから、三時間ほど。そろそろ自習室の使用時間が終わりということもあり、アリサがそう言って教科書を畳む。その隣では頭から煙を噴いてそうなクロエが机に突っ伏して尻尾をフリフリしているのが可愛くも痛ましい。
「ロネット、サバクッキー……サバクッキーがもう一枚欲しいニャ……」
「いいですけど、疲れているなら普通の甘いクッキーの方がいいんじゃないですか?」
「そんなことないニャ。サバはありとあらゆるものの頂点なのニャ……」
「そこまでですか!? まあいいんですけど……はい、どうぞ」
「やったニャー!」
ロネットから個包装されたサバクッキーを渡され、クロエが歓喜の声をあげる。
ちなみにだが、サバクッキーは普通に美味かった。ほら、醤油とか味噌の煎餅って美味いだろ? クッキーは甘い物、という固定観念を捨て去れば、香ばしく焼けた鯖の風味と小麦粉という炭水化物の申し子が合うのは至極当然のことなのだ。
ただ一つ気になることがあるとすれば……
「なあロネット。クッキーの材料になるサバって、どうやって手に入れてるんだ?」
プロエタというゲームにおいて、魔物のドロップアイテムとしてのサバ缶は存在するものの、鯖という魚そのものは存在しない。いやまあ、サバ缶があるんだからどっかにはいることになってるんだろうが、少なくともゲーム内では手に入れる方法がないのだ。
加えて、ここは大陸内部……つまり海はかなり遠い。もしどっかの海に鯖が生息しているのだとしても、それを安定して大量に仕入れるのはかなりの手間のはず。一体どうやっているのかと不思議に思った俺に、ロネットがニッコリと笑顔を浮かべて答えてくれる。
「それは勿論……企業秘密です」
「お、おぅ。そっか」
その瞳の奥に見てはいけない光が見えた気がしたので、俺はこの件に関して二度と追求しないことを固く誓った。うんうん、大企業の秘密とか、探ったら駄目なやつだよな。触らぬ神に祟りなしだ。
「では皆、明日も同じ部屋を借りて勉強するということでいいか?」
「いいんじゃない? テストまであと三日だし、流石に今くらいはテスト勉強に専念してもいいと思うわ」
「そうだな。じゃあダンジョン探索とかは、テスト明けに改めてやるってことで」
「うぅぅ、仕方ないニャ。今日の頑張りが明日のサバ缶に繋がるニャ……」
「ふふ、またクッキーを持ってきますから、頑張りましょうね」
そんな感じで和やかに会話を交わしつつ、本日は解散。皆それぞれの部屋へと戻っていくなか、ふとリナが俺に声をかけてきた。
「ねえシュヤク、アンタ大丈夫そうなの?」
「うん? あー……まあ何とかするよ」
正直なところ、本日の成果はあまり芳しくない。気になることはできたのでとっかかりは生まれたと思うんだが、ここは図書館ではないので持ち込んだ教科書以外の資料はないし、他の皆もそれぞれ勉強しているわけだから、今回のテスト範囲に関係ないことは聞きづらい。
なので結局は丸暗記しかなく、纏めてもらった要点を何度もノートに書いて覚えるというのをやっていたのだが、俺なりに感じた手応えは「やらないよりはまし」程度に収まっている。
するとそんな俺の反応に、リナが苦笑しながら言葉を続けた。
「仕方ないわねぇ。まだ時間あるし、もう少しアタシが見てあげましょうか?」
「え? この部屋借りられる時間はもう終わりだろ? だから解散したんだし」
「そうだけどそうじゃなくて、夜まではまだ時間があるって話よ。アタシがアンタの部屋にいって、勉強教えてあげる」
「へ!? リナが俺の部屋に来るのか!?」
驚く俺に、リナがニヤリと笑みを浮かべる。
「そうよ? ああ、平気よ。全力でエロ本を探すくらいしかしないから! あ、それともまさか、アンタがアタシの部屋に来たかったの? うっわ、最低! アンタみたいな下心も下半身も丸出しの男を女子寮に入れるわけないじゃない! えっち! スケベ! ハーレム系主人公!」
「っ…………ふぅ、ツッコミが渋滞し過ぎて逆に何も言えないレベルだから、お前にはあとで、前にクロエが食べてた失敗デザートを完食してもらうとして……」
「ちょっ!? あれは人類には早すぎるでしょ!? 生クリームに魚の頭って、スターゲイジーパイどころじゃないわよ!?」
「俺の奢りだから心配するな。それはそれとして、男子寮に女生徒を入れるのだって駄目っていうか、無理だろ?」
「絶対食べないからね! もし注文したら、ちゃんとアンタが完食しなさいよ! で、テスト期間中なら申請すれば異性の寮っていうか、部屋に入れるわよ? 勿論通常の門限の時間には出なきゃだけど」
「そうなのか? へー」
その事実は、俺にとって初耳だった。いや、そういえばクラスの女子……ミリカに勉強を誘われてた気がするが、仲間とやるからって断ったんだったか。なるほど、あれは勉強というより、部屋へのお招きだったわけか……断っといてよかったぜ。
「ということだから、それじゃ早速、シュヤクの部屋へレッツゴー!」
「え、マジで来んの?」
「行くわよ。だって思ったほど勉強進んでないんでしょ?」
「ぐっ……正直助かるから断りづらい……」
「人の好意を断るんじゃないわよ!」
「……本音は?」
「アンタが落第したらオーレリアちゃんと仲良くなれなくなっちゃうかもって言ってるでしょ!?」
「アッハイ。そうだったな……はぁ、仕方ねーか」
「自分で言うのも何だけど、クラスメイトの女の子を自室に招くのにそのテンションって、アンタ相変わらずこじらせてるわね……」
「褒め言葉と受け取っとくよ」
呆れと感心の混じったリナの台詞に小さく肩をすくめてから、俺はリナを引き連れ男子寮へと戻っていった。リナの言葉通り入寮の手続きはごく簡単にすみ、俺の部屋の前まできたところで、リナが徐にその口を開く。
「ここがあの男のハウスね!」
「いや、俺の部屋だけど……まあまあ散らかってるけど、リナだからいいよな?」
「勿論! むしろそっちの方がエロ本の探し甲斐があるってもんよ!」
「本気で探すつもりだったのかよ!? 俺はともかく、他の男にそれやったら血の雨が降るからな? マジでやめろよ?」
「アンタ以外にそんなことするわけないじゃない! まあそれ以前にボーイフレンドがいらないけど」
「ん? そうなのか?」
首を傾げる俺に、リナが何処か悟ったような遠い目をして苦笑する。
「推し活してるとね、彼氏とか面倒なのよ。いい? 時間もお金も有限なの! こっちはお洒落なディナーに行く時間でアニメを見たいし、デートの費用でガチャを回したいし、ブランド物を買う費用で等身大抱き枕カバーが欲しいのよ!」
「お前も大概、残念な奴だったんだなぁ」
「見解の違いね! アタシの人生はアタシのものなんだから、アタシが一番幸せになるために全力を尽くしただけよ。アンタは違うの?」
「俺は…………」
言われて、ふと考え込む。あの頃の俺は、一体何の為に生きていたのだろうか? 寿命が削れているのが実感できる程の激務に耐え、帰ればヘトヘトで眠るだけ。
食事はインスタントやコンビニのパンがメインだったし、そこまでして得た報酬はまず税金で半分持ってかれ、残りは滅多に返らない家の家賃や地味に高いエナドリの購入費用、それに買うだけ買って遊べないゲーム、読めない本、見られないアニメ……
(……俺は、何の為に生きてたんだろうな?)
生きる目標なんてなかった。自分の為に生きてすらいなかった。明日が来るのが恐ろしかった。このまま倒れて死んでしまいたいとすら思っていた。
金はあった。会社内での地位と責任もあった。両親もまだ元気に生きていたし、気の合う同僚は友人と言っても差し支えなかった。それだけ色々あったはずなのに……俺は明日の希望すら持っていなかったんだ。
だとしたら俺は――
「シュヤク? どうしたの?」
「っ!? いや、何でもない。ちょっとボーッとしてただけだ」
「そう? ……調子が悪いなら、勉強は明日にする?」
心配そうなリナの顔に、俺は思わず笑みをこぼす。底抜けに自由で自分勝手で、それでいてこうして他人を心配できるリナの存在が、何とも言えず微笑ましい。
「馬鹿言え、俺の駄目さ加減を舐めるなよ? あと三日しかねーのに、先延ばしになんてしてられるかっての」
「へー、ちゃんと自覚はあるのね。ならほら、早く早く!」
「何がそんなに楽しみなんだよ……」
ワクワクと体を揺らすリナに急かされ、俺は自室の扉を開いた。





