ありがとな
「明!? アンタいきなり何してんのよ!?」
薄い水の膜の向こう側から聞こえるような、リナのくぐもった声が聞こえた気がしたが、今の俺にはそれを気にする余裕はない。左目に突っ込んだ右手の人差し指と中指を、グチュグチュと探るように動かす。
ちなみに、猛烈な不快感はあれど痛みは一切ない。まるで麻酔でもされているかのように、苦痛は全てHPが吸収してしまっているのだ。
だが、それすら気に入らない。俺は感情にまかせて指を動かし、同時に左目に力を集中させる。
指を突っ込んだ時点で、通常の視界は失われていた。だというのにその目には、俺のステータスがはっきりと映っている。
いや、正確には違う。そこに書かれていたのはHPや能力値ではなく、あの日俺の中に入ってきた機能の羅列だ。
(77 69 6E 64 6F 77 2E 65 78 65......window.exe これだな。あとは……69 6E 76 65 6E 74 6F 72 79 2E 65 78 65......inventory.exe こいつもだ)
飛び交う一六進数が文字列へと再変換され、目的のものを見つけた俺は指先に力を込める。そのまま引き抜こうとするが、まるでゴムかなにかに引っかかっているように強い抵抗を感じる。
(73 74 61 74 75 73 2E 65 78 65......status.exe これか!)
「ウォォォォォォォォ!!!」
全力で腕を引く。物理的にも精神的にも、何かがブチブチと千切れていく。
怖い。取り返しのつかないことをしているという意識が、自分の一部が失われるという感覚が、途轍もなく怖い。
でも、それが何だ。仲間を、人を単なるゲームキャラとしか見られなくなって、友人に……相棒にあんなクソみたいな台詞を叩きつけて泣かせるようなクソ中のクソに成り果てるくらいなら……
「主人公の力なんて、いらねーんだよぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!!」
ブチッ!
――Uninstall complete
――Good bye Player and......Good Morning Prayer! XD
「うっ! ぐっ、あぁぁぁぁぁぁぁぁ……っ!」
「明!」
「リナ……えりく、しーるを……」
「これ!」
HPの膜が引きちぎれた瞬間、俺の目に激痛が走った。震える手でリナから回復薬を受け取ると、それを自分でえぐった左目にバシャリとかける。だが……
「嘘、治らない!? 何で!?」
「ははは、やっぱりこうなったか……」
左目に、視力は戻らなかった。リナの反応からすると、血は止まっても眼球は復元されなかったんだろう。
だが、そうなる予感はしていた。何せ俺が捨てたのは、俺という存在を構成する一部だからな。ゲームのアイテムでしかない回復薬が、システムを復元できるはずがないのだ。それがいけるなら「使用するとバグが全部消えます」なんてアイテムを作ればデバッガーいらずにできちまうしな。
「ふーっ…………」
ようやく頭がスッキリして、俺は静かに顔を横に向ける。するとそこではぺたんと女の子座りをしたリナが、大粒の涙をこぼしていた。
「うっ……ひっく……何で? 何でそんなことするの? アタシのこと、そんなに嫌いだったの? ならもう、アタシ二度とアンタの前に来ないから……」
「あー、すまん! リナ、俺の話を聞いてくれ」
「無理……もう無理……」
「頼む! 俺が! 俺が全部悪かったから! あとでどんな罰でも受ける! だから今だけ……頼むから、俺の話を聞いてくれ」
リナからすれば、俺は謎の力に目覚めた瞬間クソ野郎に成り果て、問い詰める自分をぶん殴って追い出そうとし、そこから突然自分の目をえぐり出した紛う事なき狂人だ。
怖がるのも引くのもわかるし、二度と付き合いたいと思わないかも知れないが……それでもこの事実だけは、絶対に伝えなければならない。
故に俺はその場で土下座し、まだズキズキと痛む頭を深く下げる。心情的にはそのまま地面に頭を叩きつけたいくらいだが、それは俺の自己満足であり、リナを更に怖がらせるだけなので自重しておく。
そうしてしばらく頭を下げ続けると……前方の気配が動く。
「……いいわよ。聞いてあげる。でもそれ! その顔凄い怖いから、こっち向かないで!」
「お、おぅ。じゃあ話すけど……」
流石に土下座したままは話しづらいので、俺は壁際に腰を下ろすと、リナから顔を背けて話し始める。レッドドラゴンの吐く火に焼かれそうになったその時、いきなり時間が止まったみたいになったこと。それから変な選択肢が出て、それを選んでゲーム的な能力を得たこと。
だが、そこから自分の思考がおかしくなっていった事。それをおかしいと自覚すらできていなかったこと。だがふとしたきっかけでその違和感に気づき、自分を取り戻すためにあんなことをしたこと……無言で俺の隣に座るリナにその全てを話し終えると、俺は最後の言葉に続ける。
「これ、さ。俺が主人公だったからってだけじゃなく、転生者であるリナにも同じ事が起きる可能性があると思うんだよ。だからその時は……後悔しないように選んでくれ」
選ぶな、とは言わない。代償を覚悟の上なら、あれはこの上なく有用な力だというのは間違いないのだ。
だから後悔しない選択を。そう告げた俺に、リナがぼそっと問いかけてくる。
「……アンタは後悔してるの?」
「いや。あの時はあの力がなかったら、どうやっても生き延びられなかった。ゲーム補正で死なないのかも知れねーけど、そんなの試せるもんじゃねーしな。だから後悔はしてない。力を得たのも、そして捨てたのもな。
それにほら、考え方によっては、俺の左目一つであの窮地を脱出できたってことなら、お得な取引だっただろ? なら――」
「お得なわけないでしょ!」
あえて何でもないことのように言う俺に、リナが強い言葉を叩きつけてくる。
「そりゃ確かに、そうしなかったらみんな死んじゃってたのかも知れないけど……でも、それだって元はアタシのせいだし……それにアンタが急に変わっちゃって、大事なものを全部どうでもいいみたいに言って……
アタシがどれだけ心配したと思ってんのよ……っ!」
「……悪い」
「悪いじゃないわよ! そんな一言で済ませてなんてあげないからね!」
「なら、どうすりゃいい? 自分で考えろってのは勘弁してくれ」
――『何で私が怒ってると思ってるの!? そのくらいわかりなさいよ!』
頭の中に、また嫌な記憶が蘇る。思わず顔をしかめる俺に、リナが言葉を続ける。
「ハッ! アンタみたいな残念イケメンに、乙女心を察するなんて高度な要求しないわよ。なら、そうね……アンタ、アタシから剣を買い戻しなさい! 値段は一億エターでどう? 分割の出世払いオッケーよ」
「いちおく!? 随分でかく出たな」
「いいでしょそのくらい。それともあんな初期装備の剣に、一億の価値はないと思う?」
「……いや、確かにそのくらいはするべきだ。わかった、買い戻すよ」
特別ではない、だが尊い想いの籠もった剣だ。俺にとってはそのくらいの価値があって欲しいと願う品だ。
ならば迷うこともない。頷く俺に隣に座っていたリナが立ち上がり、俺の正面に立つ。まっすぐにこっちを見る目は、もう俺を怖がっていない。
「なら、はい。もう売ったりしちゃ駄目よ?」
「……ああ、約束する」
受け取った剣はずっしりと重く、それでいて手に馴染む。きっとこの剣を振ることはもうないんだろうが、それでも俺は、二本目の剣を腰に佩いた。
「フッフッフ、たったの一時間かそこらで、一億エター稼いだわ! 流石アタシ、昔からやり手ね!」
「知ってるかリナ? 金を貸すのは誰でもできるけど、取り立てるのは難しいんだぜ?」
「何よアンタ、まさか踏み倒す気!?」
「そんな気はねーけど、卒業までに一億か……」
「? 別に卒業してからでもいいわよ? 一生かかっても返しなさいよね!」
呟く俺に、リナがニヤリと笑って言う。それはつまり、こんな不甲斐ない俺と一生付き合うつもりがあるってことだ。何とも気の長い話だし、他の女に言われたら重くて逃げ出したくなるところだが……
「ハァ、善処するよ」
「そんな常套句を言ったって、大魔王とモブからは逃げられないからね! あ、借用書作らなきゃ! 紙、紙……アンタ紙持ってない?」
「持ってねーし、ペンだってねーぞ?」
「くっ! なら寮に帰ったら作ってくるから、ちゃんとサインしなさいよ!」
「へいへい、仰せのままに」
楽しげにあくどい笑みを浮かべるリナに、俺はただ幸せな気分で苦笑を浮かべるのだった。





