過去回想④:かくて物語は「結」末を迎える
その日を境に、俺と千尋の関係性は大きく変わった。会うことは勿論電話にすら出てもらえなくなったのだ。
唯一二人が繋がるのは、いつも使っていたSNSアプリのみ。そこでは簡単なメッセージ……おはようとかおやすみとか、仕事の愚痴とか町中で猫を見かけて可愛いとか、そんな他愛のないやりとりだけが繰り返されていく。
本来なら……俺が本当に千尋との関係を元に戻したいと望むなら、その時点で動くべきだった。必死に食い下がり、どうにかして昔のように自分を磨き上げ、土下座してでも直接会って許しを請う。そこまですれば、ひょっとしたら違う未来があったのかも知れない。
だが俺はそうしなかった。その理由は二つ……まず一つは、本当にどうしようもなく時間がなかったからだ。
何処かの世界には「無理というのは嘘吐きの言葉」などと言い放ったお偉い経営者様がいたようだが、俺はそいつに「じゃあお前、沖縄から北海道まで徒歩で移動しろよ。制限時間三〇分な」と言ってやりたい。
無理なのだ。何をどう頑張ろうが、できないことはできないのだ。今の俺が大学時代のように「自分磨き」をしようとしたら、一日が三〇時間くらいになるか、寝なくても生きられる機械の体を手に入れるかのどちらかが必要になる。
だがまだ現実の世界にいた俺には、どちらの望みも叶えられない。俺の意識とかとは関係なく物理的に不可能というのは、俺が動かない理由として順当であった。
そしてもう一つの理由は……今のこの距離感が、俺にとって意外にも心地よかったからだ。
死ぬほど忙しい俺にとって、千尋との電話やデートの時間は、必死に絞り出したものだった。だがそれがなくなったことで、俺の生活には少しだけ余裕ができた。
食事がゼリー飲料からカップラーメンになるとか、いつもより三〇分だけ長く寝られるとかその程度の違いでしかないが、本当に疲れ切っていた俺にとっては、それは恋人との時間よりずっとダイレクトに生きる活力を与えてくれるものだった。
なので結果として、俺はその変化を受け入れた。それにSNSだけとはいえ、繋がってさえいればまたいつかやり直せるだろうという、根拠のない楽観もあった。だからこそ俺はそんな関係を一年ほど続け……そして運命の日がやってくる。
「ふぅ、今日は早めに仕事が終わったなぁ……」
社会人二年目のとある日。クライアントが飛んだことで俺の担当していた案件が保留となり、入社して初めて午前中で仕事が終わった日曜日。うーんと背伸びをしてから、突然訪れた休日をどうしようかと考え……ふと俺の脳内に、千尋のことが浮かんだ。
「……これはチャンスか?」
少し前から、俺は社内での立ち回りを覚え、ちょっとずつ自分の時間を確保できるようになっていた。そのおかげでちょっとずつだが「自分磨き」の時間をとれるようになっており、これならあと一、二年もあればまた昔のように輝けるかもと考えていたのだが……
(店で服を買って、美容院……予約とれるか? あとは手土産も……)
無理矢理鍛え上げられた段取り力で、あれこれと計算しながらスマホを操作する。使う暇がないので貯金はかなりの額があり、俺はその足で近場のブランド店に駆け込んだ。
かつてほどの知識も情熱もないが、そこは店員さんに話を聞くことでカバー。ビシッと服装を整え、事情を説明したらカットを請け負ってくれたご無沙汰の美容師さんに背中を押され、駅前のデパ地下で千尋の好きだったティラミスを二つ購入したら、そのまま千尋の住んでいるマンションに向かう。
通常ならその前にアポを取るべきだが、当時の俺はそうしなかった。何故なら――
(ふふふ、いきなり行って今の俺の姿を見たら、千尋のやつビックリするだろうな)
サプライズ。かつての輝きを取り戻した俺を見せることで、あわよくば空いてしまった距離をもう一度縮めたい。そんな自分勝手で都合のいい妄想を浮かべて、俺は千尋の部屋の前に辿り着く。
ドアには鍵がかかっていたが、女の一人暮らしなら基本は施錠だ。以前にもらった合鍵を差し入れると、はたして扉は何の抵抗もなく開いた。整理整頓された室内にはしかし人影が無く、しかし寝室の方からかすかに物音が聞こえる。
(掃除でもしてるのか? まあいいや)
俺はそのまま上がり込むと、勢いよく寝室のドアを開ける。するとそこには全裸の見知らぬ男の上に跨がった、同じく全裸の千尋の姿があった。
「ちひ…………え?」
「明君!? どうしたの急に?」
「どうしたって……そりゃこっちの台詞だろ! そっちこそこれ、どういうことだよ!?」
あからさまに取り乱す俺に対し、千尋はちょっとビックリしただけで動揺した素振りはない。すると千尋の下に寝転んでいた男が、千尋に声をかけた。
「千尋、彼は?」
「ああ、それならお互い紹介するわね。彼は私の大学時代からの友人で、田中 明君よ。で、明君。この人は私の恋人で、沢井 賢治さん」
「ふむ、友人か……こんな格好で失礼。沢井だ。宜しく、田中君」
「いや……いやいや! 違うだろ! 何だよそれ!?」
千尋に乗っかられたまま挨拶してくるイケメンの男に、俺は大きな声で叫ぶ。何だこれ? 意味がわからない。だって……
「そいつが恋人ってどういうことだよ!? 恋人は俺だろ!?」
「と言うことらしいが、千尋?」
「あー……あのね明君。確かに貴方は恋人候補だったけど、あの日明君は、恋人になることどころか、候補であることすら諦めちゃったでしょ? だからあの日から貴方は私にとって、ただの友人なのよ」
「そんな――」
「恋人候補? 興味があるな、もっと詳しく教えてくれ」
愕然とする俺の前で、沢井が千尋にそう言う。すると千尋はニヤリと笑い、沢井にチュッと軽いキスをした。
「何、やきもち? 賢治さんも可愛いところあるのね。昔の明君ってね、そりゃあもう野暮ったくて、ちょっと見てられない感じだったの。だから色々教えてあげてたんだけど……そしたらある日、告白されたの。
でもそれって私からすると、近所の子供に告白されたみたいな感じだったのよ」
「子供?」
「そう。『大きくなったらお姉ちゃんの恋人になる!』って、必死に背伸びする子供。それが可愛くて、じゃあ本当に私に並ぶくらい大きくなれたら恋人になってあげるって言ったんだけど……」
そこで一旦言葉を切ると、千尋がチラリと俺の方を見る。
「彼、全然成長しなくって。ずっとずっと背伸びをし続けたままで……最後にはその背伸びすらやめちゃったの。だから今はもう、候補ですらない友人なのよ」
「なるほど、そういうことか……」
千尋の言葉に納得した沢井が、俺の方を見てくる。その値踏みするような視線に気圧され、俺は千尋の顔を見る。すると千尋は困ったような表情を浮かべ、今度は俺に声をかけてきた。
「ねえ、明君? 私と貴方は、やっぱり釣り合わなかったのよ。明君は明君と釣り合う女の子を恋人にした方がいいわよ?」
「釣り合わない……? 俺が、千尋と…………?」
「そうよ。その点賢治さんは凄いのよ? 私達と四つしか違わないのに、ベンチャー企業の社長さんなの! センスもいいし、それに……あんっ!?」
不意に、千尋が艶めかしい声をあげた。すぐに視線を俺から沢井の方に向ける。
「ちょっと賢治さん!? いきなり何するのよ!?」
「いやなに、この状態なのに俺以外の男とずっと話しているから、ちょっとね。俺がやきもち焼きだと言ったのは千尋だろう?」
「もーっ! そんな悪戯するなら、私だって容赦しないわよ? 悪い子にはお仕置きしちゃうんだから!」
「それは怖いな。なら俺も頑張って反撃するとしよう……かっ!」
「んふっ! くっ……私だって……っ!」
激しく腰を突き上げる沢井に、千尋が腰をくねらせながら覆い被さって唇を重ねる。その二人の意識に、もう俺は存在しない。
(ああ、そうか。俺はもう…………)
二人にとって、千尋にとって、俺はもう評価する価値もない「その他大勢」になったのだと、強く実感させられた。
きっともう、俺の声は届かない。きっともう、俺は個として認識すらされない。ああ、だからSNSだったのか。俺という個人じゃなく、そこに書かれた文章に反応してくれていただけなのか。
あの日と同じく、俺はトボトボと家に帰る。そうしてずっと持ったままだったティラミスを二つ平らげると、スマホに入っていたSNSアプリを消した。
それがこの物語の結末。何処にでもあるありきたりな……俺という男の最後の恋愛の物語だった。