過去回想③:しかし未来は「転」落を選び
その日を境に、俺の大学生活は一変した。そりゃそうだろう、今まで教師だった人がいきなり試験官になったのだ。しかもその採点基準はかなり辛口で、何より俺自身が高得点でなければ許せないのだから尚更だ。
これまでに教えられた知識を総動員し、自分でもファッション雑誌をチェックしたり如何にもイケてる感じの学生をチラ見したり、すっかり顔なじみになった美容院の店員に相談したりしながら、これだと思う服を着てデートに臨む。
その反応が「へー、今日はちょっと格好いいじゃない」とかだったら天にも昇りそうなくらい舞い上がったし、「あー」と残念そうな顔をされれば猛烈にへこむ。
そしてどちらであっても、「自分磨き」に終わりなどない。更なる輝きを追い求めて研究し、それを実現するためにバイトを増やして……と、まさに目が回るほどの忙しさだ。
それに……あれだ。俺はてっきり「正式に恋人になったら」だと思っていたご褒美の続きも、千尋は半年ほどでくれるようになった。曰く「いい大人なんだから、体の相性だって重要よ?」とのことらしい。
そしてそっち方面でも、千尋は俺より上手だった。流石に初めてではなかったが、とはいえそれほど経験があったわけでもない俺に、千尋は色々と教えてくれた。同い年なのに何でそんなに……という思いがなかったわけでもないが、「俺ですら経験済みなのに、千尋がモテなかったわけがない」という当たり前の事実があったので、それはそれとして納得する。
あるいは、そんな余裕なんてなかったとも言える。「ホント、明君って可愛いわよね」と笑う千尋に幾度となく復讐を試みたが、俺の全力はいつだって笑って流された。千尋に覆い被さりながらも燃え尽きてぐったりする俺を、千尋が優しく背中に手を回して抱きしめてくれる。そうして千尋の温もりに包まれて眠るのは、この世で一番安らぐ瞬間だった。
幸せだった。満ち足りていた。いつだって一杯一杯だったけれど、毎日がキラキラと輝いていた。俺の人生で一番幸福な時間は、間違いなく千尋に出会ってからの二年間だっただろう。
だが、夢はいつか覚める。ゆっくり昇る朝日が瞼を焦がし、その背後に暗い影を少しずつ伸ばしていくように、夢のような時間は文字通り夢となって消えていくことになる。そのきっかけはモラトリアムの終わり……大学卒業だ。
千尋に相応しい男になる……それに必死になりすぎたせいか、俺の就職活動の成果は今ひとつだった。それでもなんとか持ち前のITスキルを生かして中堅の開発会社に滑り込んだわけだが、今更言うまでもなく、そこはスーパーブラック企業だった。
新人だろうが関係なく、朝から晩まで……いや、場合によっては朝から朝まで、それどころか更に次の朝までずーっと仕事なんてことすらある。残業代はそれなりに出たので同期の奴らに比べれば手取りはよかっただろうが、問題はそこじゃない。
時間。何よりも時間が削られ、自由がなくなる。大学時代は好きなときにできた千尋とのデートの回数がみるみる減っていき、会うことが難しくなっていく。
まあ、それはいい。千尋だって当然就職したので、「お互い仕事が忙しくて大変だね。これを乗り切ったら、ゆっくり旅行にでも行きたいね」なんて笑い合えれば救いがあった。
でも時間がかかることはそれだけじゃない。日々の仕事に追われ心も体もすり減れば、何かをしようとする意志そのものが削られていく。
時間があれば、一秒だって長く休みたい。そんな状況で「流行の服が出たから、ちょっとお店に行ってみよう」なんて気持ちになるはずもない。通勤電車のなかでは意地でファッション雑誌なんかを読んでいたが、それも程なくして居眠りに変わっていく。
時間のかかる美容院なんて行ってられないし、そもそも休みがないので予約すらとれない。時折駅前の一〇〇〇円カットに行き、短く刈り揃えるのが限界であり最適解になる。
飯を食って寝るためにしか家に帰らないから、スキンケアだの筋トレだのは気づけばやらなくなっていた。洗面台に置かれた化粧水は変な色になっていたのでゴミ箱に捨てられ、以後二度と新しいものが並ぶことはない。
流行を追う気力なんてない。自分を磨く余裕なんてない。他の全てを切り捨てて、それでようやく千尋とのデートの時間を捻出するのだが……当然そんな有様の俺を見て、千尋はいつもご機嫌斜めだった。
「ねえ明君。その格好なんとかならないの?」
大学を卒業して一年くらい経った頃だろうか? 最近は会う度に顔をしかめる千尋が、その日も不機嫌そうにそう告げてくる。
「へ? 何とかって、何が?」
「何がって、全部がよ! その服が流行ったの、一体いつだと思ってるの?」
「いや、それは……でもほら、時代に流されない価値感ってのもあるだろ?」
「そうね。そういう服も確かにあるけど……明君が着てるのはそうじゃないわよね? アイロンすらかかってないヨレヨレの服に、普遍の価値があるとでも?
それに、もう五回連続よ? 明君、ずっとその服しか着てないじゃない!」
「そ、そうだっけ……?」
その言葉に、俺は思いきり顔をしかめる。今の俺には、もう現在の流行なんてまるっきりわからないし、そもそも服なんて安いワイシャツ以外を買うことは滅多になくなっていた。
だからこそ、俺が千尋とのデートに着ていく服は、タンスの奥に眠っている「以前に千尋が褒めてくれた服」を引っ張り出してきたものだ。一度認められたものだからと勝手に安心していたんだが、どうやら千尋はそれが気に入らなかったらしい。大きなため息を吐いてから、責めるような心配するような声で千尋が俺に話しかける。
「はぁ……明君、いくら何でも生活が荒れすぎじゃない? この前家に行ったときも、散らかり放題の部屋を私が片付けるだけで終わっちゃったし」
「散らかり放題って……別にそこまでじゃなかっただろ?」
「散らかってたわよ! 部屋の隅に埃も積もってたし! ちゃんと掃除してるの?」
「……俺にはあれで十分なんだよ」
「私には不十分よ」
「「……………………」」
互いに見つめ合い……だがそこに甘い雰囲気は微塵もない。千尋のまっすぐな眼差しに耐えきれず顔を逸らすと、千尋が静かに口を開く。
「ねえ明君。本当に今のままでいいと思ってるの?」
「それは……でも仕方ないだろ! 仕事が……仕事が忙しくて…………」
「仕事が忙しいのは、私だって同じよ。新人として入社して、右も左もわからないなか仕事を覚えて、先輩達との人間関係を構築して……大人って大変なのね。初めてお酒を飲んで『これで私も大人よ!』ってはしゃいでた当時の自分にお説教してあげたいくらい。
でも、そんななかでも私は自分の価値を落としたりしないわ。ううん、そうだからこそ価値を、評価を高めることが大事なの。私も明君も同じ新人だけど、今の私と明君、もし重要な仕事を任せるならどっちを選ぶかなんて言うまでもないでしょう?」
「……………………」
「明君ができないのは、本気でやろうとしてないからよ。じゃなきゃ今までできてたことが、今更できなくなるわけないじゃない!
ねえ、もっと本気で頑張って? そうすれば私も――」
「うるっせーな!」
その時初めて、俺は千尋を怒鳴りつけた。ビクッと体を震わせて身を引く千尋に、俺は感情を爆発させて言葉をぶつける。
「本気でやってない!? 何も知らねーくせに何言ってんだ! 本気だろうと何だろうと、できねーことはできねーんだよ! そっちは大手のホワイト企業だからどうにでもなるんだろうけど、こっちは寝る時間すらなくてエナドリで誤魔化すようなクソブラック企業なんだよ!
無理なんだよ! 物理的に! どうしろってんだよ、これ以上! 俺が、俺がどんな思いで……っ!」
叫び終わって息を整え、俺は俯いていた顔をあげる。するとそこには何とも透明な……悲しいくらい冷たくて透き通った表情を浮かべる千尋の姿があった。
「……そっか。明君はそっち側に行っちゃったかぁ」
クルリと背を向け、千尋が歩き去っていく。反射的に手を伸ばしたが、かける言葉が出てこない。
「クソが! 見世物じゃねーぞ!」
昼間の大通り。遠巻きに俺を見つめる奴らの視線や向けられたスマホのレンズに怒鳴り散らし、俺は千尋が歩き去ったのとは反対方向に走り出す。
夢はとっくに覚めていて、握りしめていた宝石は泥の塊に成り果てる。どうしようもない劣等感や罪悪感に苛まれながら、俺はヨレヨレの服を翻し、誰もいない自宅に戻っていくのだった。