過去回想①:それは二人の「起」まりの話
「ねえ君、ちょっとここいい?」
「あ、はい」
それは大学二年の時。先輩との付き合いで参加した大して楽しくもないコンパの席にて、彼女は不意にそう声をかけ、俺の隣に腰を下ろした。
「ありがと。こういう雰囲気って嫌いじゃないけど、何かこう……ノリが軽すぎるっていうか、今ひとつ合わないのよね。もう少し恋愛の駆け引きみたいなのがあったら楽しいのに」
「か、駆け引きですか……何か、大人ですね」
「ふふ、当然じゃない! だって私は、今日からお酒が飲めるようになったんだもの。なら名実ともに大人でしょ?」
「まあ、そうっすね」
明るい茶色のボブソバージュヘアに、すらっとしたモデル体型を包む、おそらく流行の最先端であろう服装。ニッコリと笑う彼女に、俺は若干心の距離を取りながらも頷いていた。
だってそうだろ? 明らかに俺とは属性とか立ち位置の違う女の子から声をかけられるなんて、何か理由があると警戒して当然だ。だがいつまで話しても怪しい商材を売り込まれることも宗教に勧誘されることもなく、しばし当たり障りのない会話を続けていたのだが……
「あー! 千尋ちゃん、何でそんなところにいるんだよ! こっちこっち! こっち来て一緒に飲もうぜ! ウェーイ!」
「えっ!?」
一年中日焼けしてる細マッチョの先輩が、彼女の腕を取って強引に立ち上がらせる。女癖が悪いので有名な……なのに何故かモテるらしい……先輩の強引なやり方に俺が戸惑っていると、当の本人である千尋がペシッと先輩の手を叩いてはねのけた。
「ちょっと、やめてよ! 私貴方みたいな人ってタイプじゃないの!」
「えー、何でだよ? 自分で言うのも何だけど、俺ってモテるんだぜ?」
「だから何? 悪いけど、私は貴方を取り合う程度の女じゃないのよ。お手軽に楽しみたいなら、そういう子達だけにしておいてくれる?」
「そんなつれないこと言うなって! こっちでじっくり話せばわかるって!」
「だから引っ張らないでって!」
彼女が嫌がっているのは、どう見ても明らかだった。だが場の空気や先輩の立ち位置から、それを諫めるような者はいない。先輩の友人、あるいは同類達は彼女が自分達の卓につくのを舌なめずりして待っていたし、同卓に座る女子達は強力なライバルを睨み付けている。
ああ、これはよくない流れだ。でもここで下手なことを言ったら、きっと「空気の読めない奴」として今後の大学生活が送りづらくなる。
――つまり、今までと特に変わらねーな?
元々そんな華やかで楽しげな大学生活を送っていたわけじゃない俺からすれば、別に先輩の不況を買って以後のコンパに呼ばれなくなるとか、取り巻きの女子のネットワークで「あいつは駄目だ」と非モテ認定されようと何も困らない。
その事実に気づいた時、俺は彼女を助けるべく勢いよく立ち上がり……
「やもうぇぁ!?」
ガシャーン!
「うわっ!? 田中、お前何やってんだよ!」
「あー、グラスが!? 悪い、タオル持って来てくれ!」
初めて飲んだ酒は、思った以上に俺を酔わせていたらしい。立ち上がった時に踏みしめた座布団が畳の上を滑り、俺の体は盛大にスッ転んだ。頭をテーブルの角に打ち付け、ぐるんと天井が回って意識を失い……
「…………はっ!?」
「あら、気づいた?」
目覚めた時、俺の目の前には彼女の顔があった。
「ふぁっ!? あれ、俺どうして……?」
「あーほら、動かない! 覚えてない? 君、いきなり立ち上がったと思ったら盛大に転んで気絶したのよ?」
「あー……てか、え? 俺今、え!?」
そこで記憶が繋がると、次に俺は現在の自分の状態……彼女に膝枕されているという事実に気づいた。明らかに焦って起き上がろうとした俺の額を、彼女がツンと指でつついて押し留める。
「だから動かないの! 変に動かれると、余計に足が痺れるじゃない!」
「ご、ごめん……でも、何で膝枕? その辺に適当に寝かせといてくれれば……」
「あら、嫌だった?」
「いやいや! 嫌って事はないけど……」
「ならいいじゃない。ちょっとしたご褒美よ」
「ご褒美……?」
「そ。だってあの時、私のことを助けてくれようとしたんでしょ?」
「……………………」
彼女の言葉に、俺は何も言えなかった。確かにそんな気持ちはあったが、実際に俺がやったことは、立ち上がろうとして転んで気絶しただけだ。これで「助けた」とは口が裂けても言えない。
「ふふ。何だか不満げね?」
「いや、そんなことは……」
「いいのよ。不満があるってことは、伸びしろがあるってことだもの。それに貴方、この状態でも欲情してないし」
「欲情て……」
「そういうのって大事なのよ? 下半身に正直なことを否定はしないけど、そればっかりの人なんて退屈だもの。私には釣り合わないわ。でも……」
「……な、何?」
ジッと顔を見つめられ、俺は思わず変な顔になる。居心地の悪さに目を背けたいと思う反面、吸い寄せられるような綺麗な瞳から目が離せない。
「……うん。思ったより可愛い顔してるし、磨けば光りそうね。いいわ、今回のお礼に、私が君を『ちょっとイイ男』にしてあげる!」
「えぇ?」
「何よ、イイ男になりたくないの? 女の子にモテるわよ?」
「べ、別にそんな……俺はモテたいとか、そんなこと思って……」
「思ってないの? 本当に? ほら、正直に言いなさい! うりうりー!」
「ふがっ!? も、もてたいれふ!」
キュッと鼻を摘まんでグリグリされ、俺は観念して本音を漏らす。そりゃそうだ、俺だってモテたい。あの先輩みたいになりたいとは思わねーけど、普通に女の子とイチャイチャくらいはしたい。その程度の健全な下心がないなら、そもそもこんなコンパなんて参加するはずがないのだ。
そしてそんな俺の告白を聞いて、彼女が楽しげに笑う。
「ふふっ、ちゃんと言えたわね、偉い偉い。それじゃスマホ出して! 連絡先交換しましょ」
「お、おぅ……」
俺は膝枕されたまま、ポケットからスマホを取り出す。すると彼女は「うわ、Aphoneじゃなくてendroidなのね……」などと呟きつつもサクサクとアプリを操作し、返された俺の端末にはひとつの連絡先が増えていた。
「『葛西 千尋』……葛西さん?」
「そうよ。宜しくね、田中 明君」
そう言って笑う彼女の顔は、まるで悪戯に成功した猫みたいに可愛らしくて、蠱惑的な魅力は蜘蛛の巣に張り付いた蝶々みたいに俺を捕らえて離さない。
結果その日、俺は予想外の相手と予想外の交流を結び、その日を境に大学生活は大きく変わっていく。
「さ、まずは髪型からね。そんな野暮ったいのじゃ全然駄目よ! 普段どんな場所でカットしてるわけ?」
「え? それはまあ……駅前の一〇〇〇円カットだけど」
「……は? 貴方人生舐めすぎでしょ! 私の知ってる美容室があるから、そこに行きましょ。大丈夫、腕は確かだから!」
コンパから三日ほど経った日曜日。俺は彼女に手を引かれ、一生縁がないと思われた店舗へと連れ込まれた。美容師の人と彼女の暗号のようなやりとりを聞かされ、何だかよくわからない薬剤をつけられたりしながら、全体的にフワッとした感じの髪型にされたわけだが……
「いちまっ…………!? あの、葛西さん? これちょっと高くないですかね?」
「何言ってるのよ、そのくらい当然でしょ? いい? それなりのものをそれなりに見せるには、それなりのお金がかかるの。今回は私が誘ったから奢ってあげるけど、次からは自分で出すのよ?」
「あ、ありがとう……あの、ちなみに次って、どのくらいで来れば……?」
「え、月一でしょ?」
「月一……マジか」
朝に太陽が昇るのと同じくらいの「常識」を語って不思議そうに首を傾げる彼女に、俺は口元を引きつらせて絶句する。どうやら俺のウィッシュリストから、購入予定のゲームを大量に削除しなければならないようだ……
なおタイトルの読み方は「はじまり」です。ルビが振れないのでこっちで補足しておきます。