競馬雑文学その3無情の未来と過去
ずっとその時を待ちわびていた。あらゆる準備、対策、傾向、施策、努力を注ぎ、やれるだけのことをした。
だから、その結果がどんなものであろうと私は受け入れる覚悟を持っていたし、仮にそれが凄惨で、悲惨なものであっても、それはそれで運命なのだと思う準備は整っていた。
あとはその結果を待つだけだった。今のこの瞬間も、それが私に近づいてくる。音もなく、気配すらなく、ただ時間と共に私の方にやってくる。その瞬間の為に、今日まで私は生きてきたと言っても過言ではない。
気づけば、その瞬間のことを考えていた。それが訪れたとき、私の身に起きる汎ゆることを想像し、膨張させ妄想し、肥大化した想定、未来を思い、心を弾ませた。
「ねぇ、嬉しいことでもあったの。そんなにニヤついて」
「いいや、なにも」
そう、何もない。その朝、妻でも彼女でもない女から突かれる心の芯が擽ったかった。私の返答に、不満とも疑心とも取れる表情を、老いの見え始めた目尻と口元に浮かべて、そのつまらない背中と尻を揺らしながら、つまらない平常に去っていった。
それが近づいてくるのが解っていた。しかし、ここに来るまで急速に近づいてきた筈のそれは、ここにきて、私のいるこの場所のすぐ近くまできて、その速度を突如弛めた。弛めたなんてものではない。全くのスローモーション。私を嘲笑うかのように、焦らすことが趣味の悪癖漢のように、或いは両親を誂って遊ぶ幼子のように、大げさに、大胆に、迷惑なほど速度を弛めた。
公道であれば、それは交通違反。渋滞を巻き起こし、社会を混乱の渦に巻き込む。怒号が飛び、悲鳴が上がり、落ち着くようにと落ち着きのないアナウンスが降り注ぐ。
それでも、それは速度を早めないだろう。それのお陰で、私の周辺の汎ゆる時間が速度を弛めていた。信号が変わらない。レジの順番がやってこない。電車がやってこない。何故なら、予定時刻もやってこないからだ。全ては、それの悪戯だ。
苦しかった。こうしてそれがやってこないとなると、それまで持っていた一定の自信にすら何か懐疑を抱き始める。
ここまで繰り返してきた私の取り組み、努力、忍耐。その全てが実は間違っていたのではないだろうか。その方向性、質、量、方法。何かに問題があったのではないだろうか。いや、そんな筈はない。万全は喫した。間違ってなどいない。そう自分に言い聞かせる。言い聞かせるだけの時間を、それが与えてくる。
事の結末は、何も私の行いだけが決めるのではない。
やってこないそれが、私を裏切ったのではないか。駅のホームで腕時計を見ながら自分に問う。
「まだ、そんな時間に至っていないのだ。何を焦っているのだ、私は」
それだけ、待ち遠しかった。それとの遭遇。待ちわびていた幸福の結果と、時間。私は“それ”を待っているが、しかし待っていなくても恐らく“それ”はやってくる。
自分がどこにいるのかも解らぬ老婆が、何やらメモを持ち、電光掲示板と視線を往復させているその背後を、ベビーカーを押す若夫婦が迷惑そうに避けていく。老婆は一度何かを、言い伝えようとして、赤子が泣き出しそうなのを前に、罪悪感を感じたのか、その言葉を引っ込めた。
反対側のホームに滑り込んだ列車が人流を吐き出すと、その平常が飲み込まれていく。と、同時に顔を赤くしたサラリーマンが、複数の男に追いかけられながら人の波を縫うように疾走していく。
階段を転げ、それを避けた女性も脚を滑らせ階段を転げる。後ろから追いかけてきた男が、取り押さえようとしているのに気づかず、更に後ろから続く男が転け、次々に人が連鎖して転ぶ。脳内に“転倒”の嫌な言葉が浮かぶ。
いつの間にか、到着していた反対側の列車が発車時刻を迎え、扉が閉まろうとしていた。私は何故か、その扉に飛び乗ろうとは思わなかった。
両側の電車がホームを去ると、人の波は引き、駅は次の波に備えていた。
遠くで野鳥が囀る声がする。
老婆はまだそこに佇んでいた。近くに、奇抜な色使いの赤ん坊のおもちゃが落ちていて、老婆はそれを拾うと、過ぎ去った喧騒の名残に、想いを馳せているように思えた。
私は老婆の側に近寄り声をかける。
「大丈夫ですか。お困りですか」
「えぇ、そうなの。いつの間にか、時間が通り過ぎてしまって。目的地を行き過ぎてしまったようで」
「どちらに行く予定だったのですか」
「それが解らないのです。どこに行こうとしていたのか。どこへ行くべきだったのか。全て通り過ぎてしまって」
「それでお困りだったのですね」
「いえいえ、困ってなどいません。どこに行くべきか解らなかっただけで、今どこにいるのかだけ、は解っていますから」
そういうと老婆は
「お気遣いありがとうございます。これから私はまた次の場所に向かいます。ここです。ここで、この電車を待とうと思います」
「そうですか。それは安心しました。しかし、その電車は来ないかもしれません」
「そうですね。でも来るかも知れません。私はそれを信じて待とうと思います」
「そうですか。わかりました。でもお気をつけて。駅のホームは人が多いから」
私の助言に、老婆は微笑むと、会釈を返してくれた。私はホームを引き返し、自分の“現在地”を確認しようとスマートホンを開く。
すると、あの女からラインが来ていたのでそれを開く。
「ねぇ、どうしてくれるの。フェブラリーS。貴方の言った九番の馬に全額投資したのよ。来なかったじゃない。それでも貴方を信用できないから複勝にしていたのに、やっぱりこなかったわね。弁償してよね」
そうか、来なかったか。あれだけ信用したのに。ずっと追い続けて、汎ゆる展開を予想し、考えうる全ての角度から彼女を信用していたのに。
出遅れか、調教のミスか、騎乗ミスか、それとも何か予想に見落としがあったのか。いずれにしても彼女は来なかった。
私は私の現在地を確認し、湧き上がる感情を封じ込めるようにスマートフォンの画面を閉じるのだった。