一度死んだ私が、死んだその日に遡り、一日だけ蘇る。そんな一日だけの人生
目覚まし時計の音がこだました。
「うーん」
目を開くといつもの部屋だった。
「ここはどこだ」
思わずそう叫んだ。
死んだはずだった。
私は2023年10月16日の深夜に突然死した。自分が死んだことを知ったのはあの世に行ってからだ。まだ40代になったばかりだったがくも膜下出血をし、一人暮らしのため急変に気が付き救急車を呼んでくれる人もなく自宅のベッドの上で死んだ。
今のそのベッドの上にいる。
ピーピー鳴ってうるさいデジタル時計を見た。
日付は2023年10月16日だった。
「どういうことだ」
夢だったのだろうか。
半信半疑で会社に出勤する支度をして家を出た。
最寄りの駅についた。
(まてよ。あの日、この交差点でバイクと車の接触事故があったよな)
すると、急ブレーキ―をかけるつんざくような音がした。
衝突音。
眼の前の交差点でバイクと車が接触事故を起こした。
あの日の朝と同じだった。
私は熱があるので休むと会社に電話をし、そのまま渋谷の街を歩いていた。
(まさか、本当に生き返ったのか)
頬をつねってみた。
痛い。
生きている。
夢じゃない。
ただし、あの世にいた時の記憶もある。あの世にはお金も地位も持って行けないし、あの世では生前に築き上げた財産や地位は何の意味も無かった。その功績が讃えられることなどない。魂を美しく磨いて帰ること。それだけが生まれた目的であり、生きた証であったことを知った。だが、それを知ったときは手遅れだった。
(もう一度やりなおせるのか)
首を振った。
(いやいや、きっとこれはなにかの幻想か妄想だ。精神が病んだのだ)
「心配しないで。病気じゃないから」
突然、若い女の声が聞こえた。
振り向いた。
誰もいない。
見回したがあたりにそれらしき人はいない。
「声は聞こえても、今のアナタにはワタシのことは見えない。だってワタシには肉体が無いから」
再びその声がした。
「誰だ?」
「天使よ」
「天使? どうして天使と話をすることができる」
「それは、アナタがもう死んでいるからよ」
話を聞くと彼女はどうやら生前から私に付いていた守護の天使らしかった。そして衝撃的だったのは、私の蘇りは今日一日だけらしかった。日付が変わる頃には、前の人生と同様に私は肉体から離れて天に帰らなくてはならないというのだ。
「どうしてだ。どうして蘇った?」
「知らない~」
「なぜ一日だけなんだ」
「知らないし、知っていても教えてあげないよー」
「あああああああ」
頭を抱えた。
情報の整理がつかない。
通行人が怪訝な顔をしている。
顔を上げると、視線をそらし急ぎ足で立ち去ってゆく。
道路脇に腰掛けて独り言をブツブツ言っているスーツ姿の中年男性。見るからに怪しいし、かかわりたくない相手だろう。
「そうやって迷っているうちに人生終わっちゃうよ」
天使の奴が軽い口調で言った。
「うるさい」
だが、彼女の言う通りだ。今は午前9時30分。人生の残り時間はあと14時間30分ほどしかない。
「なあ、本当に日付が変わる時に死ぬのか」
「うん」
「あと14時間30分しかないのか」
「そうね」
私は立ち上がった。
「ねぇ、どこに行くの?」
それには答えずに私はもよりの銀行の支店に向かった。
「お客様、無理です」
一時間近く待たされてそれだけだった。
死んだらあの世に金は持って行けないことを知り、すぐに全財産を慈善事業に寄付して魂を清めようと思ったのだ。だが、いくら本人だと言っても、通帳と印鑑がなく、しかも、普通預金の他に定期預金と投資信託にしていたので、即日の解約、現金化は無理だと断られた。
仕方がないのでATMで預金を全部下ろそうと思ったら、学生時代から使っている古いキャッシュカードだったので一日の引き出し限度額は50万円だった。
とりあえず、現金50万円を下ろすと外に出た。
もう午前11時を過ぎていた。
「そのお金どうするの?」
「寄付する」
天使は笑い転げた。
「なぜ笑う」
「まさか、それを寄付したら魂が磨けるとか思っているんじゃないでしょうね」
言葉に詰まった。
「やっぱりそうなんだ。ウケる」
天使は大笑いした。
「なぜ笑う」
「お金で天国行きの切符を買えるとでも思っているの? 自分の魂をマネーで洗濯できるとか信じているの?」
「……」
「ねぇ、馬鹿なの? 一度死んでみる?」
そう言ってから、天使は甲高い声で笑い続けた。
「あっそうか、もう死んでいるんだったわね。それにどのみち今日で終わりだし……」
「馬鹿にしているのか」
「そうよ。だって馬鹿なんだもん。死んで何を学んだの?」
「お金を寄付しても無駄なのか」
「当たり前よ」
「死後の世界で見た記憶だと、生前たくさん寄付をした人は天国に行ったぞ」
「それは心の問題ね。アナタは貧しい人を救おうという純粋な愛から寄付をするんじゃなくて、自分が救われたい一心で、便宜をはかってもらうために権力者に賄賂を贈るような気持ちでいるでしょ。そんな気持ちで寄付したお金で救われると思う?」
「いや」
「でしょー」
私はがっくりとうなだれた。
「あーあー、貴重な時間を無駄にしたわね」
「ちょっといいですか」
突然、紺のスーツを着た善良そうな若い男が私に声をかけてきた。
「はあ、なんですか?」
「実は私は占いを勉強している者ですが、あなたを占ってもよろいしでしょうか」
「いや、占いとか興味ありません」
「勉強のためなので無料です。お願いします。あたなたを占わないと困るんです」
「どうしてですか」
若い男は少し声をひそめて私に近づくと囁き声で言った。
「実はあなたにはよくない相が出ています。あなたのような人を見過ごすことは私自身のステージが下がるので、あなたの力になりたいんです」
「わかるんですか」
そのあとの『私が既に死んでいることが』という言葉までは口に出せなかった。
「ええ、静かなところで話をしませんか」
溺れるものは藁をも掴むというが、天使にたしなめられて、弱っていた私は男のあとをついて近くの雑居ビルの中に入った。
面談室のような個室に案内された。
「あなたは悩んでらっしゃいますね」
「ええ」
「何をやってもうまくいかない。何をしたらいいのかわからない。行き詰まりを感じているはずです」
「確かにその通りです。どうしてそんなことが分かるんですか」
「私には見えるんです」
「何がですか」
「あなたに取り憑いている悪霊です」
それを聞いて私は笑いをこらえた。
霊については、自慢じゃないが現世に生きている奴とは、大人と子供くらいの差がある。まあ、プロみたいなものだ。なんせ、今朝、霊界から戻ってきたばかりだ。
「どんな姿の霊ですか?」
若い男は顔をしかめた。
「怖くないのですか」
「ええまあ。それよりどんな姿ですか? 見えるんでしょ。教えて下さい」
「醜い老婆の姿です。その霊障であなたの人生は思うようにならないのです」
「おい。お前、婆さんだったのか」
私は天使に話しかけた。
「失礼ね。そんなことないわ」
「でも、あいつが言っているのはお前のことだろう?」
「彼には何も見えていないわ。マニュアル通りに言っているだけ。カルト宗教の勧誘員よ。これからお祓いだとか言って、アナタからお金を巻き上げるつもりよ。アナタは奴らのいいカモってところね」
「そんなことじゃないかと思っていたよ」
「誰と話されているんですか?」
若い男が困惑した表情で訊いた。
「あんたが見える言った悪霊とだよ」
「馬鹿な」
「馬鹿なだと? 見えるんだろう。俺に取り憑いているのが。そいつと話をしているだけだ」
「あなたは危険な状態だ。すぐにお祓いをしないと大変なことになります」
「で、全財産を寄進しろと言うんだろう」
「全部とまではいいません」
笑った。
「正直なやつだ」
奥から黒い服の男たちが数人出てきた。
「少し面倒なことになってきたわね。でも神霊や聖霊の名を騙り、人の生き血を食らうように財産を巻き上げる輩は許せないわね」
天使が言った。
「どうする?」
「私が言った通りに言って」
「分かった」
「あの真ん中のメガネのデブがリーダーよ。娘が病気でそのために教団に取り込まれ、娘を救うために、教団の集金マシーンになっているの。でもこんなインチキ宗教では娘は救われない。現に娘は死んだわ。でも教祖が娘を復活させることができるとかうそぶいているの」
「ほう」
「じゃあ、あのデブにワタシが言ったことを復唱してね」
「了解」
「田中航一郎さん、お嬢さんがあの世で泣いていますよ。以下はお嬢さんからの伝言です。パパ、もうやめて。教祖は生き神様じゃない。ただの詐欺師よ。これ以上、人を騙してお金を巻き上げる悪事に加担しないで。そんなことをしても私は生き返らない」
デブが青くなった。
「やめろ、どこで調べたのかわからないが変な小細工をするな。貴様、どこの団体のまわしものだ」
「パパ、私よ。疑うならパパと私しか知らないことを話すわ。パパ、私が最後に言った言葉を覚えている?」
「もちろんだ」
「私は一人っ子で、ママは先に天に帰っているから、あの時、病室にはパパと私しかないかった。誰も知らないことよ。いい、もう一度言うからね」
「下らん芝居はいいかげんにしろ!」
デブが拳を固めて近づいてきた。
「パパの子供に生まれてきて幸せだった。ありがとう」
デブの顔がゆがんだ。体がゆらいだ。
「そんな馬鹿な」
「パパのその右の手の甲の火傷は、私が火遊びしていて火事になりそうになった時に、私を助けようして火傷したんだよね。あの時はママにすごく怒られた」
デブが膝をつくと号泣した。
「パパ、もうその教団は辞めて。私が死んだのは運命なの。パパのせいじゃないし、パパはできることはすべてやったわ。私は天国でママと幸せに暮らしているの。でも唯一の気がかりはパパなの。パパはこのままでは、ママや私のいるところに来られない。だからお願い。もうやめて」
囲んでいた若い男たちはあっけに取られて固まっていた。
デブは顔が涙と鼻水でぐちゃぐちゃになっていた。
「いくわよ」
天使が私に言った。
部屋にいた男たちは出てゆく私を止めなかった。
「ふぅ。驚いたな」
「まあね」
「これって善行になるのかな。神を冒涜する者をやっつけ、悪人を改心させた。結構、僕の魂は浄化されたんじゃない?」
「残念。ポイント0で~す」
「な、なんで?」
「だって、全部ワタシの手柄だもん。アタナはワタシの言葉を伝えただけ。スマホと一緒。ただの伝声管よ。よってポイント0」
「なんだよそりゃ」
なんだかバカバカしくなってきた。そもそも一日だけ生き返ったからと言って、これまでの生涯を清算して魂を清めるなど無理がある。それよりもせっかく生き返ったのだから、死ぬ前に心残りだったことをやった方が有意義ではないだろうか。
「よし」
心を決めると電車に乗った。
「どうするつもり?」
天使が訊いた。
「やりたかったことをやる」
「ふーん」
会社の前に着いた時はちょうど12時だった。
ビルの前で彼女が出てくるのを待った。
しばらくすると彼女が出てきた。
「若杉さん」
声をかけると彼女は驚いた顔をした。
「小坂さん。今日は風邪でお休みじゃなかったんですか」
「実はズル休みです」
「まあ」
「ランチ、一緒にどうですか。もちろんおごります」
若杉さんは迷っている様子だったが、強引に近くにあるシティホテルの最上階のレストランに連れて行った。
「急にこんなことされて困ります」
若杉さんは困惑した表情を浮かべた。
前から彼女のことが好きだった。一度しかないチャンスなら彼女に告白し、彼女を抱きたかった。
私は飛ばした。
フレンチのランチのコースを食べながら、彼女にプロポーズをして、さらにこのままこのホテルの部屋で愛し合いたいと言った。
「すごいバカ」
それから1時間後、とぼとぼと新橋周辺を歩いていた。
「あんな口説き方ある?」
「でも時間が無いんだ」
「それにしてもあれはないわよ」
「死ぬ前にどうしても彼女と結ばれたかったんだ。死んでもそれが悔いだったんだ」
「あー、救われない煩悩の塊。エロおやじ」
「もういいよ」
若杉さんはメインディッシュが来る前に、昼休みが終わるからと言って席を立ち、帰ってしまった。もちろん私のプロポーズに対する答えは「ノー」だった。
「ああ、辛い。死にたいよ」
「大丈夫。アナタはもう死んでいるから」
「そうだったな」
あてもなく山の手線に乗った。
「どうするの? もう午後2時よ。あと10時間しかないわよ」
「そうだな」
魂は簡単には清められないし、若杉さんには振られた。あと自分に残っているのはなんだろうとぼんやりと考えた。
家族がいた。
私はデキ婚で前の会社の同僚と結婚していたが5年前に離婚した。当時10歳になる1人娘がいたが、別れた妻が引き取った。離婚後、養育費の支払いだけは続けていたが、娘には会っていない。もともと子供はいらなかった。子供がほしいと思ったことなど一度もない。女は好きだが、その結果生まれてくる子供はノーサンキュというのが私という人間だった。離婚も浮気が原因だ。
スマホを取り出した。
別れた妻の住所は登録してあった。
(娘に会ってみようか)
ふと、そんな気持ちになった。別れた妻と娘はさいたま市に住んでいる。ちょうどこのまま山手線で北上して途中で乗り換えれば行けた。
改札を出ると、スマホでナビを開始した。とりあえず家に行ってみようと思った。
2階建ての古びたアパートの前に着いた時は、午後3時30分を過ぎたところだった。
どうしようかと思いながらアパートの前に立っていると、向こうから少女が歩いてきた。
娘だ。
5年間会っていなくても血の繋がりのなせるわざなのか、一目で分かった。若い頃の妻と学生時代の自分を足して2で割ったような、まさに自分たちの子供だった。
「おとうさん?」
娘の花蓮も私を見つけると、驚いた顔をした。
「ああ」
「大きくなったな」
「うん」
そこからは何を話していいのか分からなかった。
「母さんは?」
「仕事」
「何時に帰るんだ」
「分からない。多分10時か11時過ぎ」
「そんなに遅いのか」
「うん」
「いつもなのか」
「そう。昼と夜の仕事を掛け持ちしているから」
そんなに働いていると知らなかった。
「花蓮はそれまでどうしているんだ」
「家で勉強したり、スマホでゲームしたりしている」
「1人なのか」
「うん」
「夕食はどうしている?」
「家にあるものを適当に食べている」
「料理をするのか?」
花蓮は首を振った。
「カップ麺とか冷凍食品。食パンをそのままかじったりもする」
「塾とか習い事はないのか」
「うん」
娘がそんな生活をしているとは知らなかった。
「どうしてここに来たの?」
「いや、たまたま仕事でこの近くに来てな。仕事も終わり、今日はこのまま直帰になったから寄ってみたんだ」
「なーんだ。私に会いに来てくれたんじゃないのか」
「いや、そういうわけじゃ……」
「そうだよね。もう5年も何の連絡もないし、会いにも来てくれてないんだから、そんなこと期待しても無理だよね」
「ごめん」
私は気がついたら土下座していた。
「何?」
「嘘をついていた。実は今日は会社をサボったんだ。そして、急にお前に会いたくなって、電車に乗って、ここに来た」
花蓮はぷっと笑った。
「会社をズル休みしたの? マジで。信じられない」
「花蓮、今まですまなかった。だめな親父でごめん」
「いまさら別にいいよ」
「そうだ。どこかでお茶しないか。ケーキでも食べよう」
「いいけど」
私は花蓮を連れて駅前のファミレスに行った。
花蓮には好きなものを注文させた。
最初は戸惑っていたが、ハロウィンの期間限定のスイーツを注文した。
花蓮はぼつぼつと学校のことや日常を語りだした。
私はそれをひたすら聞いていた。
「そろそろご飯にしようか」
「うん」
「何が食べたい」
花蓮は少し迷ってから「お寿司」と答えた。
私は駅前の寿司屋に入ろうとしたら、スーツの袖を引っ張られた。
「そういうところじゃなくて、回転寿司の方がいい」
私はタクシーを拾い、近くにある回転寿司まで行ってもらった。
花蓮はたくさん注文してよく食べた。
「母さんとはこういうところには来ないのか」
「めったに連れてきてくれない」
「どうしてだ。母さんは仕事をかけ持ちして働いて、しかもパパも仕送りしているんだから、回転寿司くらい来られると思うが」
花蓮は箸を止めた。
「内緒にできる?」
「何をだ?」
「これから話すこと」
「ああ」
「絶対だよ」
「分かった」
「ママには男がいる」
「えっ!?」
「しかもだめな男」
「どういうことだ」
「要は働かない男に貢いでいるってこと」
「どうして?」
「あの人、男を見る目がないから。だめな男にばかりつかまっちゃうの」
醒めた口調で花蓮が言った。
そして、自分もそのダメな男の1人であることに気がついた。
「そうか……」
「私が言ったって絶対あの人に言っちゃだめだよ」
ママがいつの間にか「あの人」になっていた。それだけの距離感のある親子関係になってしまっているようだった。
食事が終わった頃にはもう8時を回っていた。
「いけない。もうこんな時間。明日までの宿題があるし、もし早くあの人が帰ってきて私が家にいなかったら大変なことなる」
花蓮の腕にある青あざや火傷のような跡が気になった。
「じゃあ、帰ろうか」
「うん」
帰りのタクシーでは二人とも無言だった。
アパートの前に着くと、私もタクシーから降りた。
花蓮が2階の部屋の窓を見上げた。
窓は暗かった。
「よかった。電気がついていない。まだ帰ってきていない」
「花蓮」
「今日はありがとう。楽しかった」
「待ちなさい」
これが最後の別れだった。
「何?」
「花蓮、今までダメな父親ですまなかった。だが、花蓮、パパの子に生まれてきてくれてありがとう。信じてもらえないかもしれないがパパにとっては花蓮が一番大切だ」
いきなり花蓮が抱きついてきた。
「パパ……」
花蓮が泣き出した。
私は花蓮をハグした。
「そうだ。これを持っていきなさい」
私は財布からまだ40万円以上ある現金をすべて花蓮に渡した。
「こんな大金……」
「このお金のことはママに言うな。隠しておきなさい。そして、これで欲しい物を買いなさい」
「いいの?」
「もちろんだよ」
「そろそろ時間だな。ママが帰ってくる前にここを立ち去るよ」
「待って! パパ、次はいつ会える」
私はその言葉を聞いて絶句した。今晩私は死ぬ。もう生きて二度と娘に会うことはできない。
私の表情を見て花蓮は誤解をしたようだ。
「ごめんなさい。迷惑だよね。私と会う時間なんて無いよね」
「違うんだ。お前が私のこと見捨てても私はお前のことを決して見捨てない。お前が愛してくれなくてもお前のことを誰よりも愛している」
「本当? 信じてもいいの」
「当たり前だ。また会える。きっと必ず」
「うん」
「でも、しばらく会えなくなるかもしれない。でもパパはいつもお前のことを見守っているからな」
「分かった」
「さあ、ゆきなさい」
花蓮は何度も振り返りながらアパートの2階の部屋に戻った。
アパートの部屋の電気が灯ったのを確認してから、私はタクシーを拾ってその場を離れた。
「どちらまでですか」
運転手が訊いた。
「海だ」
「海? でもここは埼玉ですよ」
「分かっている。クレジットカードは使えるか」
「ええ」
「なら問題ない。海が見たい」
「どこの海ですか」
「ああ。時間が無いから1時間くらいで着けるところにしてくれ」
「そうしたら幕張のあたりはどうですか」
「それでいい」
1時間後、私は幕張にある海浜公園の砂浜にいた。
波の音と潮の香りが私を包み込んでいた。
「どうしてここに来たの」
天使が訊いた。
「海が見たくなった。それだけだ」
何もリアクションはなかった。
「娘と会っている間、静かだったな。どうして口をださなかった」
天使はそれにも何も答えなかった。
「まあいい。だけど結局、罪深いまま天に戻ることになるな。自分が罪深い存在だと改めて認識したよ」
「どうして」
「エロいからだ」
天使は笑わなかった。
「キリスト教だと性欲は罪なんだろう。心の中で思っただけで地獄行きだとかイエス様も言っているんだったよな」
「それで?」
「この蘇りのチャンスも活かせなかった。それどころか若杉さんを口説いたりした上に、娘にもあんな苦労をかけてしまっていた……」
思わず泣き崩れてしまった。
「しょうがないわね。言っておくけどただエロいだけじゃ罪にならないから」
「えっ?」
「エロは罪じゃない。常識でしょう。アナタ一回死んでいるんだからしっかりしなさい。前回死んだ時にエロいからということで地獄に落ちた?」
「いや」
「でしょ。エロが重罪ならとっくの昔に地獄に落ちて、こんな蘇りなんてできないわよ」
「でも性欲は……」
「まずね。魂は生命だし、神と呼ばれるものは純粋生命なの。だから生命を宿す性交が罪なわけないじゃないの」
「じゃあ、なんであんなに性的なものは罪だと……」
「性を通じて人を害することが罪なの。腕にナイフを突き立てられるより、性的暴行をされた方が受ける傷が深いの。だって性は生命や魂にかかわる大事なものだから。レイプは身体に対する暴行ではなくて、魂に対するアサルトなの。だから重罪なの」
「でもキリストはエロい目で女性を見ただけで地獄に落ちるって……」
「ああ、あれね。イエスは肉体にいながら、純粋生命と同期化するという、人間の純粋神化について語ったの。やらしいことを考えているとそれがノイズになって純粋生命の深い部分とつながることができなくなるから」
「言っていることの意味がよくわからない。純粋生命と同期化するとどうなる?」
「山を動かせるし、嵐も鎮めることができるし、病気も治せるわよ」
「信じられない」
「まあ、人間の肉体にありながら、そこまで神と同期化することなど、めったにできないことだからね。イエスの理想が高すぎるだけよ」
「すると僕は?」
「好色ということだけで地獄に落ちるならとっくに地獄は定員オーバーで天国には誰もいなくなるわ」
「そうか。でも、せっかく蘇ったのに無駄だったな」
「そうでもないわ」
「そうなのか」
「娘さんにしたことは評価できるわ」
「だよね。可哀想な状態だったからお金を渡したのは正解だよね」
「はい、減点」
「えー」
「忘れたの? 明日にはアナタは死んでいるのよ。法定相続人は娘さん1人だから、数時間後にはアナタの全財産は彼女のものよ」
「そうか」
「むしろあの現金が別れた奥さんに見つかったらトラブルに巻き込まれるわ」
私はがっかりした。
「でも、彼女に言った最後の言葉、そして言葉だけじゃない愛情を示したのは良かったわ。愛されているという自覚は生きる力なの。アナタは彼女に生きる力を与えたのよ。それはアナタの魂にとってもとても良いことだったの」
「ありがとう」
「それに、最後に海に来たのもいいことよ。海はこの星の生命の源泉だから。ここに来たことは正解よ」
私は自分の細胞の一つ一つから生命の灯火が消えてゆくのを感じてきた。
「そろそろだね」
「ええ」
私は体が風船のように空に浮いてゆくのを感じた。
下を見るとスーツ姿の私の亡骸が砂浜に横たわっていた。
「帰る時間ね」
声の方を向くと美しい女性がいた。
「君だったのか」
「肉体から離別したから見えるようになったのね」
「綺麗だ」
彼女が笑った。
「そう言われて悪い気はしないわね。私は天使で一度も肉体を持ったことが無いから恋愛や性愛をこの身で感じたことはないけど、ずっと人を守護して見ているから知ってはいるの」
「今度は君に惚れてしまいそうだ」
「まだ肉体から離れたばかりだから肉体の残滓としての性欲が残っているようね」
「つれない言い方だな」
「いいわよ」
「えっ?」
「一つになりましょう。そして二人で帰りましょう」
私は光体とも言える彼女と交わり一つになった。
そして流星のように夜空に流れる光になった。
【作者からのお願い】
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