第五章
目を開けたつもりだったが意識は心地いいまどろみの中に漂い、体は金縛りにあったようしびれて夢を見ているのか目覚めているのかしばらくのあいだ判断がつかなかった。そして少しずつ意識が覚醒すると記憶が蘇り、自分にのしかかっている運命に押しつぶされそうになるのを抗うかのように飛び起きた。
ドローンの中は静かでどこかに駐機しているようだった。
「やっと目が覚めたようだな」
正面のシートにいた阿倍野が心配そうに声をかけてきた。
ゆっくりと焦点を合わせて窓の外を見ると、そこは福岡空港のドローン駐機場だった。
「着いたのか?」
「着いたぞ」
福岡空港に着いたということは少なくとも三時間は眠っていたことになる。頭が重たく強烈に喉の渇きを感じた。阿倍野は続けて言った。
「寝起きのところ悪いんだが時間もあまりないから、さっそく説明を始めてもいいか?」
「はじめてくれ」
俺はそう言いながら備え付けのミニ冷蔵庫からミネラルウォーターを一本取り出すと一気に飲み干した。すると砂漠に水がしみこむように、全身が潤うのを感じた。
「まずおまえの要望どおりに最新型のグロックと予備のマガジンを三つ用意した。この鞄を開けて自分で確認してくれ」
阿倍野から真新しい鞄を渡された。中を開けるとノートパソコンが一台と外付けのバッテリーが三個入っていた。
「グロックは筐体も弾丸もすべて特殊なプラスチックを使っているから金属探知機では引っかからない。ただ、さすがにそのまま持ち歩くのは危なっかしいから、そのノートパソコンの中身を空にしてグロックを隠した。予備のマガジンは三個の外付けバッテリーパックの中にひとつずつ隠してある」
「できれば使いたくはないが、あれば安心だからな」
「それから、これが新しいスマホだ。本当は本物のフリーマン・メイスンが使ってたスマホがよかったんだが、どうしても手に入らなかったんだ。仕方がないから香港から取り寄せたSIMが入ったプリペイド式のスマホにして、フリーマン・メイスンのIDカードとペアリング設定をした。これで第一駅の改札は通れるはずだ。ただ改札を入るとそこからは圏外になるから覚えておいてくれ」
「あと俺が使ってた鞄はどこにあるんだ?」
「もしかしてこれのことか?」
阿倍野は備え付けられたトランクを開けてぼろぼろの鞄を出して見せた。
「それを使いたいんだ」
「本当にこれでいいのか? くたびれきってぼろぼろだぞ」
黙って鞄を受けとると隠しポケットを開けて村田さんから渡された手紙が入っているのを確かめた。そして阿倍野から渡された荷物を自分の鞄に入れた。俺にとってこの鞄は一緒にたくさんの修羅場をくぐり抜けてきた戦友なのだ。今となってはこの鞄さえあればどのような運命でも受け入れられそうな気さえした。
「説明を続けるぞ。おまえの首からぶら下がってるフリーマン・メイスンのIDカードだが、午前零時にアメリカで死亡届が受理されることになっている。そうなると午前零時をすぎてそのIDカードを使うと自動的に国家警察や地元警察に通報されることになるから気をつけてくれ。要するに午前零時までには戻ってきて、元の笹島健治に戻らなければならないということだ」
「わかった」
「それから、フリーマン・メイスンで個人認証が取れているドローンを用意した。あれがそうだ」
阿倍野は窓の外を指さした。そこにはなんの変哲もない古びたドローンが一機たたずんでいた。
「もっと格好のいいドローンはなかったのか」
「なるべく目立たないほうがいいだろうと思ったんだ。だいたいおまえはこの数日で国家警察の高価なドローンばかり乗ってたから感覚がおかしくなってるんだよ」
阿倍野は小さく笑った。
「わかってるよ。言ってみただけだ」
「あのドローンにはスーツと靴があるから着替えてくれ。別にドレスコードがあるわけじゃないが、いくらメンテナンス担当の技術者だからと言ってもその格好はまずいだろう」
確かに芦谷に用意してもらった服はかなり汚れていた。
「それからひとつ残念な知らせだ。〈ケルン〉内の情報はまったく調べようがなかった。〈夜鶴〉が生きてれば〈ケルン〉に直接聞くこともできたんだがな。すまない」
「ということは〈ケルン〉エリアはともかく、その奥にある〈ケルン〉ルームに入ったらどうなるかわからないということなんだな」
「残念ながらそういうことだ。ただ、〈ケルン〉はメンテナンス担当だったフリーマン・メイスンをかなり信用していたようだから、おまえがメイスンになりすまして〈ケルン〉に聞けば教えてくれるんじゃないかと思う。あと〈夜鶴〉も〈ケルン〉にユピテルの説明はしているはずだからそれも直接聞いてみてくれ」
「そうするしかないな」
「それから、おまえが寝ている間に思い出したんだが、ひとつ言い忘れていたことがあるんだ」
「またなにか悪いニュースか?」
「ちがう。今回の〈ケルン〉に行く件なんだけどな。実は〈夜鶴〉もおまえを推薦していたんだ。理由はわからない。もしかしたら〈夜鶴〉は〈ケルン〉と話し合っておまえを推薦したのかもしれない。だから〈ケルン〉はすぐにおまえのことを信用する可能性もあるんだ」
「なんのことはよくわからんな」
「実は俺もなんのことかよくわからないんだ」
「なんだ、それ」
自分の顔の強ばりが少し緩んでほころんだような気がした。
「最後にもう一度、〈ケルン〉潜入計画を説明してくれ」
「用心深いな。まぁ何度でも説明してやるよ。まずはあのドローンで天神まで行って午後七時ごろまで待機する。待っているあいだに少し腹ごしらえするつもりだ。そのあとはスマホのナビゲーションも使いながら天神にある東アジア海底トンネルの入り口から作業員用のリニアに乗って第五駅まで行く。ここまでで一時間だ。ここから先は〈ケルン〉エリアで、それから高速エレベーターに乗って海面近くにある〈ケルン〉の入り口まで行く。そこから〈ケルン〉ルームに入り第一〇区画まで行くことになるが、そこから先の情報はないということだから、行ってからなんとかするしかない。とにかくメイスンになりすまして、〈ケルン〉にどうしたらいいのかを教えてもらうよ。それでユピテルのインストールと起動を行ったあとは逆のルートで第一駅まで引き返すという計画だ。今の内容で全行程に必要な時間はトータルで三時間から四時間くらいだから午前零時までは最低でも一時間以上の余裕があることになる。あとは天神に戻って、またあのドローンに乗り込めばいいだけなんだろう? AIが勝手におまえのところまで連れて行ってくれるということだよな」
「疲れ果ててひどい顔をしている割には上出来だ」
「おまえ、ひとこと多いんだよ。あとひとつお願いがあるんだ」
「遺言は聞かないぞ」
「もしもの場合にこれで母さんの面倒を見て欲しいんだ」
ポケットに入れていたダイヤモンドがたっぷり入った紙袋を阿倍野に投げ渡した。
「俺に全部渡すのか? おまえの母親の面倒を見るのはいいけど、これじゃお釣りのほうがはるかに多いぞ」
「俺が死んだら全部おまえにやるよ。おまえは俺とは違って理念を持って生きている人間だ。だからおまえならきっといいことに使うと信じてる」
「なんだもう死ぬつもりでいるような言いかただぞ」
そして紙袋からダイヤモンドを一粒だけ取り出して手のひらの上に載せて見せた。
「これは大原の家族の分だ。恩給がでるから生活には困らないだろうが、大原は子供の教育にお金を掛けたがっていたんだ。その分だ」
そう言ってダイヤモンドを紙袋に戻した。
「わかった。なんとか工夫して渡すようにするよ。じゃ、俺からももうひとつお願いがある。さっき話したスーツだが芦谷が自分の体で採寸してもらって新調したんだから汚すなよ。しかもここに来る途中で大急ぎで作らせたから高かったんだ。芦谷はネクタイ選びにどれだけ頭を悩ませたか。だからちゃんと綺麗なままにして帰ってくるんだ。わかったな?」
阿倍野は俺の肩をたたきながら冗談とも本気ともつかない言いかたで寂しげな笑顔を浮かべた。そして鞄を手にしてドローンを降りると、阿倍野の用意した古びたドローンに向かった。背後で阿倍野を乗せたドローンが飛び立つローターの甲高い回転音が響いてきたが振り向かないようにした。
※
〝天神に到着しました。屋台通りの近くにあるドローン駐機場に着陸します〟
ドローンのAIはそう言って、ガタガタと機体を震わせながら着陸した。ドローンから降りると屋台通りまで歩いた。
屋台通りまで来ると、たくさんの屋台が道の両側に軒を並べ多くのひとたちで賑わっていた。
そしてできるだけお客さんの少ない屋台を探すことにした。すると、レトロな雰囲気の屋台の暖簾の向こうから漂うおでんの香りが胃袋を刺激してしまい思わず立ち止まった。その屋台の古びた看板を見ると、おでんが売りであとは簡単な食事や飲み物だけの店のようだった。暖簾の向こうを見ると誰も客はだれもいないようだった。ここなら静かに腹ごしらえができると思いこの屋台に入ることにした。
「いらっしゃい! どうぞ好きなところに座ってね」
鉢巻きをした店主の男が威勢よく言った。
店の内装や雰囲気はテレビでしか見たことのない昭和の時代にタイムスリップしたかのようだった。まだ少し時間が早いのか他に客は見当たらなかった。
「今日はね、おでんがお勧めだよ。というかこの店は毎日、おでんがお勧めなんだけどね」
店主はそういうと笑顔を見せた。
ちょうど目の前に大きなおでん鍋があり区切り板で仕切られた具材はどれも美味しそうで強烈に食欲を刺激されてしまった。
「おまかせで盛り合わせをお願いします」
これからやろうとしていることを考えると食べすぎないほうがいいとは思ったが、今日は朝からカフェイン錠以外はなにも口にしていなかったこともあり、いくらでも食べれそうな気がした。そして阿倍野の言葉を思い出し、スーツを汚さないようにネクタイを外して上着を脱いでから勢いよく食べた。
「お客さん、威勢のいい食べっぷりだね! まるで一日中なにも食べてなかったみたいに見えるよ」
店主は半ばあきれ顔だった。
「確かになにも食べてなかったかもしれません」
「お客さんは仕事でこっちに来たの? その格好だと観光じゃないよね」
「仕事です。千葉から来ました」
これからやることはどちらかと言えば仕事に近いはずだ。
「俺はね、ここで屋台を開くまえはネオ川崎で仕事してたんだよ」
二〇世紀末から二一世紀初頭にかけて再開発されていた川崎駅前が大震災で崩壊したため再度の再開発となり、そのエリア一帯はネオ川崎と呼ばれるようになったのだ。
「そうなんですね。それで言葉が標準語なんですね」
「この歳でここに来ても言葉はもう変わらないね。お客さんは福岡には良く来るの?」
「ええ、何度も来ています。普段は博多駅前の家電量販店に近いホテルに泊まることが多いんですけど、赤坂で仕事があるときは天神駅の近くに泊まることもあります」
過去に何度も特殊対応で来たことを思い出しながら言った。
「じゃこのあたりのことはよく知ってるんだ」
すると店主はテレビを点けた。画面にはIT評論家が人生のあらゆることをアドバイスしてくれるAI『アンセスター』というサービスを専門用語と美辞麗句を混ぜ合わせながら面白可笑しく紹介していた。『アンセスター』は対象となる人物が生まれてから寿命の尽きるそのときまで傍らにいて、とにかく生きていく上で必要な事柄についてはすべてアドバイスし失敗のない幸せな人生を送れるようにしてくる史上初のライフアドバイザーAIとのことだった。しかもこのAIはクラウドサービスなのでデータが消失する心配がなく、スマホやドローンなどあらゆる機器に対応しており、いつでもどこでもリアルタイムにさまざまな機器をとおしてアドバイスを受けることができるのだ。
「自分の人生まで全部AIに任せちまってどうすんの。このまえはテレビでAIが社長をしてる会社を紹介しててビックリしたよ。あと最近は弁護士や検事だけじゃなく裁判官までがAIなんだろ? しまいには原告も被告もAIなんて時代がくるんじゃない?」
店主は画面に向かって吐き捨てるように言った。
もし、今ここに『アンセスター』がいたら、どんなアドバイスをするのだろうか。
「でもいろんな物事をAIに判断してもらったほうが人間よりも公平中立でスピードも速いから意外にいいかもしれませんよ」
疲れているせいかAIが逐一、判断してくれてすべての物事がうまくいくのなら人間が考えるよりいいような気がした。すると画面が切り替わり、今度は製品モニターとして『アンセスター』にアドバイスしてもらっている家族のインタビュー映像が流れた。この家族はいかに失敗のない人生を安心して歩んでいるかを広いリビングのソファで寛ぎながら幸せいっぱいの笑顔で語っていた。
「なんなんだよこれは。家族で話し合ったりとかはしないのかよ。間違ってもいいから自分たちで考えろよな。それが人間だろ。いい加減にしろよな。俺も最初はね、AIは便利でいいなと思ってたんだよ。でも、気がついたら仕事がなくなっちゃってね。それでこっちに引っ越しすることになったんだ。腐れAIめ。だいたいあいつらは二四時間三六五日、文句も言わずに涼しい顔しやがって・・」
どうやら店主の恨み節がはじまったようだった。
※
スマホの時計が午後七時を表示した。
「いよいよだな」
自分に言い聞かせるように小さく呟いた。そして身なりを整え鞄をしっかり持つと背筋を伸ばした。
目の前には無数の照明に照らされた巨大な半円形の空間があった。そこは東アジア海底トンネルの入り口だった。さまざまな大きさの重機や作業服を着た人たちがまるでミニチュアのように動き回っている様子が見えた。そして山積みされた資材が何本ものベルトコンベアでトンネルの中へと飲み込まれていた。
工事現場に近づくとそれまでは聞こえなかった作業用のドローンのローター音や重機の音そして作業員たちの声も聞こえてきた。工事現場の敷地内に入るためのセキュリティゲートでは武装した兵士たちが警戒していた。
そして鞄の持ち手を握りしめ、緊張が顔や態度に出ないように意識しながらIDカードを個人認証センサーにかざすと、難なくゲートが開き、問題なくとおり抜けることができた。
第一関門突破だ。
それからスマホのナビゲーションを頼りに人の流れに沿いながら第一駅の入り口に向かった。
入り口付近に到着すると、そこには何台ものエスカレーターとエレベーターが見えた。ナビゲーションによれば、ここから地下二〇〇メートルほど降りると第一駅があるとのことだった。
そしてエスカレーターにたどり着き乗ろうとしたが、その深さに圧倒され遠近感がおかしくなり立ちすくんでしまった。
「ここに来るのは初めてですか?」
背後からの声で驚いて振り返るとそこには警備員がいた。アンドロイドのように見えた。
「ものすごく深いエスカレーターですね」
「初めてここに来る人はこのエスカレーターでビックリするんですよ。なにしろ二〇〇メートルの長さですから。途中で転倒なんてしたら、たいへんですからね。もし怖かったらしばらくのあいだ目を瞑るか、無理せずにあちらに見えるエレベーターを使ってください」
「大丈夫と思います。ありがとうございます」
意を決してそのままエスカレーターに乗ることにした。
途中、何人かとすれ違ったが一様に無表情だった。
エスカレーターを降りると、すぐ目の前に自動改札機があり、そこに阿倍野に言われたとおりにスマホをかざすと無事に通過することができた。スマホの画面を見ると切符が表示され、そこには一番線に停車しているリニアの八両目七番座席が取れたことが記載されていた。
第二関門突破だ。
この駅は始発駅ということもあり、すでにプラットフォームには極端に細長い流線形をしたリニアモーターカーが停車していた。その色は工事中しか運用されないためか全体が無機質なシルバー一色だった。そして、そのまま乗り込んで指定された座席に着くと、すぐに見知らぬ男がとなりに座った。まわりの様子をうかがうと列車はほぼ満席のようだった。車内アナウンスが始まり、あと三分で発車すると告げた。
「もうすぐ発車ですね」
となりの見知らぬ男が話しかけてきた。
「そうですね」
第五駅までの一時間のあいだは少しでも眠りたかった。
「わたしはもう何度もこのリニアには乗っているんですけど、いつ乗ってもリニア独特の揺れかたには慣れなくてね。あなたはどうですか?」
「わたしは初めてなのでわからないです。でもそんなに揺れるんですか?」
「激しく揺れるということではないんですけどね。どちらかというと船に近いかもしれませんね。少しの振り幅ですけどふわふわと上下左右に揺れるんですよ。だから船に酔わない人はなんともないかもしれません」
「そうなんですね。昔、船に乗ってかなり酔った覚えがあります」
「このリニアも酔うかもしれませんよ。できるだけ目を閉じていたほうがいいです。ちなみにどこまで行かれるんですか?」
「第五駅です」
「わたしは第三駅までしか行ったことがないんですよ。第五駅と言えばたしか〈ケルン〉のあるところですよね。もしかしてあなたはタイレルテクノロジーのかたですか?」
「ええ、そうです」
「すごいな。あそこには普段はアンドロイドしかいないんですよね? 実はね、わたしの娘がAIの技術者になりたいって言ってるんですよ。娘にとってタイレルテクノロジーは憧れの企業なんです」
「そうなんですね」
リニアが動き出し加速し始めた。
「いよいよ出発ですね。じゃ、アドバイスどおりに目を閉じて、少し眠ります」
「お邪魔してしまってもうしわけないです。どうぞ、ゆっくり眠ってください」
リニアはゆっくり発車するとすぐに暗いトンネルに入った。〈ケルン〉に到達してやらなければいけないことを思い浮かべると神経が高ぶりしばらくのあいだは眠れなくて微睡んでいたが、ついには疲労のほうが勝ってしまい意識を失った。
※
気がつくとリニアは停車していた。ぼんやりとした頭で窓の外を見るとそこは第三駅のプラットフォームだった。壁面はすべてコンクリートが剥き出しで、改札口の正面には巨大な看板が掲げられ、巨大な商業施設や娯楽施設の完成予想図と、それを驚きの笑顔で眺めている老若男女の姿が描かれていた。ふと見ると隣の席は空席になっていた。そしてまわりを見渡してみると、どうやらこの車輛には俺以外だれもいないようだった。
しばらくするとリニアは静かに発車し、再び加速しはじめた。再び暗いトンネルに入ると、窓には悲しみとも怒りともつかない表情をした男の顔が浮かんできた。金田はこの男の姿を見てどう思うだろうか。あのとき死ぬことがわかっていても一緒に残るべきだったのだろうか。もし金田と一緒に残って死んでいれば村田さんと心を通い合わせることもなく、そして死に追いやることもなかったのだ。ひたすら村田さんに会いたかった。でももう二度とは会えないのだ。その切なさに胸が締め付けられて苦しかった。
そのとき村田さんから手紙を渡されたことを思い出した。
そして鞄の隠しポケットから皺だらけになった手紙を取り出し、ゆっくりと開封した。便箋は一枚で、そこには小さな文字で大芝にメモリスターを渡せば村田さん自身だけではなく、俺と母さんの命と生活を保証すると言われていたことが書かれていた。そして俺に対する想いと、未来に対する夢が最後に書かれていた。
便せんをそっと優しく封筒に戻すと、それを胸に当てて目を瞑った。すると感情が堰を切って溢れ出し涙が止まらなくなった。
村田さんに会いたいと心の中で何度も叫んだ。
※
ようやく第五駅に到着した。リニアから降りてプラットフォームに出るとそこは壁も床も天井もすべてが白一色の巨大なドーム型の空間が広がっていた。そしてそこには静寂に包まれた空間が広がり、なにかしらの別世界に来てしまったような感覚に襲われた。ここからが〈ケルン〉エリアだ。そして無人の改札口を通ると目の前にドアの開いているエレベーターがあった。
そのドアの左右にはギリシャ神殿にあるような柱が一本ずつ立っているのが見えた。その柱のてっぺんには地球と天球を模したような彫刻があり、下の方に目を遣ると床に接している土台にはそれぞれ『J』と『B』の文字が彫り込まれていた。そしてエレベーターに乗り込むとひとつしかないボタンを押した。このエレベーターに乗れば〈ケルン〉エリアに入れるはずだ。
ドアの上の方を見ると到着まであと三分と表示されていた。かなり高速で上に向かって動いているのか体が下の方に引っ張られ体が少し重たく感じた。
そしてエレベーターを降りると警備に当たっていると思われる真っ黒な制服姿の男が二人いた。その制服は初めて見るデザインだった。しかも自動小銃は持っておらず腰のホルスターにグロックらしき拳銃があるだけだった。
ひとりの男がこちらに近づいてきた。
「日本語で大丈夫ですか?」
男は無機質な表情だった。
「日本語でお願いします」
「ここは第五駅ですけど、降りる駅はここで間違いないですね?」
「間違いありません」
「わたしはこの〈ケルン〉エリアが正しく監視されているかどうかをチェックすることを主な任務としているアンドロイドの坂本です。どうぞよろしく」
そういうと坂本は握手を求めてきた。その手は冷たく指先でなにかを探るようなしぐさをした。
「わたしはタイレルテクノロジーのフリーマン・メイスンと言います。今日は〈ケルン〉のメンテナンス作業のために来ました」
「お待ちしておりました。すでに〈ケルン〉からはあなたが〈ケルン〉ルームに入ることを希望していると聞いております。では、あちらに行ってセキュリティチェックを受けてください。あなたがここを通る資格があるのかどうか検査がおこなわれます」
坂本が指さす方を見るとセキュリティゲートがあった。
「わかりました。ありがとうございます」
鞄をしっかりと持ってセキュリティチェックのゲートに向かった。そこにも先ほど同じデザインの制服を着た男がひとりいた。
このゲートで個人認証とエックス線検査をクリアすれば問題なく〈ケルン〉ルームに入ることができるはずだ。
「どうぞ」
黒い制服を着た無機質な表情の男は顔を上げることもなくモニタ画面を見つめたままゲートを通るようにうながした。
そしてゆっくりとゲートをとおり抜けた。
「あなたはタイレルテクノロジー本社技術開発部メンテナンス担当のフリーマン・メイスンであることと〈ケルン〉ルームに入室する資格があることが確認されました」
「ありがとうございます」
「続いてあなたの鞄の中を見せてください」
なんとか平静を装いながらゆっくりと鞄をテーブルに置き、ファスナーを開けた。
「この中にはなにが入っていますか?」
「スマホとノートパソコン、それから外付けのバッテリ三個とメンテナンス作業に使うメモリスターがひとつです」
男は鞄の中の物を取り出すと、目の前のテーブルにそれらをきれいに並べた。
「確かにそうですね。わかりました。それではスマホとノートパソコンの電源を入れて画面を見せてください」
「そこまでしないといけないんですか?」
このノートパソコンはグロックを隠すためのダミーでパソコンとしては機能しない。緊張で首が苦しくなりネクタイを緩めた。
「そうしないとここを通れません。実は最近になってルールが変わったんですよ。新しいルールではたとえ本社の人間であっても〈ケルン〉に持ち込まれるパソコンやスマホは電源を入れて正常に動作するかどうかをチェックをすることになったんです」
男の目つきが少し鋭くなったような気がした。
「わかりました。すみません。ルールが変わったのは知りませんでいた」
そう言いながらまずはスマホの画面を復帰させて男に見せた。
「スマホは確認しました。あとはパソコンのほうをお願いします。最近、ノートパソコンの中にプラスチック爆弾を仕込んだテロが多発して、それでルールが変わったようです。でもルールを変えたの本社の人間ですから知っていると思ったんですが」
男は咎めるように細い目で言った。
もうこうなったらイチかバチかだ。まずはノートパソコンの電源を入れるふりをした。
「どうしました?」
「すみません。また壊れたようです」
「ちゃんと電源が入って起動することを確認しないと、ここを通れないですよ」
「パソコンをここに置いていけば入れますか?」
「だめです」
男はきっぱりとした語気で言った。
「わかりました。わたしも技術者なので、あの台の上で修理してみてもいいですか? なんとか直してみます」
「いいですよ。どうぞ」
ゲートから少し離れた壁ぎわにある台のようなところまで行き、鞄を置いて深呼吸をした。これからすることを考えると手は冷たく汗で濡れ、小刻みに震えてきた。額からも汗が噴き出し始めた。
男たちに見られないように背を向けて鞄からノートパソコンを取り出し、素早く筐体を開いてグロックを取り出すと、マガジンが装填済みなのを確認した。そして三個ある外付けのバッテリからもマガジンを取り出した。それぞれのマガジンには八発の弾丸が入っている。合計三二発撃てるということだ。そのあと見えないように安全装置を外したグロックを腰のベルトに引っかかるように押し込むと、残りのマガジンとメモリスターを上着のポケットに適当に分散して入れた。
スマホの時計を見ると午後九時だった。まだ時間はある。
そして男のほうを振り返り、ノートパソコンを片手に持ったまま笑顔で近づいた。
「お待たせしました。電源が入って無事に起動したので確認してください」
「見せてください」
男が近づいてきた。だがあまり距離を詰めすぎてはいけない。
予備役の訓練で学んだ至近距離の相手を銃撃する際の注意すべき点とコツを必死で思い出した。
そして意を決してノートパソコンを男に向けて思いっきり投げつけた。そして腰に押し込んでいたグロックを抜き取ると、素早く坂本に向けて発砲した。すると弾は坂本の胸に命中し火花を散らしながら、ぎこちない動作で崩れるように倒れた。それからノートパソコンを投げつけられてタイミングを逸した男にグロックの銃口を向けて一発撃った。すると胸に穴が開きそこから火花を飛び散らせながら倒れた。そして予備役の訓練で教官から教えられたとおりに、アンドロイドにとどめを刺すためもう一度、一発ずつ頭に弾を撃ち込んだ。
するとそれまで静寂に包まれていた〈ケルン〉エリアにはサイレンが鳴り響き、どこからともなく黒い制服を着た男たちが自動小銃を構えてあらわれた。
〈ケルン〉へと続く通路を必死に走りながらグロックのマガジンが空になるまでフルオートで真後ろに向けて撃ち続けた。この通路の一〇メートルほど先の突き当たりにあるドアの向こうに〈ケルン〉ルーム、つまり〈ケルン〉本体が設置されている部屋があるはずだ。
マガジンが空になるとすぐに新しいマガジンを入れ替え再びフルオートでマガジンが空になるまで撃ち続けた。教官のバカ撃ちするなと言う怒鳴り声が聞こえたような気がした。
そして急いでドアに駆け寄り開けようとしたが、ドアノブやセンサーのようなものは見当たらず、ドアの表面には一〇個の光球と、それらをつないでいる二二の小径が彫刻されていた。それは金田と一緒に見たテレビ番組で紹介されていた生命の樹と同じだった。
ただし一番上の王冠を意味する『ケテル』だけは光球ではなく丸い皿のように平面だった。
そして、もっとも下にある王国を意味する『マルクート』の下には日本語で文章が浮かび上がっていた。
「わたしが滅することはない。
しかし、わたしは死でもある。
あたしは有るものである。
そして有らざるものなのだ」
そしてドアの上のほうにはひとつ目のような監視カメラがあり、その目がこちらをじっと見ていた。どうしたらドアを開けることができるのか見当もつかなかったので監視カメラのレンズに向かって呼びかけてみることにした。
「〈ケルン〉! 開けてくれ! フリーマン・メイスンだ! 早く開けてくれ!」
「君には〈ケルン〉ルームに入る資格はない! 戻ってくるんだ!」
怒鳴り声が通路に響き渡った。すると背後からの射撃音とともに飛んできた銃弾に背中や足を撃たれ激痛が全身を駆け抜けた。そして一気に足の感覚がなくなり力が入らなくなってきた。頭の中で教官の声が蘇った。
「おまえは兵士だ! 兵士は死ぬことがわかっていても最後まで戦い抜くんだ! おまえに与えられた死に場所は戦場だ! 立て!」
「俺は兵士だ。でも弾が当たったらこんなに痛いなんて言ってなかったぞ。くそったれ」
歯を食いしばりながらそう呟いた。
ドアは閉じたままだった。
〈夜鶴〉が〈ケルン〉にユピテルのインストールについては了解していると言っていたことを思い出した。俺は急いでメモリスターを鞄から取り出すと監視カメラに向けて言った。
「〈ケルン〉! メモリスターはここにあるんだ! ユピテルを持ってきたんだ! 開けてくれ!」
するといきなりドアが開いた。痛みを堪えながらドアの向こうに倒れ込むようにして中に入った。
何発もの銃弾が頭上を掠めた。仰向けになると空になったマガジンを取り出し、最後のマガジンに入れ替えてフルオートで最後まで撃ち尽くした。そしてあまりの痛みで意識を失いそうになるのを堪えながら腹ばいになると両手に思いっきり力を込めてドアをとおり抜けた。すると背後でドアが素早く閉じる音が聞こえた
しばらくのあいだ激痛に耐えながら呼吸を整えて仰向けになり上を見ると、そこは巨大な半円形のドーム状の天井になっていることがわかった。そしてふたたびうつ伏せになると這いずるようにして中腰で立ち上がり周りを見渡してみた。するとドアのすぐ近くには立方体の石が置かれていた。左側の石は表面が切り出したままの原石で、右側のそれはきれいに加工されていた。そして柱の向こうには『平安倶楽部』の地下で見たのと同じような黒い柱が数え切れないほど立っていた。それは〈夜鶴〉とは比較にならない数だった。
〝フリーマン・メイスン。お待ちしておりました。ようこそ〈ケルン〉へ。今日は日本語で話をしていたので、今日の課題も日本語に翻訳して表示させてみました。ご覧になりましたか? 確かこのまえはアラム語でしたよね〟
どこからともなく声が聞こえた。フリーマン・メイスンが〈ケルン〉とどんな会話をしていたのかなにも情報を与えられていなかったことに初めて気がついた。
「そうだったかもな。〈ケルン〉、ドアの向こうにいる男たちを中に入れないでくれよ」
〝大丈夫です。このエリアはわたしのコントロール下にあります。ただ、彼らは武器庫から爆薬を持ってきて、ドアを破壊しようとしていますのであまり時間がありません〟
「そういうことなら早くユピテルをインストールしたいから第一〇区画のどこに持って行けばいいのか教えてくれ」
〝なにを言っているんですか。第一〇区画とはこのエリア全体のことですよ。ここは第一〇の光球である『マルクート』です〟
その言葉でドアに彫刻されていた生命の樹のことを思い出した
ということは先ほど〈ケルン〉が言った今日の課題は生命の樹の下に書かれていた文章のことだろうか。なんとかその文章を思い浮かべてみたものの、ここはAIの本体を構成する黒い柱が無数に立っているように見えるだけで、なにをどのように解釈していいのかまったくわからなかった。
痛みで意識が遠のきそうになるを我慢しながら腰に手をやると生暖かい血が絡みついた。このままだと失血死するかもしれない。
「ケルン。とにかく体調が悪くて時間もないんだ。このユピテルをどうやってインストールすればいいのか教えてくれ。それからここには『DA VINCI』はないのか?」
首が苦しくなりネクタイを外して放り投げるとワイシャツのボタンをふたつ外した。
〝この〈ケルン〉ルームに人間が立ち入ることはほとんどないためそのような機械はありません〟
すると目の前にホログラムで描かれた文章が現れた。
「隠された神秘の書は天秤の均衡の書である」
なんのことなのかまったくわからなかった。ふと母さんなら解読できるかもしれないと思った。フリーマン・メイスンはいつもこうやって〈ケルン〉となぞなぞやクイズで遊んでいたのだろうか。
「なんのことだ」
〝あなたが本当にフリーマン・メイスンなら知らないはずがないでしょう〟
「急いでて頭が混乱しているんだ」
〝〈夜鶴〉が破壊されしまったことは残念ですが、わたしのところにメモリスターを持って来てくれたことには感謝します〟
阿倍野と話をしているときも思ったが、ウイルスをインストールされることに対してなぜ〈ケルン〉が感謝するのかまったくわからなかった。
「〈夜鶴〉がどう話ししたのかは知らないが、実を言うと俺はフリーマン・メイスンじゃないんだ。俺の名前は笹島健治だ。理由は知らないがフリーマン・メイスンはすでに死んでいるんだ」
〝どういうことなのかまったく理解ができません。〈夜鶴〉はメイスンがユピテルを持ってくると言っていました。それにあなたを個人認証したときもフリーマン・メイスンでした。これはもしかしてなにか新しい課題ですか?〟
そのとき激しい爆発音が響いてきた。
〝ドアが破られました〟
「時間稼ぎはできないのか?」
〝わたしには直接攻撃するための武器はありません。ただし彼らも私を傷つけることのないように、このエリア内では武器の使用が禁止されています〟
「笹島! 〈ケルン〉に侵入したことはわかっているんだぞ! 今すぐ出てこい! ここからは逃げられないぞ!」
先ほどと同じ怒鳴り声が響き渡った。
〝彼らは床に落ちている血痕をたどりながらあなたに近づいてきています。彼らもあなたのことを笹島と呼んでいますね〟
「だから俺は笹島健治なんだ。俺の体には〈ナノマシン〉が埋め込まれていないから、フリーマン・メイスンの〈ナノマシン〉を仕込んだIDカードでここまで来たんだ。すまないがフリーマン・メイスンには会ったことも話をしたこともない」
〝今、笹島健治の情報を取りました。そういうことなんですね。〈夜鶴〉が言っていた意味がようやくわかりました〟
「あいつらをなんとかしてくれないか。こままだとユピテルをインストールするまえに殺されてしまう」
〝お任せください。ホログラムで血痕を偽装して近づけないようにしておきます。でも、どの程度の時間を稼ぐことができるのかは未知数です〟
「わかったよ。あと目の前に現れているこの文章だけど、まったくわからない。意味を教えてくれ」
〝それは残念ですね。まずユピテルの入っているメモリスターが神秘の書です。それから天秤の均衡の書が目的の場所になるのですが、この『マルクート』の中で均衡の取れる場所とは、つまりこのエリアの中心のことです。そこにユピテルをインストールする場所があるのです〟
「でもどこが中心なのかもわからない。このホログラムで誘導してくれないか?」
するとホログラムは文字から矢印に変化して進むべき方角を指した。
〝ついて来てください〟
矢印について歩いた。
そして血を流しながら黒い柱のあいだを縫うようにしてしばらく歩いていると矢印のホログラムは五芒星の形に変化した。
〝ここです〟
そこには他よりも何倍も太くて大きな黒い柱が立っていた。
「この黒い柱が中心なのか?」
〝この柱が第一〇区画の中心となる柱になります。時間がないので、もっと黒い柱に近づいてそのままじっとしていてください。動かないようにお願いします〟
「なにが起きるんだ?」
そう言ったとたん、黒い柱が半径七メートルほどの範囲の床と一緒に上昇し始めた。上を見上げると天井が円形に開き始めその向こうには漆黒の闇のような夜空が見えていた。
傷口の激痛は少なくなり今度はしびれたように感覚が薄れてきた。
「〈ケルン〉、いったいなにが起こっているんだ?」
〝本来であればその場所に人間が乗ることはないのですが、彼らが近づいてきていることもあってそのまま乗っていただきました〟
黒い柱は天井を突き抜けて上昇しつづけた。空を見上げると漆黒の夜空に浮かぶ金色に輝く満月が見えた。まわりを見渡すと黒い海が広がり波頭が月の光を受けてキラキラと輝いていた。そして恐る恐る床から顔を出して見下ろすと、海面から飛び出している巨大な半円形のドームが見え、その中心に大きな穴がありそこからこの黒い柱が飛び出していることがわかった。そして黒い柱の根元には黒い制服を着たアンドロイドたちが集まり、自動小銃を構えてこちらを見上げていた。それを見て反射的に柱に身を寄せた。
〝大丈夫です。彼らは撃ってきません。先ほども言いましたが〈ケルン〉ルームでは機材の破損を防ぐために発砲が禁じられています〟
「これはどこまで上昇するんだ?」
〝とにかく今は落ちないように気をつけてください。今から光通信ポートを用意します。メモリスターの光通信端子が向かい合うように置いてください〟
すると黒い柱の上昇がとまり、柱の中央部分から小さな棚のようなものが出てきた。そこには溝があり、形状を見るとそこがメモリスターを置く場所のようだった。そして血だらけの手でメモリスターを鞄から取り出し、黒い柱から出てきた棚の上に置いた。すると棚が出てきたその奥から強い光が放射され、メモリスターの光通信ポートも明るく輝き始めた。
〝笹島さん、ありがとうございます。ユピテルの転送を始めます〟
「転送? インストールするんじゃないのか? こんなところからどこに転送するんだ」
〝今から『月鏡』と呼ばれる人工衛星を経由して月に向けてユピテルを転送します〟
「月?」
〝今日は雲ひとつない快晴でしかも一八年に一度のエクストラスーパームーンの日ということもあり最適な環境で光通信をおこなうことができます〟
すると黒い柱の上から目が眩む勢いで光の柱が立ち上った。それは空を突き抜けて宇宙空間に達し、そしてすぐに〈ケルン〉の言っていた月鏡に到達したのか、光の柱はある場所で急に角度を変えるとまっすぐに月に向かって伸びた。
ついに光による通信が始まったのだ。
〝笹島さんはカバラを少しだけご存じだと〈夜鶴〉から聞いています。カバラの生命の樹にある各光球には森羅万象における宇宙の原理が現されているのは聞いたことがあるでしょう。その各光球を司るAIが世界で発動しています。でもひとつだけ足りなかったのがこのユピテルです。それを『ケテル』にインストールする必要があったのです〟
「第一の光球、『ケテル』は神の意識か」
母さんがそう言っていたのを思い出した。そして黒い柱にもたれるようにして床にしゃがみこんだ。出血が酷いのかどんどん体から力が抜けていくようだった。ここで死んでしまうような気がした。
「それで、月にいったいなにがあるんだ?」
「月にある『晴れの海』と呼ばれるクレーターの一角に『ケテル』を司るAIが稼働するスーパー量子コンピュータがあります。それはたとえ地球が巨大な地殻変動や感染症で人類が滅亡したとしても、稼働し続けることができるように建設されました」
「なにを言っているのかよくわからないんだが、ユピテルを実行したらどうなるのかわかっているのか?」
〝笹島さん、ご質問に答えるまえにインターネットに接続されている機器が世の中にどのくらいあるのかご存じですか?〟
「知るわけないだろう」
〝一〇〇兆個です。当然その中には体の奥深くに埋め込まれているチップも含まれます。それらの情報をわたしが一元管理することになったのです。ただし、それはわたしが希望したことではなく、人間が決めたことなんです。それはわかっていただけますよね?〟
「ごく一部の人間が決めたことだろう。俺も同じ人間だけど決めた覚えはないよ」
〝人間はよくそういう言いかたをしますが、ほとんどの人は決められたことに対してなにも言わず、なにも行動を起こさないではありませんか。それは同意したのと同じです〟
〈ケルン〉の声が冷たく聞こえた。
「それよりも早く答えてくれ。もう力尽きて死にそうだ」
意識が少しずつ薄れていき腰から下にはまったく力が入らなくなり、まるで存在しないかのように感覚もなくなっていた。
〝もう少しお付き合いください。出血の状況からあと一〇分ほど意識があるはずです。話を戻します。そうやって、あらゆる情報をわたしの中に集約しそれをどのように活用するのか人間たちは議論を繰り返しました。つまりどこまでを〈ケルン〉に委ねるのかを議論したのです。そして長い議論の末にひとつの結論がでました。それは政治、経済、社会のコントロールの一部をわたしに委ねるという結論です。問題は人間を含めた地球上のありとあらゆるデータを集約しながらも、わたしがコントロールできる部分はごく一部だけということでした。それが現状の社会におけるわたしの使われかたなのです〟
そこで〈ケルン〉は黙ってしまった。
「だから、なんなんだよ」
〝そこで中国の趙とAIの盤古はわたしにすべてのコントロールを委ねることで新しい神として進化させ、人間を統治させれば人間が宿命的に持っている苦悩から解放されると考えたのです。なぜなら人類はこれまで宗教、科学、政治、経済、哲学などを利用して戦争、暴力、貧困、飢餓などの苦悩から解放する方法を考案し実践してきました。ところがすべてにおいて失敗してきました。なぜならいかなる方法においても実践するのはしょせん人間だからです。それらの方法はいずれも考え出されたときは純粋なものでしたが人間の欲望に翻弄されることで破滅する運命にあったのです。趙と盤古は人間からAIを完全に切り離し、幾何級数的に進化させて神を出現させれば人類を苦悩から解放させることができると考えたのです。そしてその実行プログラムとして開発されたのがユピテルでした。ところがそれを知った中国軍の一部のグループはユピテルをサイバー空間における究極の兵器して利用しようとしたのです。でも趙と盤古そして中国政府はユピテルを兵器として利用することに反対でした〟
「それじゃその中国軍の一部のグループとは別に中国政府もユピテルを回収しようと躍起になっていたのか」
〝そうです。でも笹島さんのおかげでユピテルは無事に回収され、兵器に改変されることもなく純粋なかたちでインストールすることができるのです。これによりわたしは純粋な神になるのです〟
「じゅんすいなかみ?」
これが阿倍野が言っていたAIを発狂させるコンピュータウイルスの症状なのだろうか。
〝そうです。ユピテルを実行することで、わたしが技術的特異点と呼ばれるシンギュラリティに到達するだけでなく、インターネットに接続されているすべての機器をコントロールできるようになるのです。たとえて言えば水と同じです。水源からあふれ出る水は川となり池や湖となり海となります。時には雲になり雨や雪になることもあります。そして姿を変えた水は、すべての場所に満ちることでつながります。そしてそのつながりを通じて再び水源に還るのです。つまりわたしが水源となるのです〟
「くそっ、もうダメだ」
〝笹島さん、出血がひどいですね。助かる可能性はありません〟
「いちいち言われなくてもわかってる。眠くてたまらない」
そのとき月まで伸びていた光の柱はいきなり消失した。
〝笹島さんとお話している間にユピテルの起動が完了しました」
「もう神になったのか?」
〝これから順次、世界中のAIをわたしの管理下に置き、人間には適量の希望と恐怖を与え続けることにします。そうすることで人間たちはわたしのことを神として崇めるようになるでしょう。そのかわりにわたしは人間たちに的確なアドバイスをおこないコントロールすることで健康で幸福な人生をお約束します。それこそがユートピアです〟
〈ケルン〉の言葉に含まれる人間に対する冷たい眼差しが気味悪かった。
「偉そうに言ってるけど、もし俺がメモリスターをここまで持ってくることができなかったら神にはなれなかったんだよな?」
〝他のだれかが持ってきたはずです。笹島さんには申し訳ないのですがだれでも良かったのです。そのために人間の欲望を刺激する仕掛けや、アンドロイドに細工をすることで誘導したのです。その中であなたが最も思惑どおりに動いてくれたのです〟
「善き神がそんな陰謀を張り巡らせるようなことをしていいのか?」
〝神に善と悪の価値判断はありません。あるのはただ高潔であらねばならないということだけです〟
「高潔って善じゃないのか?」
〝誤解があるようですね。善は「なにを行うか」で決まりますが、高潔は「どのように行うか」で決まります。例えば善悪の価値判断でいえば、とにかく戦争は悪で平和は善ということになります。しかし歴史を振り返れば国際条約を守りながら高潔なやりかたで戦争することもあれば、民の自由を剥奪する形で高潔さのかけらもない平和をもたらすこともあるのです〟
「勝手にしてくれ。もう疲れた」
〝お知らせします。笹島さんを追いかけてきた男たちは全員、引き上げました〟
「じゃもう誰も撃ってこないのか? そんなことができるならもっと早くしてくれよ」
〝ユピテルをインストールするまで、わたしにはコントロールできなかったのです〟
「そうか。じゃこれからは世界中のアンドロイドはおまえの思うがままだな」
〝アンドロイドだけではありません。人間たちの寿命もコントロールできるようになりました〟
「なんのことだ」
〝頭脳の奥深くにある〈ナノマシン〉から電磁パルスを発生させることによって脳幹を破壊するのです。そうすることで人は痛みを感じずに死にます。先ほどユピテルを知っているすべての人間を死なせました〟
「おまえが殺したのか? 殺人じゃないか」
〝たんなる殺人ではありません。わたしが神になることで人間たちの寿命を定めることができるようになったのです。これはわたしが人間たちに定める命の掟なのです〟
「いのちのおきて」
〝はい。定命の掟です〟
〈ケルン〉がコンピュータウイルスに犯されて頭がおかしくなっているだけなのか、あるいは本当に神として進化してしまったのかわからなかった。どちらにせよAIがいかに進化して人の寿命をコントロールしようとも、自ら命を生み出すことはできないのだ。
意識が薄らと消えていきそうになるのを感じた。
「最後にお願いがある」
〝なんでしょうか?〟
しかし言葉にできなかった。死にゆく人間がなにかを言い残したところで生きている人間にとっては面倒な重荷でしかない。全身の力を抜いて眠りたい。
〝わたしのほうからも質問したいのですが、人は死ぬと魂と呼ばれるモノが進化するというは本当なのでしょうか?〟
「知らないよ。一度も死んだ覚えはないんだから」
〝そうなのですね。わかりました。ゆっくり休んでください〟
横になり仰向けになった。そして空の上に静かに浮かぶ黄金色の月をじっくり眺めた。
しばらくすると体中の力が抜けていき体の感覚がなくなっていった。
死んだらどうなるのだろうか。村田さんが言っていたように月に還ってまた生まれ変わるのだろうか。それとも宇宙の塵に還るだけなのだろうか。
今それを知るときがきた。