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第三章

 スーパー台風はいまだに猛威を振るいジェットヘリは豪雨と強風の中を金沢に向けて飛び続けた。

「診察はこれで終わりです。まだ時間があるから少し横になって休んでいてください。目的地に到着したら起こしますよ」

 エルリコンのマークが刺繍されている白衣に着替えた平沼はタブレット端末になにかを書き込みながら言った。

「あと、どのくらいで到着するんですか?」

「このまま行けばあと二時間ほどだと思います。その間に点滴で栄養を補給しますから、ゆっくり休んでいてください」

 言われたとおりにそうしたが、目を閉じると金田や村の人々の顔が次々に浮かび眠れそうにもなかった。

 時折、風に煽られてジェットヘリが大きく揺れた。

「このジェットヘリは大丈夫なんですか?」

「大丈夫ですよ。このジェットヘリは最新鋭の技術で作られて、しかも搭載されているAIはトップレベルの成績を収めているから安心してください。ちなみにAIの名前は〈クラリス〉です」

「このヘリは自動操縦なんですか」

「当たり前ですよ。こんな台風の中をうまく姿勢制御して飛行するなんて芸当は人間には無理ですから。あとルールで決められているから念のために言っておきますが、笹島さんのパラシュートとヘルメット、それから防弾ベストがベッドの下に格納されているので万が一のときは使うようにしてください。ただし、こんな台風ごときで墜落するようなヘリじゃないので使うことはありませんけどね」

「わたしの鞄はありますか?」

「これのことですか?」

 平沼がずぶ濡れの鞄を重そうに持ち上げて見せてくれた。

 鞄を受け取ってファスナーを開けてみると使えなくなったスマホ、ノートパソコン、メモリスターそして押しつぶされた鰻重弁当が入っていた。

「よく眠れないようでしたら睡眠薬を飲んでみませんか? 神経が高ぶっていると体が疲れていても眠れなくなることがありますから」

 平沼はそう言って錠剤を二錠差し出してきた。言われたとおりに薬を飲むとすぐに強烈な眠気に襲われ目を開けていられなくなってきた。そして鞄を抱きしめて横になるとすぐに意識を失った。

 目を覚ますとジェットヘリが強風に煽られて上下左右に大きく揺れていた。

「今はどのあたりですか?」

 平沼は医療端末に表示されている生体情報モニタを見ていた。

「目が覚めましたね。時刻は午前一時半です。今は飛騨上空で目的地の金沢駅前の駐機場に向かって飛んでいます。笹島さんはそこで降りてください。しばらく待っていれば国家警察のドローンが到着することになっているので、それに乗ってください。そうすればどこかは聞いてませんが、あなたが本来行くべき場所まで飛ぶことになっています。それから国家警察との契約で救助した警察関係者に渡すことになっている物があるので今、渡しておきます」

 そういうと平沼は黒い箱を持ってきた。中を開けると真新しいスマホ、グロックと装弾されたマガジンがあった。

「そこにあるのはスマホと装弾済みのグロックです。国家警察支給のものでフルオートとセミオートに切り替えられるようになっています。あと予備で装弾済みのマガジンもふたつあります。えっと、訓練は受けたことありますよね?」

「陸軍の予備役訓練を修了しています。でも、スマホはともかくグロックは必要ないような気がします」

「そう言われても困るんです。とにかく契約でそうなっているのでとりあえず両方とも受け取ってください」

 平沼はそのまま押し付けるようにして渡してきたのでグロックとマガジンは鞄に放り込んでおくことにした。グロックは大原警部に会ったときに返せばいいのだ。スマホのほうはさっそく電源を入れてみた。

「ところで笹島さんは〈ナノマシン〉が埋め込まれていないですよね。それでIDカードを確認させてもらったんだけど、記録では健康そのものでした。でも実際に体をスキャンしてみたら骨髄異形成症候群だということがわかりました。それに血液からは有象無象の薬物が検出されました。その中には高濃縮カフェイン錠を過剰摂取したことのある形跡も見つかりました。まぁ心当たりはあるんでしょうけど」

 平沼は眉をひそめて疑うような目つきで言った。心の中に潜む黒い願望を見透かされたようが気がして居心地が悪かった。

「わかってます。あと、お願いがあるんですけど、今の診察の記録は残さないでください」

「そう思ってIDカードには、これまでの内容に沿うかたちで健康体ということで追記しておきました。それから笹島さんが常用しているのと同じ種類で副作用の少ない薬を点滴で投与しておきました。これで少なくとも数日のあいだは効果が持続すると思います」

「すみません。ありがとうございます」

 とにかく病気については記録を残したくはなかった。

 スマホの起動が完了し使える状態になった。そしてすぐに北花田病院の入院患者の家族向けホームページにアクセスしてログオンした。画面上には母さんの顔写真や名前と一緒に生体情報モニタの数値が表示された。リアルタイムで表示されているその数値からは脈拍や呼吸は正常で熟睡していることがわかった。ところが病院のセキュリティのログを見ると一時間ほど前まで誰かが個室にいたことがわかった。そして誰が来たのか調べようとしたそのとき、ジェットヘリ内に警報が鳴り響いた。

〝緊急事態発生。武装したドローンが八機接近中。あと三分で射程圏に入ります。法令に基づき攻撃が確認でき次第、反撃を開始します〟

「なんてことだ。〈クラリス〉、そのドローンの身元は?」

 平沼は予想外の事態に動揺を隠せない様子だった。

〝身元情報の発信はありません。ただし形状や武装のパターンを過去のデータベースに照会したところ、『五蝶会』のものと思われます〟

 権常はなにがなんでもメモリスターを取り戻すつもりなのだ。

「〈クラリス〉、ただちに本社に報告して応援を頼め!」

〝すでに応援を要請しました。到着予定は五十五分後です〟

「それじゃ間に合わないぞ! 〈クラリス〉、予防的な先制攻撃をしろ!」

「規定二二三条により先制攻撃はできません」

「〈クラリス〉、どういうことだ?」

〝いずれかの国家に所属する正規軍からの攻撃であれば予防的な威嚇および先制攻撃が可能となりますが、所属不明の武装勢力に対しては民間人の可能性があり、いかなる理由においても先制攻撃はできないことになっています〟

 すると機銃掃射がいっせいに浴びせられ咄嗟に両手で頭を覆って伏せた。

「〈クラリス〉、撃たれたぞ! 反撃しろ!」

 平沼は叫んだ。俺は頭を低くしながら機内の様子を見ると機体が穴だらけになり雨と風が容赦なく吹き込んできているのが見えた。

〝武器使用による攻撃を受けましたので反撃を開始します〟

「大丈夫か!」

 平沼は恐怖で顔が青ざめながらも自分の使命を果たそうとしているようだった。

「なんとか大丈夫です!」

 そう言うのが精一杯だった。そして銃撃で穴の開いた窓から外を見ると、このジェットヘリからも機銃掃射が一斉に始まりドローンは木の葉が舞うように煙と炎を吐きながら次々に墜落した。ところが二機のドローンが銃撃を避けながら一気に上昇したかと思うとこちらに向かって急降下してきた。

「うわぁ! 逃げろ!」

 思わずそう叫ぶと隅に逃げ、割れた窓から外の様子をうかがった。するとジェットヘリからの機銃掃射で一機は撃墜したが、最後の一機がついにジェットヘリに体当たりした。その瞬間、轟音と共に大爆発しジェットヘリの機体は引きちぎられ、真っ逆さまに墜落し始めた。床には平沼が血まみれになって転がっていた。

 激しい雨と風が機内を容赦なく掻き回し、ずぶ濡れになった。鞄の取っ手を握りしめながら力を振り絞ってベッドまで這っていき、防弾ベストとパラシュートを装着した。最後にヘルメットを被ろうとしたとき、機体の裂け目からふと下を見ると地面はすぐそこまで迫っていた。慌ててヘルメットを放り投げると鞄を胸に抱きしめ、予備役のパラシュート降下訓練を思い出しながら外に飛び出した。

 すぐにパラシュートを開くとふわりと空中に浮かんだ。ジェットヘリは一直線に火を噴きながら森の中に墜落し激しく炎と煙を上げて爆発した。

 どこかに更地があれば着地しようと思ったが、暗くてよく見えなかった。しかもパラシュートが強風に煽られてうまくコントロールが効かない。

 しばらく悪戦苦闘していると、どこからともなく武装したドローンが現れ機銃掃射を浴びせてきた。タイミング良くパラシュートが風に煽られ、なんとか被弾せずに済んだがこのままではいずれ蜂の巣にされてしまう。鞄からグロックを取り出すと安全装置を解除してフルオートでドローンに狙いを定めて撃った。ところが風に煽られて狙いどおりに撃つことができなかった。

 ドローンの方も風に煽られてうまく狙うことができないのか距離を空けはじめた。おそらく風が少しでも止む瞬間を待ってから狙いを定めて銃撃するつもりなのだろう。しばらくそうして睨み合っていると風が瞬間的に止んだ。するといきなりドローンは猛スピードで近づいてきて機銃掃射を浴びせてきた。

 そしてついに何発かの銃弾が左太ももに命中し激痛が走った。傷口を見ると血が勢いよく溢れ出していた。

 グロックのマガジンを新しいものと入れ替え、呼吸を整えてドローンに狙いを定めると、ためらうことなくふたたびフルオートで撃ちまくった。

 すると至近距離で正面から銃弾を受けたドローンは炎を上げながら体勢を崩して墜落し始めた。

「クソ野郎! 死んじまえ!」

 激痛に耐えながら墜落していくドローンに向かって思いっきり叫んだ。周りを見渡すと別のドローンがまだ一機飛んでいた。よく見るとそれは非武装で大きなカメラを搭載していた。

 そのレンズはじっと俺を見ていた。

「だれだ! ぶっ殺してやる! この野郎!」

 グロックで狙いを定めて撃ったが、射程圏外をぎりぎりのところで飛んでいるため、一発も当たらなかった。ドローンは俺にレンズを向けたまま悠然と飛んでいた。

 しばらくそうしているとドローンは何事も無かったかのように飛び去った。パラシュートは降り続く激しい雨の中、ゆっくりと森の上を風に弄ばれながら降下し、石ころだらけの狭い空き地に着地した。すると着地した衝撃で左足全体に激痛が稲妻のように走り、その痛みに耐えられず倒れ込んでしまった。

 あたりを見回したが漆黒の闇が広がるばかりでなにも見えない。ずぶ濡れの鞄から平沼から渡されたスマホを取り出し、電源を入れて『ライト』を起動した。あたりを照らして見ると五〇メートルほど先にプレハブ小屋が見えた。あの小屋に行けばなにかあるかもしれない。そして激痛に耐えながらなんとか立ち上がってみたが、あまりの痛さに真っすぐには立てなかった。それに疲労困憊しているせいで思うように力も入らなかった。

 長い時間をかけて少しずつ進みようやくプレハブ小屋までたどり着いたときには寒さで全身が小刻みに震えはじめた。そしてその震える手でドアノブを回してみたがぴくりとも動かなかった。そこで鞄からグロックを取り出して弾が装填されていることを確認し、ドアノブを狙って撃つと激しく火花を散らしながらドアノブが弾け飛んだ。

 グロックとスマホを構えながら部屋の中に入り、スマホのライトで照らして見るとそこには大きなテーブルがひとつと、それを取り囲むように椅子が何脚かあり左側の奥の一段上がったところには布団がいくつも積み重ねられていた。部屋の右側にはロッカーがふたつ並んでいた。とりあえず人の気配はないようだったので照明を点けようと壁際にあるスイッチを適当に押してみたがどれも駄目だった。

 左太股の傷口からは血がどくどくと流れ出ていた。傷口を処置しないでこのままにしておくと朝までには死んでしまうような気がした。そのときネクタイを鞄に入れたままにしていたことを思い出した。震える手で鞄からネクタイを探り出すと、止血するために左太股の付け根あたりを思いっきり縛った。すると出血がようやく収まってきた。ただこれでは応急処置にしかならない。

 そこでなにかないだろうかとロッカーまで足を引きずりながら歩き扉を開けてみると、ひとつ目のロッカーにはヘルメットや長靴と一緒にタオルや作業着、そして雨合羽が掛けてあった。そこからタオルと作業着を取り出すと、血や泥で汚れてずぶ濡れの服をすべて脱ぎ捨て、タオルで体を拭いたあと作業着に着替えた。そしてふたつ目のロッカーには同じようにヘルメットなどが入っていたが、下の方には救急箱がありその横には予備役の訓練でも見たことのある『DA VINCI Ⅶ』と書かれたオレンジ色の箱があった。

 急いでその箱を取り出しテーブルの上まで運んで蓋を開けると、四本のマジックハンドのようなアームのある小さなロボットとバッテリパックが入っていた。これを使えばAIが手術する必要のある箇所を判断して麻酔や執刀から縫合までを自動で行ってくれるはずだ。

 蓋に書かれている手順どおりに電源スイッチを入れ、慎重にカメラのついたアームを引っ張り出し傷口に向けてからスタートボタンを押した。すると搭載されているAIが起動されカメラとセンサーが動きだし何度も繰り返して傷口を調べ始めた。しばらくすると小さなモニタ画面に結果が表示されたが内容は読まずに、すぐに手術開始のボタンを押した。すると別のアームが注射器を取り出し麻酔薬を傷口に注射すると、いきなり目を開けていられないほど強い眠気に襲われ意識を失ってしまった。

 ふと目を覚ますと、どうやら手術は無事に終わったようだ。縛っていたネクタイはほどかれて傷口が綺麗に縫合してあり、痛みもほとんど引いていた。スマホを見るとまだ午前三時半すぎだった。雨が止んだようで静かだった。窓の外を見ると雲が晴れて月が出ているために少し明るかった。スーパー台風はようやくすぎ去ったようだった。体はまだ眠りを要求していたが空腹で胃が痛かった。どこかに食べ物がないか探してみたが見つからなかった。途方に暮れていると木島宅でもらった鰻重弁当のことを思い出し、急いで鞄の中から平らに押しつぶされて冷たくなった鰻重弁当を取り出した。そして震える手をなんとか押さえながら無我夢中で食べた。すると金田を思い出し涙が溢れてきた。食べながら底知れぬ寂しさに胸がおしつぶされそうになった。

 食べ終わるとなんとか気を取り直して真新しいスマホで大原警部に連絡することにした。

「どうなったんや? 大丈夫か? なんや電波の状態が悪いな。どこかの山奥か?」

 ノイズが激しく音声も途切れ途切れで聞き取りにくかった

「わかりません。もしかしたら、どこかの山奥なのかもしれません。結局、エルリコンのジェットヘリに助けられたんですけど、途中で『五蝶会』の武装ドローンに銃撃されて墜落してしまいました。わたしはパラシュートで脱出したんですけど、一緒に乗っていた医師は死んでしまいました」

「なんやと! でも、あんたと金田は大丈夫やったんやな! 今、どこや!」

「詳しい事情はあらためて説明しますが、金田はジェットヘリには乗らずに公民館に残りました。死んだと思います」

「あのクソ保険会社からはなにも連絡が来てへん! じゃ、おまえひとりだけやな。メモリスターは・・」

 またノイズが激しくなり聞き取れなくなった。

「大原警部、聞こえますか? わたしひとりです。メモリスターも無事です。このスマホの位置情報からわたしの居場所がわかると思うので、金沢駅に向けて飛ばしているドローンの行き先を変更してください。今、プレハブ小屋にいるんですけど、急いでここを出ないとだれか来るかもしれません」

「あの・・あんた・・ドローンはまだ時間がかかるはずや。急ぎやったら・・電話してるスマホの位置情報で地元の警察に応援を頼んでみる。それから・・そっちに・・」

 ついに回線が切れてしまった。そして布団の山まで足を引きずるようにして歩いて行き、その中に体を潜らせると布団に全身を包み込まれたことでリラックスできた。そうしてしばらくすると深い眠りに沈み込んだ。

 気が付くと静寂の中でゆっくりとドアの開く音が聞こえてきた。すると強い光の筋がまっ暗な部屋の中を走った。もしかすると大原警部が要請した地元警察の救援が到着したのかと思い、布団から顔を出してドアのほうを見た。するとドアのすぐ近くに懐中電灯を手にした人影があった。少しずつ月明かりに照らし出されたその顔は間違いなく権常だった。

 あまりの衝撃で体が金縛りにあったように硬直した。権常は右手にグロックを握り、左手に懐中電灯を持ち、両手を交差させるようにして懐中電灯と銃口を同じ方向に向けて部屋の中を調べていた。見つからないように布団の山の中にじっと身を潜めた。するとすぐに権常はテーブルの上に置いたままにしていた『DA VINCI Ⅶ』を見つけモニタ画面を操作した。すると権常は顔を上げてあたりを見回しながら大声で言った。

「笹島! さすがは最新型の手術ロボットやのう。外科手術用の機械やのに、おまえの体がややこしい病気でボロボロになってることまでレポートしてるで。それから聞いたで。おまえは大芝の清水と民治党の木島を騙したらしいな! 根性あるやないか! でもな、あいつらはおまえを殺してでも金のなる木を手に入れようとしてるんやぞ! 助けてやるから出てこい! あのメモリスターはおまえには荷が重すぎる。しっかりしたバックが付いてる俺に任せろ。分けまえはちゃんと払うで」

『DA VINCI Ⅶ』に記録されているログファイルを見たに違いなかった。鞄に手を伸ばしてゆっくりとグロックを取り出した。弾は確かあと四発は残っているはずだ。すると、権常は布団の山のほうにグロックと懐中電灯を向けて一歩、また一歩と近づいてきた。

「それにしても、さっきは保険会社のヘリに乗ってるのにはビックリしたで。おまえが個人で支払えるような保険料やないはずやから、誰かがおまえのバックに付いてるんやろ。それがどんなバックからはまだわからんけど『五蝶会』を敵に回してたら長生きでけへんで。だから一緒に仲良く大金を手に入れようやないか」

 権常はゆっくりとそして確実に布団の山に近づいてきた。

「おまえは大金を手に入れてそのぼろぼろの体と母親のぼろぼろの体を全身サイボーグ化するつもりなんやな? でもな、それでもお釣りのほうがはるかに多いで。それやったら、こうしよ。今、おまえが両手を挙げて出てきたら俺が全部払ってやる。出てくる気がないんやったら、おまえをここで殺してから母親を病院から引きずり出してなぶり殺してやる。どうや、わかりやすい提案やろ」

 予備役の訓練で銃器の扱いは知っているが、実際に人を撃ったことは一度も無かった。しかしこの状況であれば覚悟を決めるしかない。一瞬、金田の顔が浮かんだ。

 そのとき窓の外が明るくなりヘリのローター音が聞こえてきた。権常は窓に駆け寄り外の様子をうかがった。そして俺は意を決して布団から飛び出すとグロックの銃口をまっすぐ権常に向けた。

「権常! 手を上げろ!」

 すると権常は素早く振り返り、懐中電灯の明かりを俺の目に向けた。その強烈な光をまともに目で受け止めてしまい、目が痛くなってなにも見えなくなった。恐怖に駆られてグロックをドアの方に向けて闇雲に撃ちまくった。すると権常はドアから外に飛び出し、走り去っていった。目をかばいながら急いで窓に駆け寄り外を見ると権常は森に向かって走り、そのうしろを制服警官たちが追いかけている姿が見えた。小屋の近くに着陸したヘリを見ると胴体には富山県警察と書かれていた。するとヘリから出てきたふたりの制服警官が小屋に向かってきたので慌てて布団の山に再び潜った。警官たちはドア開けてプレハブ小屋に入ってきた。

「笹島さん、いたら返事してください! 我々は国家警察刑事部の大原警部から応援要請を受けて来た富山県警の者です!」

 どうやら捕まえに来たのではなさそうだった。そう思うとまた眠気が襲いかかってきた。

富山県警の旧式で古びたヘリの中で目を覚ましたが、体全体で鉛を背負っているかのように重たく頭も痛く起き上がる気になれなかった。

「笹島さん、目がさめたようですね。あと三〇分ほどで金沢駅前のドローン駐機場に着陸しますので、そこで国家警察のマグノリア547を待っていてください。ここは石川県なのでわれわれ富山県警の管轄外なんです」

 隣にいるアンドロイドなのか人間なのか判別のつかない制服警官の男は俺が目覚めたことに気づくとそう言った。

「まだまだ眠りたいですね」

 目を閉じてこめかみのあたりを指でマッサージをした。

「すみません。本官には休んでいただく権限がありません」

 人が眠るのになんの権限が必要なのだ。この警察官は一度も眠ったことのないアンドロイドなのだろう。

「さっき小屋から逃げた男はどうなったんですか?」

 たしかプレハブ小屋から飛び出した権常を警官たちが追いかけていたはずだと思って聞いてみた。

「あの男は現在も追跡中です。それでお聞きしたかったのですが、あれがだれなのか心当たりはありませんか?」

 どうやら警察はまだ権常だということを把握していないようだった。

「すみません。暗くてよく見えませんでした。たぶん知らない人だと思います」

 ここで権常であることを言ってしまえば、どういう関係なのかなぜ狙われているのかなどを説明しなければならなくなり面倒なことになりそうな気がしたので言わないことにした。

「そうなんですね。わかりました」

 その声には何の感情も感じられなかった。そのとき母さんの個室のセキュリティログに誰かが訪問した記録があったのを思い出した。

「ここでスマホを使ってもいいですか?」

「どうぞ」

 生乾きの鞄からスマホを取り出すと、もう一度入院患者の家族向けホームページにアクセスしログインした。母さんの生体情報モニタを見ると容体は安定しているようだった。そしてセキュリティログの詳細情報を表示させた。すると母さんの個室にいたのは村田さんだということがわかった。俺は急いでスマホのメッセンジャーを起動し、SNSのIDを入力して音声通話でかけてみた。

「はい。村田です。笹島さんですよね?」

 眠そうな声だった。

「こんな時間にごめん。昨日は電話できなくてごめんね」

「いえ、大丈夫ですよ。それよりも昨夜はいろいろあって笹島さんのお母さんにお願いしてゲストルームに泊まらせていただきました」

「さっき母さんの部屋のセキュリティログを見たら村田さんが部屋にいた記録があったよ」

「すみません。何度も電話したんですけど、つながらなくて」

「スマホが水没しちゃって使えなくなったんだよ。それで今、別のスマホからSNSのメッセンジャーを使って掛けてみたんだ。それで昨日はテクセン秋葉原に総務部と保安部の人間が来たって言っていたけど、どうなったの? 村田さんや今城さんや寺田センター長にも電話したけどつながらなくて心配してたんだ」

「わかりました。順番に説明します。昨日、電話で会社の総務と保安部がテクセン秋葉原に来たところまではお話したと思います。あのとき総務部と保安部の人たちが大勢で押しかけてきて家宅捜索するからと言われてショールームは臨時休業にさせられちゃったんです。それで捜索は五時すぎまでかかったと思います。そのあいだはどこにも連絡できず外出もできなくて軟禁状態でした。それで捜索のあいだにわたしと今城さんと寺田センター長はそれぞれ個別に尋問されたんです。ものすごく威圧的で怖かったです」

 そして村田さんの声の様子から感情が高ぶってきている様子が窺えた。泣き出しそうになるのを堪えているようだった。

「すみません。それで、その尋問の時に笹島さんと金田さんについていろいろと聞かれました。普段の仕事ぶりとかもそうですけど、プライベートなことも含めて質問責めだったんです。一番しつこかったのは笹島さんと金田さんが回収したTaiyoBookがどこにあるのか知らないかどうか何度も聞かれたことです。だいたいそんなことを知るわけがないので、いくら責められたって答えようがないんです。それで私の尋問が終わってショールームのテーブルで休憩してたら保安部の人が来て、わたしは解雇になって、今城さんと寺田センター長は保安部の事務所に連行したって言われたんです」

 田村さんになにかもっと言葉をかけなければと思ったがなにも浮かんでこなかった。想像すると苦しくて息が詰まりそうだった。全部あのメモリスターのせいだ。いや俺のせいだ。

 村田さんは続けた。

「それでスマホも返してもらえないままショールームを追い出されたんです。それでもしかしたら笹島さんのお母様の病室にいれば笹島さんが来るかもしれないと思って、お母様にお願いしてゲストルームに泊まらせていただきました」

「そうなんだ」

 あまりのショックでそれ以外に言葉が見つからなかった。

「笹島さん、それでお願いがあるんです」

「うん」

「わたしも笹島さんと金田さんのところに行きたいんです。私にはもう他に行くところがありません。私が住んでいるマンションの契約は大芝なんです。解雇されたら一週間以内に出て行かないといけないんです。せっかく頑張ってきたのに悔しくて悲しくてたまらないんです。それに笹島さんと金田さんになにがあって、今城さんや寺田センター長も含めて、どうしてこんな目に遭わないといけなくなったのか知りたいんです」

「実は、金田は死んだんだ」

「えっ! いったいなにがあったんですか!」

「でも知らないほうがいいと思うんだ。もうだれも巻き込みたくないんだ。とにかく俺からは離れたほうがいいよ」

「どうしてわたしたがこんな目に遭わないといけないのか知りたいんです! 笹島さんのせいじゃないってちゃんと説明してくださいよ! 仕事もなくなって部屋を追い出されるのを待つだけなんていやです! わたしはもうどうしていいのかわからないんです!」

 村田さんは悲しみとも怒りともつかないその口調に気圧されてしまいそうになった。しかし、もう誰も巻き込みたくはなかった。村田さんは俺に会いに来るべきではないのだ。

「だからって村田さんを巻き込みたくはないんだ! 俺と一緒にいないほうが安全なんだよ!」

 村田さんの返事を待たずにスマホの回線を切った。そして電源を着ると鞄に放り込んだ。心の中では後悔がずっしりと重たくのしかかってきているのを感じた。こうなったら、なんとしてでも大金を手に入れて母さんや俺をサイボーグ化するだけじゃなく、村田さんが路頭に迷うことがないようにしてあげたいと心から思った。

 しばらくすると窓からは観光スポットとしても知られている金沢駅の東口にある傘をイメージしたデザインで、膨大な数のガラスをはめ込んだ高さ三〇メートルの『もてなしドーム』と、能楽に使われる鼓をイメージした高さ一四メートルの木で作られた『(つづみ)(もん)』が見えてきた。どちらも有名な観光スポットで、特殊対応などで訪れたときに乗るタクシーで何度も同じ説明を聞かされた覚えがあった。

 駅の北側にある駐機場にヘリが着陸すると鞄を抱えて降りた。そしてすぐ近くにあったベンチに座った。雲ひとつない空を見上げると富山県警のヘリが空の彼方に去って行くのが見えた。そして空は少しずつ明るくなり嵐のあとの和やかな朝の光に包まれ始めた。

 『もてなしドーム』のガラスに朝日が反射してキラキラと輝き、『鼓門』がオレンジ色に輝いて見えた。駐機場から金沢駅のほうを見渡すと台風で吹き飛ばされたゴミや看板が散乱していたが、人影はなくひっそりとしていた。

 するとどこからともなく背中の曲がった年老いた女性が箒と塵取りを現れ、俺のほうに近づいてきた。

「今度のスーパー台風も凄かったね。家が吹き飛ぶかと思ったよ。見かけない顔だけど、あんたもボランティアでここの掃除に来たんだろ? ご苦労さんだね。その格好なら作業しやすくていいよね。でも、道具はどこにあるんだ? 忘れたのか?」

 老女は俺の作業服姿を眺めながら、しわくちゃの笑顔で言った。

「いえ。実は・・」

 言いかけてやめた。なぜか昔懐かしい温かい気持ちに包まれ一緒に掃除してみたくなった。

「すみません。道具を忘れてしまいました」

 すると老女は自分が持っていた道具を差し出すと、自分が使う道具は駅にあるボランティア用ロッカーにあると言って去って行った。俺は渡された箒と塵取りを手にして傷ついた足を庇いながら立ち上がると、ベンチのまわりから掃除をはじめることにした。痛みと疲れで悲鳴を上げている体を罰するかのように無理矢理動かし、無心になって掃除をした。

 しばらくそうしていると、今度は見知らぬ男が声を掛けてきた。

「おはようさん。あんた見かけない顔だね」

「はい。新入りです。よろしくお願いします」

 ふと広場に目をやると何十人もの人たちが思い思いに掃除道具を持って現れ黙々と掃除をしていた。

「こちらこそよろしく。でも、その足、痛そうだけど大丈夫か?」

「台風のせいで転んじゃったんです。少し怪我しただけです」

 すると遠くから声が聞こえた。

「おーい! みんな! 差し入れが来たぞ!」

 広場の真ん中にはいつの間にかだれかがテーブルを用意し、だれかがその上にお茶とおにぎりを並べ、だれかが味噌汁を用意し、だれかが色とりどりのお菓子を置いていった。

 遠慮なく熱々のおにぎりを手にとって頬張ると口の中にふっくらとして甘みのあるご飯と梅干しが混ざり合い、あまりの美味しさに食べれば食べるほど食欲を刺激されてしまうほどだった。また温かい味噌汁は八丁味噌独特のコクの中にあるかすかな酸味と粉っぽい舌触りが絶妙で美味しかった。テーブルの上に合成食はなかった。

「あんた、そんなに腹が減っとったんか」

 見ると、最初に出会った年老いた女性だった。とにかくお礼が言いたかったが口の中がいっぱいでなにも言えなかった。

「いくらでもあるからお腹いっぱい食べれ。沢庵もあるで」

 お腹がいっぱいなり、胸もいっぱいになった。なぜか公民館の屋上に避難していた村の人々や金田の顔が頭をよぎった。

 清掃作業が一段落し、みんなで休憩していると上空から国家警察のドローンが無人で駐機場に降りてきた。大原警部が手配したマグノリア547だった。

「驚いたな! あんた警察だったんかい?」

 街の人たちは一様に驚いて言った。

「警察がなんでそんな作業服を着て掃除していたんだ?」

 隣にいた老女も目を丸くして驚いていた。

「すみません、行かないといけないので。差し入れ美味しかったです。ありがとうございました」

 ずっとこの土地で生きていけたらどんな風に日々の生活を送ることになるのだろうかと想像した。だが、そんなことができるはずもなかった。

 鞄を手にしてマグノリア547に乗り込もうとしたそのとき、ひとりの女性が背中を向けてシートに座っているのが見えた。すぐに村田さんだとわかった。その背筋を伸ばしたうしろ姿を見るとなぜか驚きよりもむしろ心が安らぐのを感じた。

「おはようございます」

 村田さんはこちらを振り向いてそう言った。簡単に化粧をし髪を整えただけで疲れているようすがうかがえた。

「おはよう。まさかこのドローンに乗っているとは思わなかったよ」

 俺はゆっくりと村田さんの隣に座った。

〝笹島様、おはようございます。目的地の設定をお願いします〟

「〈マグノリア〉、県道二〇九号線沿いにある『平安倶楽部』まで頼む」

〝承知いたしました。目的地を県道二〇九号線沿いにある『平安倶楽部』に設定しました。所要時間は約四〇分です〟

 『平安倶楽部』とはオッジこと阿倍野晴明が経営するカフェレストラン『平安』と併設されているペンション『銀河の宿』の総称だ。そしてそこはハッカー集団の『月読命』の本拠地でもあった。

 窓の外を見るとみんなが手を振ってくれていた。そこには昔懐かしい日本が粘り強く静かに残っているような気がした。

「みなさん、笹島さんのお知り合いなんですか?」

「そういうわけじゃないけど。でも、もう知り合いかな」

 もう二度と会うことはないのだと思うと、胸に熱いものがこみ上げてくるのを感じた。

 マグノリア547は上昇し続け安定高度まで上昇すると急加速しながら水平飛行をはじめた。

「すみません。笹島さんと最後に電話していたときにはもうドローンに乗っていたんです。それでちゃんと言おうと思ったんですけど電話を切られちゃったんで言えませんでした」

「それにしても、どうしてこのドローンに乗ることになったの?」

「実は以前に大原警部からお茶に誘われたことがあって、そのときに名刺をもらったんです。それで昨日、笹島さんとの電話のあと大原警部に連絡して事情を説明したら、ちょうどいいドローンがあるから乗るように言われたんです。それで大原警部からは笹島さんを手伝えって言われています」

「はぁ? なにを手伝うの?」

「電話でも言いましたけど、わたしにはもう行くところがないんです。なんていうか生活するためにはお金も要ります。そのことを大原警部に相談したら、笹島さんの仲間になって手伝えって言われました。大原警部も仲間なんでしょ?」

 急いでスマホを取り出して大原警部に抗議の電話をしようとしたが圏外だった。

「じゃ大原警部からメモリスターのことも聞いたの?」

「聞きました。大原警部は『バカデカい金のなる大木』と言っていました」

 大原警部にはひたすら呆れるしかなかった。

「そうなんだ。まいったな」

 村田さんの表情は真剣だった。行くところがなくなった原因を作ったのは俺だ。俺を手伝って分けまえにあずかるというのは村田さん自身がこれから生き延びることを真剣に考えて出した結論なのだろうと思った。

「わかったよ。でも、今からこれまでの経緯を含めて説明するから。結論を出すのはそのあとにして欲しいんだ。それでいいよね?」

「わかりました」

 そして特殊対応としてTaiyoBookの回収を指示されたところから今朝までの出来事を説明した。村田さんはいっさい口を挟むことなく聞き入っていた。

「金田さん、かわいそうですね」

 話が終わると村田さんはポツリとそう言った。

 その言葉は俺の心の中に刺のように突き刺さった。

「今さらだけどメモリスターを持ち出したことを後悔してるんだ」

「どうしてですか?」

「大金を手に入れるために、いろんな人を巻き込んでしまったからね」

「確かに金田さんはかわいそうですけど、自分の意志で選択したことですから、笹島さんは自分を責める必要はないと思います。それに寺田センター長や今城さんを連行したのは大芝の保安部ですから。そんなこと言ってたらきりがないですよ」

「そうかもしれないけど」

「それはそうと昨日の夜は笹島さんのお母さんといろいろとお話しできて心が少し救われました」

「そうなんだ。あっ、メールしたけど、このまえの特殊対応の時に母さんの話し相手になってくれたのを知らなかったんだ。ありがとう。喜んでたよ」

「そうなんですね。わたしも笹島さんのお母さんと話をするのは楽しいですから。またぜひお会いしたいです」

「ありがとう」

「それにしても今日は台風一過ですごくいい天気ですね」

 村田さんは窓の外を眺めた。

「そうだね。〈マグノリア〉、今日の天気は?」

〝予報では終日快晴です〟

 窓からは見える空は抜けるような青さに澄み切っていた。ここまで来たら村田さんのためにもなんとしてでも阿倍野にこのメモリスターを解析してもらうしかない。そして取り引きを成功させて大金を手に入れるのだ。だが心の奥底では罪悪感と後悔でもがき苦しんでいる自分がいた。

「昨日はいろいろとあって寝不足なんだ。目的地に着くまでのあいだ少し眠るね」

「わかりました。ゆっくり休んでください」

 目が覚めると体が重たく、汗で濡れていた。窓の外には『銀河の里』と呼ばれる台地が見えた。以前、ある特殊対応で『平安倶楽部』を訪れたときに聞いた話では、この周辺には障害物となる山や建物などがなく見晴らしがいいことから、天文マニアの間ではよく知られている天体観測のスイートスポットとのことだった。

「笹島さん、大丈夫ですか? うなされてましたよ」

「中身は覚えてないんだけど、なにか悪い夢を見てたんだと思う」

 なにかしらの悪夢を見ていたという強烈な印象だけが頭の中に残っていた。

「もうすぐ到着ですよね?」

「あの台地が『銀河の里』で、その向こうに二棟の小さく見える建物が『平安倶楽部』だよ」

 マグノリア547は銀河の里を少し通りすぎたところにある県道209号線に沿って飛行を続けた。そして県道が大きくカーブする手前で二棟の建物が見えた。正面から見て右側の建物が二階建ての『平安』で左側が三階建ての『銀河の宿』だ。どちらもの建物も見た目に堅牢そうな木造建築だった。

「ところで大原警部からはここがどういうところで、誰に会うのか聞いてる?」

「はい。ちゃんと教えていただきました。『平安倶楽部』は『月夜命』っていうテロリスト団体の本部で、そこにはリーダーの阿倍野なんとかさんがいると聞きました。その人はテロリスト兼ハッカーで笹島さんの仕事を手伝うこともある友だちだって言ってました」

 田村さんの話を聞いている目眩がしそうだった。

「あの人、そんな風に説明したの?」

「そうですよ。その話を聞いたときにはビックリしました。笹島さんはいったいどんな業務を担当しているんですか?」

「なんていうか、もっと時間のあるときにちゃんと説明するよ」

 どう言っていいのかわからなかった。

〝目的地に到着しました。『平安倶楽部』のドローン駐機場に着陸します〟

 はやる気持ちを抑えドローン駐機場に着陸するのを待った。

「〈マグノリア〉、このドローンはいつまで使えるんだ?」

〝国家警察刑事部の大原警部からの指示で笹島様に対して四十八時間貸し出されることになっています〟

「〈マグノリア〉、わかった。降りる前に昨日の日付でテクノセンタ秋葉原に関する報道がないかどうか調べてくれ」

〝申し訳ございません。圏外です〟

 スマホを見ると確かに圏外だった。そういえば阿倍野から目に見えない電波は信用できないとのことで、あえて電波の届かない圏外に住んでいると言っていたのを思い出した。

「〈マグノリア〉、じゃここで待機していてくれ」

〝わかりました。お気をつけて〟

「村田さん、阿倍野なんとかさんに会いに行こうか」

 駐機場に降り立つと他にもドローンが一機と車が数台止まっているのが見えた。

 『平安倶楽部』の建物の右側にあるカフェレストラン『平安』に入ると店内にはジャズピアノのBGMが静かに流れ、ほのかに珈琲の香りがした。まだ朝が早いせいか客はまばらだった。

「笹島さん、いらっしゃい。あれ? 相棒の金田さんは一緒じゃないんですか?」

 カウンターの向こうから芦谷(あしや)が声を掛けてきた。髪にはちらほら白いものが目立ちはじめ、目尻には柔和ないつも笑っているように見える皺が刻まれている彼の表の顔は『平安』のマスター兼観光ガイドだった。ただどちらかというと知識偏重型のガイドだったため夜間に行われる天文ツアーをメインに担当していた。そして裏の顔は月読命の中核メンバーで組織の事務局長としての役割を担っていた。

「お久しぶりです。金田は来てないです。それから」

 村田さんを紹介しようとすると村田さんのほうから前に出てお辞儀をした。

「はじめまして。わたしは村田尚美といいます。事情があって笹島さんと同行することになりました。宜しくお願いします」

「あなたが村田さんですね。大原さんからものすごい美人さんが行くからって聞いてたんですけど一目見てすぐにわかりましたよ」

 すると村田さんは少し照れながら微笑んだ。

「とりあえず、あちらの窓際のテーブルに座っててください。ところで朝食はまだなんでしょ?」

「はい。まだです」

「じゃ、サンドイッチと珈琲を用意しますから待っててください。あっ、村田さんはなにかアレルギーとか好き嫌いとかありますか?」

「アレルギーも好き嫌いもありません。ありがとうございます」

「わかりました。阿倍野は今、仕事中なので終わったら連絡が入ることになっていますから、それまでゆっくりしててください」

 テーブルにつくと村田さんが小声で話しかけてきた。

「芦谷さんっていい人みたいですね」

「それがどうかしたの?」

「テロリスト団体って聞いてたので袋を頭からかぶせて、どこかに連れて行かれたりピストルを突きつけたりされるんだと思ってました」

「それ、ドラマの見すぎだよ。確かにテロリストだけど、無差別に人を殺したりはしないテロリストだから」

「いいテロリストですね」

 村田さんはにっこりした。どう説明したらいいのか、またわからなくなった。

 芦谷がサンドイッチと珈琲の入ったカップを二客と牛乳の入ったミルクピッチャーを持ってきた。

「『平安』特製サンドイッチですよ。珈琲を飲みながらどうぞ。ゆっくり食べてていいですよ」

「ありがとうございます。えっと、高濃縮カフェイン錠があれば欲しいんですけど」

「そんな体に悪いものがここにあるわけないでしょう」

 そういうと芦谷は笑顔で去って行った。

 疲れているせいもあってか角砂糖を三個と牛乳をたっぷり入れて、熱いのを我慢しながら一口飲んだ。すると熱い珈琲の液体が深みのある芳香とともに喉をとおり、全身に行きわたると体中がリラックスした。

「笹島さん、そんなに砂糖や牛乳を入れちゃったらカフェオレになっちゃいますよ」

「それはカフェオレじゃなくてカフェラテじゃなかった?」

「なにを言っているんですか。カフェラテはエスプレッソに牛乳を入れたもので、カフェオレは普通の珈琲に牛乳を入れたものですよ」

 村田さんが少し笑顔になった。

「あれ? そうだった?」

 そのあとはふたりで無我夢中になってサンドイッチを食べた。合成食ではない本物としか思えないレタスやトマトなどの野菜が使われていていた。

 食べ終わってしばらくするとカウンターの向こうで客やスタッフの店員たちと雑談していた芦谷が近づいてきた。

「そろそろいいですか。阿倍野が下で待っていますよ。あと確認だけど例のモノは持ってきていますよね?」

「ここにあります」

 ボロボロの鞄を持ち上げてファスナーを開けるとそのまま中身を見せた。

「わかりました。行きましょう。でもそのまえにその服装はカムフラージュにはいいかもしれないけどサイズも合ってないし、それに汚れて血があちこちに付いていて目立つから着替えましょうか」

 芦谷は長靴と作業服姿の俺を上から下まで何度も眺めながら言った。

 そしてカウンターの奥にある鏡のまえで、用意してくれた下着とネイビーブルーのジャケットと暗い色のボーダーカットソー、そして下はデニムに着替え靴は黒のスニーカーに履き替えた。

「まさかこんなにサイズが合う服がここにあるなんて思わなかったよ」

 鏡に映る自分の姿を見て驚いた。

「そうでしょう? 実はね。わたしと体型がほぼ同じなんですよ。それでわたしの服を持ってきました」

 芦谷は横に並んで、なぜか満足そうに顔をほころばせた。

 そのあと芦谷を先頭に俺と村田さんはカフェの厨房の奥まで続く長い廊下を進み、突きあたりのドアにたどり着いた。そしてそのドアを開けるとコンクリートむき出しの壁に囲まれた小さな部屋があった。中に入ると自動でドアが閉まり天井にある小さな電球がひとつ点灯した。

「なにもない空っぽの部屋ですけど、こんなところで解析作業をするんですか?」

 村田さんは部屋を見渡しながら言った。

「ここからまた移動しますよ。床が少し動くから転ばないようにしっかり立っていてくださいね」

 そして壁にある三角形の黒いボタンを押した。

〝合い言葉をどうぞ〟

 天井から声が聞こえてきた。

 芦谷は人差し指を口に当てて、俺と村田さんにはなにも言わないように合図を送った。そして芦谷は百人一首から取った合い言葉を言った。

()をこめて 鳥の(そら)()は はかるとも

   よに(おう)(さか)の 関は許さじ」

〝認証されました。ようこそ〈夜鶴(やかく)〉へ〟

 すると天井全体が白くひかり部屋全体が明るく照らし出されると床全体が少しずつ下がり始めた。

「これはいったいなんですか?」

 村田さんは驚いて腕を掴んできた。そのようすを見て芦谷が笑った。

「ここはただの小さな部屋のように見えるけど、実はエレベーターなんですよ」

「そうなんだ。俺も初めて阿倍野に連れられて来たときは驚いたよ。この地下には月読命のハッカー連中が作り上げた量子コンピュータがあって、その量子コンピュータに搭載されているAIの名前が〈夜鶴〉なんだ」

「じゃ、この床はその量子コンピュータがあるところまで降りるんですね?」

「そういうことだね。五十メートルほど下に降りるよ」

 しばらくすると床が止まった。そしてドアが開くとそこには半円形の天井で覆われた大きな空間が広がっていた。天井は隙間なく真っ白な照明が敷き詰められていて空間全体を明るく照らし出していた。

 そして部屋の中心あたりには天井に届くほどの黒い柱が何本も立ち、その横にはモニタ画面のある机がいくつか並んでいた。

「おーい! 阿倍野君。笹島さんと村田さんが来たぞ!」

 黒い柱の林からぬっと現れた阿倍野の体型は以前に会ったときよりもかなり緩んでいるように見えた。

「笹島、元気か!」

 阿倍野は嬉しそうにそう言いながら近づいてきた。

「なんとか元気だよ。それから一緒に同行することになった村田さんを紹介するよ」

「はじめまして。村田尚美です。よろしくお願いします」

「昨日、非存通信で大原から連絡があって話は聞いてる。大原は俺たちのことをろくでもない連中のように紹介してると思うけど半分は間違いだから気にしないでくれよな。とりあえずよろしく」

 と言うことは半分は正解なのだ。

「こちらこそよろしくお願いします」

 村田さんは困ったように微笑んだ。

「ところで月読命のレジスタンス活動の調子はどうなんだよ」

 これは阿倍野に会ったときに交わされるいつもの台詞だった。

「あまり成果は上がっているとは言い難いが、少なくとも潤沢な資金を使って〈夜鶴〉の性能はどんどん上がって賢くなってるぞ」

「いつも思うんだけど、今の時代にラッダイト運動でアンチテクノロジーを標榜しながら、その活動を量子コンピュータやAIに頼るっていうのは矛盾してないのか?」

「なにを言っているんだ。産業革命当時のイギリスで起こったラッダイト運動でも機械を破壊するために機械を使うこともあったんだ。つまりテクノロジーを破壊するためにテクノロジーを使うのはなにもおかしなことじゃないのさ。AIだって同じだぞ。AIを破壊するためにAIを使うのは道理に適ってる。その証拠に破壊工作をするための作戦会議には〈夜鶴〉も参加しているんだぞ」

「そこまでしてテクノロジーを破壊する動機は一体なんなんだよ」

 これまでは仕事以外の会話はほとんどしないようにしていたが、もう会社のルールに縛られる必要はないのだと思うといろいろと聞いてみたくなった。

「今の日本を見てみろ。東南海大震災後に国家非常事態宣言を発動したものの財政破綻して結果的には中国とアメリカの両方のボスに従える悲しき従属国に落ちぶれて、なにをするにしても常に板挟み状態だ。その呪縛を解くためにもAIをはじめとしたテクノロジーを一度ぜんぶ破壊して、あらためて一から築き上げなければならないんだ。それからさっきおまえはラッダイト運動と言ったが、月読命の活動はラッダイト運動ではなくてネオ・ラッダイト運動だからな。間違えないでくれよ」

 テクノロジーを破壊し尽くしたあとはなにをどうやって新たに築き上げるつもりなのだろうか。だが、俺には関係のないことだ。

「おまえの言いたいことはわかったよ。ところで取り引き相手は見つかったのか?」

「ダークウェブのオークションに匿名で出品したらすぐにタイレルテクノロジーからオファーがあった。価格はおまえの言っていたとおり一億国連ドルで買い取ってもらえそうだ」

「決済は仮想通貨でいいんだな?」

「もちろんだ。ただし取り引きの条件として中に入っているデータをすべて読み取れる状態にして渡すことになっている。だから解析は必要だな」

「ということは〈夜鶴〉にしっかり仕事をしてもらう必要があるということだよな」

 ふと見ると村田さんは何本も立っている黒い柱を眺めていた。

「村田さん、この黒い柱は全体で一台の量子コンピュータになるんだよ。それで〈夜鶴〉はこの中に生きてるんだ」

「凄いですね。見ていると吸い込まれそうな気分になります。別世界に来たような感じです」

 たしかに柱は照明をまったく反射せず、その色の黒さはあらゆるものを吸い込む闇のような黒さだった。

「驚くのはまだ早いぜ。今から〈夜鶴〉と話をする。おい、〈夜鶴〉、お客さんが来たぞ」

 阿倍野が近くにあるモニタ画面に向かって言った。

〝笹島さん、お久しぶりです。お元気ですか?〟

 どこからともなく返事が返ってきた。無指向性のスピーカーがあちこちにあり、この部屋のどこにいてもすぐ近くから声が聞こえるようになっていた。

「いろいろありすぎてあまり元気とは言えないよ。〈夜鶴〉の調子はどう? 元気か?」

〝わたしは電気製品なので元気があるとかないとかは関係ないですよ。しかし、阿倍野さんのおかげでプロセッサをどんどん増強していただいているので思考能力はかなり向上しています。ところで、笹島さんの隣にいる女性はだれですか?〟

「同じ職場で仕事をしている村田さんだよ」

〝そうなんですね。村田さん、初めまして。私は〈夜鶴〉です。よろしくお願いします〟

「〈夜鶴〉さん、初めまして。宜しくね」

 どこを向いて話ししていいのかわからない様子だったのでモニタ画面に向かって話をするように指さして教えた。

〝あなたの名前はムラタナオミさんですね?〟

「おいおい。まえにも言ったけど勝手なことをするのはよせ。先走ってしまうと、みんな気味悪がるから」

「なんでわたしの名前がわかったんですか?」

「村田さんの顔と世界中のSNSや監視カメラに保存されている画像ファイルと照合したんだろうな」

「でも一瞬でしたよ。驚きました」

 村田さんは目を見開いて驚いていた。

「こいつは大抵のことは一瞬で答えを出しちゃうからな。そんなにビックリするようなことでもない」

〝気にしないでください。出すぎた真似をしてしまいました。村田さん、失礼しました〟

「いいですよ。だいじょうぶです」

 田村さんはなぜか気詰まりな様子だった。

「実は五年ほどまえにブルーウェーブロボティックスという会社が、脳を構成するニューロンと呼ばれる神経細胞を完全に模倣する仕組みを持ったチップの開発に成功したんだ。このチップは完全自立型の自己学習機能を持っていて、プログラミングで学習の方向性だけ決めてやればあとは勝手にどんどん賢くなっていくんだ。そこでそのチップ二〇個を〈夜鶴〉に搭載してみたんだ。それで〈夜鶴〉は自らの意志で処理能力を進化させていくことができるようになったんだ。ちなみにここにある黒い柱だけど、柱一本につき一個のチップが搭載されているんだぜ」

「やっぱりそのチップはかなり高価なんだろうな」

「かなり高価だ。本当はもっと増やしたいんだが、今年はもう無理だな」

 以前までは黙して語らず、何を聞いてもはぐらかすばかりだったのに今日の阿倍野はなぜか饒舌だった。

「そのチップのおかげで進化することによって〈夜鶴〉の意志が育ってきているというこことなのか?」

「そうだ。でも、このチップの持つ潜在能力を最大限活かすだけのロジックを持つソフトウェアがまだ存在しないんだ。それがあればもっと飛躍的な進化を遂げることができるはずなんだけどな」

「そのチップだけど、それを買う金はどこから出ているんだよ」

「街頭募金だよ」

 そう言って阿倍野は笑った。今日は聞けるかと思ったが金の出所についてはやはり喋ろうとはしなかった。ただ少なくとも『平安倶楽部』が資金洗浄に利用されているのは間違いないだろう。

「そう言うと思ったよ。〈夜鶴〉自慢はそのくらいにして本題に入ってくれ」

「そうだな。例のメモリスターだけど、たしか医療用AIの〈アトラス〉に解析させたら自己消去機能が働いて暗号化の解除どころかコピーすら出来なかったんだよな」

「何度試してもダメだった。それで自己消去機能を解析してくれって〈アトラス〉に言ったら十日間はかかると言われたんだ。それでおまえに頼むしかないと思ってここまで来たんだよ」

「〈アトラス〉で十日間か。〈夜鶴〉はかなり性能を上げて学習機能も進化しているから期待していいぞ。さっそく試してみよう」

「頼む」

 鞄の中からメモリスターを取り出した。

「これが命がけで持ってきたメモリスターだ」

 阿倍野はそれを恭しく受け取るとモニタ画面のすぐ横にある光通信ポートの前に置いた。そしてメモリスターの光通信ポートを向かい合わせになるように調節した。

「〈夜鶴〉このメモリスターには自己消去機能が付いているらしいから、まずはそいつを解析して、うまくいったらデータの暗号化を解除してくれ」

〝わかりました〟

 すると双方の光通信ポートが明るく光り出した。

「解析を始めたらさっそく自己消去機能が働き始めたぞ。頑張れよ〈夜鶴〉」

 阿倍野はモニタ画面に表示されている解析状況を見ながらそう言った。そのあとはしばらくの間、無言のまま固唾をのんで見守った。

 そして数分後、画面上に「解析完了」と表示された。

〝自己消去機能の解析が正常に完了しました。いつでも暗号化の解除を開始できます〟

「もう終わったのか? すごい処理能力だな」

 仕事柄さまざまな量子コンピュータを見てきたが、こんなに処理速度の速いものは見たことがなかった。金田が見たらなんて言うだろうか。

「まあそうだな。〈夜鶴〉様様だよ」

 阿倍野はまんざらでもなさそうな笑顔だった。そして続けて言った。

「たぶん、このあとのコピーはなんの問題もなく完了するはずだ。問題はそのコピーしたデータの暗号化を解除する時になにが起こるのかだ。そこで〈夜鶴〉の中に何台かの仮想マシンを構築して、その一台一台にメモリスターの中身をコピーして、それぞれの仮想マシンの中でいろいろな手法で解析してみようと思ってるんだ。仮想マシンは全台数、サンドボックス化してオフラインだからなにが起こっても外部には影響が出ないようになっている。そうしておけば安心していろいろと試せるからな」

「仮想マシンって何台くらい構築するんだ?」

「とりあえず七六三九台の仮想マシンを構築しておいた」

「ということは〈夜鶴〉はその台数分の仮想マシンを並列で動かせるということなんだよな?」

「もちろんだ。それで、その内の一台でも暗号化の解除が完了すれば大成功というわけさ。ちなみに必要な時間はデータ容量が100TBだとすると、遅くても明日のお昼前には終わると思う」

「すごいパワーだな。驚いた」

 こんなパワーの量子コンピュータをハッカー集団が持っていること自体が信じられなかった。以前、世界中の仮想通貨に対して五十一パーセント攻撃を行うことで通貨が持つ基本台帳の過半数以上を偽造し、多くの仮想通貨を破綻させたり横取りされたりしたことがあった。この時、世間では世界中のハッカーが持つマシンパワーを総動員したとしても到底不可能なはずで、どこかの政府機関の仕業だと言われていた。しかし〈夜鶴〉だったら単独で攻撃が可能だったかもしれない。そう考えれば月読命がなぜ潤沢な資金を持っているのかも理解できる。

「じゃ解析をスタートさせるぞ。アムロ行きまーす!」

 阿倍野は人さし指を高く上げてキーボードのエンターキーを押した。

「それもなにかの合い言葉なんですか?」

 村田さんがすかさず聞いてきた。

「これはね。はるか大昔、日本が今よりももっと豊かで平和だった時代に流行ったアニメの主人公の台詞だよ。今頃になってハッカーの間でなにかハッキング用のプログラムを起動するときの決め台詞として流行ってるんだ」

「はぁ」

 村田さんにはよくわからないようだった。

 近くにあるモニタ画面には進捗状況が表示されていた。

「さぁ、あとは成功するまで待つだけだな」

 阿倍野はモニタ画面を見ながらそう言った。

 その日は『銀河の宿』で過ごすことになり、俺と村田さんはそれぞれ一般客が泊まるのと同じ部屋に案内された。

「この施設内ならどこに行ってもかまわないが、衛星で見られるかもしれないから外出はしないようにしてくれ。ちなみにこの部屋にもネットはないからな」

「今どきオフラインの宿なんて聞いたこともないぞ。口コミサイトではきっと評判が悪いんじゃないか?」

「なにを言ってるんだ。ここは自然が満喫できて自然農法で育てた作物で美味しいご飯がお腹いっぱい食べれるって評判なんだぞ。ハイシーズンになると予約でいっぱいになるんだからな。まっ、とにかく昼食までゆっくりしててくれ。できあがったら呼ぶから」

「阿倍野。あのメモリスターで大金が手に入ったらなんに使うんだよ」

「さあな。まだなにも考えてないよ。その話はまたあとだ。俺はまだ仕事があるから行くぞ」

 阿倍野はドアを閉めて出て行った。

 部屋を見回すとほとんどすべてが木材で作られているようだった。しかもテレビや電話もなく、電気製品としてあるのは照明だけのようだった。

 そしてベッドに腰を下ろし、ゆっくり仰向けになると強烈な眠気に襲われ、そのまま眠ってしまった。

 目が覚めると窓の外はすでに真っ暗だった。そして天井に張られている板の木目をぼんやりと眺めながら、自分がなぜここにいるのか。そしてここがどこなのか思い出そうとしたが、頭の中に靄がかかったようになり思い出せなかった。

 部屋は清浄な空気に満たされ静かだった。

 それはまるで夢を見ているようで、その静寂が全身を優しく包み込み心と体を癒やしてくれているように思えた。この時間が永久に続いてくれればと願った。しかし、頭の中の靄が晴れて記憶が苦痛とともによみがえるとベッドから起き上がった。

 この部屋にはなぜか時計がなかった。ふと見るとベッドの横にくたびれきった鞄が置かれていた。どんな修羅場だろうと、いつも傍らにいるその鞄は静かに時を重ねて年老いていた。この鞄は大芝に入社した時に百貨店で買ったものだった。夢と希望に胸を膨らませて入社した大芝だった。二十世紀のパソコン黎明期に大芝はTaiyoBookで世界中から羨望の眼差しで見られていた時期もあったと聞いたことがあった。

 鞄からスマホを取り出して画面を見ると午後五時をすぎたところだった。

「しまった」

 かなりのあいだ寝てしまったようだった。村田さんはどうしているのだろうか。母さんは大丈夫だろうか。もしかしたら大芝や民治党が手を回して病院を追い出されているかも知れない。そう思うと居ても立っても居られなくなった。急いで隠しポケットから薬一式を取り出し洗面台まで行くとコップに水をためて飲み干した。鏡を見るとそこには薄汚れて疲れ果てた男の顔があった。とりあえずシャワーを浴びることにした。

 そしてシャワーを終えて身支度をしていると強烈な空腹感に襲われ無性になにか食べたくなった。とりあえず身支度して部屋を出てみることにした。

 廊下に出てこの部屋に来たときの記憶をたどりながら廊下を進むと、ロッジのフロントに出た。そこには芦谷と宿泊客らしき数人の男女がソファで寛いで談笑していた。

「そうなんですよ。台風一過っていうのは一見すると空が綺麗で天体観測には適しているように見えるんですが、実は風が強いために空気の揺らぎが激しくて、望遠鏡を通して天体を見るとゆらゆら揺れてしまうので天体観測には向いてないんですよ。裸眼だとそんな風には見えないんですけどね。でも、今日のツアーの目的は一八年に一度のエクストラスーパームーンを鑑賞することです。正確には明日の夜がエクストラスーパームーンなのですが一日くらいの差は誤差の範囲と思って気にしないでくださいね」

 芦谷はどうやら天文ツアーのガイドとして仕事中のようだった。

「ところで月は古来より神秘的なものとして崇められさまざまな神話や物語に登場しますよね。でも日本人に最もなじみのある物語と言えば「竹取物語」ではないでしょうか。竹の中に生まれてたったの三ヶ月で美しい娘に育ったかぐや姫は数々の求婚を三年ものあいだ断り続けたあげく、中秋の名月つまり八月一五夜に迎えに来た月からの使者に連れられて帰っていく物語だというのは、みなさんも良くご存じと思います。もともとは月には美しい女性が住んでいるという中国の()()伝説が由来とも言われています。ただあまり知られていないのですが実はこの物語は人間界である地上における人間の誕生から成長、そして死に至ることで天界である月に昇るという人の一生のサイクルを象徴する物語でもあるのです。これは何度も輪廻転生を繰り返して涅槃に入る仏教の世界観にも通じるものがあります」

「話を聞いていたら早く見たくなったよ。ぜひ、そこで珈琲が飲みたいな」

 半白のあごひげを垂らした初老の男が遠い目をしてそう言った。

「それ、ロマンチックでいいわね。わたしはワインがいいわ! ねぇ、そうでしょ?」

 かなり大柄なその女は楽しそうにそう言うと、隣の小柄で猫背な男に同意を求めるような視線を向けた。おそらく夫婦なのだろう。

「いやー。どうかな。俺は焼酎かな」

 夫は妻に目線を合わせないようにしながらそう言った。

「あなた! わたしがワインって言ってるのになんで焼酎なのよ!」

 そう言って夫の背中を強く叩くと夫は負けじと応戦した。

「どうせ。おまえはなにを飲んでも途中でわからなくなるんだから、別に俺がなにを飲んでもいいだろう!」

 するとみんなが笑い出した。

 そのタイミングで芦谷に近づいてみた。すると芦谷もこちらに気づいて立ち上がった。

「やぁ、笹島さん。今日はお疲れのようで昼食をキャンセルされたので心配していたんですよ。体調のほうはいかがですか?」

 みんなの視線が集まるのを感じた。

「大丈夫です。かなり良くなりました」

 できるだけ調子を合わせて笑顔を作って言った。

「それは良かった。でも、さぞかしお腹が空いているでしょう。あちらの廊下の奥まで行って、右側の部屋にお食事を用意しますから先に行っててください。それから今もみなさんにお話していたんですが、今夜はお連れの村田さんと一緒に天文ツアーにぜひご参加ください」

 芦谷は俺の背中を優しく押して廊下を進むように促した

 言われたとおりに廊下の奥の右側にある襖を開けるとそこは和室だった。畳の数を数えると八枚あったので八畳間の和室ということになるのだろう。そして部屋の真ん中には木目調の一枚板の広い座卓があった。座布団がいくつかあったので適当に座ることにした。座布団に胡坐をかいて座るのは何年ぶりだろうか。さまざまな顧客対応で正座することはあっても胡坐をかいて座ることはほとんどなかった。

 しばらくすると阿倍野が勢いよく襖を開けて部屋に入ってきた。

「笹島! やっと目覚めたか! 死んだかと思ったぞ。よく生きてたな」

 阿倍野はそう言いながら笑うと、正面に座った。

「おかげで体と頭がスッキリしたよ。でも、お腹が空いてたまらないんだ」

「大丈夫だ。ちょうど夕食の用意をしてもらっているところだ。昼食の分と合わせて腹いっぱい食べてくれ」

「ところで村田さんはどうしてるんだ?」

「彼女はどうやら温泉が好きらしくて、ひとりで寛いでるよ。でも、おまえが起きたって言ったら会いたいらしくてすぐ来ると思うよ」

「そうなんだ。ここには温泉もあるのか?」

「おまえは仕事以外でここに来たことがないから知らないんだな。ホームページくらい見ておけよ。ここの天然温泉は有名なんだぞ。あとこれはホームページには書いてないが地熱発電所もあるんだ」

「なるほどな。温泉でカムフラージュしながら地熱発電で〈夜鶴〉の電力をまかなっているということなんだよな?」

「そういうことだ。人工衛星からじゃ太陽光発電のパネルと風力発電の風車しか見えないからな。まさか大型の量子コンピュータが稼働できるほどの電力量を地熱発電でまかなっているなんてだれも思わないだろ」

 すると襖の向こうから村田さんの声が聞こえてきた。

「どうぞ」

 阿倍野がそう言うと襖がゆっくりと開き、浴衣姿の村田さんが入ってきた。俺と阿倍野の視線は無意識に釘付けになってしまった。

「温泉はどうだった?」

「ええ、すごく良かったですよ。人生で初めてっていうくらいにくつろげました。笹島さんは体は大丈夫ですか? ぐっすり寝ていたみたいですけど」

「久しぶりに熟睡できて体も頭もスッキリしたよ」

「そうか。それは良かった。じゃ、ふたり揃ったからご飯にしよう! そのあとはお客さんたちと一緒に芦谷の天文ツアーに参加だぞ」

 俺と村田さんは顔を見合わせた。阿倍野がいったいなにを考えているのか計りかねた。その様子を見た阿倍野は続けて言った。

「どうせ、〈夜鶴〉の解析は明日までかかるんだ。そのあいだ、時間があるんだから少しくらい寛いだらどうだ。それから言っておくが金の心配は要らないぜ。ぜんぶ俺の奢りだからな」

 阿倍野は笑った。

「申し訳ないんだが、観光気分にはなれないんだ。それよりも外部と通信する手段はないのか? 母親が大丈夫なのかどうか知りたいんだ」

「そうだな。確かに心配だよな。わかった。〈夜鶴〉に頼んで病院につないでもらおう。腹は減ってるだろうが、今すぐがいいよな?」

「頼む」

 なにか食べたくてたまらなかったが、もう少しのあいた我慢することにした。

「今から着替えてきてわたしもご挨拶させてもらってもいいですか? 何度かお会いしたこともあるので」

「そうなんだ。別にいいけど」

 阿倍野は目を丸くして俺と村田さんを交互に見た。

「早合点するなよ。そういうことじゃないんだ。入院している母親の見舞を何度か頼んだことがあるだけなんだ」

「へぇ。なるほどね」

 阿倍野は完全に誤解しているようだった。

「〈夜鶴〉。そういうことだから北花田病院七号病棟の七一五号室に接続を頼む。もちろん非存通信を使って暗号化してくれ」

 阿倍野は量子コンピュータの黒い柱群に向かって声を掛けた。

〝わかりました。しばらくお待ちください〟

 目の前にあるモニタ画面にはネット上の状況が映し出され、どのような経路で接続するのが最適なのか試行錯誤している様子が映し出された。

「今、インターネットをトレースして逆探知されにくい経路を探ってるんだ。そのあと今度は病院全体を管理している〈アトラス〉と会話をして信頼を勝ち取れば通信ができるようになる」

「どのくらい時間がかかるんですか?」

 村田さんは興味津々の様子でそう尋ねた。

「状況にもよるが経路さえ確立すればすぐだ。俺も全部は把握していないんだが、〈夜鶴〉はたくさんのAIと親交があって大抵の場合はすぐに会話が成立するんだ。〈夜鶴〉は見かけによらず社交的なんだぜ」

 阿倍野は誇らしげだった。

「それは凄いな」

「経路が定まったぞ」

 阿倍野はモニタ画面を見ながら言った。画面を見ると日本からブラジル、スペイン、ポーランド、そしてモスクワを経由して再び日本へと通じていた。つまり地球を一周して母さんの個室に接続されたことになる。

「世界一周だな。これだと通信が不安定になるかも知れないぞ」

「無事かどうか確認できればそれでいいよ」

 するとモニタ画面が切り替わり母さんの顔が浮かび上がってきた。

「母さん、見える?」

 阿倍野は指でカメラの位置を指し示してくれた。

「良く見えるわよ! 健治は大丈夫?」

 母さんは画面を覗き込むようにしてそう言った。

 〝何者かが通信経路の追跡を開始しました。適時回線を切り替えますが場合により切断します〟

「全然大丈夫だよ。それよりも、最後に訪ねたあとになにかあった?」

「そうそう。それが大騒ぎだったの。健治の会社の人がまた来てね。理由も言わずにすぐに病院を出て行くように言われてびっくりしたのよ。それで健治や村田さんに何度も電話したんんだけどつながらなくて。それでしかたがないから〈アキコさん〉に頼んでケアロボットに荷物をまとめてもらってたら今度は国家警察の警部さんが来たのよ。そしたらその警部さんは出て行かなくてもいいって言うのよ。もうわけがわからなくて。それで結局は出て行かなくても良くなったの」

「その警部って大原警部?」

「そうよ。名刺もちゃんともらったから。健治から連絡があったら教えて欲しいって言われているのよ。だから、このあと〈アキコさん〉に言って連絡してもらうわね」

「連絡はしなくてもいいよ。大原警部には俺から連絡するよ」

「あら、そう。わかったわ。でもね。その大原警部が言うには健治がなにか大切な荷物を持ってて、それを渡さないとやっぱりわたしはこの病院から出て行かなければならなくなるんだって」

「わかったよ。その件についても大原警部にちゃんと話しするから安心してていいよ」

 すると母さんの目が見開き表情がぱっと明るくなった。

「健治の後ろにいるのはもしかして村田さん?」

「こんばんは。昨夜はありがとうございました。無事に金沢に到着することができました。それよりもお身体のお加減はいかがですか?」

 村田さんは横に並んで座った。

「大丈夫よ。それにしても村田さんはカメラをとおして見ても綺麗よね。このまえね、健治に言ったのよ。村田さんと結婚すればって」

 母さんはここぞとばかりに言いたい放題になった。

「母さん、なにを言ってるの!」

 だんだんと恥ずかしくなってきた。回線が切れることを願った。

「だから結婚したらって言ってるのよ。何もおかしなこと言ってないでしょ? あなたたちはお似合いよ。そう思わない?」

「だから、頼むからもうやめてくれよ!」

 阿倍野が腹を抱えて静かに笑い転げていた。

「村田さん、良かったら健治をよろしくね!」

 母さんは嬉しそうな顔をして声が弾んでいた。

「わかりました。また、今度お会いしたときにいろいろとお話しましょう」

「そう言ってもらえると本当にうれしいわ! 今度会ったときは」

 そこで母さんの映像が固まった。

「母さん?」

〝申し訳ありません。この場所を特定されそうになったので回線を切断しました〟

「母さんは大丈夫なのか?」

〝病院を管理している〈アトラス〉からの情報によると生体モニタ上はまったく問題ありません。補足情報ですが七一五号室の契約が大芝エレクトロニクスから国家警察刑事部に変更されています〟

 大原警部はいったいなにを考えているのだろうか。母さんを守るために契約を切り替えてくれたのだろうか。それとも脅かすためなのだろうか。これからの俺の行動次第で母さんの命が懸かっているような気がしてきた。

「笹島、いいお母さんじゃないか。横で楽しませてもらったよ。とりあえず戻って腹ごしらえしないか。腹が減っては戦はできぬだ」

 阿倍野は立ち上がりエレベーターのほうに向かって歩き出した。

「おふたりさん、食事が来たぞ。これは山や海の幸をふんだんに使った『平安』自慢の懐石料理だ。おかわりもあるから、どんどん食え」

 阿倍野はすぐに箸を付けて食べ始めた。

「いただきます! こんなに豪華はお料理は初めてです」

 村田さんは目を大きく見開いて嬉しそうだった。

 座卓の上には合成食ではない自然の風味と季節感を活かした色とりどりの野菜を主体としたリアルな料理が並べられていた。ご飯はテレビでしか見たことのない玄米だった。

「ここの宿泊客に出す料理はいつもこんな感じなのか?」

 あまりにも豪華で呆気にとられるほどだった。

「気に入らないのか?」

 小島はわざとらしく、しかめ面をして言った。

「いや、違う。逆だ。豪華すぎてビックリしてるんだ」

「ここに住み込みで働いている月読命のメンバーたちも同じ食事だぞ」

「このご飯は本物の玄米を使っているんですか?」

 村田さんは美味しくてたまらない様子だった。

「もちろん。合成米じゃないぞ。ここの料理で合成のものはないからな」

「よくそんなお金があるな」

「この料理の食材は金で買ったものじゃないぞ。ほとんどが自給自足だ」

 どの料理も深みのある味わいとほのかな香りが体中に染みわたるようだった。

「こんなにたくさんの種類の食材を自給自足で賄っているのか?」

 金田がこの場にいればきっと喜んだだろうと思うと心が波立った。

「あぁ。そうだよ。なんだ。おまえも月読命に入りたくなったのか? もしよかったらふたりとも推薦するぞ。ふたりが入ればメンバーは合計で一二三人になる」

 阿倍野は笑ったが目だけは真剣だった。

「毎日、こんな豪華な料理が食べれるんだったらいいかも知れませんね」

 村田さんが嬉しそうに言うと、阿倍野は黙ったまま俺の顔をじっと見た。

「さっきの話だと月読命の構成員は一二一人ということなのか」

 何度か阿倍野と仕事をしてきたが初めて聞く内容だった。

「そうだ。この『平安倶楽部』では一二一人が共同生活をしているんだ。ただそれ以外にも支援していくれている人たちが日本中にいるから、それらを合わせればおよそ一〇〇〇人だな」

「そんなことをなぜ今になって言うんだ。今までは言わなかったじゃないか。言っておくがテロリストにはならないからな」

「まえから言いたかったんだが、俺たちはテロリストじゃないぞ」

「じゃ、カルトか?」

「俺たちは人間本来のあるべき環境で、人間本来の生きかたで、人間本来の人生を送れるように世の中を変えようとしているのさ。そのためにテクノロジー破壊活動をしているんだ」

「その破壊活動っていうのがテロだと思うんだけどな。それは悪いことだろう?」

「破壊しなきゃならないから破壊しているだけだ。AIにしろ量子コンピュータにしろテクノロジーは一体、だれのための代物なんだよ。あんなものなくたって人間は生きていけるんだぞ。なんでもかんでもテクノロジーに委ねてしまったらますますなんのために生きているのかわからなくなるんだぞ」

 その口調からは自分の言っていることは絶対に正しいのだという確信が感じられた。

「でも、テクノロジーが発達することで人間は便利な生活を手に入れてきたじゃないか。おまえもその恩恵を受けているだろう」

 どうしても料理が気になって会話に集中できなかった。昔から食べてみたかった山菜料理に箸をつけた。味はさっぱりしていたが、しばらく噛んでいると山菜独特のやさしいほろ苦さが香りとともに口の中に広がった。

「じゃ、聞くがそれでどれだけの人間が幸せになったんだ? 一部を除いてほとんどの人間は生きることに疲れ果ててしまっているじゃないか。なにかおかしいと思わないか?」

「疲れていると言われれば確かにそうかもな。でも、それはテクノロジーとは関係ないだろう」

「それはテクノロジーに振りまわされて人間本来の姿で生きることができなくなったからだ」

「でも、そもそも人間本来の姿ってどういうことなんだよ」

「俺たちはその人間本来の姿を取り戻すために(さくら)(ざわ)如一(ゆきかず)という日本人が考え出した『無双原理』を実践しているんだ。無双原理というのは世の中のすべて物事を陰と陽に分類し、そのバランスを保つことを実践する哲学のことだ。そしてその哲学に基づいた食事法が『マクロビオティック』で今おまえが食べている料理がそれだ」

「マクロビオティックってなにか新しい合成食品の名前か?」

 思わず箸を止めた。

「なにを言ってんだよ。マクロビオティックはさっきも言った桜沢如一が二〇世紀に考え出した独自の食事法のことだ。ここの料理は化学的に合成された薬品や添加物はいっさい使わないように調理してあるんだ」

 阿倍野は苦り切った顔をしていた。

「今、気づいたんですけどお肉はないんですか?」

 村田さんは料理を見渡しながら尋ねた

「マクロビオティックでは肉や乳製品は使わない。魚はまぁ小魚ぐらいだな」

「そうなんですね。菜食主義みたいですね」

「当たらずとも遠からずだな」

 いくらマクロビオティックが体にいいとは言え、骨髄異形成症候群をわずらって余命が一年半と言われながら無理矢理に体を動かしている俺には関係のない話だ。話題を変えることにした。

「すまないがなにを言っているのかよくわからない。でも、この料理が信じられないくらいに美味しいことは認めるよ。ところで例のメモリスターの解析は順調なのか?」

 今度は迷い箸にならないように気をつけながら小魚の天ぷらに箸をつけてみた。その衣はサックリと油の切れもよく素晴らしい歯応えで、その向こうにある魚の真っ白な身が口の中でうま味と一緒にしっとりと広がった。

「順調に解析中だよ。いろんなパターンで試してるけど、今のところはことごとく失敗している。でも、成功するのは時間の問題だ」

「自信があるんだな」

「知られている限りのすべてのパターンで解析するんだから時間の問題だよ」

「それじゃ、明日の朝に解析が完了したとして、そのあとはどうするんですか」

 村田さんが聞いてきた。

「買い手はもう見つけてあるんだったよな?」

 阿倍野があまりこの話題をしたがらないことが気になっていた。

「大丈夫だ。でも、その話は明日にしたい」

「そうなのか? 今は話せない事情でもあるのか?」

「取り引きの細かい段取りとか、まだ決まっていないこともあるんだ。とりあえず今はお腹いっぱい食べようじゃないか。それから食事のあとは他の宿泊客と一緒に天文ツアーだぞ。笹島、先に言っておくがつべこべ言うなよ。村田さんと一緒に参加するんだ」

 料理を食べることで幸せを感じることがあるのだということを初めて知った。昔の人たちはこんな美味しい料理を食べていたのかと思うと阿倍野が言う人間本来の生きかたというのも間違いではないような気がしてきた。

 ガイドの芦谷を先頭に一〇人ほどのツアー客と一緒に、村田さんと並んでランタンで足元を照らしながら銀河の里まで歩いて行った。夜の草原は月光に照らされてぼんやりと浮かび上がり、夜露がキラキラと輝いていた。そして澄み切った夜空に浮かぶ月は黄金色に輝き、冴えた光を厳かに放っていた。ツアー客たちはこの壮麗な景色に息をのみ口をつぐんでいた。古代の人々が人知を持って計り知れない神秘の星として月を見ていたことがわかるような気がした。

 しばらく歩いて草原の中心あたりまで行くとリクライニングチェアがそこかしこに置かれていた。芦谷が静かに振り返った。

「みなさん。立ったまま月をじっと見ていると首が疲れます。そこでリクライニングチェアを用意しました。どうぞお好きなところで横になってください。それからリクエストのあった飲み物は用意でき次第お持ちしますのでしばらくお待ちください」

 俺は村田さんと並んでリクライニングチェアに横になって月を眺めた。他のツアー客もそれぞれの想いを抱きながら感動に浸っているようだった。

「こんな綺麗で大きな月は見たことがないです」

「うん。俺も驚いた」

 すぐ近くに村田さんがいると思うと心臓の音が高鳴り、その音が聞こえるような気がした。

「笹島さん、昔、デートしようっていうことになって、当日にすっぽかしたのを覚えてます?」

「うん。あの時はごめんね。あのときは」

「いえ、いいんです。今日はそのデートのやりなおしをしませんか?」

「え?」

「こんな状況ですけど、でも、それでもこんなにきれいな月を見ながら笹島さんと一緒に同じ時間を共有してるんですから、やりなおしにはピッタリだと思います」

「うん。ありがとう」

「突然ですけど笹島さんの夢はなんですか?」

「俺の夢?」

 遠い昔に夢を思い描いていたことがあったのをぼんやりと思い出した。

「まさか、なにも夢がないなんてことはないですよね?」

「うん。実を言うとあんまり将来のこととか考えたことはないかも」

 適当になにか言おうかとも思ったが、村田さんには正直に言うことにした。

「じゃ、わたしと同じ夢を共有してください」

「どういうこと?」

「わたしが今のしがらみから解放されたら、手をつないで一緒に歩いてください」

 村田さんの方を見ると月明かりに顔の右側が照らされ、左側は真っ暗でなにも見えなかった。右の目には小さな涙が光っていた。

「ありがとう」

 そう言うのが精一杯だった。村田さんの顔が近づいてきて静かな息づかいが聞こえてきた。どんなしがらみが村田さんを苦しめているのか気になったが、今は聞かないほうがいいような気がした。

 村田さんの指先が俺の指先に優しく触れた。村田さんの手をそっと握った。するとそれだけでお互いに気持ちが通じ合い、身体中が幸福感に包み込まれた。

「わたし、実はここに来るまえに手紙を書いたんです」

 村田さんがリクライニングチェアから起き上がった。

「手紙?」

 起き上がって村田さんと向かい合った。村田さんの手には小さな四角い封筒があった。

「はい。この手紙は今回の件が落ち着いたら読んでください。それまでは決して読まないで欲しいんです」

「うん。いいけど」

「ちゃんと約束してください。お願いです」

「わかった。約束するよ」

 受け取ったその手紙は月光に照らされてぼんやりと輝いているように見えた。

「昔の言い伝えだと月は地上とは違って汚れなき世界で天上界があると思われていたそうですよ」

「そういえば、さっき芦谷がこのツアーのお客さんを集めて似たような話をしてたよ。月が天上界で地上が人間界なんだよね?」

「天上界という美しい世界にいても完全ではない魂は、自ら選んで人間界に生まれて修行するんだそうです。そして修行が終わって月に還ると、傷ついた魂を癒やすために地上では実現できなかった願いや想いを一時だけ夢の中で叶えてくれるそうです」

「それが竹取物語のモチーフなのかな」

「たぶん。きっとわたしも笹島さんも自分で試練を与えて修行するために生まれてきたんですよ」

「そうか。じゃ一生懸命に修行しないとね。それにしても村田さん、詳しいね」

「そうでしょ? 勉強したんです」

「そうなんだ。本かなにかで読んだの?」

「嘘です。実は笹島さんが寝ている間に、芦谷さんが別の天文ツアーのお客さんたちに説明しているのを聞いていたんですよ」

「なんだよ。今、村田さんってすごいなと思って感心してたのに」

 ふたりで笑い合った。なんの曇りもない笑いが優しく包み込んでくれた。体中が熱くなるのを感じた。

 そしてお互いにゆっくり近づくと、唇が触れあい、キスをした。身体中が幸福感で満たされ麻痺したようになった。

 もし神が存在するならばこの宇宙を構成するすべての銀河、すべての星、すべての命ある生き物、そしてすべての素粒子は神に向かって動いているのだということが理解できるような気がした。

 今ここで余命が一年半だと宣告されていることを言うべきだと思った。今言わなければ二度とそのチャンスはないような気がした。

 唇を離した。

「あの、実は・・」

 そのとき背後から声が聞こえてきた。

「おふたりさんは、どこから来たの?」

 懐中電灯に浮かび上がってきたその顔は芦谷がこのツアーの説明をしているときに焼酎を飲みたいと言っていた小柄な男だった。

「ぼくは千葉からです。彼女は都内からです」

「あれ? てっきり夫婦かと思ったよ」

「いえ、結婚はしてないんです」

 男は耳打ちするように話し始めた。

「そうか。まだしてないんだ。じゃ、忠告しておくけどさ。俺の嫁さんなんだけど出会ったときはものすごく美人だったんだよな。毎日見てても飽きないくらいだったのに、今じゃあのとおりさ。だからさ、お互いに結婚なんてよく考えたほうがいいよ」

「あんた! 聞こえてるよ! 若いカップルになにをよけいなことを言ってるの!」

「ヤバい! 聞かれちゃったよ。じゃあね」

 男は懐中電灯を消して草原を走り去った。そしてそのうしろを男の妻が懐中電灯を手に追いかけていった。草原を柔らかい笑い声が包み込んだ。

 月明かりが少しだけ暖かくなったような気がした。

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