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第二章

 次の日、疲労と寝不足でひたすら眠ることを要求する体に鞭打ってなんとか起き上がった。今日も普段どおりにテクセン秋葉原に出勤しなければならない。朝食のかわりに高濃度カフェインの錠剤を適当に何錠か飲み干すととテレビを点け天気予報のチャンネルに切り替えた。するとスーパー台風が日本列島をなぞるように縦断するとのことで天気予報士が警戒を呼びかけていた。窓から空を見上げると頭の上にのしかかってくるような低く厚い雲がひろがり雨が降っていた。

 JR総武線の満員電車に揺られて秋葉原駅で降り、万世橋に向かって五分ほど歩くと五〇階建てのオフィスビルが見えてきた。このビルの一階がテクノセンタ秋葉原だった。

 体を引きずるようにして営業開始一〇分ほどまえに出勤すると、すでにショールームの準備は完了し、スタッフルームには寺田センター長を始めスタッフ全員が揃って席に着いていた。金田を見ると目は虚ろで顔は青白く無表情だった。昨日の特殊対応がまた新たなストレスとして蓄積されたのだろう。

 寺田センター長は細い目をして満足げな表情を浮かべながらパソコンの画面を眺めていた。その画面には仮想現実の水槽に生きる熱帯魚たちが泳いでいるのだ。彼はマウスを使って熱帯魚たちに餌をやり、その餌をパクパクと食べる様子を眺めて楽しむのが日課だった。そして熱帯魚たちの生殺与奪の権利を握る寺田センター長は弱った熱帯魚は容赦なく抹殺し、新たなな熱帯魚を飼うということを繰り返していた。

 自席に着くと村田さんが声を掛けてきた。

「笹島さん、昨日、本社から依頼されたクレーム対応はどうなったんですか? 金田さんもそうですけど今にも死にそうな顔をしていますよ。すごく疲れているように見えますけど大丈夫ですか?」

 村田さんは眉をひそめて心配そうにしていた。

「その件はね、お客様からいろいろと小言はもらったけど問題なく解決したよ。それよりも帰りの新幹線で金田君と念入りな反省会をしたせいで、飲みすぎちゃったんだよ。なぁ金田」

 頑張ってできるだけさり気ない風を装って言った。

 間違ってもカジノのホテルでグロックを突きつけられて殺されそうになって産廃処理場に連れて行かれて・・などという話はできるはずがなかった。

「そうですね。ものすごい反省会でした」

 我に返った金田があわてて言った。とりあえず話の調子は合わせなければならないという判断力だけは働いているようだった。

「笹島さん、あんまり後輩をいじめたらまた辞めちゃいますよ」

 すると金田の目が見開いた。どうやら『いじめ』という言葉に反応し瞠目したようだった。

「人聞きの悪いことを言うなよ。いじめてなんかないよ」

「ほかにも笹島さんと仕事をしていて辞めた人がいるんですか?」

「金田。その言いかたはやめてくれ。俺が本当にいじめているみたいに聞こえるだろう。あのね。金田の前任者は実家の家業を継ぐことになってしかたなく辞めたんだよ。たぶん」

 するとなにかが弾けたようにスタッフルームの全員がいっせいに驚いた表情になった。

「だからさ、たぶんそうかなと・・」

 なんとしてでも話を逸らすしかない。続けて適当に思いついた別の話をしてみることにした。

「そうそう! このまえ、なにかの国際会議の取材に来たアメリカの記者がTaiyoBookのバッテリを買いに来たんだけどね。帰り際にものすごい怖い顔をして『この地球には地下世界があって人間よりも高度な文明を持っている知的生命体が住んでいるんだぞ』って言われてさ。びっくりしたよ。ほんと」

「笹島、話を逸らすんだったらさ、もっとちゃんとした話題があると思うんだけどな」

 それまで黙っていた今城さんが喜々として言った。

「ほんとそうですよね。いまさら地底人の話をされもわたしは別に驚きませんよ。今までもテクセン秋葉原には宇宙人や妖怪が来ててもおかしくないんですから、別に地底人が来たっていいじゃないですか」

 村田さんは眉間に皺を寄せていた。話が少しずれているような気がしたが、議論する気力もないので適当に謝ってすませることにした。

「はい、はい、すみませんでした」

「あぁ! なんですかそれ。またそうやって適当に謝ってごまかそうとしているでしょう」

 いつもこういう場合は適当に謝ってすませられればと思うのだが、村田さんはそれを的確に見抜き、そして容赦なく指摘してくるのだ。

 すると熱帯魚たちに餌をやり終えたのか寺田センター長がパソコンから顔を上げた。

「よく聞け。本社からのクレーム対応依頼はテクセン秋葉原としてはまったく関係のないことだからほかのみんなは気にするな。それにもう解決したんだったらその話は終わりだ」

 寺田センター長は突き放すようにそう言うと立ち上がった。

 彼にとっては特殊対応に関わるつもりはまったくないが、大芝グループのトップである清水会長からじかに対応依頼が来ていることもあり、無下に粗末な扱いをするわけにもいかないのだ。

「あと五分で営業開始だから『チェック』と『声出し』をするぞ」

 『チェック』とはお互いの頭の先から靴の先まで汚れていないかどうかなどの身だしなみをチェックすることで、『声出し』とはお客様に対する挨拶などで使われる定型のフレーズをいくつかピックアップして大きな声で唱和することだ。

 そしてスタッフ全員が立ち上がるとまずは身だしなみのチェックからスタートした。

 今日は平日でしかもスーパー台風が接近中ということもあり、来られるお客様はほとんどいなかった。村田さんはショールームに展示してあるパソコンを一台一台きれいに磨き上げ、展示用として設定されたAIが正確に受け答えができるかどうかを会話しながら確認していた。

 俺と金田はとりあえずスタッフルームで待機することにした。

「なんかまたすごい量子コンピュータが開発されたらしいぞ」

 なんの前触れもなく今城さんがパソコンの画面を覗き込みながらいきなり声を上げた。それは俺と金田に話しかけているようにも思えたが、独り言のようにも聞こえた。

「そうなんですね」

 とりあえず金田が代表して返事をすると、今城さんはパソコンから顔を上げて俺と金田を交互に見た。その目は嬉しそうだった。今城さんは仕事で一日中パソコンを修理しながらプライベートでもパソコンをいじるのが大好きで量子コンピュータに関しても造詣が深かった。

「ニュースを見なかったのか? 君たち、気にならないのか?」

「気にはなるんですけど、なにぶん量子コンピュータって難しいですから」

「でもさ、大芝の社員ならちゃんと理解しておかないとね」

 これは危険な兆候だった。時折こうして話題を強引に量子コンピュータに持っていき、延々と語り始めるのだ。ただ、その話を理解できる人間はテクセン秋葉原には存在しないため、ただの退屈な独演会になってしまうのだった。

「今城さん、修理品が溜まってて忙しいのにいいですよ。それに俺も金田も量子コンピュータの『りょう』の字も理解できないですからほんとにもういいです」

「何回でもわかるまで説明してあげるから気にしなくていいよ。量子っていうのは原子より小さい世界で物質としての性質と、波動としての性質の両方を併せ持つ特殊な存在のことなんだ。物質としての性質というのは言い換えると粒子性だね。それから波動としての性質というのはその状態の性質と言い換えることができる。ここまでは簡単だよね?」

「えっと、なんとなくわかるような、わからないような」

 すでになにを言っているのわからなかった。金田も同じ心境なのか困った顔のまま愛想笑いを浮かべていた。寺田センター長は今それどころではない風を装ってパソコンの画面を睨み付けていた。

「そしてこの物質の根源的な両方の性質を併せ持つものを量子って言うんだ。そして、その量子を利用したコンピュータのことを量子コンピュータと言うんだ。だからそれまでのゼロと一との組み合わせで動いていたコンピュータとはまったく原理が違うんだ。つまりさっき言った二つの性質を重ね合わせることによって・・」

 すると受付カウンターの方から聞き覚えのある野太い声が聞こえてきた。

「あの、国家警察の大原大助っちゅうもんですけど、笹島先生はおりますか? ちょこっとパソコンを見てもらいたいと思ってわざわざ持って来たんやけどね。このパソコンに入ってるAI君が最近、体調不良で愛想が悪いんですわ。ちなみにAI君の名前はワトソン君っていうんやけどね。要するにわたしがジェームス・ボンドでこいつがワトソン君。昔の有名な小説に出てくるコンビと同じ名前ですわ」

「はぁ。わかりました。ただいま笹島を呼んでまいりますので、お掛けになってお待ちください」

「えらい、すんませんな。頼みますわ」

 スタッフルームからその様子を監視カメラで見ていた俺と金田は顔を見合わせた。

「笹島さん、あれはジェームス・ボンドじゃなくてシャーロック・ホームズですよね」

「金田、お願いがあるんだけど」

「は? なんですか? あの人の対応をかわるのはイヤですよ」

「俺の頭を金槌で殴って」

「はい?」

「殴られて気を失ったらあの人と話さなくてすむから」

「はぁ?」

 スタッフルームに戻ってきた村田さんはなにやら嬉しそうだった。

「笹島先生、ご指名ですよ。よろしくお願いします」

「村田さん、ごめん、あの人の対応はしたくないんだよな。だから笹島は死んだって言っておいてくれない?」

「なに言ってるんですか。いい加減にしてください」

 田村さんは呆れた顔をしてどこかに行ってしまった。

「笹島、じゃ量子コンピュータの説明の続きは今度ね。いってらっしゃい」

 今城さんはもの足りなさそうな表情を浮かべながらパソコンの修理を再開した。

 とりあえず受付窓口のカウンターでふんぞり返っている大原警部をショールームの奥にあるミーティングルームに案内した。

「さっきカウンターにいた村田さんは美人やな。いつも見とれてしまうわ。結婚してはるんか? それとも独身か? 彼氏はおるんか?」

「そんなこと知りませんよ。聞いたこともないです」

「一緒に仕事してるのになんにも知らんねんな」

 確かに村田さんのプライベートはまったくと言っていいほど知らなかった。知っているとすれば自宅の最寄り駅が品川区にある鮫洲駅ということと東南海大震災でみなしごとなった猫の大ちゃんを村田さんがボランティア活動中に出会ったのがきっかけで飼うようになったということくらいだ。それ以外についてはなにも知らなかった。

「それはそうと、昨日あれだけ酷い目に遭ったばっかりやのに出勤してるんやな。見た目はほんまに弱そうに見えるけど意外とタフやないか。もしかしたらあんたはサイボーグ化してるんか?」

「サイボーグ化するお金なんてあるわけないじゃないですか。ただの生身の人間です」

「確かにサイボーグやったらそんなにひどい顔色にはならんやろな。まぁ、そんなことはどうでもええんやけど今日はどうしても聞きたいことがあって来たんや」

「なんでしょうか?」

「あんたらが、権常から取り上げて持って帰ったTaiyoBookやけど、あの中にはどんなデータが入ってるんや?」

「それはわたしも聞いてないです。ただ単に回収するように言われただけですから」

「それは、ほんまか?」

「本当ですよ。いつもそうですけど特殊対応なんて必要以外の情報はなにも教えてくれませんから。あの会長がそんな親切にいろいろ教えてくれるわけがないじゃないですか」

「なるほどな。まぁ、確かにそうやな」

「逆にどうしたんですか? なにかあったんですか?」

「それがやな、ここからの話は絶対に秘密やけどな、今日になってある人物からの圧力で昨日逮捕したばっかりの権常を釈放することになったんや」

「ホントですか!」

「そうや。現場の人間はみんな怒ってるんやけどな、上からの命令やからどうしようもない。それで今日の午後、権常は釈放されて自由の身になる予定なんや」

 大原警部の目つきが鋭くなった。

「それにしてもある人物からの圧力っていったい誰なんですか?」

「噂では中国から支援を受けてる親中派の政治家が圧力をかけたらしい」

「ということは『五蝶会』は中国政府からの依頼でメモリスターを回収しようとしてたんですか?」

「そういうことになるな」

「じゃ昨日のことも警察としてはすべてなかったことになるんですか?」

「そうや。こんなアホらしい話あらへんで。だから今日は調書の作文もしてないんや。でも話はこれで終わりとちゃうで。権常が所属してる『五蝶会』は日本最大の暴力団で私設の軍隊まで持っているのは聞いたことがあるやろ。あいつはその組織の大幹部や。その『五蝶会』は権常が釈放されたらまたあのパソコンの行方を追うつもりでおるらしい。そこで警察としてもあのパソコンにどんな魅力があるのか調べようということになったんや。それでここに来たというわけや」

「マジですか」

 話を聞いているとだんだんと怖くなってきた。だが、逆に言えばそれだけ価値のあるなにかがあのメモリスターには入っているということだ。

「大マジや。わしらも普段やったら盗難届も被害届も出てないパソコンなんか知ったこっちゃない。ましてや超一流企業の大芝エレクトロニクス様がやることに口出しなんかする気もない。ただ、権常の釈放もそうやけど『五蝶会』がそこまでして必死になるからには国家警察としても関心を持たざるを得んわけや」

「そうなんですね」

「権常はなにか言ってなかったか?」

「特にはなにも言っていませんでした。とにかくパソコンを修理しろの一点張りでしたから」

 一億国連ドルの価値があると言っていたことはとりあえず伏せることにした。ただ、大原警部の話を聞いているとひとりで手に負えるものではないような気がしてきた。いっそのこと大原警部を巻き込めないだろうか。

「そうか。わかった。あともうひとつ聞きたいことがあるんやけどな。あのパソコンはどうなるんや。それだけでも教えてくれ」

「ここだけの話にしておいてほしいんですけど、今日の午後に木島善継という人物のところに持って行くことになっています。これは清水会長の指示です」

「木島善継って民治党の幹事長のことか?」

 大原警部は身を乗り出してきた。

「そうです。その木島です」

「なんで木島のところに持って行くことになったんや」

「それは知りません。昨日の夜に清水会長に対応完了の報告をしたら、今日、横浜の自宅に持って行くように指示されました」

「ますますわけがわからんな。いったいどういうことなんや」

 もうこうなったらイチかバチかだ。朝に飲んだ高濃度カフェインの影響なのか普段よりも大胆になれるような気がした。

「あの、ひとつ思い出しました。昨日、ホテルで権常が言ってたんですけど、あのTaiyoBookに入っているメモリスターには一億国連ドルの価値があるそうです」

「一億国連ドルやと!」

 大原警部は目を丸くして驚いた。

「大原警部。そのお金を一緒に手に入れませんか?」

「なに?」

「今からする話はわたしの独り言です。興味がなかったら聞こえなかったふりをしてください。いいですか?」

「なるほど。ええで。なんかおもろそうな独り言になりそうやな」

「わたしはあるところでメモリスターの中身がなんなのかを調べてもらおうと思っています。そのあとダークウェブで買い手を探すんです。その買い手が最悪の場合、中国でもかまわないと思っています。支払いは買い手と売り手の双方に足のつかない仮想通貨でオフショアを利用するつもりです。もし大原警部が手伝ってくれるようでしたら当然、手数料はお支払いします」

「俺を買収するつもりか?」

「悪い話じゃないと思います。手伝っていただくだけでいいんです。わたしも特殊対応を長く担当していますから、いろいろな知識もあればいろいろなつながりもあります。それをうまく利用すれば大金を手にすることができるんじゃないかと今までもずっと思っていました。でも、思っているだけで、きっかけになるものがなにもなかったんです。でも、今回、このメモリスターを手にしてそのチャンスが訪れたと思ったんです」

「なるほどな。俺も独り言を喋ってもええか?」

「はい」

 そして大原警部は顔つきが変わると深いため息をひとつ付いて話をはじめた。

「俺は大阪府警から国家警察に転籍した人間や。大阪府警の時も捜査をスムーズに進めるために情報提供者と交流を深めることで清濁併せ呑むことが多かったんや。ところが国家警察の警部になって組織犯罪に絡んだ事件を扱うようになってからは清濁の濁にまみれることが多くなってな。たまに自分はどっち側の人間なのかわからんようになるくらいや。でも、まがりなりにも警察官や。嘘でもええから正義の味方やと思っていたいんやけど、それも許されへんことが多いのも確かなんや。それで悩んでたらある日、答えが出たんや。俺は正義の味方でもなければ悪の味方でもない。家族の味方になるべきやとわかったんや。そうしたらなにも気せんと平気でなんでもできるようになったんや」

 そして大原警部は口を真一文字に結び目をつぶった。それはまるで自分の心の奥底を覗き込んでなにかを探しているかのようだった。

 そして目を開くと意を決したような面持ちで言った。

「たとえば俺が協力するとして、具体的になにをしたらいいんや?」

「まずは『五蝶会』がこのメモリスターの件で中国のどこのだれと取り引きしようとしているのかを調べて欲しいんです」

「そういうことは警察の得意分野や。さっきのつながりの話やけど金田は仲間か?」

「もちろんです」

 これは嘘だ。金田にはまだなにも言っていない。

「やっぱりそうやろうな。あんたらいつも一緒に仕事してて仲が悪いように見えて仲がいいからな。じゃ、分けまえはどうなる」

「他にも仲間がいるので大原警部の取り分はいまのところ四分の一でお願いします」

「四分の一か。そんな大金があったらなんでもできるな。よっしゃわかった。でも覚悟はできてるんやろうな。もし騙したり不利になったりするようなことがあったら東京湾に沈めたるから覚悟せえよ」

 昨日は権常から大阪湾に沈めてやると脅かされたのを思い出した。今度は東京湾だ。

「昨日の時点ですでに覚悟はできています」

「でも、あんたはさっきメモリスターを木島のところに持って行くって言うてたぞ。どういうことや」

「空のメモリスターに入れ替えたTaiyoBookを持って行きます」

「ちょっと待て。そんなことしたらデータがないことがバレてしまうやないか」

「もちろん、バレます。でもそれはわたしの知ったことじゃないんです。わたしが受けた指示はあくまでもあのTaiyoBookを回収することでした。メモリスターになにが入っているのかは知らないことになっているので、なにを言われても知らぬ存ぜぬで通します」

「そんなことしたらクビになったりせえへんか。クビどころか大芝の保安部が出てきてどんな目に遭うかわからんぞ」

 保安部とは当初は技術情報などが外部に漏洩しないように従業員やその家族を含めて交友関係を調べたり思想をチェックするための諜報活動をおこなうための部署だった。ところが今は活動の幅が広がり諜報だけではなく軍事組織を持つまでに至っている。特に阿修羅と呼ばれる法律で認められた企業軍はその暴力性からも恐れられていた。

「これまでわたしはいろいろな特殊対応をしています。その中には政界や官界の重鎮と呼ばれる人たちの愛人たちに対する対応もしてきました。清水会長に愛人が何人いて、どこに住んでいて、どんな女性たちなのかすべて知っています。もちろん知っていることは愛人のことだけではありません。その上で国家警察の現職の捜査官が仲間になっていただければ鬼に金棒です」

「鬼に金棒か。懐かしい言葉やな。要するに相手の弱みはたっぷり握っているということや。窮鼠猫を噛むやな。ええ根性してるやないか。気に入った。それやったら細かい段取りを打ち合わせしよか」

 大原警部は上機嫌に目を細めた。

 空には密度の濃い黒々とした雲で敷き詰められ雨がはげしく降りドローンの窓を叩きつけていた。

〝『港の見える丘公園』駐機場に到着しました。現在の時刻は午後十二時二十分です。なお、スーパー台風が接近中です。警報が発令されると当機は飛行できなくなりますので、あらかじめご注意ください〟

 大芝所有のふたり乗りドローンのサクラ127が目的地に着陸したことを告げた。

 木島善継の自宅は横浜の山下公園や大桟橋が一望できる『港の見える丘公園』に隣接するこのドローン駐機場の近くにあった。ここは東南海大震災で被害が少なかったこともあり、政治家や官僚をはじめ多くの権力者たちが居住するエリアとなったのだ。

 面会の時刻は午後一時半なのでまだ時間があった。

「笹島さん、お昼はどうしましょう」

「そうだな。せっかく来たんだから中華街に行ってみようか」

「いいですね。わたしは子供のころに一度来ただけですからぜひ行ってみたいです。スマホで安くて早くて美味しいお店を探してみますよ」

 そう言うと素早くスマホを取り出して弄りはじめた。

 そして傘をさして駐機場を出ると、すぐ目の前にある首都高の高架を抜けて信号を渡った。すると横浜中華街の入り口が見えてきた。

 この中華街は一九世紀にアメリカのペリー提督が日本に開国を急がせるために七隻の軍艦を率いて横須賀の沖に入り、この地に外国人が多く居住するようになったことが起源と言われていた。そして東南海大震災後は日本が大混乱に陥るなか、在日中国人たちの保護という大義名分の元、中国軍主導で復旧と復興が行われたのだった。そして今では中国軍がこのエリアの警察権まで持つに至っている。つまりこの中華街は事実上の中国領土なのだ。

「子供の頃に見た中華街と雰囲気がかなり違いますね」

 金田は興奮して落ち着かない様子だった。

 中華街の入り口には中国の神話に登場する東の方角を司る神である青龍が天高く飛び上がろうとしている姿をモチーフにした巨大な青龍タワーがあり、その高さは同じ横浜にある横浜ランドマークタワーを遙かにしのぐ高さを誇っていた。

 俺と金田はその青龍タワーの一階に設けられているセキュリティゲートに向かった。そこにはいくつものゲートが並び武装した中国軍兵士や警備アンドロイドが、中華街を出入りする人たちのボディチェックや荷物検査とあわせて個人認証をおこなっていた。個人認証はゲートを通るときに体内に埋め込まれた〈ナノマシン〉の情報を読み取ることでおこなわれるようようになっていた。ただし俺の場合は首からぶら下げているIDカードで『国境』を通過することになった。

「セキュリティゲートでいろいろとチェックされると、なにも後ろめたいことがなくてもドキドキしますよね」

 ゲートを何事もなく通ることができた金田が安堵の表情を浮かべ胸をなでおろして言った。

「でも中国人の場合はドキドキだけじゃすまないからな」

「どういうことですか? まだなにかあるんですか?」

「中国には胡麻(ごま)信用っていう国民ひとりひとりの社会的な信用を数値で評価するシステムがあるんだ。たとえば収入がどれだけあって税金や社会保険料をちゃんと支払っているかどうか。あるいはローンの滞納がないかどうか。とにかくその人のすべてが記録されて、その内容を複雑な計算式を使って導き出された数値で評価するんだ。そうなると数値が高ければ高いほど信頼できる人間ということになるからビジネスでの交渉事でも有利になるらしい。つまりあのゲートを通るときに評価が低いと入れないんだ」

「それって、すごくいやですね」

「中国人も内心ではどう思っているのかわからないけど、そのスコアは就職や結婚にも影響するらしくて、数値の低い人間は人生に絶望して自殺することもあるそうなんだ」

「ひどいですね。点数がすべてなんですね」

「もしかしたら、いずれ日本でも導入されるかもしれないな」

「最悪ですね。なんでもかんでもそうやって点数で評価されちゃうのって」

「まぁな。それはともかく今は腹が減った。どこかいい店は見つかったのか?」

 昼時ということもあり安くて美味しいお店はどこも行列ができていたため、けっきょくメインストリートから細い道に折れたところにある飲茶の小さな店に入ることにした。店内には有名人の写真やサインが書かれた古びた色紙が壁一面に貼られていた。客は俺と金田のふたりだけった。

 店員と思われる女はテレビに視線を向けたまま、水の入った薄汚れたコップをテーブルに乱暴に置くと注文書と思われる紙とペンを持って仁王立ちした。俺と金田は怖ず怖ずと食べたいものを注文すると、店員はテレビに顔を向けたままメモになにやら殴り書きし、厨房に向かってなにかを叫ぶとそそくさと去っていった。

「テレビを見てみろよ。あれは例の『東アジア新幹線』が通る海底トンネルじゃないか」

「ほんとですね。あの工事、あと二〇年以上もかかるらしいですよ。完成したときは世の中はどんな風になっているんでしょうね」

「二〇年後か」

 ひとり言のようにつぶやいた。

 テレビには博多から韓国の釜山まで日本海を横断する『東アジア海底トンネル』工事の進捗を、レポーターが興奮気味に解説している様子が映し出されていた。レポーターの後ろには巨大なトンネルがあり、その周りではミニチュアのように見える人や作業用ロボット、そしてさまざまな形をした重機が動き回っていた。

 この海底トンネル工事はスタートしてから今年で一〇年となり、その節目に合わせて今日、式典が開催されるとのことだった。

 東アジア海底トンネルに設置される駅は『第一駅』から『第一〇駅』までが計画されており、式典は日本海の中間に位置する完成したばかりの『第五駅』の海上施設で行われることになっていた。そして画面が切り替わり、その海上施設にある巨大なパラボラアンテナのような場所に設営された豪華な式典会場が映し出された。そこには招待客、マスコミ関係者や警備にあたる兵士などでごった返していた。そして会場のステージには日本の後藤大統領、韓国の朴大統領と北朝鮮の李総統そして中国の曹主席がそれぞれ満面の笑みを浮かべながら力強く握手をしていた。上空にはマスコミや警備のドローンが飛び交っていた。

「笹島さん、二〇年後、わたしたちは生きていると思いますか?」

「どうかな」

 そのとき残された人生があと一半年だったことを思い出した。今から一年ほどまえ、会社の健康診断でおこなわれた血液検査で骨髄異形成症候群であることがわかったのだ。この病気は白血病になるリスクも高いとのことで、医師からは余命二年半と宣告されていた。ただ、本来であれば入院しなければならないところを症状を抑えるためだけの投薬治療のみを選択し、それ以外の治療はすべて放棄した。なぜなら長期入院となると今の労働法では解雇理由として成立するため、クビになってしまうのだ。そうなると雇用保険が消滅した今の時代では次の仕事が見つからない限り、収入がいきなり断たれることになり母さんと俺は路頭に迷うことなってしまう。そのため今の生活を維持して母さんを今の病院に入院させ続けるにはなにがなんでも大芝で働き続けなければならないのだ。しかし、あのメモリスターを売って大金を手にすれば、母さんも俺もサイボーグ化して裕福な生活ができるようになるはずだ。

 テレビでは東アジア海底トンネルを走る予定になっている超高速列車の『ハイパーループ』についても説明していた。この列車は最高時速一千キロで走行できる夢の超特急だ。ただし、今は工事中ということもあり仮設でリニアモーターカーが走行していた。

 このハイパーループの最終目標は札幌から博多まで日本列島を縦断し、日本海を渡り朝鮮半島からさらにユーラシア大陸とヨーロッパを横断し、イギリスまで到達することなのだ。この壮大なプロジェクトはまさに中国が二〇世紀末に提唱した『(いつ)(たい)(いち)()』の拡張版で、人類史上最大のプロジェクトと言われていた。そして番組では東アジア海底トンネルの事業費はすべて日本が負担する予定と言っていた。

「それにしても今の日本によくそんなお金がありますよね」

 国の借金は大震災の復旧と復興などの影響もありそれまでの借金と合わせて二千兆円に迫りつつあると言われていた。そんな状況の中、東アジア海底トンネルの総工費はすべて日本が負担するのだ。しかも巨額のお金が動く事業であることから黒い噂も絶えなかった。

『金のなる木には怪しげな奴らがいっぱい群がってくる』

 権常がそう言っていたのを思い出した。

 すると、先ほどの店員と思われる女性がテレビに顔を向けたまま料理を持って来て、乱暴にテーブルに置くと中国語でなにやらブツブツ言いながら去って行った。

「来たぞ。腹ごしらえしよう」

「笹島さん、今度は〈ケルン〉の潜入取材ですよ。もう運用を開始しているんですね」

「〈ケルン〉って、このまえ今城さんが熱弁を振るってた最強の量子コンピュータに搭載されているAIのことだよな」

 〈ケルン〉とは今城さんから聞いた話によれば常温超伝導物質を使った量子テレポーテーション回路を全面的に採用したスーパー量子コンピュータに搭載されたAIとのことだった。何度も聞かされているので言葉としては記憶しているが、中身についてはまったく理解できなかった。テレビではレポーターが東アジア海底トンネルを走るリニアモーターカーに乗り込みながら、このスーパー量子コンピュータと〈ケルン〉を開発したのはアメリカに本社を置くタイレルテクノロジーであることなどを興奮気味に解説していた。

 そして画面が切り替わるとレポーターが〈ケルン〉本体内部に入るためのドアを開けようとすると、ドアを警備している兵士に制止され立ち入り禁止であることが告げられた。それは予定されていた演出なのか兵士もレポーターも笑顔だった。そして〈ケルン〉内部に至るそのドアの表面にはなぜか『生命の樹』が彫刻されていた。

「あれ? 笹島さん、あのドアを見てください。お母様の部屋で見たのと同じような生命の樹がデザインされていますよ」

「そうだな。でも、よく見ろよ。一番上の光球だけが他の光球と違ってただの円になってるな。あの光球は『ケテル』という名前で王冠を意味するんだ」

「さすが詳しいですよね」

「子供時代の忌まわしい記憶だな」

 そしてまた場面が変わり、今度はタイレルテクノロジーの技術者が登場し、〈ケルン〉の施設は設計から建設までをすべてアンドロイドがおこなったことと、〈ケルン〉自体はすでに運用が開始され全人類のありとあらゆる情報を集約し始めていることを誇らしげに語っていた。

「じゃ、さっき笹島さんが言ってた胡麻信用を日本が採用するのも時間の問題かもしれませんね。ところでこれを食べ終わったらもう帰りましょうか?」

 金田が冗談を言うのは久しぶりのような気がした。

「おまえが冗談を言うのは珍しいな。ビックリしてどういうリアクションを取ったらいいのかわからんからやめてくれよ」

 ひしぶりに笑顔になれたような気がした。

「早くパソコンを渡してこの件は終わらせましょう」

「そうだな」

 そろそろ金田にも大原警部との計画を説明するべきだろう。

 接客はともかく料理は最高で量も充分だったので大満足だった

 土砂降りの雨の中、目の前にある豪邸が木島善継の自宅であることをもう一度スマホで確認した。そして俺と金田はお互いの身だしなみを簡単に確認し合い、事前に指示されていたとおりに正門前で立哨している地元警察の機動隊員に用件を伝えたあと、インターホン越しにカメラに目を向けながらマイクに向かって名前を言うとセキュリティチェックが完了した。すると『どうぞ』と言う声ととともに門がゆっくりと開いた。

 目の前には草木や花が生い茂り清涼感漂う日本庭園が広がっていた。

 金田は空を見上げた。

「笹島さん、雨がやんでいます。というか、ここは雨が降らないようになっているみたいですね」

 確かにさきほどまで土砂降りだった雨がぴたりとやんでいた。しかも地面を見るとまったく濡れていなかった。空を見上げるとそこにはガラスのように見えるドームが敷地全体を覆っていた。

「あれを見てみろ」

 ドームの外側は確かに雨が降っているようだが、その雨粒はドームにあたっているようには見えなかった。

「笹島さん、あれはテレビで見たことがあります。高周波の細かい震動で雨水を吹き飛ばす仕組みで、たしか超音波撥水技術だったと思います。開発された当初は戦闘機などに使われていたそうですけど、今は一部の自動車やドローンにも搭載されているらしいですよ」

「そうなんだ。それをこの広い敷地全体に覆っているんだよな。いったいどれだけのお金をかけたんだろうな」

 その風景に圧倒されながら門をくぐると、どこからともなく警備会社の制服を着た男が近づいてきた。

「はじめまして。警備を担当しているアンドロイドのセキグチと言います。傘はお預かりします。ご案内しますのでついて来てください」

「よろしくお願いします」

 いつもそうだがアンドロイドやロボットに対して丁寧に受け答えすることにどうしても抵抗を感じてしまう。

 セキグチは砂利道にそって歩きはじめた。

「この庭も見事ですね。特殊対応で政治家や官僚の邸宅を訪問することも多いですけど、これはレベルが違いますね」

 優しく風にそよぐ葉の音や鳥の鳴き声が聞こえる。そして監視用と思われるドローンがハチドリのように飛んでいた。

「こういうのをユートピアって言うんだろ?」

「まさに現代のユートピアですね。今の日本にもこんな裕福な暮らしをしている人がいるんですね」

 砂利道を五十メートルほど進むと二階建ての数寄屋造りの建物が見えてきた。

「あれが自宅か」

「まるで高級旅館ですね」

 建物の右側には大きな池があり、そこには色とりどりの錦鯉が優雅に泳いでいた。玄関まで行くとすぐに扉が開き、中から小柄な中年女性が出てきた。

「はじめまして。わたしは家政婦の宮原と申します。ここからはわたしがご案内いたします。どうぞお上がりください」

 セキグチの案内はここまでのようだった。玄関を入り廊下を進んでいくと中庭が見えてきた。ここにも枝ぶりの立派な草木や綺麗な花が植えられておりいくつもの庭石や池もあった。

 すると突然廊下の途中で宮原さんは俺と金田のほうに振り向いた。

「一応お伝えしておきますけど、大芝エレクトロニクスの清水会長も来られています」

「本当ですか!」

 思わず立ち止まり金田と顔を見合わせた。

「清水会長はよくここに来られますよ。木島様とは仲良しですから」

 するとどこからともなく笑い声が聞こえてきた。

 木島と清水会長だろうか。談笑しているようだった。宮原さんを先頭にして廊下の突き当たりにある襖の前まで行くと立ち止まり、襖の向こうに声を掛けた。

「木島様。笹島様と金田様が来られました」

「入れ」

 宮原さんは襖を開けて俺と金田を招き入れると静かに去って行った。

 部屋は和室で茶室を思わせるような造りになっていた。床の間には華やかな生け花が飾られていた。今ではめずらしい真新しい畳の匂いがした。そして民治党の木島幹事長と清水会長がゆったりとした和装で座っていた。

「笹島君、金田君、ご苦労だった。座れ」

 清水会長は顔をわずかに動かして座る場所を示した。

「はい」

 俺は金田と並んで正座した。

「木島幹事長、こちらが今回、活躍した笹島と金田です」

「そうかそうか。ところで君たち、玄関で白い靴下には履き替えたか?」

 なにを言っているのか理解できなかった。どうやら俺と金田が困惑している様子を見て楽しんでいるようだった。

「冗談だよ。冗談。気にするな」

 木島は清水会長と顔を見合わせて笑い出した。

「君たちは、今回の活躍でなにかご褒美はもらえるのかな?」

「いえ特には・・」

「幹事長、わたしもいろいろと考えていますからお気になさらないでください」

 清水会長は苦り切った顔ですかさず割って入った。

「こいつはな、セコいから気をつけるんだぞ。今回の件に関してはしっかりご褒美を要求しろよ。まさに大手柄だからな」

「幹事長、部下の前でそんな言いかたはやめてくださいよ。もう、人が悪いんですから」

 話の内容からも、やはり権常が言っていたようにあのメモリスターに入っているデータはよほどの価値があるに違いない。

「ところで、例のパソコンは持ってきたか?」

「はい。こちらにあります」

 鞄からTaiyoBookを取り出して清水会長に渡した。

「幹事長、これでもう大丈夫です。あとはこちらで内容を確認して、しっかり処置します」

 木島は清水会長が手にしたTaiyoBookを見て満足そうに顔をほころばせた。

「ところで、君たちはこの中になにが入っているのか聞いているのか?」

 その顔には薄ら笑いが浮かんでいた。

「いえ、知りません。わたしどもはそのTaiyoBookの回収を命じられていただけなので、どのようなデータが入っているのかは関知しておりません」

「幹事長、このふたりはなにも知る必要はありませんよ」

「そんなことはわかってる。冗談だよ。いちいちあせるな。どちらにしても最初からなにもなかったことになるんだからな」

 苦り切った表情の清水会長をよそに、木島はまた笑い出した。そして清水会長は俺と金田を交互に睨み付けた。

「おまえたちはなにも知る必要はないんだよ。今日は木島幹事長がどうしても会ってみたいとおっしゃったから呼んだんだ。勘違いするな」

 脅すような尊大な口調だったが、そこには不安や怯えを隠すための虚勢にすぎないような気がした。

「おいおい、清水は部下にはえらく厳しいな」

「そんなことはないですよ。じゃ彼らも忙しいでしょうから、帰らせましょう」

「そうだな。あと、宮原さんがまたおまえたちを玄関まで見送るから。そのときにプレゼントを受け取りたまえ」

 木島はこれで会話は終わったとばかりに室内電話で宮原さんを呼び出し用件を伝えると、もう俺と金田の存在は忘れたかのように清水会長と雑談を始めた。

「これは鰻重弁当です。天然の鰻だそうですよ。どうぞ召し上がってください」

 宮原さんは玄関で俺と金田にそれぞれ包みを渡した。

「ありがとうございます。天然なんて凄いですね。生まれて初めてかも知れません」

「そうですよね。天然の鰻なんてお店に並ぶことはないですから。まぁ木島さんは特別なのでいくらでも手に入るみたいですけどね」

 そのあとセキグチから傘を返してもらい、再び門の外に出るといきなり横なぐりの激しい雨に晒されてしまい、あわてて傘をさした。

「台風がかなり近づいて来ているみたいですから、今日はもう帰りませんか? 今からテクセン秋葉原に戻ってもお客様もそんなに来ないですよ」

 金田は傘越しに空を見上げながらそう言った。

「そうだな。でもそのまえに寄りたいところがあるんだ」

「まだ他に行くところがあるんですか?」

「すまないが二子玉川の北花田病院まで付き合ってくれ」

「いいですけど、またお見舞いに行くんですか?」

「とりあえず一緒に来てくれ。ちゃんと説明するよ」

 傘をさしている意味がないほどの雨の中を、ずぶ濡れになりながらドローン駐機場まで急ぎサクラ127に乗り込んだ。

 メインスイッチを入れると計器類が一斉に明るくなりローターが回り始めた。

〝すべて正常に起動完了しました。ただし台風が接近中で風雨が強くなっています。場合により緊急着陸することがありますのであらかじめご了承ください。目的地をどうぞ〟

「二子玉川の北花田病院。七号病棟まで頼む」

〝承知いたしました。目的地を二子玉川の北花田病院七号病棟に設定しました。離陸します〟

 サクラ127は静かに上昇を始めた。風にあおられて少し揺れたが、計器類を見る限りなにも問題はなさそうだった。

「さっきいただいた鰻重ですけど、天然の鰻って絶滅危惧種らしいですよ」

「そういえば俺も天然の鰻って子供の頃に食べた記憶しかないな。でも絶滅危惧種だったら食べちゃいけないだろう」

「ええ、そのはずです。でも、あの人たちは治外法権ですから」

「ほんとだな。とんでもない治外法権野郎だな」

 ふたりで笑った。窓の外を見ると横浜の街が一望できた。競い合うように建っている青龍タワーと横浜ランドマークタワーの先端が低く垂れ込めた雲に隠れていた。

「金田、今から病院に行く理由なんだけど、実は見舞いじゃなくてメモリスターを取りに行くんだ」

「えっと、なんのメモリスターですか?」

「権常が金のなる木って言ってたメモリスターだよ」

「それはさっきもう渡したじゃないですか」

「いや、あのTaiyoBookには金田がきのう廃棄パソコンから取り出した空のメモリスターが入ってるんだ。元々入っていたメモリスターは母さんの個室に置いてきたんだよ。あの病院は警備体制がしっかりしていて自宅に持ち帰るより安全だと思ったんだ」

「木島幹事長や清水会長にばれたら、たいへんなことになりますよ。いったいなにを考えているんですか?」

 金田は困惑して苦り切った表情をしていた。

 思いきって打ち明けることにした。

「俺はあの金のなる木を自分で金に換えてみようと思っているんだ。『五蝶会』の権常が言っていたようにあのメモリスターにはかなりの価値があるのはおまえにも想像がつくと思う。その証拠にさっきは清水会長や木島幹事長も上機嫌だっただろう。それで自分でお金に換えようと思ったんだ。そのためにもまずは中にどんなデータが入っているのかを調べて、それから取り引き相手を探そうと思っている」

「でも、それって犯罪じゃないですか」

「それはわかっている。でも今のこの生活から脱出するには宝くじを当てるより確実だと思っている」

「でも犯罪ですよね」

 金田の声は暗くなった。

「もしこの話に興味がなかったら言ってくれ。いつでも降ろすから」

「勝算はあるんですか?」

「まだわからない」

 金田は考えている。頭の中で天秤に掛けているのだろう。このドローンに乗り続けるか、それとも降りるか。

「金田もわかっていると思うけど、このまま特殊対応を続けてもなにも評価されないし給料も上がらない。それどころかいつか本当に殺されるかもしれない。どっちにしても利用されるだけ利用されてそれで終わりだ」

「確かにわたしもそう思います。じゃ聞きますけど、そもそも笹島さんはどうしてこの仕事を続けているんですか?」

「昨日、権常が話してたのを覚えてると思うけど、俺の身体には国民健康計画の〈ナノマシン〉が入っていないんだ。金属アレルギーだから〈ナノマシン〉に変わるIDカードを首からぶら下げるしかなかったんだ。そのことで世間では正常と異常の境界線上に生まれた人間として扱われて、進学や就職や結婚とかで一生のあいだ差別されることになるんだ。金田も聞いたことがあると思うけど俺は『半端者』なんだ」

「今の話だと本来なら大芝には就職できなかったということですか?」

「そうだ」

「ということは、もしかして特殊対応を担当とすることを条件に就職できたということなんですか?」

「それが条件だったんだ。もし、その条件を飲まずに母親に必要な医療費を賄えるほどの収入を得られる仕事に就くとしたら、それこそ『五蝶会』のような大企業並みの暴力団くらいしか受け入れてくれるところはなかったと思う。でもだからと言って大芝でこのまま特殊対応をやり続けて、惨めな思いを抱えたまま仕事を続けるのも嫌なんだ。だから、権常の話を聞いたときに金のなる木を手に入れて自分で金に変えてみようと思ったんだ」

「笹島さんは、わたしがなぜ大芝で特殊対応を担当することになったのか、なにか聞いていませんか?」

「聞いているよ。大芝は採用前に必ず身辺調査をするからな。俺が聞いているのは、おまえは震災で親と兄弟を亡くして親戚とも疎遠で震災孤児として育ったということ。それから友達もいなくて彼女もいない。その上でITに関する技術力は優れているとなると特殊対応業務には適任なんだ。要するに便利に使えてなにかあれば切り捨てやすい存在ということなんだ。だから採用されたんだよ。大芝は大切に守るべき従業員と使い捨てができる従業員を分けて採用基準を設けているんだ。どちらも最初は同じように採用されるけど入社後の扱いについては退職のその日まで区別されることになる」

「そういう事情があったんですね」

 金田は窓の景色を眺めて黙り込んだ。窓からは横浜の街を横断するように流れる大岡川が見えてきた。川の西側にある最先端のAIとアンドロイドによる警備で守られたエリアにはガラス張りのタワーマンション群があり大小のドローンが飛び交っていた。マンションのガラス張りに見える壁面は太陽光パネルになっており裕福な居住者たちはふんだんに電気が使えるのだ。そして東側には見捨てられた避難民が住むプレハブやテントが密集し、ところどころに堆積されたゴミの山があった。このエリアはすさんだ環境と犯罪発生率の高さで悪名を馳せていた。そして川に架けられている数少ない橋には検問所が設けられ、許可のない人間は渡ることができないようになっているのだった。

「笹島さん、さっきの話ですけどわたしも協力します。でも、ひとつだけ条件があります。わたしは震災のときに人の命を粗末に扱っているところを多く見てきました。わたしの両親は震災で死んだことになっているんですが、本当は震災後に上陸した国連軍兵士に射殺されたんです。理由は知りません。それに兄弟がふたりいたんですけど、どちらもインフルエンザで死にました。だから人が死ぬところはもう見たくないんです。だから人の命を犠牲にしてまではお金を手に入れたいとは思わないので、もしそういうことがあればわたしは降ります」

「だれも死なないしだれも殺すことなんてあるわけがないじゃないか。でも、その条件でOKだ」

「よろしくお願いします。ところで例のメモリスターを売るとしたら権常が言ってたように本当に一億国連ドルになるんでしょうか?」

「まだ、わからないけどその金額を一応の目安にして買い手を探そうと思ってるんだ」

「そうなんですね。じゃ、わたしの取り分は半分の五〇〇〇万国連ドルですか?」

「もっと少なくなる。実は仲間がいるんだ」

「え? だれですか?」

「大原警部だ」

「本当ですか! 国家警察の警部ですよ!」

「そうだ。心強いだろう」

「いや、そういうことじゃなくて警察官が犯罪に加担するなんてと思ったんです」

「それを言うなら窓の外を見ろよ。どこに正義があって、どこに法の下の平等があるんだよ。今の世の中、犯罪がどうとか気にしていたら惨めな思いをするだけだろう。それはおまえにもわかるはずだ。警察官だって同じさ」

「そうなんですね」

「金田の取り分はこれ以上仲間が増えなければ三三〇〇万国連ドルだ」

「うまくいくでしょうか?」

「なんとかしてうまくいくようにするさ」

「それだけのお金があればどこにでも行けますね」

 金田は遠い目をしていた。

「なんだ。引っ越ししたいのか?」

「もっと平和に安心して暮らせるところに住みたいです。それにわたしの場合は家族もだれもいないので、お金さえあればなにも気にせずにどこにでも行けます」

 金田は笑顔でそう言いながらも寂しそうだった。

 そのとき、体のあちこちが痛くなってきた。それに加えて強烈な倦怠感が湧き上がってきた。どうやら朝に飲んだ薬の効力が切れてきたようだ。

「ところで、さっきの〈ナノマシン〉の話の続きだけど、俺は〈ナノマシン〉が体に埋め込まれていないから、どんな薬をどれだけ飲もうと警告も受けないし記録にも残らないんだ。だからある意味、都合がいいんだ」

「それって、その、なにか病気なんですか?」

「まぁな。体は病気だけど、IDカードの記録では健康そのものということになってるんだ。〈ナノマシン〉が埋め込まれている金田にはそんな器用なことはできないだろう」

 冷たく笑った。

「確かに〈ナノマシン〉だと健康状態も薬の服用もすべて記録されますから。それに診療記録も。ということは、もしかしてどこかの闇病院にかかっているんですか?」

「まぁ、いろいろだ。いろいろな場所でいろいろな薬を買ってるんだ」

 鞄の隠しポケットから、大小さまざまな錠剤を取り出して掌に載せた。普段は気にしていなかったが数えてみると全部で一二錠あった。

「笹島さん、そんなにたくさんの薬を飲んでいるんですか? 大丈夫ですか?」

「今は大丈夫だよ」

 ドローンに備え付けられている冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出すと薬と一緒に飲み干した。

「少し疲れたから眠るよ」

 そしてシートにゆったりともたれかかり腕を組んで目を閉じた。

 715号室のドアの前で音声と虹彩による生体認証をクリアして部屋に入ると、そこはまぶしいほどの日光に照らされた細かい白い砂が広がる砂浜だった。そしてやはり若い頃の母さんと父さんと幼い妹の美波、そして俺がいた。

 小さな俺と美波は小さなスコップを使って何かを作り上げようと夢中になっていた。そしてベッドの上ではその様子を楽しそうに眺めている母さんがいた。

「あら! いらっしゃい。今日も来たのね。それにしてもふたりとも昨日よりも顔色が悪いわ。それにスーツがよれよれよ。金田さんもようこそ。今日も緑茶を飲んでいってね」

 仮想現実に浸りきっている母さんは気味が悪いほどの満面の笑みを浮かべていた。

「大丈夫だよ。それにしても、よくこんな風景が再現できたね」

「すごいでしょ? 〈アキコさん〉がどこかで見つけてきてくれたの。写真も映像もデジタルデータでは残ってないのにすごいでしょ。あれを見て。噴火するまえの富士山よ。富士は晴れたり日本晴れよね」

 デジタルデータとして残されていない過去の思い出をどうやってここまでリアルに再現することができたのだろうか。砂浜の向こうには海が広がりさらにその向こうには、ありし日の威厳と美しさが渾然一体となった富士山が見えていた。

「ほんとにすごいな。驚いた。ところでケアロボットはいる?」

「いるわよ。ケアロボットがどうかしたの?」

 母さんは不思議そうな表情を浮かべた。

「ちょっと確認したいことがあるんだ」

「あら、そうなの? じゃ、呼ぶわね。〈アキコさん〉、ケアロボットを呼んで」

 壁に格納されていたケアロボットが起動され静かにやってきた。

 そして目の前まで来ると指紋認証ポートに指を押しつけた。するとお腹のあたりにある小物入れの蓋が開いた。だがそこにはなにもなかった。あるはずのものがない。メモリスターが消えている。

「そこになにか入れていたの?」

 母さんは怪訝そうに聞いてきた。

「昨日来たときにここに入れた荷物があってね。それを取りに来たんだけど」

 動揺を必死に抑えながらそう言った。

 そのときスマホに着信があった。画面を見ると非通知となっていた。ついにメモリスターの件がバレたのだろうか。不安が頭をよぎった。

「母さん、今日だれかこの部屋に来た?」

「そうそう、そう言えば健治と同じ会社の人が一時間くらいまえにふたり来たわよ。昨日の夜に健治がなにか置いていかなかったかどうか聞かれたわ。忘れ物をしたみたいだから探しに来たんだって言っていたわよ」

 思っていたより早く気づかれてしまったようだ。考えが甘かったのだ。千載一遇のチャンスと思っていたが、メモリスターを持って行かれたとなるともうどうしようもない。そう思うと絶望のどん底に引きずり込まれたような気分になった。

「ここに入れていたものは持って行ったんだよね?」

「ううん。マスターキーを使ってケアロボットの小物入れも見ていたし、部屋のあちこちをくまなく探してたみたいだけどなにも見つからなかったみたいよ。健治はそのことを知らないの? わたしはてっきりその人たちが忘れ物を探し出せなかったから、健治が直接探しに来たのかと思ったわ」

 どういうことなのかわからなくなった。

「じゃ、会社の人間以外はだれも来てないんだよね?」

「来てないわよ」

「メモリスターはどこへ行ったんでしょうか」

 金田も心配になってきたようだった。また、スマホにまた着信があったが無視した。

「どういうことなんだ」

 会社の人間がメモリスターを回収していないのであれば、一体、だれが持ち出したのだろうか。

「ここにメモリスターを入れたのは間違いないんですよね?」

 金田が聞いてきた。

「ああ、そうだよ! ここに入れたんだ。間違いない!」

 これで命懸けの作戦は水の泡だ。

「健治。あのね、知らないようだから説明するけど、実はこのケアロボットは毎日入れ替わるのよ。だから今、目の前にいるケアロボットは昨日のケアロボットとは違うのよ」

「どういこと?」

「同じ型番のロボットだから同じに見えるんだけど、毎朝、各部屋のケアロボットが入れ替わるようになってるの」

「なんで?」

「そんなことはわたしにはわからないわ。たぶん、かなり古いタイプのロボットだからAIの学習に偏りがないように日替わりで各部屋を交代するようにしてるんじゃないかしら」

 すると会話を聞いていた〈アキコさん〉が話し始めた。

〝そのとおりです。ケアロボットは導入されてから今年で十二年にもなります。かなり古いこともありAIの学習機能も原始的なので偏りがないように毎朝、交代することになっているのです〟

「昨日のケアロボットは今どこにいるのか教えてあげて」

 母さんは天井の方を向いて尋ねた。そのとき金田のスマホにも着信があったのかスマホの画面を見ながら部屋の隅に移動した。

〝304号室にいます。その部屋には東さんが入院されています〟

「そうなのね。ありがとう、〈アキコさん〉」

「わかった。母さん、助かったよ」

 母さんを心配させないように落ち着いた風を装っていたが、内心は早くメモリスターを回収したくて焦る気持ちを抑えるに必死だった。

「笹島さん、さっきの非通知の着信は村田さんからの電話でした。テクセン秋葉原がたいへんなことになっているようです」

「なにがあったんだ?」

 すると金田はなにも言わずに通話中のままになっているスマホを差し出した。

「もしもし?」

「笹島さんですか? お忙しいところすみません。知らせたほうがいいと思って電話しました。一時間ほどまえに本社の総務部と保安部の人たちがテクセン秋葉原に押しかけてきて大騒ぎになっているんです」

「なんで保安部が来てるの?」

 保安部と聞いただけで胸騒ぎがしてきた。

「彼らが言うには笹島さんと金田さんが会社の重要な機密情報を盗んだ容疑がかかっているから捜索に来たって言っています。それでスタッフルームやショールームが引っ掻き回されてお客様対応どころじゃない状態なんです」

「そうなんだ」

 それ以上、なにも言えなかった。今はとにかく早くメモリスターを回収することだけで頭がいっぱいだった。

「ところで、金田さんも教えてくれなかったんですけど、今どこでなにをしているんですか? またいつもの本社指示のクレーム対応なんですか?」

「ごめん。また連絡するよ。今、急いでいるからもう切るね」

 村田さんはなにか言おうとしていたが無視して回線を切った。

「母さん、今から急いで304号室に行ってくるよ」

「わかったわ。わたしのほうからも東さんに連絡を取って事情を説明しておくわね」

「ありがとう。そうしてもらえると助かる。金田、行くぞ」

 エレベーターで三階まで降り、廊下に不審な人物がいないかどうか確認しながら304号室のインターホンを押した。そしてアナウンスにしたがって声と虹彩で生体認証をすると勝手にドアが開いた。すると部屋から漏れてきた強烈な腐臭が鼻をつき、思わず後ずさりした。

「なんだ。この臭い!」

 一気に気分が悪くなり胃の中からなにかがこみ上げてきた。その臭いは東南海大震災の封印していた忌まわしい記憶を蘇らせた。

「なんでこんなところで、こんな臭いがするんですか」

 金田も手で鼻と口を覆いながらやはり後ずさりして唸っていた。耐えられない臭いに圧倒されてしまい部屋に入る気力がくじけそうになったが、なんとしてでもメモリスターを取り戻すためには我慢するしかない。

「東さん、失礼します! 715号室の笹島です! 東さんはいますか?」

 何度も襲いかかる吐き気を無理矢理に抑え付けながら部屋に入った。

「はい。どうぞ。お入りください」

 部屋に入ると照明も明るく、調度品やソファなどもきれいに整理整頓されており特に異常があるようには見えなかった。そして部屋の中心には母さんの部屋と同じようにベッドがあり、そこに東さんが横になっているようだった。

「このたびは申し訳ありません。母から連絡が行ってると思うのですが、昨日なんですけどケアロボットの小物入れに荷物を入れたままにしてしまっていて。それでそのケアロボットが今日はこちらの部屋を担当していると聞いてやって来ました」

 何度も吐き気を堪えていると涙が出てきた。

〝ええ、笹島さんのお母様から事情は聞いています。ケアロボットを呼びますのでどうぞ楽にしてくださいな〟

 その声はベッドからではなく天井に設置されているスピーカーからだった。金田は口を手で押さえたまま恐る恐るベッドに近づいて覗き込んだ。

「うわっ!」

 金田はそう叫ぶと後ろに飛び跳ねてのけぞると転倒してしまい床に尻餅をついた。

「笹島さん! 死んでます!」

 金田は恐怖で目を見開きベッドの方を指さしながら言った。その手は小刻みに震えていた。

 恐る恐るベッドを覗き込んでみると、そこには濃密な腐臭が纏わり付いたミイラ化した死体があった。

「うっ!」

 思わずのけぞると金田と同じように転倒してしまい尻餅を付いてしまった。

 すると再び天井のスピーカーから再び声が聞こえてきた。

〝笹島さん、どうかされました? 大丈夫ですか? なにかあったら教えてくださいね。わたしが支援します。ただし、ナースコールはしないでくださいね。医療費を三ヶ月ほど滞納しているので、それが解決するまでだれも来ないですから〟

 どうやらAIが東さんになりきって会話をしているようだった。

 金田の方を見ると尻餅をついたまま、這いずるようにして玄関に向かっていた。

「金田! 逃げるな! メモリスターを取り出すからそこで待っていてくれ!」

「すみません。怖すぎです。わたしは外で待ちます」

「俺も怖いんだぞ! ひとりだとよけいに怖いだろう!」

 そのときAIがまたしゃべりだした。

〝笹島さん、大丈夫ですよ。わたしがいますから。安心して荷物を探してください。ずっといてくれてもいいんですよ〟

 それを聞いてよけいに怖くなった。

「笹島さん、早く取り出してください! お願いです! もう耐えられません!」

 するとAIが気を利かせたのかケアロボットの方から近づいてきた。普段ならなんともない無表情な顔が不気味に見えた。そして震える指で指紋認証すると小物入れの蓋が勝手に開き、その中にメモリスターが入っているのが見えた。

「あったぞ!」

 そう叫ぶとメモリスターを素早く取り出し玄関に向かって走った。

〝笹島さんどうやら忘れ物は見つかったみたですね。良かったですね。よければゆっくりしていきませんか?〟

 AIの声は楽しそうだった。

「いえ。あの、もう帰ります」

「それは残念ね。じゃお母様によろしくお伝えくださいね。良かったらまた遊びにきて。若い人は大歓迎だわ」

 俺と金田は部屋から飛び出すと、胃が飛び出してくるのじゃないかと思うほど嘔吐した。そして気持ちを落ち着かせるために何度も深呼吸をした。

 そしてふたりで無言のまま這々の体でエントランスまで行くとしゃがみ込んだ。

「あれは、いったいどういうことなんだ。だれかに知らせないと」

 すると金田はなにかを思い出したようだった。

「まえにニュースで見たことがあります。地方のある病院で患者が次々と感染症で死んでしまったことがあったんですけど、その病院を管理していたAIは責任を問われたくないからと患者全員が生きているかのように生体情報を偽装したんです。しかもそのAIはそれぞれの患者になりすまして外部の人間と音声で会話までしていたんですよ。その後の調査でその病院のAIはコンピュータウイルスに感染していて自己保護モードが歪んだ形で働いたことが原因でそうなったらしいです」

 金田の顔は青ざめて血の気がなかった。

「おまえ、詳しいな。でも、ここの病院のAIは〈アトラス〉一台で、それがすべての個室を管理しているはずだぞ。それぞれの個室に個性のあるAIが割り当てられているように見えるけど、結局はひとつのAIである〈アトラス〉に集約されるはずだ。だからあの部屋の状況も把握しているはずなんだ。でもなにも言わなかったじゃないか」

「笹島さん、技術的な説明をする時間はありませんから、たとえ話で説明しますね。まず〈アトラス〉を水源だと思ってください。水源からあふれ出る水は海になることもあれば川や池になることもあります。時には雲になり雨や雪にもなりますよね。それと同じです。〈アトラス〉は〈アトラス〉ですけど変幻自在に自らの姿を変えて、さまざまな形で人間と関わります。〈アトラス〉の中では摂理ある自然と同じで、おかしな行動をしているつもりはまったくないんだと思います」

「なんだかよくわからないけど、わかった。どっちにしてもここの病院には人間の医師も看護師もいるじゃないか。いったいどうなってるんだ」

「そうですよね。さっきあのAIが料金滞納のことを言っていましたから、それと関係があるのかもしれませんね」

「とにかく警察か病院のだれかに連絡しないと」

「それはやめたほうがいいかもしれません。わたしたちがメモリスターを探しに来たのがばれてしまう可能性があります」

 金田の言うとおりだった。

「今からこのメモリスターを阿倍野のところに持って行こう」

「今から金沢に行くんですか?」

 金田は駐機場のほうに目をやりながら言った。

「そうだ。時間との勝負だからな。今からドローンで飛ぶぞ」

「でも、見てください。さっき乗ってきたサクラ127が勝手に飛んでいこうとしています」

 ドローン駐機場を見るとサクラ127が激しい雨の中、無人のまま舞い上がると勢いよく飛び去った。

「ここにいることがバレたということだな」

「そういうことですね。でもだからといって電車や飛行機を使って金沢に向かうのは無謀だと思います。すぐに捕まりますよ」

 確かにそうだった。私企業とはいえ自前で軍事組織を持ち、全国に情報網を張り巡らしている大芝の監視の目を掻い潜りながら金沢に向かうのは至難の業だ。それに『五蝶会』にも狙われているはずだ。

 すると、またスマホに着信があった。画面を見ると清水会長からだった

 こうなったら宣戦布告だ。

「はい。笹島です」

「貴様! いったい自分がなにをしているのかわかっているのか! あのメモリスターをどこにやった! すぐに返せ!」

 ということは自宅のマンションも探したはずだ。もうあの部屋には帰れない。

「清水会長、なにをおっしゃっているのか、わたしにはわかりません。メモリスターとはなんのことでしょう?」

「今日、貴様らが持ってきたTaiyoBookのことだ!」

「特殊対応として回収したTaiyoBookはお渡ししたはずです」

「その中に入っているメモリスターのことだ! 知らないとは言わせないぞ!」

 その声は怒りに震えていた。

「メモリスターに関してはなにも指示を受けていません。あくまでもTaiyoBookの回収が目的だったはずです」

「貴様らのやったことは立派な犯罪だぞ! お前と金田は職務停止処分にした! すぐに保安部に出頭してメモリスターを渡せ! それまでは会社を辞めさせないからな!」

 すでに保安部を総動員してメモリスターの回収に動いているはずだ。おそらく俺と金田は社内指名手配されているだろう。もしかしたら阿修羅も出動するのかもしれない。後戻りできないところまで来てしまったのだ。こうなったら断崖から突き落とされてもかまわない覚悟で戦うしかない。

「身に覚えのないことで出頭なんてしませんよ。もし保安部が捕まえようとするなら警察に出頭します。そしてわたしの知っていることをすべて洗いざらい話します。マスコミもきっと喜ぶと思います」

 まるで台詞を棒読みするように言い放った。

「好き放題言いやがって! 誰のおかげで大芝で仕事ができると思ってるんだ! 恩を仇で返すような真似をしてただですむとは思うなよ! この半端者めが!」

 その言葉を聞いて煮えたぎった熱い怒りが湧き上がってきた。それは今まで感じたことのないほどの怒りだった。そして何も言わずに電話を切りスマホの電源も切った。

「金田、大原警部に電話するぞ」

「えっと、やっぱり自首するんですか?」

 金田は眉間に皺を寄せて諦めの表情を浮かべた。

「バカ! だれが自首なんかするか! 大原警部も仲間だから相談するんだよ!」

 大原警部が手配してくれた大型ドローン、マグノリア800に乗り込むと大雨の中を飛び立った。このドローンは四基のローター以外にジェットエンジンも兼ね備えていた。またそれに見合うだけの高性能なAIが搭載されているためか、この嵐の中でもほとんど揺れることがなかった。

 大原警部と組んだことは間違いではなかったようだ。

「笹島さん、大原警部になにをどう話ししたらこんな豪華なドローンに乗れるんですか?」

 マグノリア800は内装も豪華でシートは革張りだった

「金沢に行って阿倍野に会う必要があるからドローンを貸して欲しいって言ったらこれが飛んできたんだよ。大金が手に入るかもしれないから破格の待遇なんだろうな。それにこの天気だと普通のドローンだったらそもそも飛べないだろう」

「そもそもこんな嵐だと普通はだれもドローンに乗ろうなんて思わないですよね」

 金田は窓の外を眺めながら言った。

「〈マグノリア〉、金沢まであとどのくらい時間が掛かる?」

〝現在、甲府市上空を飛行中です。このまま順調に飛行できればあと一時間半ほどで目的地に到着します〟

「笹島さん、テクセン秋葉原は大丈夫でしょうか? さっきから何度も電話してるんですけど誰も出ないんです」

「念のため俺からも電話してみるよ」

 金田の言葉に胸騒ぎがしてきた。だからと言って俺が電話したところで結果は同じなのはわかってはいたが、それでもじっとしていられなかった。まずテクセン秋葉原の代表電話に掛けてみたが確かに呼び出しが鳴るだけで誰も出なかった。そのあと今度は村田さん、寺田センター長や今城さんのスマホに電話をかけたりSNSでメッセージを送ったりしてみたが反応はなかった。なにかよくないことが起こっているような気がして不安が重く心にのしかかってきた。

「ちょっと心配だな」

 なにもできない自分が歯がゆかった。

「保安部が乗り出してきたことが気がかりですが、だからと言って無関係な人たちにまでむちゃなことはしないと思いますけど」

「そうだな。一応ちゃんとした会社だからな」

「ところで笹島さん。ひとつ提案があるんですけど、話してみてもいいですか?」

「なんの提案だよ」

「一億国連ドルが手に入って落ち着いたら本を書いてみませんか? 特殊対応社員としてどんなことをしたのか世間に知らしめるんです」

「なにを言ってるんだよ。極秘任務だぞ。そんなことができるわけがないだろう」

「もちろん、ストレートには書けないですから、例えばペンネームで近未来モノのSFにするんです。舞台はもちろん日本です。それだったらだれも文句は言わないでしょう」

 金田はまんざらでもなさそうな表情を浮かべていた。

「それもいいかもな」

 そのとき薬を飲んだはずなのに鉛のように重い眠気が襲ってきた。スーツの上着を脱いでネクタイも外した。単に疲れているだけなのか、あるいは薬が効かなくなってきているのかわからなかった。

「すまない。その話はまた今度にしよう。眠たくなってきたから少し寝るよ」

「わかりました。わたしはちょっと神経が高ぶってしまって寝れそうにはないので起きています」

 金田はネクタイを少しだけ緩めた。

「なにかあったら起こしてくれ」

 そして静かに泥の中に沈み込むように眠りに落ちた。

 どのくらい眠っただろうか、激しく身体を揺り動かされて目が覚めた。

「笹島さん! 起きてください! 笹島さん!」

 目を開けてみたが頭がぼんやりして焦点がなかなか定まらなかった。警報が耳を突き刺すように鳴り響き金田がなにかを叫んでいた。窓の外を見ると真っ暗で雨が激しく窓を叩きつけていた。

〝緊急事態発生。飛行継続は不可能なため最寄りの駐機場に緊急着陸します〟

「笹島さん、たいへんです! しっかりしてください!」

〝機体の姿勢制御が困難な状況です。安全ベルトをしっかりと締めてください〟

 そのとき強風で機体が煽られたのかジェットコースターのように急上昇したかと思うと一気に急降下した。身体が少し浮かんでから床に叩きつけられるようにして尻餅をついた。その衝撃で頭がはっきりすると記憶が鮮明に蘇った。

「〈マグノリア〉、今どこを飛んでいるんだ!」

〝諏訪市上空です〟

 今度は機体が激しく左右に揺れた。

「前を見てください! 今、諏訪市上空ですから、あれが諏訪湖だと思います!」

 金田はシートにもたれて両手で体を支えながら叫んだ。

 どうやら寝ているあいだにドローンは猛り狂う嵐のまっただ中に突入したようだった。

「〈マグノリア〉、こんなところに着陸できるところがあるのか!」

〝目的地を変更して諏訪市立四賀小学校のグラウンドに緊急着陸します。救難信号はすでに発信中です〟

「救難信号って。もう飛ぶのは無理なのか?」

〝飛行継続は不可能です。すでに姿勢制御が困難な状況です。わたしの判断により飛行を断念します〟

「なんとか飛べないのか!」

 そのとき大原警部の声がスピーカーから響いてきた。

「ふたりとも大丈夫か?」

「大原警部、機体がかなり揺れていることもあって緊急着陸するようです」

「ああ聞いたで。救難信号が出てるようやから、どこか安全なところで救助を待っててくれ。くれぐれも怪我をせんように気いつけや。あと例のメモリスターも大切しろよ」

「わかってます。でも、さすがにスーパー台風が相手だとこのドローンでも飛ぶのは難しいようですね」

「笹島さん! 見てください!」

 金田は窓の外を見ながら叫んだ。その顔は恐怖と驚愕で引きつっていた。窓の外に目を向けると猛スピードで地面が近づいてきているのが見えた。すると機体が再び上下に大きく揺れ始めた。

「ドローンの現在地はGPSで追跡しているから心配は・・」

 大原警部との通信はそこで途絶えてしまった。そして〈マグノリア〉は新たな緊急事態が発生したことを告げた。

〝緊急事態発生、墜落します。緊急事態発生、墜落します。救難信号発信中。ただちに救命胴衣とヘルメットを着用してください〟

 緊急事態を示す赤い照明が点灯し警報がよりいっそう大きく鳴り響いた。窓の外をあらためて見ると勢いよく目の前に地面が迫ってきていた。

「墜落するぞ!」

 座席の下にある救命胴衣とヘルメットを取り出し、急いで装着した。

「死んじゃったら大金を手に入れられませんね!」

「頭を低くして衝撃に備えろ!」

 金田がまたなにか言おうとしたようだったが、轟音と共に機体が地面に激突しその衝撃で意識を失ってしまった。

 部屋は暗く静かだった。真ん中にはベッドがあり東さんが眠っていた。そして東さんが静かに喋りだした。

「よく来てくれたわね。待っていたのよ。あなたをずっと待っていたの。理由はわかるでしょ?」

 理由が思い浮かばない。そもそもなぜここにいるのか。ドローンに乗っていたのじゃなかったのか。

「あなたともっとお近づきになりたいの。もっとこっちに来て」

 近づきたくない。そこにあるのは人間のミイラだとわかっている。

「もっと来てよ。早く」

 そういうと東さんはベッドから降りて立ち上がった。

 その姿は頭はミイラで首から下はすべてサイボーグ化していた。そして、ものすごい早さでこちらに近づいてきた。

「メモリスターを返すのよ! あなた! 返しなさい!」

 そして口から真っ赤な血が噴き出してシャワーのように浴びせられた。上半身が血でずぶ濡れになり恐怖に駆られて走って逃げようとしたが、なぜかスローモーションのようにしか足が動いてくれない。

 目が覚めると全身ずぶ濡れで体中に痛みが走った。墜落したマグノリア800は横倒しになり、破損したドアから雨がそのまま中に入り込んでいた。

「〈マグノリア〉! 聞こえるか!」

 なにも応答は無かった。左に頭を向けると金田が安全ベルトをしたまま気を失っているようだった。ヘルメットは被っておらず額からは血が滴っているのが見えた。

「金田! 大丈夫か! おい!」

 すると金田は薄らと目を開けた。

「あぁ、やっぱり墜落しちゃいましたね。骨折とかはしてないようですが体中が痛くて寒いです。笹島さん大丈夫ですか?」

「あんまり大丈夫じゃないけどシートが墜落の衝撃を吸収したせいか俺も大けがはしてないみたいだな。とにかく早くここから脱出しよう。水浸しだ。大原警部が救助を手配したはずだから、この近くで待つことにしよう」

 寒さで体が小刻みに震えてきた。

「諏訪湖に墜落しちゃったみたいですね」

「いや、違うと思う。もし、そうならとっくに沈没してるよ」

「どっちにしても、このままじゃ溺れてしまいますよ。寒いし体が動かないです」

 すると遠くから声が聞こえてきた。

「おーい! だれかいるのか! おーい!」

「こっちです! ドローンの中にふたりいます! 助けてください!」

 俺は思いきり大きな声で叫んだ。救難信号を受信した国家警察が契約している保険会社か、あるいは消防が駆けつけて来たのだろう。しばらくするとドローンの機体の裂け目から人影が見えた。よく見ると普段着姿の初老の男だった。

「今、助けてやるから待ってろ!」

 その男は力強い声でそういうといったん姿を消した。

「今の人はたぶん一般の人ですよね。近くに住んでいる人かもしれません」

「そうだな。どっちにしてもこれで助かった」

「笹島さん、ちゃんとメモリスターは持っていますか?」

「このずぶ濡れの鞄に入ってる。一緒に入れてたパソコンとスマホは水没したからもうダメだな」

「メモリスターは大丈夫なんですか?」

「メモリスターは昔あったUSBメモリと同じようなものだから、しっかり乾燥させれば大丈夫だ」

 しばらくすると先ほどの初老の男と別のふたりの男もやって来た。

「大丈夫か! あんたたちふたりだけか?」

「なんとか大丈夫です。ふたりだけです」

 寒さで呂律が回らなくなってきた。

「わかった。今からそっちに行って体をロープで括り付けて引っ張り出してやる」

 三人の男たちはずぶ濡れになりながら俺と金田の体をロープで縛ると、勢いよく引っ張ってドローンから引きずり出してくれた。

 周りを見るとどうやら田んぼの真ん中に墜落したようだった。

「村長! 早くしろ! ここはもう危ないぞ!」

 近くに止まっているヘッドライトを点けたままにしている車から声が聞こえてきた。俺と金田は体を支えられながら、その車の後部座席に乗せられるとすぐに走り出した。

 助手席に座った初老の男が後ろを振り返った。

「わたしはこの村の村長の佐藤だ。この近くを流れる川が氾濫しそうになっていて避難勧告を出したんだ。このまま高台の避難所に行くからもう少しのあいだ我慢してくれ」

「助かります。本当にありがとうございます」

「あんたら、このバスタオルでなんとか頑張ってくれ。高台にある避難所に行けば毛布や着替えもあるから」

 一緒に後部座席に乗っている男がバスタオルを何枚か渡してくれた。俺と金田は急いでそれに包まって寒さと痛みに耐えることにした。

「笹島さん、決めました」

 金田は寒さで全身が小刻みに震え、唇が紫色になっていた。

「なにを決めたんだ?」

「お金が入ったらハワイに住みたいです。ハワイなら暖かくて平和ですよね。絶対にハワイです。す、すみません。寒くて呂律が回らなくなってきました」

 金田は小さく笑った。

「なんとしてでも生き延びないとな。それにしてもこんな目に遭うなんて災難だな」

「相手はスーパー台風ですから。さすがのマグノリア800でも駄目でしたね」

「本当だな。大原警部に苦情を言わないといけないな」

 ふたりで力なく笑った。

 しばらくすると避難所が見えてきた。

 男たちに両脇を抱えられながら避難所に入ると、そこは公民館だった。玄関口に入ると受付があり、すぐに毛布と着替えを渡されてシャワー室へと案内された。そこで熱いシャワーをたっぷり浴びると体のあちこちにできた傷や痣が疼いて痛みが増してきたが、それでも全身を温めることのほうが何倍も心地よかった。

「助かった」

 そう呟くとメモリスターのことが頭をよぎった。

 なんとしてでも金沢に行って阿倍野に会わなければならない。金田と一緒に大金を手に入れてやる。

「笹島さん、生き返りましたね」

 パーティションで仕切られた隣のブースで同じくシャワーを浴びている金田が言った。

「あぁ、生き返った」

 シャワーを終えると渡された農作業用の撥水性のある長袖長ズボンに着替えた。ボロボロになったスーツは捨てることにしたがネクタイは濡れているだけだったので鞄に放り込んだ。そしてシャワールームから出ると、金田と一緒に人だかりのできているロビーまで行ってみることにした。すると大勢の人が集まり大画面テレビの天気予報を食い入るように見ていた。その中には先ほど助けてくれた男たちもいて、こちらに気がつくと佐藤村長が近づいてきた。

「あんたら、大丈夫かね。その作業着、なかなか似合うじゃないか」

「おかげで本当に助かりました。あのままだったら確実に死んでいたと思います。それに服までいただいてありがとうございました」

 俺と金田は深々と頭を下げた。

「いやいやそんなに言わなくてもいいよ。たまたま川の様子を見に行ったときに、大きなドローンが派手に墜落するのが見えたもんだから様子を見に行ったら、あんたたちがいたわけさ。よくあんな天候の中を飛んでたな。それよりも怪我とかは大丈夫かね」

「少し傷があったり打ったりしたところはあるんですけど、シートのクッションが良かったせいか大きな怪我はありませんでした」

「そうか。それは良かった。そうそう、あんたらの名前を聞いてなかったな」

「わたしは笹島で、それから金田です。よろしくお願いします」

 佐藤村長は手を差し出して握手を求めてきた。その指は太くて掌は頑丈で暖かかった。

「こちらこそよろしく。いつもなら好きなだけゆっくり体を休めてくれと言いたいところなんだが、そうもいかないからなにかあれば手伝ってくれ」

 佐藤村長はそう言って笑顔になると目尻に深く皺が寄った。

「もちろんです。遠慮なく言ってください」

 そう言ってもう一度、頭を下げた。

「台風の状況はどんな感じなんですか?」

 金田がテレビの方を見ながら言った。

「さっきの天気予報ではこのスーパー台風は日本列島を舐めるように縦断するらしい。それにしても年を追うごとに台風がますます凶暴になって本当にまいった。このまえのスーパー台風で農作物がほとんど全滅したんだ。みんなこれからの生活をどうしようか頭をかかえているところに、またこんな大きな台風が来やがって。このまま雨が降り続ければまた川が氾濫するぞ」

 佐藤村長は先ほどの笑顔とは打って変わって苦々しげな表情を浮かべ、その口調には怒気が混じっていた。

「今はここにいれば大丈夫なんですよね?」

 金田は不安に耐えない目つきだった。

「氾濫の仕方にもよるな。実はここもそんなに高いところに建っているわけではないんだ」

「水が来たら他の場所に逃げるんですか?」

「他に逃げる場所があればいいんだけどな。一応、消防や警察には連絡してあるんだ。ところで、聞こうと思ってたんだが、あんたらの乗っていたドローンだけど、機体に国家警察のマークがあったから国家警察の人間なんだろ?」

「それはその・・。少し事情があって」

 そのときテレビの画面が消え、続いてロビーの照明も一斉に消えた。

 ロビーは騒然となり弱々しく不安を訴える声があちこちから聞こえてきた。

「くそっ停電だ。だれか明かりを用意しろ!」

 佐藤村長の力強い声が響き渡ると事前に準備していたのか、すぐにそこかしこで懐中電灯やランタンなどの明かりが点り始めた。

「君たちはあそこにある講堂に行っててくれ。講堂には食料もあるし休憩もできるようになっているから。さっきの話の続きはあとだ。今からここの自家発電機を見てくる」

 佐藤村長は足早に去って行った。講堂に入るとところどころで明かりが点り、その周りを人々の不安そうな顔が取り囲んでいた。食事を配るテーブルのほうに行くと、そこには各種の合成食や栄養剤が並べられていた。それを見た途端に強烈に腹が減った。すると見知らぬ老人が近づいてきた。

「そこにあるものは好きなだけ食べていいよ。それからあっちには布団もあるからね」

 老人は講堂の一角を指さしながら教えてくれた。

「はい。ありがとうございます。助かります」

 俺と金田は空いているスペースに布団を敷き、その上で遠慮なく食べることにした。まわりを見渡すと幼い子供も多いようだった。

「台風が去るまではここにいたほうがいいですよね」

 金田は布団に身を包み丸くなった。

「でも大原警部が救助を手配したって言ってたからな。なんとかなるだろう」

「こんな状況で本当に救助が来るんでしょうか」

「スマホが使えれば確認できるんだけどな。金田のスマホも水没しているよな?」

「水没して使えないです。笹島さんと同じくパソコンもダメとです」

「スマホだけでも防水のものにしておけば良かったな」

「そうですね。メモリスターは大丈夫ですよね?」

「大丈夫だ。この鞄の中にちゃんとあるよ。しっかり乾燥させれば中のデータは生きているはずだ」

 公民館の外では台風が暴れ回り風が地鳴りのように響いていた。

 それから、しばらくすると再び佐藤村長がこちらに向かってきた。その表情は緊張に張り詰めていた。

「なにからなにまでありがとうございます。食料をいただいて毛布もお借りしています」

 そう言いながら立ち上がって金田と一緒に頭を下げた。

「それはいいんだが発電機が水浸しで直せない。それにアンテナも吹き飛ばされて外部との通信がいっさいできなくなったんだ」

「さっきの話ではもう警察や消防には救助の要請はしてあるんですよね?」

「でも、いつ救助に来れるかわからないって言われているんだ。それよりも、さっきも少し話ししたけど、あんたら国家警察なんだろう?」

 佐藤村長は俺と金田の顔をまじましと見た。

「それには事情があって」

「台風の状況を調べに来たとかじゃないのか? 国家警察が助けに来る予定とかあるんなら教えてくれ」

「実は横浜から金沢まで飛ぶ予定だったんですけど、強風に耐えきれなくて墜落してしまったんです。詳しくは言えないんですけど、わたしたちは警察じゃないんです」

「でも、警察のドローンに乗っていたということは関係者なんだろう? 君たち、お願いだ。国家警察に救助を要請してくれないか。頼む」

 佐藤村長は切迫した目つきで語気を強めて言った。

「でもアンテナがダメで無線機が使えないんですよね。それにわたしたちのスマホも水没してしまってどちらにしても連絡ができないんです」

 連絡がついたとしても国家警察が救助に来るとは思えなかったが口に出しては言わないようにした。

「衛星電話はないですか? たぶん、役場とかなら一台はあると思うんですけど」

 金田は勢いよくそう言ったが、即座に佐藤村長は首を振った。

「確かに役場には衛星電話があるんだが避難するときにだれも持ち出さなかったんだ。今は役場は浸水して入れない」

 するとひとりの男が講堂に駆け込んできて、こちらに向かってきた。

「村長! たいへんだぞ! さっき川の様子を見に行った石黒さんが帰ってきたんだが、ついに川の水が堤防を越えて氾濫したらしいぞ」

「このままだと、ここも危ないな」

 すると、講堂の隅にしゃがみ込んでいた大柄な男がおもむろに立ち上がるとつかつかと近づいてきた。

「村長! 救助はいったいいつ来るんだ! こんなことだったら村として保険会社と契約しておけば良かったんだ!」

 激しい怒りが男の全身を包み込んでいるように見えた。

「そんなお金があるわけないだろう。昔はここも人口が多くて収入もそれなりにあったが、今は人口が減って収入が激減してるんだ。予算が少ないんだ。だから村に格下げされてしまったんだ。それなのに高額な保険料を支払うお金があるわけがないだろう。わかってくれ」

「だったら、なんでもっと川の堤防を高くしなかったんだ!」

 周りの人たちもその様子に気がついて集まってきた。すると村長の態度ががらりと変わった。

「そんなことはおまえに言われなくてもわかってる! でもなにをするにも金がかかるんだよ! だれになにをどう言われよと、とにかく金なんだ!」

 村長は怒りに肩が震え、その表情は苦痛に歪んでいた。

 そのときまた別の男が講堂に駆け込んできた。

「水が迫ってきたぞ! みんな屋上に逃げろ!」

 講堂の中は騒然となった。この公民館は確か一階建てだったはずだ。

「救助はまだなのか! 消防や警察はなにをしているんだ!」

「軍隊に出動を要請したらどうなんだ!」

 人々の中から怒りの声が上がったが、ほとんどは黙ったまま雨合羽を着て、手に明かりと持てるだけの荷物を持って屋上に上がり始めた。

「あんたらふたりも懐中電灯を持って屋上に上がるんだ。何度もすまないが国家警察はやっぱり来てくれないのか?」

 佐藤村長は諦めきれない様子だった。

「すみません。わからないです」

「仕方がないな。とにかく屋根に上がろう」

 そしてついに講堂に水が流れ込んできた。

 屋上に上がると雨合羽が強風にあおられてしまい瞬く間にずぶ濡れになってしまった。そして懐中電灯やランタンを手にした人々が激しい雨の中、強風に煽られながらしゃがみ込み、寒さと恐怖に耐えながらひたすら救助を待った。

「本当に救助は来るんでしょうか?」

 金田は顔を激しく雨に打たれながら空を見上げた。夜空を覆い尽くしている濃密な黒い雲は荒れ狂う獣のようにのたうちまわっていた。

「この風だからわからないな。どちらにしてここが水没しなければいいんだけどな」

「さっき見たんですが、この公民館は床から天井までは五メートル近くあったと思います」

 するとだれかが大声でみんなに知らせた。

「おい見ろ。どんどん水かさが増してきたぞ!」

 ふと隣を見ると母親と子供ふたりがしゃがみ込んでひとかたまりになっていた。どちらの子供もまだ幼く三歳か四歳くらいにしか見えなかった。しっかりと母親にしがみつくその小さな体は寒さと恐怖で小刻みに震えていた。

「お母さん、怖いよ」

 子供が震える声でつぶやいた。

「大丈夫よ。しっかりしなさい。もうすぐ助けてもらえるからね」

 その言葉とは裏腹に救助が来る気配はまったくなかった。

 いたたまれなくなって屋上の端に行き周りを懐中電灯で照らして見た。すると不気味に波打つ水面が想像以上に速いスピードで屋上に達しようとしていた。すると佐藤村長が隣に立った。

「この屋上が水没するのも時間の問題だ。俺はこの村がまだ(かえで)市と呼ばれている頃に生まれたんだ。その時代は人口も多くていろいろと問題はあるにしろ、今から思えば幸せで豊かな時代だったんだと思う。でも、すべてはあの東南海大震災を境に変わってしまったんだ。ひどいときには田んぼに米の一粒すらできなくなったこともある。あの大地震や富士山の噴火をどれだけ恨んだか。でもな、そうなった本当の理由は天災のせいじゃないと思ってるんだ。けっきょくだれも先人たちの知恵や知識から学ぼうとしないばかりか、なんの備えもせず、みんな知らん顔で自分さえよければいいっていう考えに取り憑かれてしまったがために、何かあっても文句を言うだけで助け合うことがなくなったからなんだ。これは自業自得なんだ」

 村長の言葉には悔しさと諦めがにじみ出ていた。

 するとだれかが叫んだ。

「あれを見ろ! あれはヘリじゃないのか! こっちに向かってるぞ!」

 空を見上げると真っ黒な雲の中から微かなストロボライトの点滅が見え、ローターの力強い回転音が聞こえてきた。

「おーい! こっちだ! おーい!」

「やったぞ! これで助かるぞ!」

 人々はいっせいに立ち上がり口々に叫んだ。ストロボライトの明かりとローターの音がどんどん近づいてくると、それは大きなメインローターが二基とジェットエンジンが搭載された大型のジェットヘリだった。そして真っ白に塗装された胴体に黒い文字で『Erlikon Insurance Company』と書かれていた。

「金田、あれはエルリコンだ。保険会社のジェットヘリだぞ」

「そうですね。ここのだれかが契約していたんでしょうか」

 保険会社のジェットヘリが飛んでくるということはこの屋根に乗っているだれかが契約しているということだ。佐藤村長の話では村としてはどこの保険会社とも契約していないと言っていた。

 嫌な予感がした。

「あれは保険会社のヘリよ!」

 髪を振り乱した女性が立ち上がり叫んだ。その声には悲壮感と怒りが混じっていた。エルリコンのヘリは屋上の真上でホバリングし、強力なサーチライトが屋上を照らした。村の人たちは二基のメインローターからの強烈な風に吹き飛ばされないように身体を支え合った。

 するとヘリのドアが開き、そこから梯子が垂れ下がってきたかと思うと、自動小銃で武装した大柄な男がタブレット端末を手に持って屋上に降り立った。

「わたしはエルリコン保険会社日本法人の平沼です! この中に笹島健治さんと金田信一さんはいますか! いましたら、ただちにこちらに来てください! 『捜索救難保険契約』の内容に従っておふたりを救助します!」

 やはりそうだった。マグノリア800からの捜索救難信号はエルリコンに届くようになっていたのだ。エルリコンと言えば世界最大の保険会社で災害や戦乱などから保険契約者を救助する独自の部隊を世界各国に持っていることでも知られていた。

 俺と金田はおずおずと立ち上がった。

「あなたたちですね! 契約に基づき、おふたりを救助することになっています! 早くこちらに来てください! 本人確認の認証を行います!」

 水はすでに屋上に達し、踝まで水面が上がってきていた。

「わたしたちも助けてよ!」

 先ほどの女性が叫んだ。

「そうだ! 助けてくれ! 水がもうそこまで迫っているんだ! 頼む!」

 あちらこちらから悲痛な声が上がった。するとエルリコンの男は素早く自動小銃の銃口を村の人たちに向けた。

「このジェットヘリはエルリコンとの契約に基づき決められた人物のみを救助することになっています! 他のみなさんは公的な救助をお待ちください!」

「消防も警察もだれも来ないじゃないか! あんたが助けてくれなかったらわたしたちはここで死ぬしかないんだぞ!」

「あんなに大きなジェットヘリなら、もっとたくさんの人数を乗せることができるはずだ! 見殺しにする気か!」

 平沼はその言葉を無視した。

「笹島さん、金田さん、とにかく早く乗ってください! ここは危険です!」

 彼の言う危険というのは迫り来る洪水のことなのか、それと避難している人たちのことなのかわからなかった。

「でもわたしたちはエルリコンとは契約していないです」

 金田は平沼に向かって言った。

「あなたがたは国家警察のドローンに乗っていて墜落したんです。国家警察と我が社は契約を結んでいて、国家警察のヘリやドローンに乗っていた人物は誰であろうと救助するという条項があるんです!」

 すると金田は俺のほうを向いた。

「笹島さん、わたしは他のみなさんを見捨ててジェットヘリには乗れないです」

「なにを言っているんだ。仕方がないだろう。あとで消防か警察が救助に来るから大丈夫だ。俺たちだけで先に行こう」

 だが他に救助が来るとは思えなかった。こうしている間にも水面は膝上まで上がってきていた。流れも強くなり立っているのがやっとの状態だった。

「いやです。笹島さん、ドローンが墜落したときここのみなさんに助けてもらったのを忘れたんですか」

「うるさい! あとで公的な救助が来るんだから気にするな! 早く乗れ!」

 怒りで胸が締めつけられた。すると周りで見ていた村人たちが口々に訴えはじめた。

「おまえら国家警察は国民のための警察じゃないのか! 人でなしめ!」

「お願い! わたしの子供だけでも連れて行って!」

「わたしの子供もお願い!」

「ここにいる子供たちだけでも助けてください! お願いします! 助けてください!」

 ずぶ濡れの村人たちの顔には恐怖と怒りと嫌悪がない交ぜになって張りついていた。

「早く乗ってください! どうしても乗らないのなら救助拒否のサインをお願いします!」

 エルリコンの男はタブレット端末を押しつけてきた。そこには捜索救難を拒否するための同意書が表示されていた。

 このまま金田を置いていくわけにはいかないと思い、大原警部に連絡して救助を要請することにした。

「すみません。国家警察刑事部の大原警部に連絡をしたいので電話を貸してください」

 平沼は腰のホルダーに入っている太いアンテナが取り付けられた衛星電話を取り出して黙ったまま押しつけるようにして渡してきた。

「笹島さん、みんなの救助を依頼してくれるんですか?」

「うるさい!」

 金田の達観したようなその顔を見ていると無性に腹が立った。確かに自分たちだけ救助されるのは気分のいいものではなかった。しかし、それが今の世の中なのだ。公的なサービスなんてろくなもんではないのはだれでも知っていることだ。それがわかっていて保険会社と契約しないのが悪いのだ。

 記憶をたどりながら番号を押すとすぐにつながった。

「大原や。衛星電話やないか。どうした?」

 その声は寝ていたところを起こされたせいか、どんよりとしていた。

「大原警部、笹島です。エルリコンのジェットヘリが助けに来てくれたんですが他にも助けたい人たちがいるんです」

「なにを言うてるんや。ほかの人間は公的な救助が来るのを待たせといたらええやろ。ほっとけ」

「でも、今いる場所は洪水でどんどん水嵩が増してきて、このままだとみんな死んでしまいます!」

「何人おるんや」

「五十人ほどです」

「そんなにたくさんの人間をジェットヘリに乗せられるわけがないやろ」

「じゃ全員を助けられるだけのヘリとかドローンをチャーターしてください!」

「俺にそんな権限があるわけないやろう」

「警察なんだから助けてくださいよ! 子供もいるんですよ!」

「救助活動は管轄外や。それは地元警察と消防の仕事なんや。そっちに頼んでくれ」

「その地元警察も消防もだれも来ないから頼んでるんです!」

「そんなこと言われても知らん。そっちの警察も消防もどうせ経費削減で人も機材も足りてへんのやろう」

「国家警察なら機材も人も潤沢にあるじゃないですか! いつも善良な市民の味方だって言ってるじゃないですか!」

「あのな。なんとかしてやりたいけどそこまでの権限がない。俺も組織の歯車のひとつなんや。悪いな。切るで」

 回線が切れた。

「大原警部!」

 屈辱感が湧き上がるのを歯を食いしばってこらえた。

「笹島さん、どうなりました?」

 周りでは村の人たちがすがるような目でこちらを見ていた。どこからともなく絶望的な泣き声が聞こえてきた。

「ダメだ。金田、ジェットヘリに乗るぞ」

 だれになんと言われようとこんなところで犬死にするつもりはない。

「そうなんですね。残念です。じゃ笹島さんだけ行ってください。わたしはここに残ります」

 金田はなぜか笑顔だった。その表情を見ているとやり場のない激しい怒りが湧き上がってきた。

「おまえはこのヘリに乗る権利があるんだぞ! ごちゃごちゃ言ってないでとっとと梯子を登れ!」

「でも約束しましたよね。人の命を犠牲にしてまでしてお金を手に入れるようなことはしたくないんです。これで胸を張ってお父さんとお母さんのもとに行けます。金のなる木は笹島さんひとりで頑張って手に入れてください。ハワイは諦めますよ」

 金田は素早く平沼からタブレット端末を手に取ると捜索救難を拒否する同意書にサインした。

 金田は肩の荷が下りたような明るい表情を見せた。

「金田・・」

 なにをどう言葉をかければいいのかわからなかった。

 金田は俺お手を取ると固く握手をしてきた。

「笹島さん、いろんな特殊対応を一緒にしてきていろんな人と会ったり、いろんなところに行ったりしましたよね。会社の業務命令だからといって悪いこともしてきました。でも、もうこれ以上は嫌なものを見たり聞いたりするのは終わりにしたいと思います。笹島さんと一緒に仕事ができたことは感謝しています。わたしはここで他の人たちと一緒に残ります。笹島さんは頑張って大金を手に入れてください。健闘をお祈りしています」

 金田の言葉を聞いていると後ろめたさに胸が締めつけられた。

「俺も残るべきなのか? 金田、教えてくれ。俺は悪いことをしているのか?」

「いいとか悪いとかって、その人間の行いの中にあるもので、人間はただの人間ですよ。その行いをいいとか悪いとかに結びつけても無意味だと思います。だから笹島さんが梯子を登っていくこと自体にいいも悪いもないんですよ。わたしがここに残るのも同じです」

 するといつの間にか金田の隣には村長が立っていた。

「わたしも彼の言うとおりだと思う。君がどんな任務で国家警察のドローンに乗っていたのかは知らないが、わたしたちのためにも少しでも国が良くなるように頑張ってほしい」

 村長はなにか大切な任務で俺と金田がドローンに乗っていたと思っているようだった。そして村長は穏やかで達観したような表情を作り村人たちのほうに顔を向けた。

「さぁ! わたしたちは公的な救助が来ること信じてここで待つんだ! 怖かったり、腹が立ったり、悲しかったり、いろいろあるだろうが、とにかくみんな一緒なんだ! 最後の最後まで一緒なんだ! さぁ、みんなで手をつなごう! しっかりとつなぐんだ!」

 村長は近くにいた村人と手をつないだ。すると村人たちも黙ったまま手をつなぎ始めた。

「笹島さん早く梯子をしっかり掴んで登って!」

 平沼はそういうと俺の腕を強く掴んで梯子の方まで引っ張った。

「お願いです。子供たちだけでも助けてください」

 すがるような思いで言ってみた。

 すると平沼は感情を押し殺した目を俺に向けた。

「笹島さん、それは無理なんです。これはルールなんですよ。それに助けたとして、そのあとの面倒をだれが見るんですか? この国のだれが責任を持って育てていくんですか?」

 水は腰のあたりまできていた。

 そして黙ったまま梯子を掴むと、下を見ることなくホバリングしているジェットヘリだけを見ながら、冷たくひんやりとした梯子を登った。下の方からは子供の泣き叫ぶ声やすすり泣くような声が聞こえてきた。

 ジェットヘリに乗り込むとバスタオルとホテルにあるような部屋着を渡された。周りを見ると温かい飲み物と食べ物、そして柔らかくて暖かそうな毛布まで用意されていた。そして優しく包み込むようなヒーリングミュージックが聞こえてきた。すべては契約書の内容どおりなのだろう。そして平沼は握手を求めてきた。

「あらためて自己紹介します。わたしはエルリコンの救助隊に所属する医師の平沼です。これから事前の要請どおりに金沢まで飛びます」

 そして契約内容の説明が始まった。

 ジェットヘリの窓から下のほうを見るとそこには激しい雨で泡立ち、強風に波打つ水面が見えた。そこにはもうだれもいなかった。

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