第一章
そのお客様はひどく怒りだした。
「わたしの話を最後までちゃんと聞かないで勝手に電源を入れないでよ! おたくのノートパソコンに欠陥があるから、AIがおかしなことを口走るようになってしまったんでしょ!」
このお客様が窓口に現れたときにどのようなトラブルなのか聞き取りをしようとした。ところがなにやら言いにくそうにしていたので、手っ取り早く確認しようと電源を入れたのがいけなかった。
目の前にあるのはTaiyoBookと呼ばれるブランドのノートパソコンだ。このノートパソコンには標準仕様で〈Taiyo Power AI〉略して〈TPAI〉と呼ばれる人工知能が搭載され、音声によるパソコンの操作やネット検索から、普通に雑談までできるようになっていた。
ところがこのお客様の〈TPAI〉は文字どおりの変態に性格を変えてしまうコンピュータウイルス、その名もHentaiXに感染したのだ。そのせいで〈TPAI〉が起動するたびに聞くに堪えないような猥褻な言葉を連呼し、画面上には〈TPAI〉が自らの変態趣味に合った写真や映像をネットから収集しては次々にプレビューするという症状が発症したのだ。ところが他のお客様やスタッフがまわりにいる中でいきなり電源ホタンを入れて〈TPAI〉を起動させてしまったため事故が起こったということになる。もちろん即座に音量をオフにしたが時すでに遅しで、大恥をかかされたお客様は顔を真っ赤にして怒り出したというわけだ。
「たいへん申し訳ございませんでした。お客様のお話を最後まで聞かずに電源を入れてしまったのは、わたしの落ち度です。このトラブルはAIの性格を変えてしまうウイルスに感染されてしまった場合に出る症状と思われます」
あえてウイルスの名前は伏せたがお客様は眉間にしわを寄せたまま、俺の顔を凝視した。
「これはメーカーが悪いんじゃなくてウイルスのせいだとおっしゃるの? なにそれ? なんていう名前のウイルスなの?」
不信感を露わにしているお客様の表情を見る限り、このまま名前を伏せていても状況を悪化させるだけだと判断し正直に言うことにした。
「このウイルスはHentaiXと言います。これは不用意にネットサーフィンなどをされたり、素性の知れないメールに添付されているファイルを開いたりすることで感染するタイプのウイルスです」
お客様の表情の変化を見ると、どうやらさらに怒らせてしまったようだ。そしてその突き刺すような視線は俺の胸にある笹島健治と書かれたネームプレートに照準が合った。
「ササジマケンジさん! あなたはわたしが欲望のままにネットサーフィンをしたからこんな目に遭ったんだと言いたいわけね! わたしがそういうふしだらな人間だからこんな目に遭ったんだって言いたいのね! もうあなたでは話になりません! ここの責任者をただちに呼びなさい!」
ここは日本を代表する電機メーカーのひとつである大芝エレクトロニクスが製造するノートパソコンTaiyoBookのショールームであるTaiyoBookテクノセンター秋葉原だ。ただ実際には大芝エレクトロニクスは単に大芝と呼ばれることが多く、TaiyoBookテクノセンター秋葉原は略してテクセン秋葉原と呼ばれることのほうが多かった。
このテクセン秋葉原のショースペースには最新機種がずらりと並び、だれでも操作して体感できるようになっている。さらにそのショースペースに隣接してヘルプデスクのコーナーがあり、そのカウンターではTaiyoBookに関するさまざまな修理や技術相談ができるようになっていた。その技術相談で特にこの数年の間に激増しているのが〈TPAI〉に関するものだ。
この〈TPAI〉は体内に埋め込まれている一〇〇〇分の一ミリサイズの〈ナノマシン〉とワイヤレス通信することで、お客様の性格や要望に合った人工的な性格が形成されるようになっていた。しかもユーザーとのコミュニケーションを積み重ねることで、さらに相性のいい性格にブラッシュアップされ、結びつきをより強固なものにする仕組みになっている。ちなみにこのナノマシンは感染症対策の一環として制定された国民健康計画法で全国民の体内に埋め込むことが義務づけられている。
もちろんメーカーとしてはそうすることで買い換えのときにはまたTaiyoBookを購入していただくというマーケティング戦略にも適っていた。ところがユーザーとの結びつきが強くなりすぎると、ユーザーによっては〈TPAI〉に搭載されているAIが、人工の知能であるのを忘れてしまい、なんでも自分のことを理解してくれる生きた人格であるという錯覚に囚われ、依存してしまうケースが出てきたのだ。中には恋愛感情を持ち、それが高じて、結婚式を執り行い生涯の伴侶としてしまうユーザーまで現れるようになった。
お客様は身を乗り出さんばかりの勢いで訴えはじめた。
「もし責任者を呼びたくないんだったら、あなたが責任を持ってそのウイルスを駆除しなさいよ! とにかくわたしの〈リョウマ君〉を早くなおしてちょうだい! わたしの〈リョウマ君〉をかえして!」
このお客様の例に洩れず〈TPAI〉に依存してしまうユーザーはほぼ間違いなく名前を付ける。
俺の隣では後輩の金田浩が別のお客様対応をおこないながら、何度もこちらを伺うような視線を向けてきた。こちらのなりゆきが気になって仕方がないのだろう。
「たいへん申し訳ないのですがAIの故障やウイルス駆除につきましては法令の定めにより禁止されておりますので、新しい〈TPAI〉と入れ替えになります」
「なにを言っているのかわからないんだけど。駆除できるんでしょ?」
「順を追って説明いたしますと、まずパソコンには心臓部となるCPUという部品があるのですが、そこにお客様によりカスタマイズされる人工知能の〈TPAI〉が内蔵されております。この〈TPAI〉は量子コンピュータの仕組みを利用した学習機能が組み込まれており、お客様とのコミュニケーションを積み重ねることで対応能力を上げていく仕様になっております。ただし、実際にどのように学習が行われたのか、その内容については今の技術では解析が難しくすべてを把握できません。そのような状況でございますので、今回のように人工知能を標的にしたウイルスが感染することで性格が豹変したり、正常なコミュニケーションが取れなくなったりした場合はウイルスのみを分離して駆除するのは困難で危険が伴います。つまり駆除しても元の状態に戻ったかどうか確証が得られないのです」
過去に他社メーカーのパソコンに内蔵されているAIを標的としたウイルスが世界中に蔓延したことがあった。メーカーは即座にワクチンを開発して駆除に乗り出したが完全には駆除しきれず、AIの性格がより凶悪になってしまい、ユーザーを自殺に追い込んだり、強盗や殺人を教唆したりする事件が相次ぎ大きな社会問題になったのだ。しかもこのウイルスの亜種が無数に発生したことから事態はより深刻化し、AIのトラブルについてはAI自体が組み込まれているCPUの交換で対応することが法令で定められた。
お客様も世間を騒がせたあの事件を思い出したのだろう。ようやく自身のパソコンがどういう事態に陥ったのか、その意味が理解できてきたようだった。要するに以前の〈リョウマ君〉はもう二度と戻ってはこない。
「〈リョウマ君〉とはもう会えないの? わたしにとって〈リョウマ君〉がどれだけ大切な存在なのか、あなたはわかっているの? とにかく〈リョウマ君〉を返してよ!」
どうやら理性では理解できても心ではまだ納得できないようだ。
「申し訳ないのですが法律で決められておりますので、弊社としてはどうしようもございません」
「法律、法律ってなんなのよ! 駆除しようと思えばできるんでしょ! 駆除しなさいよ! あなたができないなら別の人に頼んで! それから、やっぱりここの責任者を呼びなさい!」
そうこうしているうちに技術相談の順番を待つお客様が増えてきた。意識してなるべく目を向けないようにはするものの順番を待つお客様の視線が痛い。そこでとにかく早くこの対応を終わらせるためにカウンターに常備しているTaiyoBookの保証書の見本をお客様に見せながら、あらためて説明することにした。保証書というものはメーカーにとっては、さまざまな責任を逃れるための免責書でもある。
「お客様、こちらの保証書はお客様のTaiyoBookにも添付されてるものと同じなのですが、このような記載があります。『弊社はコンピュータウイルスやサイバー攻撃などによる動作の不具合につきましては一切の責任を負いません。また内蔵されているAIに不具合が発生した場合は、法令に定められているとおりの対応をさせていただきます』と書いてあります。そのためたいへん申し訳ないのですがやはり駆除はできかねます」
お客様は保証書を手に取り、目で文字を追いかけているうちに大粒の涙を流し始めた。そしてついには突っ伏して泣き崩れてしまった。本来であればここからCPU交換による対応はお客様のためであると説明するのだが、今の状況ではまるで卑劣なメーカーの人間が、いたいけなユーザーを苛めているようにしか見えない。そこでテクセン秋葉原の責任者である寺田センター長に対応を交代したほうがいいと判断し、カウンターのすぐ後ろにあるパーティションで仕切られたスタッフルームに駆け込んだ。
スタッフルームには技術スタッフの村田尚美と修理専任の技術者である今城庄一、そして責任者である寺田吉蔵こと寺田センター長がいた。
村田さんと今城さんのふたりは心配そうな表情を見せていたが、寺田センター長はこちらの方を見ることもなく、むつしい顔をしながら自席のパソコンの画面をわざとらしく覗き込みながら、今まさにどこかに電話を掛けようとしていた。いつものこととは言え、あの無責任ぶりには呆れるばかりだ。寺田センター長の口癖は「もうすぐ定年」で、来年には定年退職することになっているのだ。そのためできる限り厄介事には関わらないというのがポリシーなんだそうだ。
まったく気付かないふりをしている寺田センター長の様子を見て、湧き上がる苛立ちを抑えながら再びカウンターに戻った。
「申し訳ございません。あいにく責任者は外出しておりまして本日は直帰の予定となっております。このままわたしが対応を継続させていただきます」
そう言うと、このあとどんな言葉が投げつけられるのだろうかと身構えた。するとスタッフルームから村田さんが登場し、泣きじゃくるお客様に優しく話かけた。
「お客様、このたびはいろいろとご迷惑お掛けいたしまして申し訳ございません。笹島が申しましたとおり、本日は責任者が不在にしております。もしよろしければ、わたしが交代して対応させていただきたいと思うのですが、いかがでしょうか?」
「あなた、だれ?」
お客様の泣き腫らした目は村田さんの顔とネームプレートを何度も往復していた。
「申し遅れました。わたくし村田と申します」
「わかったわ。時間もないし仕方がないわね」
たいていのお客様はこうして村田さんにはなぜか素直に従うのだ。内心ホッとしたが、なぜ村田さんだとお客様がおとなしくなるのかいつも納得がいかなかった。
用済みになって肩を落としたままスタッフルームに戻ると、修理一筋で社歴二五年の今城さんが分解途中のTaiyoBookを手に持ったまま嬉しそうな表情を浮かべて声をかけてきた。
「笹島、たいへんだったな。それにしても村田さんの対応はさすがだよ。頭脳明晰、容姿端麗の二つの四字熟語がそのまま当てはまる人はなかなかいないよなぁ」
「はいはい。どうせ、わたしはブサイクでバカな男です」
ため息をつきながら自席に着くとネクタイを緩めて首や肩を動かして緊張をほぐした。ふと寺田センター長の机に目を向けると、空席だった。
「あれ? センター長はまた逃げた?」
「さっきまでいたんだけどね。笹島が戻ってくるときに慌てて会議室の方から外へ出て行ったよ。きっと顔を合わすのが気まずいから逃げたんだろうな」
「君子危うきに近寄らず、なんですかね」
しばらくしてから窓口のカウンターに設置されている監視カメラの映像を見ると、村田さんとお客様の姿が消えていた。どこに行ったのだろうかと他の監視カメラの映像を見てみると、ふたりは展示スペースの隅にあるテーブルに移動し、村田さんがお客様の背中を優しく摩りながら慰めている様子が映し出されていた。
そしてしばらくするとお客様は静かにショールームを去り、それを見届けた村田さんは預かったTaiyoBookを手にして颯爽とスタッフルームに戻ってきた。
「笹島さん。対応のほうは無事に完了してお客様は修理で納得されて帰られましたよ。ところで、あのお客様がなぜ怒ったのかわかります?」
そう言うと村田さんは自席に着いた。なにを言われても仕方がない。お客様の次は村田さんに怒られるのだ。村田さんは東南海大震災で両親を亡くし震災孤児として辛い経験をしながらも、幾度となく襲いかかってきた試練を自力で乗り越えてきたこともあってなのか、だれよりも度胸があり、そしてだれに対しても物怖じしない。
しかも村田さんにはある意味、弱みまで握られていた。それは俺が特殊な顧客対応で出張することが多いため、時折、入院している母さんの見舞いを頼むことがあるからだ。
「それはさぁ、エロいウイルスが大切な〈リョウマ君〉に感染して変態になったからだろう?」
どうせなにを言っても怒られるのだろうと思うと素直にはなれないものだ。
「話を聞いていてわかったんですが、あの女性はAI依存症なんですよ。依存症の人に対しては、まずは〈TPAI〉との交流がどれほど大切なものだったのかを聞いて、共感してあげないといけないんです。それから〈TPAI〉との別れを受け入れられるようにしてあげて、次に出会う新しい〈TPAI〉との交流を楽しみにしてもらえるように話をしないといけないんです。それがAI依存症のお客様に対する対応のセオリーなんです」
セオリーかセロリか知らないが、そんな依存症の人間に共感なんて無理だ。以前からAI依存症の心理については興味もなく理解もできない。
「なるほどね! さすがは村田さんだ。知らなかったなぁ!」
何を言われようとAIなんて所詮ただはソフトウエアだ。
「新横浜の研修センターで勉強したんです。笹島さんはクレーム対応ばかりで、ろくに研修を受けてないから知らなくても仕方がないのはわかりますけど、少なくともあの場面で保証書に書いてある文言をそのまま読んで聞かせるなんて逆効果にしかなりませんよ。本当に最低と思います」
「ようするにデリカシーの問題だな」
今城さんが追い打ちを掛けてきた。
「ほんとですよ。笹島さんにはデリカシーがないんです」
村田さんは攻撃の手をなかなか緩めようとはしなかった。逃げ出した寺田センター長が恨めしい。
「はいはい。わたくしはデリカシーもなくてブサイクでバカな男でございます」
「ちょっと待ってくださいよ! わたしはブサイクとかまでは言ってないですよ!」
今城さんが笑った。するとカウンターで故障診断をしていた金田もスタッフルームに戻ってきた。
「あれ? 並んでたお客さんの対応はもう終わったのか?」
「笹島さん、さっきはお疲れ様でした。並んでたお客さんはほとんどが修理したパソコンの返却だったので早く終わりました。それよりも隣で様子を見ていましたけど、たいへんでしたね」
「でも見てたと思うけど、村田さんがちゃんと対応してくれたからな」
「そうですよね。さすがは村田さんですよね」
金田は感心したようにうなずいた。
「笹島は技術力はあるけど、対応力はまだまだだよね。素直な気持ちで村田さんを見習わないと」
今城さんはそう言うとふたたびTaiyoBookを分解しはじめた。
「そうですよ。私の対応をしっかりと見て勉強して下さい」
そう言うと村田さんは得意満面で先ほどの女性から預かったパソコンと伝票を修理待ちの棚に丁寧に置いた。
「わかったよ」
俺は窓口対応で外れクジを引いてしまったことを心ひそかに嘆いた。
世の中にある技術相談に対するユーザーの評価は二つしかない。一つは頼りになるいい人で、もうひとつは役立たずのバカ野郎だ。
この会話はもう終わりにしたかったので、目の前にある業務用TaiyoBookのAIに声をかけることにした。
「メールを確認」
〝メールを確認します〟
パソコン本体の内蔵マイクとカメラを通じて自分への指示であることを認識した〈TPAI〉は素早くメールアプリを起動させた。すると画面には新着メールの送信者と件名のリストが表示された。
〝三〇通のメールが届いています〟
「最も優先順位の高い新着メールは?」
画面上に大芝エレクトロニクスの会長として君臨する清水会長からのメールが表示された。宛先はいつもどおり俺と金田になっており件名には〈至急 特殊対応〉と書かれていた。
特殊対応とは『TaiyoBookを使用している特殊な顧客に対して極秘に行われる特殊な技術対応』という意味だ。特殊な顧客というのは大芝が手がけるさまざまな事業にとって重要な利害関係者とその親族や愛人のことだ。その中には世の中に対して影響力の大きい有名人、軍人、政治家や官僚なども含まれた。また、だれも対応したくないやっかいな対応も特殊対応として要請されることも多かった。当然、そのような特殊対応はたいていの場合は修羅場になる。
恐る恐るメールを開くとこれまでの経緯と、指示が事細かく書かれていたが、要するに至上命令としてトラブルの発生しているTaiyoBookをなにがなんでも回収しろということだ。さらには今回の特殊対応に関しては国家警察刑事部の協力が得られるように手配済みとなっていた。
「笹島さん、また特殊対応ですね」
金田は不安に耐えないという表情を浮かべいた。
「そうだな。今日の午後五時半に対応開始だから今から準備してすぐに出発しよう。またキツい顧客対応になりそうだな」
今日は一難去ってまた一難の日だ。村田さんが眉を顰めてひどく憂鬱そうな表情でこちらを見ていた。
「また本社指示の秘密のクレーム対応なんですか? なんでもかんでもよく依頼してきますよね。今度はいったどんな対応なんですか?」
特殊対応は社内でもほとんど知る人のいない極秘任務のため具体的な内容についてはだれにも言えなかった。
「対応の中身は言えないけど、たいしたことないよ。あと羽田空港から新伊丹空港までの航空券を頼むよ。ただし早く行きたいからSSTでお願いね」
頭の中でタイムスケジュールを組み立てながら言った。
「ええ、別にいいですよ。でもクレーム対応とは言え贅沢ですよね。超音速旅客機なんて」
村田さんのその声は鋭く尖っていた。
対応開始時刻が午後五時半となっており急がないと間に合わない。そのために超音速旅客機のSSTを利用することにしたのだ。
「時間がないから仕方がないよ。もし乗ってみたいんだったらクレーム対応を交代してあげるよ」
俺は満面の笑顔を作って半ば本気で言ってみた。
「なにを言ってるんですか! いやですよ。クレーム対応なんて」
今城さんがまた笑った。
だれだってクレーム対応なんてしたくない。しかし、だれかが対応するしかないのだ。
そして金田とふたりだけで会議室に移動すると簡単な打ち合わせを行い、そのあいだに村田さんが手配してくれた航空券のQRコードをスマホのカメラで読み取りチケットを受信するとすぐ羽田空港に向かった。
※
飛行機は羽田空港を飛び立ち、安定高度で音速を超えるとシートベルト着用サインが消えた。機内には微かに甲高いジェット音が響き渡っていた。機長によるアナウンスで新伊丹空港到着まであと約二〇分とのことだった。前の座席の背面に取り付けられているモニタ画面を見ると天気図が表示されていた。
「おい、これを見ろよ。またデカい台風が来るぞ」
その影響か機体が少し揺れていた。
「そのようですね。スーパー台風ですから、かなり強烈なんでしょうね」
「最近はスーパー台風が当たり前になってきているよな」
「ほんと、そうですよね。しかも夏だけじゃないですからね」
「今回の特殊対応もスーパー台風並みの修羅場になりそうだな」
「笹島さん、飛行機の中でその話はなしですよ」
「聞かれたって、だれにも意味なんてわからないし、興味もないだろうから気にするな。それよりも今回は相手がヤクザだからな。それだけで気が重い」
「確かにそうですね。今回はただのヤクザじゃなくて、ここですからよけいに怖いです」
金田は手のひらで五本の指を広げながら言った。これは『五蝶会』を意味するサインだ。『五蝶会』と言えば東南海大震災後の治安悪化に便乗して勢力を一気に伸ばし、今や全国で最も規模が大きく、凶悪な犯罪組織として知られていた。噂では私設の軍隊まで持っているとのことだ。
「なんの問題もなく、すんなりとパソコンの回収ができるとは思えないんですけど」
「そんな簡単に回収できるようだったら特殊対応として指示してくるわけがないじゃないか」
清水会長からのメールによると今回の特殊対応に至るそもそもの発端はTaiyoBookのオンラインサポートセンターに入った一本の電話からだった。その内容はTaiyoBookを使っているときにいきなり電源が切れてしまい、それ以降は電源が入らなくなったため対処方法を教えろというものだ。サポートスタッフは通常の手順どおりに、まず氏名とTaiyoBook一台ごとに割り当てられている製造番号を尋ねた。すると電話の主は『名無しのごんじょう』と名乗り、製造番号だけ正しいものを伝えてきた。そこでサポートスタッフはその製造番号を社内のデータベースに照会したところ、三ヶ月ほどまえに中国で盗難に遭ったパソコンとして登録されていることがわかった。さらになんらかの機密データが大量に保存されていることも記載されており、技術相談や修理などで問い合わせが入った際には、修理として回収せよとの指示が書かれていた。
サポートスタッフはただちに社内チャットで上司であるスーパーバイザーに報告しつつ、電話口では『名無しのごんじょう』に対して修理する必要があるのでこちらから手配する宅配便で送ってほしいと説得を試みた。ところが『名無しのごんじょう』は頑なに拒否し、どうしても修理が必要なら逆に技術者を派遣しろと要求。スタッフはこの電話のやりとりを途中まで録音し、音声ファイルにしたものを本社渉外管理室所属の警察OBに送信。国家警察が持っている音声データベースに照会してもらった。すると『名無しのごんじょう』は『五蝶会』の幹部である権常佳盛であることが判明。そこで緊急かつ重要な案件として本社の清水会長にまでエスカレーションされ、特殊対応として下命されることになったのだ。
「今は心配ばかりするのはやめておこう。それにいざとなれば大原警部が駆けつけてくれることになっているから大丈夫だろう」
大原警部は元大阪府警の刑事だったが、転籍して今は国家警察刑事部捜査五課の警部になっていた。本人曰わく、定年退職したら大芝エレクトロニクスのお世話になることが決まっているそうだ。
「ええ、確かにそうですね。ところで笹島さん、今のうちに少しでも眠ったほうがいいと思いますよ。最近、ものすごく疲れた顔をしています」
「おまえも同じゃないか。今年もいったい何回、特殊対応で飛行機やドローンに乗ることになるんだろうな」
「この調子でいけば、来年もマイルが貯まってダイヤモンドですね。ダイヤモンドになればラウンジでご飯が無料で食べられますからお得ですよ」
「そうだな。でもマイルは貯まれど体がマイルな」
「はぁ」
言わなければ良かったと少し後悔した。
「ところで宝くじは買ったのか?」
「ええ、バラと連番を合計で三万円分買いました」
「三万円分も買ったのか? 当たったらなんに使うんだよ」
「まずは会社を辞めます」
「え?」
「とにかく会社を辞めます」
「そうか」
それ以上はなにも言わずに頭の中に懸案事項としてメモをして窓の外を眺めることにした。金田が会社を辞めたら特殊対応をまたひとりでしなければならないのかと思うと暗澹たる気持ちになった。
窓の外では厚く垂れ込めた黒い雲が少しずつ増えていた。しばらくすると雲の切れ間に富士山が見えてきた。東南海大震災で大噴火をした巨大な火口は黄泉の国へと続く入り口のようにどこまでも黒かった。火口からはいまだに噴煙が僅かに立ち上っていた。
あの大噴火で半年以上にもわたり火山灰が西日本の空を覆い尽くしたため、飛行機がまったく飛べなくなった時期があったことを思い出した。
ぼんやりと富士山を眺めていると幼少の頃に体験した地震の記憶が蘇ってきた。そこには自宅の瓦礫の中で身動きが取れずに泣き叫んでいる自分がいた。そしてすぐ横には目を閉じて血まみれで動かなくなっている父と妹の美波がいた。
飛行機は米軍や中国軍が管轄する空域を避けながら、順調に新伊丹空港に向けて音速で飛び続けた。
※
飛行機は予定どおり午後四時半頃、新伊丹空港に到着した。
預けていた荷物を受け取り、到着ロビーに出ると、多くのビジネスパーソンや旅行者でごった返していた。その中には国際連合の略称であるUNと書かれた腕章とヘルメットを被って警戒に当たる中国軍や米軍の姿も見えた。
バス停からは目的地である舞洲行きの自動運転の空港バスに乗った。バスの中は観光客でいっぱいだった。しばらくすると震災で崩壊し、廃墟となったマンション群が見えてきた。いくつかのマンションの周辺にはプレハブ作りの古びた復興住宅が建ち並び、子供たちが楽しそうに遊んでいる姿が見えた。だがその体は痩せ細り小さく見えた。
「あの大震災から一〇年以上も経つのに復興にはまだまだ時間がかかりそうだな」
「まだ相当かかるでしょうね。復興支援の大義名分で乗り込んできた外国の軍隊が出て行かないかぎりはいつまでたっても復興なんて終わらないと思います」
しばらくすると今度はコンクリート剥き出しの超高層団地が見えてきた。ここには低所得層の労働者や出稼ぎの外国人労働者が多く居住していることで知られていた。
ようやく舞洲が見えてきた頃には行き交う車は自動運転のタクシーと高級外車ばかりになった。舞洲は大阪湾に面した巨大な埋め立て地で、そこには横浜と並ぶ日本有数のカジノがあった。
「あれだな。見えてきたぞ」
カジノの中でもひときわ威容を誇る八〇階建ての『トランププラザホテル&カジノ オオサカ』が見えてきた。
「いよいよですね」
「まさに飛んで火に入る夏の虫だな」
そこらじゅうに巨大ホテルが建ち並び無数のイルミネーションが満天の星のように輝いていた。
※
「さっきから言うてるやろう。大芝が作ったこのクソみたいなパソコンには大事な情報が入ってるんや。修理やからいうて、すなおに渡すわけにはいかんのや。とにかくこの場で、俺の目の前でなおせ。おまえらの会社が作った製品なんやから、すぐになおせるやろ」
目の前には『五蝶会』幹部の権常がいた。ただし、この面談では『名無しのごんじょう』ではなく、なぜか鈴木と名乗った。
権常は腰に手をやると、ホルスターから拳銃を取り出して目の前にあるテーブルの上にゆっくりと置いた。
それはグロックと呼ばれるオーストリア製の小型拳銃だった。
それを見て日本軍の予備役として招集されたときの訓練で何度かグロックを使ったことがあったのを思い出した。もしこれで撃たれたらと思うと全身が恐怖に包み込まれ体中の細胞が硬直してしまうような気がした。
「鈴木様。事情はじゅうぶんに理解できるのですがこのパソコンを修理するにはいくつかの部品が必要なので、この場ではどうしようもありません」
壁に掛けられている時計を見ると午後七時をすぎていた。すでに対応を開始してから一時間半が経過していることになる。隣にいる金田の様子をうかがうと目を固く閉じてうつむいたままじっとしている。どうやら過度のストレスにさらされたせいかフリーズしているようだ。
「俺はおまえらが考えてるほどITオンチやないねん。多少の理屈はわかってるんや。このパソコンをネットに接続したらファームウェアをロックされてしもうてな、それからは電源を入れても起動せんようになったんや。ネットに接続したのが間違いやったのはわかっとるんやけど、内蔵のメモリスターに記録されている大切な情報を手に入れたらパソコンは捨てる予定やったんや。俺の言うてる意味はわかるやろ。もう、こうなったら腹割ってなんでも話しするで。そのかわり、おまえらがこのパソコンをこの場でなおすか、データを取り出すか、どっちかせんかったら生きては帰られへんで」
権常の鋭い目つきは相手を射抜くような眼光を放っていた。その視線に捉えられると恐怖が湧き上がり全身から汗が噴き出してきた。こんな状況ではどう頑張ってもパソコンの回収なんて無理だ。
「おい。黙っとったらわからんやろ。何回も言うけどな、このパソコンの中には大量の情報が入ってるんや。これを売ったら大金になるんやで。これはある意味、甘い蜜の味がする金のなる木や。そうなるとその甘い蜜を求めて怪しげな奴らがいくらでも群がってくるんや。世の中はそんなもんなんや。人間は生き抜いて「なんぼ」の渡世やろ。世の中のことをしっかりと学んで命は大切にせなあかん。中にはその道理がわからん奴もおるからな。そういう奴らには引導を渡したらなあかんし、そういう役目を喜んで引き受ける奴が世の中にはいくらでもおるんや。せいぜい気をつけてもの言わなあかんで」
権常はゆっくりとした動作で立ち上がると、カーテンで閉じられた大きな窓の方まで歩いて行き、天井に向かって手をかざした。
すると閉め切られていたカーテンがいっせいに開き、窓のむこうに出現したカジノが一望できた。欲望にギラつく無数のイルミネーションが眩しいくらいに輝いていた。それとは対照的に空は動きの速いどす黒い雲が低く垂れ込め、見覚えのある小さな光の点が見えた。そして視線を遙か遠くに向けると大阪湾が漆黒の闇のように広がっていた。
「おまえらと俺は同じ船に乗ってるんや。このパソコンに入っている情報を金に変えたとしたら少なくとも一億国連ドルにはなるんやで。役立たずの日本円やないで。それだけに手段を選ばん奴らがこの情報を狙ってるわけや。せやから、このパソコンをなおすかデータを取り出すかせえへんかったら、俺もおまえらも死ぬことになるんやで。つまりは生きたまま首から下をコンクリートで固められて大阪湾に沈められるというわけや」
あらためてこの特殊対応を下命した清水会長を恨んだ。特殊対応を俺に任命するときに清水会長は『社内でも知られることのないこの極秘任務は君のように優秀で信頼のおける人物にしか頼めんのだ。君にはぜひ特殊対応要員として頑張って欲しい』と言ったのだ。
もうこれ以上は無理だ。いくら仕事とはいえ、これ以上命を懸ける必要はない。
「もうしわけないのですが上司に電話して相談してもいいでしょうか? ここで修理作業を行うことについては、わたしだけでは判断できないので相談したいのです」
「かまへんで。電話してちゃんと相談しいや。命はひとつやから大切にせなあかんで。従業員がいくら命がけで仕事しても、会社は従業員のために命をかけてくれることはあらへんからな」
権常の口元は緩み、目つきの鋭さが増した。
鞄からスマホを取り出して電源を入れ、近くで待機しているはずの大原警部のスマホを呼び出そうとした。ところが画面を見ると無情にも圏外と表示されていた。
「どうしたんや。遠慮せんと電話したらどうや」
権常は細い目をして薄ら笑いを浮かべていた。
「すみません。圏外です。申し訳ないのですが一階のロビーまで降りて電話してきてもいいでしょうか?」
そんなことが許されるわけがないのはわかっていたが、そう言うしかなかった。
「おまえ! おもろいこと言うな! あのな、この状況でおまえらを逃がすわけないやろ。段取りはお見通しや。このホテルのスイートルームはいろんな意味ですべてが圏外なんや。だからここに呼んだんやで。おまえと、となりで固まってる奴と一緒に生きてこの部屋から出たかったら、とにかくここでパソコンをなおすかデータを取り出すしかないんや。だいたい殺されるかもしれへん状況でパソコンが回収でけへんでも会社はなにも言わんやろ。最初からパソコンはなかったって言うたらええねん。もう一回言うで。ここは警察も軍隊も手をかざした出せない治外法権なんや。おまえらは孤立無援なんや」
本当に殺すつもりなのかどうか計りかねたが、こうなったらなんでもありだ。
「わかりました。確認なのですが鈴木様は本当のところはパソコンをなおすのが目的ではなくて、内蔵されているメモリスターの情報が欲しいだけですよね? もしそうであればこのパソコンを分解して中のメモリスターを取り出して、別のメモリスターに中身をすべてコピーします。そのあとパソコン本体をわたしに渡してください。そうすれば鈴木様は大切な情報を手に入れることができて、わたしたちはパソコンを回収することができます。会社からの指示はあくまでもパソコンの回収なのでわたしはそれでかまいません」
「なるほどな。それはいいアイデアや。俺はそういう提案が大好きや。これでおまえも二子玉川の立派な病院に入院してるお母さんに親孝行ができるな」
それを聞いて体の奥底から突き上げられるような恐怖を感じ、気分が悪くなり吐きそうになった。
「俺はなんでもお見通しや。おまえもあの大震災で酷い目に遭ったみたいやな。それに〈ナノマシン〉を体に埋め込んでないやろう。今の時代、埋め込んでない奴は非国民扱いや。でも、埋め込んでないと素性をごまかせるから、便利な体やな。まぁ、そんなことはどうでもええ。とっとと作業してくれや」
権常はどうやらなにもかもお見通しで調べ尽くしているようだ。たしかに俺は金属アレルギーがあるために〈ナノマシン〉の埋め込みができなかったのだ。そのため二四時間三六五日、〈ナノマシン〉のかわりになるIDカードを首からぶら下げることを義務づけられていた。それにしてもなぜ権常はどこでどうやって調べたのだろうか。
なんとか気を取り直し、横にいる金田の肩を強く揺さぶった。
「おい。しっかりしろ。鞄からドライバーと検証用のメモリスターを出してくれ」
「すみません。必要ないと思ったので持ってきてないんです」
金田はそう言うと、おもちゃを取り上げられて泣き出そうとしている子供のような表情を浮かべた。
「なにっ!」
「だって笹島さんが今回の対応は適当なことを言って、とにかくパソコンを回収して持って帰るだけって言ったじゃないですか。それに今回は定番の道具を持っていくなんて指示はありませんでした。それよりも早く電話して助けを呼んでください」
それを聞いて金田のことを宇宙レベルの大バカ野郎だと確信した。なぜ権常の目の前で手の内を明かすのか。もしグロックで撃たれるような事態に陥ったら、まずは金田から先に撃ってもらおうと心に固く誓った。
「なるほどな。そういうことか。どこかで警察が待機してるわけや。それやったら落ち着いて作業のできる場所に移動しよか」
権常の目つきはよりいっそう鋭さが増した。
※
そこは窓もない密室で、埋め込みフックに引っかけられた小さなランタンが時折揺れながら目の前にある錆だらけの古びた自動車を照らし出していた。
エンジンの音が微かに響いていた。
「疲れたなぁ」
俺はネクタイを乱暴に外して鞄に放り込んだ。
もう少しでうまくいくはずだったことを思うと悔やんでも悔やみきれなかった。
「大原警部は助けに来るでしょうか」
金田は不安そうにつぶやいた。
「電話がいつまでもなかったら、なにかあったと判断して助けに来ることにはなってるけど、今さらホテルに来てもらっても意味がない」
「それにしてもまさかホテルから連れ出されるなんて思いませんでした」
金田と一緒にトラックの荷台に乗せられて、どこか落ち着いて作業のできる場所に連れて行かれることになってしまったのだ。
「おまえのせいだぞ。バカ」
「だって、まさかこんなことになるなんて思わないじゃないですか」
「どんな対応でも基本の道具はしっかり持って来いよ。バカ」
「バカバカって言わないでくださいよ。それってパワハラですよ」
「殺されるかもしれないときにパワハラがどうしたとかいちいち言うなよ。今は生きて帰るためにはどうしたらいいのかだけを考えろ!」
権常によれば今、向かっている場所には各種パソコンの部品やそれを分解するための道具がそろっているとのことだった。トラックが揺れるたびにランタンもきしむような音を立てて揺れた。
「この際だから言わせてもらいますけど、大芝の求人案内には『ヤクザに拉致されたりピストルを向けられたりすること有り』なんて書いていませんでした。面接の時にもそんな話はありませんでした」
金田の前職はシステムエンジニアで大型工作機械の開発をしていたそうだ。そして工作機械の作業効率を上げるためのAIを開発しているときに過重労働で体を壊して退職。その後、どんな会社にでもぶち込んでやると笑顔で意気込むハローワークの転職支援AIエージェントの勧めで大芝エレクトロニクスに応募したところまではよかったが、合格したのが運の尽きだった。入社後すぐにテクセン秋葉原に配属され、ろくな説明もないままに特殊対応業務を担当することになったのだ。それは金田の表現を借りれば『人生の罠にはめられた』ということなのだ。
「たしかにそうだけど、俺もおまえも騙されたとはいえ契約書と誓約書にサインしてしまったんだからな。それに今の世の中、他に仕事見つけるのは大変だからな」
そう言いながら念のためスマホで電波を確認してみたが、やはり圏外だ。このトラックの荷台も完全に電波を遮断しているのだろう。
「サインはしましたけど、まさかこんな過激な顧客対応ばかりだとはだれも思わないじゃないですか。今さらですけどこんな会社に就職するんじゃなかったです。ものすごく後悔しています。この仕事を続けていたらいつか本当に死んじゃいますよ。こんなの民間企業のサラリーマンがする仕事じゃないです。まえから気になっていたんですけど笹島さんは確かこの特殊対応の仕事を七年以上も続けているんですよね。やっぱり給料がいいからですか? それとも〈ナノマシン〉を体に埋めていないこととなにか関係があるんですか?」
金田は力を込めてネクタイを思いっきり緩め、ワイシャツのボタンをひとつ外した。
「その話はしたくない。ひとつだけ言えることがあるとすれば、宝くじで大当たりでもすれば、俺だってとっととこんな仕事は辞めるよ」
思わず吐き捨てるかのように本音が出てしまった。そのとき権常が言っていた一億国連ドルの金額が頭をよぎった。すると自然に邪な考えが頭の中に湧き上がり、その魅力に囚われてしまった。
それからはしばらくお互いに沈黙していた。
気がつくと金田は目の前にある錆だらけの自動車の中を覗き込んでいた。
「見てください。ハンドルが付いてますよ」
そう言われて覗き込んでみると確かに前部座席の右側にハンドルがあり、その下にはアクセルとブレーキと思われるペダルもあった。それは最近では珍しい手動運転が可能な自動車だ。
「珍しいな。AIが運転するほうが安全ってことになって、手動運転が違法になってからはハンドルを見ることはもなくなったからな」
「そうですよね。公道は走れないですから廃車にするしかないですよね。この車はただの産業廃棄物ですよ」
その言葉を聞いてどこに連れて行かれるのかようやくわかったような気がした。
※
それから一時間ほど経ったころトラックはガタガタと何度も大きく揺れはじめた。体を支えるのがやっとの状態が続いたが、いきなり停まるとエンジンが静かになった。
「やっと止まったな」
「どこかに到着したようですね」
リアドアパネルが大きく開くと、目つきの悪い痩せた男がグロックをこちらに向けて降りるように言ってきた。外は夜の闇に包み込まれ雨が降っていた。荷台から降りるとスマホと鞄は取り上げられてしまった。
暗がりの中、周囲を見渡すと廃車になった車がうずたかく積まれているのが見えた。遠くには窓のない大きな建物があり、その屋根から伸びる細長い煙突の先端からは薄らと白い煙が立ち上っていた。すると背後から権常の声がした。
「ここは産業廃棄物最終処分場や。ここにはありとあらゆるゴミが集まってくるんや。あの大震災や富士山の噴火で出てきた大量のゴミを引き受けるようになってからは、なんでもありの処分場や。使えるかどうかはわからんけどパソコンも山ほどある」
権常は得意気な表情を浮かべていた。そして一緒についてくるように言うと雨に濡れながら、二階建ての倉庫に向かって歩きだした。
「作業が終わったら本当にちゃんと生きて帰れるのでしょうか?」
金田が心配そうな表情で口ごもるように言った。
「さっきのホテルで窓の外を見てるときに、いい作戦を思いついたんだ。だから安心しろ。なにがなんでも生きて帰るからな」
金田を安心させようと思い、そう言ってはみたものの不安でいっぱいだ。
倉庫に入るとテーブルがありそこにはずらりとノートパソコンが並べられていた。ただしどれもボロボロでまともに動きそうなものは見当たらなかった。
「ここに来るまでのあいだにパソコンだけを集めさせておいたんや。この中から使えるメモリスターを取り出してコピーしてくれたらええ。あそこにドライバーも揃えさせてあるから使ってくれ。それからコピーが上手くいかんかったら、ここのパソコンと一緒におまえらも処分されることになるからな。ここはいろんな奴らからの依頼でいろんなものを処分できるように便利に作られてるんやで」
権常は先ほどの目つきの悪い男を見張りとして残して出て行った。
「おまえら突っ立てんと、とっとと作業を始めんかい!」
その男はこちらを睨み付けながらそう怒鳴ると部屋の隅にある小さな冷蔵庫から缶ビールを取り出し、ソファに座ってテレビを見始めた。右手で缶ビールを持ち、左手にはグロックが握られていた。
そしてソファの横には取り上げられてしまった鞄があった。あの中にはスマホが入っているはずだ。
「なにが宝の山だよ」
並べられているパソコンをながめながらそうつぶやくと大きなため息をついた。パソコンは野晒しになっていたのか、腐食して使い物になりそうにないものもあった。
見張りの男の様子をうかがうとビールを飲みながらテレビに見入っていた。テレビでは東京で起こった爆弾テロについて中国人コメディアンが声を荒らげてテロリストを糾弾していた。そしてテロ対策を強化するためには年寄りばかりの日本軍よりも、屈強な若者の多い中国軍による治安出動のほうが日本のためになると訴えていた。
「笹島さん、これはどうでしょう。使えそうですよ。このパソコンはもともと防水仕様ですから内部の部品はすべてきれいな状態で残ってます」
そのメモリスターは確かに見た目も新品同様で、しかもTaiyoBookに内蔵されているのと同じ型式のメモリスターだった。
「確かに使えそうだな。よし。このメモリスターをあのTaiyoBookに入っているメモリスターと交換しよう。ただしコピーはするな」
「どういうことなんですか。コピーしないと殺されますよ」
「あとで説明するから安心しろ。今はとにかく時間稼ぎをするんだ。それで万が一、俺の考えている作戦でダメだったら、そのときは本当にコピーするから大丈夫だ」
「失敗したらって。本当に大丈夫なんですか?」
金田は顔をしかめて不満そうだった。
すると、どこからともなく巨大な扇風機のプロペラが回転している音がそこらじゅうに響き渡り、窓の外が明るく光り出した。見張りの男も外が気になり、窓に駆け寄りようすをうかがった。俺と金田も窓辺に近づいて外を見ると、まわりが昼のように明るくなり、強烈な風で砂煙が舞い上がっていた。そして上空からは強力なサーチライトを搭載した重武装の大型ドローンが現れた。その数はかぞえられるだけでも五機は飛んでいた。
「やったぞ。大原警部が来てくれた」
嬉しくて涙がこみ上げてきた。
すると、どこからともなく拡声器からの声が響き渡った。
「おい! こら! 国家警察の登場や! 善良な市民を拉致してるのはわかっとるんやぞ! おまえらは完全に包囲されたんや! 降参して両手を高く上げてとっとと出てこい! それから、あー、ここからは業務連絡。業務連絡。今の俺の言葉を中国語、英語、韓国語、ロシア語でそれぞれ繰り返してくれ」
その野太い声は間違いなく大原警部だ。
すると今度は二つのローターを備えた大型ヘリコプター二機がゆっくりと着陸した。そして武装した警官たちがヘリから一斉に降り立つと素早く散開した。その中から両脇に警官を従えたスキンヘッドの大原警部が現れ、まっすぐこちらに向かって歩いて来るのが見えた。
外の様子を見ていた見張りの男は慌ててグロックを構えると、ドアから走り出した。
すぐ近くにいた警官が男に向けて自動小銃を発砲し、男の体は火花を飛び散らせながら真っ二つに引き裂かれ、上半身だけが地面に落ちて動かなくなった。すると立ったままの下半身だけが走り出し、警官はそれをめがけて発砲しとどめを刺した。あの男は下半身をサイボーグ化していたのだ。警官が銃撃に使った自動小銃の銃弾は電磁パルス弾だ。
電磁パルス弾はサイボーグ化された部分に命中すると、その電子回路に対して強力な電磁波を流し込み電気的に破壊するのだ。
「金田、さっき取り出したメモリスターとTaiyoBookを俺に渡せ!」
大原警部と警官が勢いよく倉庫に入ってきた。警官が腰に携帯している無線機からは次々に状況を報告する声や怒号が聞こえていた。
「これはこれは笹島さんと金田さんやないか。どうやらまだ死んではなさそうやな」
大原警部は愉快でたまらない様子で、部屋の様子を見回しながらスキンヘッドを摩っていた。これはなにか考えごとをしながら話をするときの癖だ。
「なんでもっと早く助けてくれなかったんですか。本当に死ぬかと思いましたよ」
助けに来てくれたことは嬉しかったが、それでも腹が立った。
「あんたら、いつも死ぬ死ぬ言うけど一回でもほんまに死んだことあるんか?」
「あるわけないじゃないですか! カジノのホテルの窓から国家警察のドローンが見えたときは、すぐに助けてもらえると思ったのになかなか来ないんで見捨てられたかと思いましたよ」
「なにを失礼なことを言うてんねん。わしら国家警察は善良な市民の味方やで。命懸けで市民を守るのが役目や。でもな、夢洲は治外法権やからいろいろとやりにくいんや。それにまえから『五蝶会』の権常は狙ってたから、しっかりと手柄を立てるためにもしばらく様子を見とったんや。あいつはグロックを大量に密輸してこの処分場を倉庫のかわりにしながら特売セールをやってたらしい。だからおまえらがここに連れ去られてくれてちょうど良かったんや」
「そのグロックで撃たれるところでした」
「あんたらがグロックを突きつけられてるところはドローンでちゃんと見てたで。おしっこ漏らさへんかと心配やったわ。ほんまにあいつらのせいで世の中グロックだらけや。オモチャの水鉄砲より多いんちゃうか。もし良かったら土産に弾付きで一丁や二丁は持って帰ってもかまへんで」
そう言って大原警部は笑いだした。以前に別の捜査官から聞いた話では大原警部は捜索差押許可状無しの違法捜査で押収したグロックを転売したことがあるそうだ。大阪府警から国家警察刑事部に転籍してからは人格が変わったともっぱらの噂だった。
「いらないです」
「冗談や。あんたらは大人しくなにも気にしない善良な市民のままで生きてたらええ」
「明日のニュースはこの事件で持ちきりになりますね」
「どの事件や?」
「どの事件って、ここで権常を逮捕したことや、グロックを押収したことですよ。今回はちゃんと令状も取って捜査したんじゃないんですか?」
「あのな。ひとつ社会の仕組みを教えておいてやるわ。世の中には報道の自由っていうのがあるやろ。この言葉には実はふたつの意味があるんや。ひとつは『報道させたい自由』で、もうひとつは『報道させたくない自由』や。今回は報道させたくない自由に該当する案件やから報道はなしや」
「どうしてですか? 今回の事件は政治絡みとも思えないんですけど」
「この日本に大量のグロックが氾濫しているなんて報道したら、カジノに来る観光客が減って困る政治家や業者も多いやろ。それに水際で食い止めることがでけへんかった警察に対する批判も出てくる。ましてや権常のグロックの入手元が在日米軍かもしれへんとなると大問題や。けっきょくはなにも言わずに黙ってるのが、みんなのためなんや」
「よくわからないですけど、わかりました。じゃ、あとは好きなだけ逮捕して好きなだけ戦利品を探してください。わたしたちはもう帰ります」
「帰る手段がないやろ。今日は大手柄やったから特別に国家警察御用達の高級ドローンでふたりとも自宅まで送ってやる。マグノリア547を手配したるからちょっと待っとけ」
「助かります。お言葉に甘えて、母親が入院している二子玉川の北花田病院に寄りたいんですけどいいですか? 久しぶりに見舞いに行きたいんです」
マグノリアシリーズのドローンなら病棟の駐機場までAIが連れて行ってくれるので便利だと思った。ここしばらく見舞いに行ってなかったのでちょうど良かった。
「ええけど、もうすぐ九時やで。今から見舞いに行って会えるんか」
「個室だと二十四時間大丈夫なんです。それにほぼ寝たきりで運動不足のせいか深夜まで起きてることが多いんです」
「笹島さん、ドローンは一台ですから、それだとわたしも一緒に行くことになりますよね?」
「遅くなるけど少しの時間だからつきあってくれ。もう一ヶ月以上も見舞いに行ってないんだ」
そのとき、無線機から権常を確保したと報告する声が聞こえてきた。
「今の聞いたか? ついに捕まえたぞ。明日か明後日にはテクセン秋葉原に行くから俺が作文する調書にサインだけ頼むわ。いつもどおり中身はいちいち読まんでもええで」
「いくらでも好きなだけサインします」
「ええ心がけやな。それでこそ善良な市民や。そうそう、あんたらが回収せなあかんTaiyoBookはそれか?」
「このとおりおかげさまで無事に回収できました」
TaiyoBookを持ち上げて見せた。
「そのパソコンは警察としてはいっさい関知しないことになってるから好きなようにしてくれ。これで今回もお互いにウィンウィンやな」
大原警部は満足そうに顔をほころばせた。
俺と金田はソファの横に置かれていた鞄を取り戻し、回収したTaiyoBookと廃棄パソコンから取り出したメモリスターを自分の鞄に放り込んだ。
「笹島さん、廃棄パソコンから取り出したメモリスターはもう要らないんじゃないですか?」
「いや、ちょっと別のことで使おうと思っているんだ」
外に出ると雨足が強くなっていた。
しばらくするとふたり乗りのマグノリア547が空から降りてきた。そのドローンは大きなローターを四つ搭載し、4人乗りの完全自律型の有人ドローンだ。
そのドローンを眺めながら今回の特殊対応の完了報告をするために、鞄からスマホを取り出して清水会長に電話を掛けた。
「清水だ」
「笹島です。さきほど大原警部の協力のもとTaiyoBookは回収できました。今回もかなりキツい対応でした」
『キツい』という言葉に、ほんの少しだけ力を入れ言ってみた。電話の向こうからは一家団欒の賑やかな声が聞こえてきた。無意識にスマホを握る手に力が入った。
「明日は怪しまれないよう普段どおりに秋葉原に出勤しろ。それから回収したTaiyoBookを午後に横浜まで持って来るんだ。詳しい場所はメールするから確認しておけ」
清水会長は労をねぎらうこともなく、新たな指示をするだけだった。通話中のままスマホでメールを確認すると横浜市の住所の記載があり、そこは木島善継の自宅となっていた。
木島は政権与党である民治党の幹事長だ。
「この住所に持って行くんですね?」
「さっきそう言っただろう」
なにやら不機嫌だ。家族との楽しいひとときを邪魔されたのが気に入らないのだろうか。そう思うと心の中からどす黒いものが湧き上がるのを感じた。
「会長。あのTaiyoBookのメモリスターにはどんなデータが保存されているんですか? 今までの特殊対応でもいろいろとありましたが今回もいつ殺されてもおかしくない状況でした。せめてなにが入っているのかくらいは教えてください」
「知る必要はない。おまえは言われたとおりのことだけすればいいんだ」
するとすぐに電話が切れた。
清水会長にしてみれば俺や金田のような末端の人間がどうなろうとどうでもいいことなのだ。
「笹島さん、素敵なドローンが来ましたよ」
金田が嬉しそうに目を輝かせてドローンを眺めていた。その表情を見ているとなぜか首から中途半端にぶら下がっているネクタイが気にさわった。
「そうだな。ところで金田、さっきから気になってたんだけど、そのネクタイ外したら?」
「ネクタイをしていないと落ち着かないんです」
「だったら、しっかり締めるかどっちかにしろよ」
そう冷たく言い放つと金田よりも先にドローンに乗り込んだ。
※
二子玉川にある北花田病院には何棟もの建物があり、母さんが入院しているのは個室ばかりの病棟でマンションのような作りになっていた。俺と金田を乗せたマグノリア547はその病棟に近い駐機場に着陸した。
〝笹島様、金田様、目的地に到着しました。お母様のお部屋を担当している〈アキコさん〉には事前におふたりが訪問することを伝えてあります。ただ天気予報では台風が接近中で雨と風が強くなってくるとのことですのでお気をつけください〟
AIが頼みもしないのに天気予報まで調べて心配してくれていた。最近は人間よりもAIのほうが礼儀正しく誠実で思いやりがあるように感じてしまうことが多いような気がした。
エレベーターで七階まで上がり、715号室のインターホンを押した。
〝セキュリティチェックをおこないます。カメラに目を近づけて、マイクに向かってお名前を言ってください〟
音声の案内に従って俺と金田は順番に目の奥にある虹彩のチェックと、声の違いから個人を特定する声紋のチェックが行われた。
〝認証されました。お母様がお待ちです。どうぞお入りください〟
ドアが自動で開き玄関を入ると、部屋全体に雲ひとつない青空と広大な草原が広がり、そこかしこに家族連れやカップルが思い思いに楽しんでいる光景が映し出されていた。これがVRだとわかってはいてもそのリアリティに圧倒されてしまい本当にその場にいるような錯覚を覚えてしまうほどだ。壁の一角に表示されているキャプションを見ると〈山梨県 八ヶ岳南麓 まきば公園〉という文字が浮かび上がっていた。そして、見覚えのある家族がシャボン玉を飛ばして遊んでいる姿が見えた。それは若い頃の母さんと生きている父と妹の美波だった。そして子供のころの俺もいた。
胸が締め付けられるような悲しみがこみ上げてきそうになり思わず目を背けた。
部屋の真ん中には大きなベッドがあり、その上に小さな体の母さんがいた。母さんは嬉しそうに俺に顔を向けて手を振った。そして天井を見上げて〈アキコさん〉にお茶を入れるように頼んだ。〈アキコさん〉とは母さんを担当しているAIの名前で高校生時代の同級生で親友だった女性の名前から取ったらしい。
ベッドに近寄り母さんの痩せ細った体を見るとそれはまるで枯れ枝のようだった。俺はいつもその姿に心の中がかき乱されいたたまれなくなるのだ。
「健治、久しぶりね。そちらはいつも一緒に仕事をしている金田さんね? はじめまして」
母さんは嬉しそうに胸に手を当ててゆっくりと深呼吸した。どうやらこの一ヶ月の間に肺機能がかなり低下してしまっているようだ。
「初めまして。金田です。よろしくお願いします」
金田は丁寧にお辞儀をした。
「金田さん、どうぞゆっくりしていってくださいね。今ね。ケアロボットにお茶を煎れてもらってますからもう少し待っててね」
ケアロボットは各個室に配備されている入院患者の面倒を見るための人型ロボットのことだ。ただ二〇年以上もまえのロボットなので、搭載されているAIは原始的で見た目も人型とはいえ古びたデザインで、表情は笑顔のまま固定されていた。
「お気づかいありがとうございます。ぜひいただきます」
「母さん、調子はどう?」
「ここはケアロボットも〈アキコさん〉も本当に良くしてくれるから安心よ。〈アキコさん〉は診察してくれるだけじゃなくて、話し相手にもなってくれるから素晴らしいわ。それに見てごらんなさいよ。この景色。すごいでしょ? ベッドのうえで過去の人生をリアルに再体験できるのよ」
「それにしても母さんは四六時中、仮想現実で遊んでいるみたいだけど大丈夫なの?」
病院の個室にこもっていればVRで遊びたくなる気持ちもわかるが、以前に何度か現実との区別がつかなくなり、自分がどこに居て息子の俺がだれなのかわからなくなったことがあっただけに心配だ。
「そもそも現実と仮想現実ってそんなに違いはないはずよ。わたしたちは脳が五感をとおして感じる物事を現実だと思っているだけで、それは仮想現実だって同じでしょ。物事の真実は常に隠されているものなのよ。そういう意味では現実も幻なのかもしれないわね」
そこまで言うとまた呼吸が苦しくなってきたのか、深呼吸を繰り返した。母さんは昔から自分のしたいことを正当化するために哲学的な物言いをする癖があった。
「大丈夫? ナースコールしようか?」
「いつものことだから大丈夫よ。でもね、これ以上、肺機能が弱ってしまうようだったら肺だけでもサイボーグにしたほうがいいって言われいてるの」
「そんなに肺機能が落ちてるんだ」
「最近、あまりにも呼吸が苦しくて〈アキコさん〉に頼んで酸素吸入器の酸素濃度を少しだけ上げてもらったの。でもね、これ以上濃度を上げたら中毒になるんだって。そのときにサイボーグの肺を移植したほうがいいって言われちゃったの」
母さんは細い手で胸をゆっくりと摩りながらそう言った。
「サイボーグか」
サイボーグ化するには部位にもよるが莫大な金が掛かる。しかも性能や品質で細かいランクがあり、値段の安いものだと保証期間も短くメンテナンスにも手間がかかるようになっていた。かといってランクの高いものになると数千万円にもなるので手が出ない。そのうえ、高齢者がサイボーグ化すると生産性の低い人間がサイボーグ化した分だけ無駄に長生きするからという理由で所得税や住民税などの税率が跳ね上がるのだ。
キッチンの方からケアロボットがうっすらと湯気が立ちのぼる湯飲み茶わんをお盆に載せてやってきた。子供の頃、よく飲んだ緑茶も今は貴重品だ。
「本物のお茶がきたわよ。金田さんもどうぞ」
富士山の噴火による火山灰の影響と温暖化による異常気象のせいで、茶葉だけではなく米を含めた多くの作物が壊滅的な打撃を受けたのだ。
「いただきます」
金田は湯飲み茶わんを受け取るとお茶を一口すすって目を丸くした。
「めちゃくちゃ美味しいですね! さすが本物は違いますよね! ぜひおかわりをください」
金田はそういうと残りを一気に飲み干し、ケアロボットにおかわりを頼んた。
「美味しいでしょ。最近、ようやく静岡のお茶の生産も元どおりになってきたそうよ」
母さんは金田の驚いている様子を見て嬉しそうだ。
「金田、ケアロボットは音声を認識できないし話をすることもできないから、頼むときは母さんを経由して〈アキコさん〉に言わないとダメなんだ」
「そうなんですね」
金田は照れくさそうにした。
「そうなのよ。私からちゃんとお願いしますから待っててね」
そして母さんは〈アキコさん〉にお茶のお代わりをお願いした。
「さっきの話だけどサイボーグになったらメンテナンスとかがたいへんだよな」
以前、特殊対応で頭部以外をすべてサイボーグ化した医師の対応したことがあったのを思い出した。その人物は実際には八八歳とのことだったが、見た目は三十代前半にしか見えなかった。そのサイボーグ化にかかった金額は一億円とのことだった。その医師はメンテナンスをしっかりしていれば半永久的に生きることができるのだと豪語していた。
「そもそもサイボーグなんていやよ。贅沢するのはこの個室だけで充分よ」
〈アキコさん〉が肺のサイボーグ化を提案したということは、近いうちに自宅にカタログや見積書が送られてくるはずだった。肺だけならローンを組めばなんとかなるだろうか。しかし俺のこの体ではローンが完済するまではもたないだろう。そう思うとトラックの荷台に閉じ込められていたときに湧き上がってきた邪な考えは邪ではないような気がしてきた。
「俺は全国を飛び回って大活躍して、がっぽり給料ももらっているからね。全身サイボーグにしてもいいくらいだよ」
そう言って笑ってはみたものの今の給料では会社の健康保険組合の優待制度を利用してこの病院の個室に入院させるのが精一杯だ。本当なら公立病院に入院してもらうのが経済的で、負担も少なくて助かるが、今の公立病院は最低限の予算すらも削られ医療体制そのものが崩壊していると言われていた。そのため痛みや苦しみを和らげるわずかな投薬治療とVRを利用した現実逃避の幻影を見せられるだけで寝たきりの状態に追い込まれる患者も多いらしい。そんなところに母さんを入院させたくはない。
「そんなお金があるんだったら貯金しなさいよ。将来、結婚するときにお金が必要でしょ」
母さんは両手で湯飲み茶わんを包み込むようにしながらお茶をすすった。母さんに残された唯一の願いは俺が結婚して家庭を持つことなのだ。だがそれは決して叶うことのない願いだった。
「だれかいい人はいないの? 村田さんはどうなの?」
そう言って母さんは茶目っ気のある笑顔を見せた。村田さんは母さんの中では最有力候補なのだ。
実は村田さんが入社して一年ほどたった頃にデートしようと約束したことがあった。だが、デート当日に緊急の特殊対応の要請があり、連絡もできないままにドローンに乗せられたため、すっぽかすことになり空振りに終わってしまったのだ。それ以来、お互いにこの話題は避けるようになっていた。
「なにを言ってるの。そんなこと考えたこともないよ」
金田の視線を感じながら言下に否定した。
「そうなの? でも村田さんがお見舞いに来てくれたときにはよく職場の話をするんだけど、いつも健治の話をしているわよ。村田さんも健治のことが気になっているんじゃない?」
「どんな話をしているんですか? ぜひ教えてください」
金田は興味津々だ。
「うるさいな。おまえは。横から口を出すな」
「すみません」
金田は肩をすぼめて小さくなった。
「健治、そんな風に言わなくてもいいでしょ。金田さんがかわいそうじゃない。ところでふたりとも顔色が悪くてわたしよりも疲れているように見えるけど大丈夫なの?」
「大丈夫だよ。でも最近ちょっと仕事が忙しくて。なぁ、金田」
「そうですね。とにかく忙しくて。わたしもそうですけど笹島さんもあまり眠れていないかもしれません」
「それだけ会社の役に立っているということね。でも、体を壊さないように気をつけなさいよ」
ちなみに俺と金田が特殊対応を担当していることを母さんは知らない。
「ところで母さん、最近、病院の関係者以外でだれかこの部屋を訪ねてきた人はいた?」
権常の言葉が気になっていたので聞いてみた。
「一ヶ月ほどまえだったかしら。村田さんがお見舞いに来てくれたわよ。いろいろと話し相手になってくれて本当に楽しかったわ」
先月、原子力発電所関連の特殊対応でしばらくの間、音信不通になってしまったことがあり、そのときに母さんを心配させないようと思って村田さんにお願いして母さんの話し相手になってもらったことがあった。
そのことでまだ礼も言っていなかったことを思い出した。
「村田さんが来たんだ。村田さん以外にはだれか来た?」
「病院関係者以外でしょう? それだったら村田さん以外にはだれも来てないわね。だいたいだれも来るわけないでしょう。父さんも美波も他のみんなも死んじゃったんだから。それにここの警備はものすごく厳重だから変な人が来る心配もないわ」
「確かにそうだね」
過去に食糧不足による暴動が各地で起こったときに、この病院も襲撃されたことがあった。。
「ところで母さん。またあのパソコンを使わせてもらってもいい?」
個室の各ベッドに備え付けてある医療用端末のホスブックを指さしながら言った。
「いいわよ。このまえも使いに来たことがあったわね。ホスブックのなにがいいの? 会社のパソコンは性能が良くないの?」
「このパソコンは病院の高性能な量子コンピュータと接続されてて使いやすいんだよ」
「わかったわ。〈アキコさん〉、息子にこのホスブックを貸してあげて」
〝わかりました〟
するとケアロボットが動きだし、枕元の医療機器に接続されていたホスブックを取り外し俺に差し出した。
「じゃ、しばらく隣の部屋で使わせてもらうね」
「ええ、好きなだけ使いなさいな。わたしはそろそろ眠るわね」
※
隣の部屋には小さな作業机があり、壁にはプリザーブドフラワーがところ狭しと飾られていた。母は生前に様々な生花を買ってきてはその美しさを長く保つように特殊液の中に沈めて水分を抜いて綺麗に飾り付けることでプリザーブドフラワーとして飾ることを楽しみにしていた。かなり古いものもあり朽ちてきているものも多いが、ドーム状のガラスに閉じ込められた花はいまだに色鮮やかだった。
「すごいですね。これ全部、お母様が作られたんですか?」
「今よりもっと元気だった頃に作ったものばかりだけどな。今はもうほとんど寝たきりで体力もないからこの部屋に入ることもないんじゃないかな」
「これ、凄いですね」
「これはクリムトの『生命の樹』を模したものなんだそうだ」
部屋の奥にある壁には高さ二メートルのパネルに一八世紀の画家であるグスタフ・クリムトが描いた『生命の樹』を模したプリザーブドフラワーがあった。その全面にあしらわれた金箔は眩しいほどの輝きを放っていた。
「これもお母様が作られたんですか?」
金田は目を丸くして圧倒されているようだった。
「うん。確か五年くらまえだと思う。あの頃は母さんもまだ元気だったからな」
「すごいですね」
「俺も最初に見たときには驚いたよ。『生命の樹』っていうのはユダヤ教の神秘主義思想にあるカバラの体系を図で表現したものなんだ」
そして鞄から命がけで回収したTaiyoBookを取り出してホスブックと並べて作業机の上に置いた。
「すみません。ITは得意ですけどユダヤ教やカバラについてはなにも知らないです」
『生命の樹』は『セフィロトの樹』とも呼ばれ、そのカバラの思想を体系化した図には木をモチーフにすることで、神から万物に遍く流れ出る神の性質を一〇の『光球』として表現し、それらをつないでいる二二の道が『小径』として描かれた。目の前にあるプリザーブドフラワーで作られた生命の樹にある各光球には、鮮やかな色彩の巨大な一輪の薔薇が使われていた。
「昔、まだ俺が子供のころに母さんがタロット占いにはまったことがあったんだ。それでカバラのことも含めてよくいろんな話を聞かされたよ。例えば第一の光球は『ケテル』すなわち王冠という意味で、思考や創造を司る神の意識を象徴するんだ。次の第二の光球は『コクマー』すなわち知恵という意味で能動的知性を象徴している。あと第三の光球『ビナー』が理解で、第四の光球が『ケセド』すなわち慈悲というように第一〇の光球まであって、これらは宇宙の中で起るすべての事象の原理を現しているんだ。わかりやすく言えば宇宙の法則だな」
引き出しを開けてパソコンを分解するためのドライバーを取り出した。
「そういえば、大震災のあとに占いが流行ったことがあったんですよね」
「うん。あの大震災後、先行きが見えない状況の中で、藁にもすがる思いで占いや霊能者に頼る人が増えたことがあったんだ。ちょうどその時期に母さんはタロット占いにはまったんだ。ひどいときには一日中、部屋に籠もって何度も占ってたこともあったんだけど、そのときにカバラの勉強もしてたらしい」
「そうなんですね。それは初めて聞きました。あの時代は日本全体が暗かったですよね。まぁ今も明るいとは言えないですけど」
「たしかにな。金田はどこかで占ってもらったりしたことはないのか?」
「いちどもないですよ。わたしは物事はなるようにしかならないと思ってますから。それに興味があるのはITだけです。ところで、お母様はなにか宗教団体や秘密結社に入ったりはしなかったんですか?」
「なにか言ってたような気がするけどな。昔のことだから忘れたよ。そんなことよりもこのTaiyoBookからメモリスターを取り出して、中にどんな情報が入っているのか調べよう」
使い慣れたドライバーを使って手際よくTaiyoBookを分解した。
「ドローンに乗っているときにも聞きましたけど、これは清水会長の指示ですよね?」
「もちろん。そうだ」
嘘をついた。この作業は俺の独断だ。
「でも、どうしてここでするんですか? テクセン秋葉原でもいいと思うんですけど」
一億国連ドルの価値があるメモリスターを手に取り、まじまじと眺めた。少し心臓の鼓動が高まったような気がした。
「ここには高性能な医療用のAIがあるから、それを使えば解析も早いだろうと思ったんだ。それに俺よりもAIが得意な金田もいるしな」
ホスブックの電源を入れて、メモリスターを金田に手渡した。
「わかりました。確かこの病院には量子コンピュータを使った〈アトラス〉というAIが導入されているというのを雑誌で読んだことがあります。つまり〈アキコさん〉は〈アトラス〉の分身ということになりますよね」
金田はそう言いながら、手渡されたメモリスターに搭載されている光通信ポートとホスブックの光通信ポートを向かい合わせに置いた。
「そういうことだな。病院に備わっているすべてのAIは〈アトラス〉に集約される」
そして金田はホスブックの起動が完了しているのを確認し、いくつかのアプリを使って〈アトラス〉に接続した。
「わたしは〈アトラス〉と直接、会話ができないので、〈アトラス〉との会話はお母様の家族として認証の取れている笹島さんでお願いします」
「うん、わかった。〈アキコさん〉、聞こえる?」
〝はい。聞こえています〟
「ホスブック経由で今から転送するデータの解析を頼みたい」
〝わかりました。前回と同じように光通信でデータの転送をするおつもりですね?〟
「そうだ。こちらは準備完了だからいつでもOKだ」
〝光通信は光による通信になりますのでメモリスターの光通信ポートを、もう少しホスブックの光通信ポートに近づけてください。そうすればより高速に通信が可能となります〟
それを聞いて金田はゆっくりとメモリスターの光通信ポートを近づけて角度も調整した。
〝ありがとうございます。理想的な位置になりました〟
「笹島さん、〈アキコさん〉にホスブックの中にネット接続無しの仮想マシンを一台だけ構築して、その中に今から転送するデータを隔離するように言ってください」
「〈アキコさん〉、ホスブックに新しい仮想マシンを構築してくれ。ただし、ネット接続はせずにオフラインで頼む。今から転送するデータはその仮想マシンに隔離するんだ」
オフラインの仮想マシンを構築する理由はメモリスターのデータになにか罠が仕掛けられていても、仮想マシンの中であれば〈アトラス〉自体に影響が出ることはないからだ。
〝仮想マシンの構築が完了しました〟
すると画面上には構築された仮想マシンが表示され起動し始めた。これでホスブックというコンピュータの中に、別のコンピュータを入れ子のように組み込んだことになるのだ。
「〈アキコさん〉、仮想マシンが起動完了したらさっそくデータを転送してくれ」
〝わかりました〟
「金田、そのあいだに解析用のアプリを用意しておいてくれ。データ転送が終わったら、そのアプリを光通信で仮想マシンに転送する」
「このスマホに入っているのでいつでも大丈夫です」
金田は使い古されたスマホをポケットから取り出して見せた。
〝準備が完了しました。データの転送を開始します〟
すると画面上にはデータ転送の進捗状況がパーセンテージで表示された。光通信は電波による通信とは比較にならないほど高速なので100TBのデータなら二分ほどで完了するはずだ。
「いったいこのメモリスターにはなにが入っているんでしょうね」
「金になる情報なのは確かなんだと思う」
「権常はそう言っていましたよね」
そのときだった。画面に異常終了を示すメッセージが表示され処理が中断してしまった。
〝データ転送を中断させました。原因はデータを守るための自己消去機能が働いたためです〟
「おかしいですね。もし本当に自己消去機能が入っているのなら、このメモリスターにはなんのシステムも入っていないということですよ。つまり、そもそもパソコンとしては機能しないということになります。念のためもういちど試すように言ってください」
金田は画面を食い入るように見詰めていた。
「〈アキコさん〉、もう一度試してみてくれ」
〝承知致しました。再試行します〟
だが結果は同じだった。
「〈アキコさん〉、この自己消去機能は解除できないのか?」
〝自己消去機能を外すとデータの原本も削除される可能性がありますので、お勧めできません〟
「これじゃ修理は最初からできなかったということじゃないか」
「笹島さん、もしかしたらメモリスター自体はデータを保存するための入れ物でパソコン本体はダミーだったのかもしれません。〈アキコさん〉に自己消去機能の解除ではなく、解析をさせてみてください」
「なるほどわかった。〈アキコさん〉、自己消去機能を解析してみてくれ」
〝この自己消去機能はメモリスター全体の暗号化機能とリンクしているため解析には時間がかかります。わたしの場合だと十日間は必要となります。また解析しているあいだは病院業務の処理にも影響が出るため管理者である病院長の許可が必要です〟
「そんなに強固なのか。さっき金田が言ったようにパソコン本体はダミーだったんだな」
「そのようですね。どうしましょう」
「どうしても解析をするなら、あのハッカーに頼むしかないか」
「もしかして阿倍野晴明ですか? 確かに彼はパワーのある量子コンピュータを持っていて、わたしたちよりもハッキングのノウハウもありますから解析できるかもしれませんね」
阿倍野はアンチテクノロジーを標榜するハッカー集団『月読命』のリーダーで、特殊対応で何度か一緒に仕事をしたことがあった。
金田は続けて言った。
「でも明日の午後にはこのメモリスターを民治党の木島幹事長に渡すことになっているんですよね? でしたら今から行っても間に合いませんよ」
「諦めるしかないか」
声に深い諦めを込めて言った。
「もう諦めるんですか?」
「残念だけど解析はできなかったいうことで今日のところは帰ろう。とりあえずパソコンの回収はできたんだからもういいよ。それに金田も疲れただろう」
「ええ、まぁ、そうですけど」
金田の視線を感じながら分解したTaiyoBook本体とメモリスターを、そのまま鞄に入れた。
「もう午前〇時をすぎたな。そろそろ帰ろうか」
「さすがに眠くなってきました」
「今日はすまなかったな」
「いえ、いいですよ。大丈夫です。ところでお母様は眠ってますよね」
「もう寝るって言ってたからな」
そう言いながらドアを開けて様子を見ると、母さんは眠るどころか別の風景を呼び出して楽しんでいた。
「あれ? 母さん、まだ寝てないの?」
「健治、この風景を覚えてる? まきば公園に家族で行ったときの風景よ。たしか健治がまだ六歳くらいのころだったと思う」
母さんは懐かしそうにVRが作り出すその風景をうっとりと眺めていた。リアルに感じる明るく温かい日差しの中、エアコンからの優しい風が体を撫でた。以前、主治医から真夜中に昼日中のVRを投影すると体内時計が狂うので止めなさいと言われたことがあるのを思い出した。
「覚えてるよ。見たらすぐに思い出したよ」
「あら、そう。ちゃんと覚えてるのね。あの頃は家族がみんな揃ってて本当に幸せだったわ」
あの頃とはもちろん東南海大震災のまえのことだ。
「でも、先生から夜中に昼間の仮想現実に浸るのはやめたほうがいいって言われてたよね?」
「そんなこと言われなくてもわかってるわよ。でも、〈アキコさん〉と話をしていたらどうしても見たくなってお願いしたの」
この風景に心がかき乱されるのを堪えながら、テーブルに置いたままにしていた湯のみ茶碗を手に取ると、残っていたお茶を飲み干した。するとすぐにケアロボットが湯のみ茶碗を取りに来た。そして金田に見られないようにケアロボットの腕に取り付けられている指紋認証ポートに指を押しつけると、お腹のあたりにある小物入れの蓋が開いた。そして素早くメモリスターを入れてそっと閉じた。
「じゃ、母さん、明日も仕事があるからそろそろ帰るね」
「ふたりとも泊まっていったら? ゲスト用の宿泊施設もあるんだから。村田さんも何度か泊まったことあるのよ」
「村田さんが?」
「そうよ。楽しくお話してて気がついたら遅くなって、それで泊まってもらったことがあるのよ」
「そうなんだ」
泊まったという話は初めて聞いた。
「あなたたちも泊まったら?」
「でも、明日の仕事の準備もあるし帰るよ」
「そうなのね。残念だけどわかったわ。じゃ元気でね。金田さんも良かったらまた来てね。村田さんにもよろしく言っておいてね」
母さんは久しぶりに息子に会えた喜びと、すぐにまた別れなければならない寂しさがない交ぜになっているのか、感情を押し殺した複雑な表情を浮かべていた。
「言っておくよ。また近いうちに必ず来るからね」
「お母さん、今日はありがとうございました。さっきのお茶、ものすごく美味しかったです」
金田は深々と頭を下げた。
「金田さんもきっとまた遊びに来てね」
玄関のドアを開けて振り返ると部屋の中は、遠い昔に家族で訪れたことのある沖縄の万座ビーチの夜景に変わっていた。空には黄金色に輝く満月が浮かび、月明かりが黒々としたなめらかな海面に反射して光っていた。砂浜では家族が花火で遊んでいるようすがシルエットとなって浮かび上がっていた。そしてその様子を眺めながら母さんは〈アキコさん〉と楽しそうに雑談していた。
あのメモリスターで大金を手に入れることができれば母さんの肺だけではなく全身をサイボーグ化してあげることもできるだろう。それだけではなく俺の体もサイボーグ化するができるはずだ。
そう思うと頭の中で膨らんでいたメモリスターで大金を手に入れる邪な考えは自分に与えられた権利であり、運命なのだとさえ思えてきた。
※
再びマグノリア547に乗り込むと先に金田の自宅まで行き、そのあと千葉の稲毛駅前にあるワンルームマンションまで飛んだ。その古びたそのマンションは大震災よりもはるか昔に建てられたもので、薄暗いエントランスをとおり湿った空気の籠もったエレベーターに乗り込むと一日の疲れが一気にのしかかってきた。
部屋に入ると人の気配もなく真っ暗だった。
「照明」
部屋の照明がついた。そこには朝に部屋を出たときと寸分の違いもない風景があった。
「パソコンを起動」
机の上にある会社の優待販売で購入したTaiyoBookに向かって、そう声を掛けると電源が自動的に入り緩慢な動きで起動し始めた。そしてスーツを脱いで部屋着に着替えると、台所に行き、朝に煎れたままの冷え切ったコーヒーをカップに入れて喉に流し込んだ。それから冷蔵庫を開けて闇医者から手に入れた一日分の栄養が補給できる栄養剤と、全身の倦怠感などの症状を強力に抑制する錠剤を手のひらに集めて飲み干した。
〝起動完了しました〟
画面を見ながら椅子に腰を下ろした。まずはこの周辺に怪しい無線LANの電波が飛んでいないかどうかをチェックすることから始めることにした。
「ネットシャークを起動して怪しい電波が飛んでいないかどうか調べてくれ」
〝承知いたしました。ネットシャークを起動。周辺のネットワークに怪しい動きがないかどうか調べます。怪しい動きは検出されませんでした。ネットシャークによる監視は継続しますか?〟
「ああ、そうしてくれ。それからいつもどおりの手順でチャットを開始してチャット名オッジを呼び出してくれ」
〝承知致しました〟
〈TPAI〉はダークウェブ専用の『オニオンブラウザ』を起動し、高い秘匿性を保ちながら暗号化通信ができる非存通信を使ってランダムに選ばれた各国の匿名サーバーを次々に経由して、チャットアプリの『ジングル』を起動した。ちなみにオッジの本名は阿倍野晴明だ。
画面上にはチャットで阿倍野と接続されたことが表示され文字入力を促すカーソルが点滅していた。俺は画面を見たままキーボードを叩きはじめた。
ササ&オッジ 接続完了
ササ=聞きたいことがある。いたら返事して欲しい。
オッジ=クリーンか?
ササ=クリーンだ。手順は踏んでいる。確かめてくれ。
オッジ=確認した。久しぶりだな。このまえはH警部との仕事でひどい目に遭ったぞ。今日はこんな遅い時間になんのようだ?
ササ=あるメモリスターを手に入れた。それを直接もって行くから解析して欲しい。
オッジ=自分で解析できなかったという意味か?
ササ=そうだ。自己消去機能が搭載されているのがわかったので止めた。この自己消去機能は見たことのない仕組みで、ある病院の〈アトラス〉に解析を頼んだら十日間かかると言われた。手持ちの解析ツールだと覗くことすらできない。時間がないので頼みたい。
オッジ=それはVPNやトーアを使ったとしてもこちらには転送できないという意味か?
ササ=そうだ。コピーしたり転送したりしようとすると自己消去機能が働くようになっている。それを解除するためには鍵を開ける必要がある。
オッジ=それはおもしろそうだな。そのメモリスターには一体どんなデータが入っているんだ?
ササ=それがわからないから解析して欲しいんだ。
オッジ=なにが入っているのかわからないのに、どんな価値があるのかわかるのか?
ササ=わかっていることは、それが『金のなる木』だということだけだ。
オッジ=どのくらいの金が成るんだ?
ササ=買い手次第だが、ある人物は一億国連ドルになると言っていた。
オッジ=かなりの大金だな。どこで手に入れたんだ? 盗んだのか?
ササ=今日の特殊対応で『五蝶会』からなりゆきで手に入れたんだ。
オッジ=『五蝶会』から? なりゆきだと? 笑わせるな。
ササ=詳しくは会ったときに話す。解析を承諾してくれるか?
オッジ=(文字入力無し)
ササ=どうした?
オッジ=分けまえは?
ササ=二対八でおまえが二だ。こちらには他にも仲間がいる。
オッジ=二か。手数料としては悪くないな。あとは買い手が提示する金額次第なんだな。でも『五蝶会』がらみだとヤバくないか?
ササ=かなりヤバい。でも成功すれば大きい。
オッジ=賭けにでたな。
ササ=命がけの賭けだ。これで今の生活から抜け出せる。
オッジ=おまえはいつもそれだよな。そんなに今の生活に不満なのか。
ササ=今の会社でいろんなクソ野郎を見てきたし、いろんなことをさせられてきた。もううんざりだ。だからこの『金のなる木』に賭けてみることにしたんだ。
オッジ=解析を断ったらどうする?
ササ=ほかのクソ野郎に頼むだけだ。
オッジ=怒るなよ。わかった。引き受けよう。
ササ=近いうちに持って行く。
オッジ=わかった。待ってるぞ。
ササ&オッジ 切断
疲れた体を引きずりながらベッドに入り眠ろうとしたが、思い直してベッドを出るともう一度パソコンを立ち上げ、村田さんにメールを打った。
宛先:田村尚美
村田さん
お疲れ様です。今日、クレーム対応の帰りに母の見舞いに病院に行ったら、少しまえに村田さんが来てくれたと言っていました。まったく聞いていなかったので、お礼が遅れてごめんななさい。
ありがとう。
明日は普通に出勤する予定です。
笹島健治
※
その夜、夢を見た。
両親と美波が満面の笑みを浮かべて立っている。その横には以前、特殊対応として対応したことがある地方議員が激怒していた。
「おい! クズ野郎! ふざけんじゃねえぞ! こんなポンコツ作りやがって! パソコンを直すまえにすることがあるだろうが! まずは謝罪しろ! 謝罪だ! わかってんのか? てめえ殺すぞ!」
はじめて見るそのパソコンの画面は真っ白でなにも表示されていない。なにが問題でなにが起こっているのか、まったくわからなかった。
「誠に申し訳ございません。お許しください。申し訳ございません。このとおりです。お許しください。申し訳ございません」
「このクズ野郎が! 言葉だけで済むと思うなよ! まずは土下座しろ! 土下座だ!」
その地方議員は憤怒の形相で顔が赤黒く染まり目が血走っていた。
「申し訳ございません。このとおりです。どうかお許しください」
怖くなって言われたとおりに土下座した。どういう理由で怒られているのかを必死で思い出そうとしたが、なぜか思い出せなかった。すると今度は後頭部がなにかで押さえつけられ、それがどんどん重くなっていった。手で探ってみるとそれは素足だった。
「もっとだ! もっと謝れ! もっと! もっと! しっかり謝れ! ぶっ殺すぞ! このクソ野郎!」
顔が床に押しつけられ息が苦しくなってきた。後頭部が痛い。まるで金槌で何度も殴打されているかのようだ。やりきれない怒りで全身が熱くなるのを感じ、あふれそうになる涙を堪えながら歯を食いしばった。
俺はクズ野郎じゃない。
俺はクズ野郎じゃない。
俺はクズ野郎じゃない。
するとどこからともなく母さんの声が聞こえてきた。
「健治、人のものを盗んじゃいけませんよ。返してあげなさい」
そこで目が覚めた。
体中が汗で濡れていた。首からぶら下げているIDカードを無意識に握りしめていた。
気分を落ち着かせるためにダークウェブの闇市場で買ったレンドルミン一錠を飲み込んだ。それでも俺に残された命の時間があまりないことを考えると頭の芯まで醒めきってしまい、眠りは訪れそうもなかった。