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プロローグ

女は腰のベルトに挟み込んで隠し持つ拳銃を意識しながら背筋を伸ばして公園のベンチに座った。そして今回の取り引きで渡すことになっているモノが入っている鞄をゆっくりと足元に置いた。

 女は取り引き相手がなにを持ってくるのかは知っていたが、鞄の中になにが入っているのかは知らなかった。しかしいつもどおりた任務は絶対に成功させるのだと心に決めていた。

 手元にあるスマホの時計をしばらく見ていると、約束の時刻である午後一時を表示した。

 女にとっては取り引きの場所として指定されたこの公園に来るのは初めてだったが、事前におこなわれた仮想現実(VR)を使った訓練のおかげで周辺の地理を含めて熟知していた。

 取引場所となっている神戸花隈公園は戦国時代の平城だったのを太平洋戦争後に天守閣などを取り除き、急いで公園に改修されていた。そのせいか周囲を見渡しても遊具などは見当たらず、ほんの少しの植栽とベンチがひとつあるだけで、人影もなくひっそりとしていた。

 約束の時刻を少しすぎたころ、城壁跡の階段から男が現れた。その男がアジア系で、事前に聞いていたとおり上はネイビーブルーのジャケットで下はデニムというラフないでたちだった。そして女が足元に置いたのとまったく同じデザインの鞄を大切そうに抱えていた。この男が今回の取り引き相手であるフリーマン・メイスンだった。彼は米国に本社を置くタイレルテクノロジーの社員で、量子コンピュータを利用したAIのメンテナンスを担当する技術者だった。

 メイスンはなにも言わずに女が座っているベンチまで体をふらつかせて息を切らしながらやって来ると鞄を足元に置いて座り、何度も深呼吸を繰り返しながらスマホを弄り始めた。そしてそのまましばらくのあいだ人の気配がないかどうかを探った。

 女はメイスンに声を掛けた。

「こんにちは。少し聞いてもいいですか?」

 取り引きの相手とは北京語ではなく日本語で会話をするように指示されていた。

「はい。なんでしょう?」

 この時、女はメイスンの顔を間近で見たが、その表情は暗く何かに取り憑かれたような目つきで、額からは汗が噴き出していた。

「友人からこの近くに大きな焙煎機を備えたカフェがあると聞いたのですが、ご存じないですか?」

 予定どおりの会話だったが、女は男の様子を見て不安になった。なぜならいくら技術者とはいえ特別な訓練を受けた経験があるようには見えなかったからだ。しかもその痩せた体型からも軍や諜報機関の仕事をしている人間でないのは明らかだった。

「あの店は残念ながら五年ほどまえに閉店してしまったんですよ」

 男は台詞をただ棒読みしているだけだった。女は決められた会話を続けるのが無意味に思えてきた。そして早くこの場を立ち去りたくなった女は、男が次の台詞を言いはじめるまえに、自らが持ってきた鞄を足でメイスンのほうに押しやり、逆に男が持ってきた鞄を手に取って急いでファスナーを開けた。

「それは残念。どこかこの近くでおすすめのカフェはないですか? 神戸はカフェがたくさんあると聞いていたので、できるだけたくさん行ってみたいんです」

「それでしたら北野坂を異人館のある山のほうに上がると、神戸元町珈琲というお店あるので、そこがお勧めですよ」

 女は話を聞いている振りをしながら鞄の中をのぞき込み、究極の記録媒体と言われているメモリスターが入っているのを確認した。そして、それを取り出すと慎重にベンチの上に置いた。続いて手に持っていたスマホの画面を切り替えてメモリスターに保存されているファイルが本物かどうかを確認するためのアプリを起動した。

 そしてスマホとメモリスターの双方にある光通信端子を向かい合わせにして、アプリのスタートボタンをタップすると双方の光通信端子が輝きはじめ、光による通信が開始された。

 アプリの画面にはメモリスターに格納されているファイルの照合が正常に開始されたことが示された。

 男はその様子を横目にしながら交換された鞄を手に取り、ファスナーを開けて約束どおりのモノが入っているのを確認した。

「たしかに受け取ったよ」

 男は小さく呟くと、すぐにファスナーを閉じてまた足元に置いた。

 女にとってはこれで今日の任務は完了したのも同然だった。このあとの「作業」は女が最も得意とするものだった。そしてそれが終われば実際に会話の中に登場したカフェに立ち寄り、本当に寛いでもいいことになっていた。実際には尾行している人間やドローンがいないかを確認するための任務の一環だったが女にとっては貴重な楽しみでもあった。

「中国軍では普段、どんなことをしているの?」

 その言葉に女は驚いた。なぜなら事前の指示では決められた台詞以外の会話はいっさいしてはならないと命令されていたからだった。しかも身分を明かすような言葉をこの男が無防備に投げかてきたのが信じられなかった。動揺した女は無言で首をかしげて見せることしか出来なかった。

「そうだよな。よけいな会話は禁止されてるんだよな」

 男はそう言うと、小さくため息をついて空を見上げた。

 しばらくするとファイルの照合が完了し、ファイルが本物であることが表示された。

 女はなにも言わずにスマホとメモリスターを鞄に入れてファスナーを閉じて立ち上がった。

「確認は終わったんだよね」

「終わりましたよ」

 この台詞もルール違反だったが女にとってはもうどうでも良かった。

 腰に隠していた拳銃を素早く取り出し、メイスンの顔に銃口を向けた。

 そして躊躇することなく引き金を引こうとしたその瞬間、どこからともなく風を切る鋭い音が聞こえたかと思うと、女の胸に強い衝撃が走った。胸から真っ赤な血が噴き出すと全身の力が一気に抜けてしまい仰向けに倒れ込んだ。女は微かに聞こえたその音が消音装置付きのライフルから発射された電磁パルス弾だとわかった。

 男は苦悩に歪んだ表情で女の顔を覗き込んだ。

「ごめんね」

 ボソリとそれだけ言い残すと、女に渡した鞄を奪い取ってその場を走り去った。

 女はとめどなくあふれる血を見て命が助からないことを悟った。仰向けに空を見上げると、そこには雲ひとつない澄み切った青い空が広がっていた。すると一匹のトンボが空高く飛んでいるのが見えた。女はしばらくそれを見ていると、なぜか子供のころに見たトンボの記憶が蘇ってきた。友達と一緒に家の近くにある河原に行き、昼寝をしていたらどこからともなくトンボが飛んできて眉間に止まり驚いて一目散に逃げたことがあったのだ。

 急速に遠のいていく意識の中で、そのトンボは大きなレンズを搭載したドローンだと気づいた。

 そして女は息絶えた。

「どうなっとるんや! だれか鞄を回収せい! 狙撃手はどこや!」

 国家警察の大原警部は公園の地下駐車場に止められている黒塗りのワンボックスの中でマイクに向かってそう叫んだ。スキンヘッドの大原警部は大柄でがっしりした体型をしていたこともあり、車内にはひとりしかいないにもかかわらず狭苦しく感じた。彼の目の前にある大きなモニタ画面には上空から見た公園と、そこに横たわる血だらけの女が映し出されていた。そして、別のモニタ画面には公園の周辺に配置されている五人の捜査員が装着しているコンタクトレンズから送られてくる映像が画面分割されて映し出されていた。

「狙撃手は公園の北方向にある木に潜んでいる模様」

 捜査員の声がスピーカーを通して車内に響いた。大原はマイクを手に掴むと再び叫んだ。

「狙撃手に対しては発砲を許可する! ただしメイスンは生きたまま確保するんや! とにかくなにがなんでもメモリスターを回収しろ!」

 まさかこんな事態に陥るとは思ってもみなかっただけに、内心の動揺を隠しきれなかった。

 そもそも今回の任務は大原が個人の判断で決行した極秘作戦だった。そのため用意できたのは気心の知れた軽武装の捜査員が五人と、〈メレクス〉と名付けられた監視用ドローン、そしてこのワンボックスのみだった。

「〈メレクス〉、カメラを四時の方向にある木に向けて狙撃手をアップにしてくれ」

 ドローンに搭載されている人工知能(AI)は言われたとおりにカメラを木に向けてズームアップした。そこにはすでに木から下りようとしている狙撃手の姿が映し出されていた。

「狙撃手が木から下りてくるぞ!」

 すると捜査員たちのモニタ画面から、連続する射撃音が聞こえてきた。

 捜査員たちは口々に叫んだ。

「報告! 武装した集団が自動小銃で銃撃してきている! 応援を要請する!」

「撃たれた! だれか医療班を呼んでくれ!」

「あいつらはいったいだれなんだ! こんなことなるなんて聞いてないぞ!」

 捜査員たちのモニタ画面には揺れ動く乱れた映像が映し出され切迫した声が次々に聞こえてきた。大原は状況を正確に把握するために〈メレクス〉に指示した

「〈メレクス〉、高度八〇メートルまで上昇! 公園を中心にもっと広く映し出してくれ!」

 するとワンボックスにも自動小銃の射撃音が微かに響いてきた。

 別の大きなモニタ画面には五人の捜査員が青い点で示され、AIにより敵と判断された武装集団と狙撃手は二八個の赤い点で示されていた。そして青い点の周りを赤い点が取り囲もうとしていた。

「敵は二八人や!」

 大原はマイクに向かって叫んだ。だが捜査員たちはそれどころではなくなっていた。

「報告! そこらじゅうから銃撃されている! 応援を頼む!」

「報告! 早く地元警察に応援を要請してくれ!」

 そしてメイスンと、そのあとを追う狙撃手は花隈公園の階段を駆け下り、国道二号線を横断するとJR神戸線の高架下をとおり抜けて元町商店街へと向かった。

「狙撃手とメイスンが鞄を持って商店街に向かっているぞ!」

 二八個の赤い点は狙撃手をサポートするかのように移動しはじめた。モニタ画面には逃げ惑う一般市民の姿も映し出されていた。各捜査員のモニタを見ると二名の生体反応がすでに消え、死亡と表示されていた。残り三名の捜査員はなんとか狙撃手とメイスンに迫ろうとしていたが、武装した男たちに阻まれて近づけなかった。

 大原はこのままでは事態を沈静化させるのは無理だと判断し、あとで処分されるのを覚悟の上で東京の国家警察刑事部に連絡した。

「本部! 五六七作戦指令の大原だ! 捜索中に二八名の武装集団に襲撃され、捜査員二名死亡! 地元警察の応援を要請する!」

 五六七作戦とは事前に届け出をしていない緊急の作戦行動を意味する隠語だった。

「本部了解。五六七作戦の概要を報告せよ。地元警察の応援は一般市民に被害が及ぶ場合に限り要請する」

 平坦で抑揚のない声が返ってきた。

「一般市民にも被害が出る可能性が高く、すでにパニックが広がってる! 地元警察の応援を強く求める!」

「一般市民に被害は出ているのか?」

「被害は確認できていないがこのままでは確実に死人が出るぞ!」

「繰り返す。まずは五六七作戦の概要を説明せよ」

「くそったれ! こっちはそれどころやないんや!」

 大原は吐き捨てるように言うと通信を解除した。

 捜査員のモニタを見るとさらに二名の生体反応が消え、残りは一名となっていた。

「状況を報告しろ!」

「状況はそっちでわかるだろう! 誰でもいいから応援を呼んでくれ!」

 捜査員の声からは戦闘意欲が消え失せている様子が感じ取れた。狙撃手とメイスンすでに商店街を抜けて、さらにその先にある神戸港の方へと向かっていた。

 そして、ついには最後の一人も狙撃され生体反応が消えたことがモニタ画面に表示された。

 すべてのモニタ画面が静かになり車内は静寂に包まれた。

 大原は自らの指揮下で捜査員五名の命を失い、しかも回収するべきメモリスターも持ち去られてしまったことで茫然自失となった。そのときようやく罠に嵌められたことに気が付いた。

「あの野郎! 裏切りやがって! ぶっ殺してやる!」

 大原は激しい怒りが全身に広がるのを感じだ。そして拳銃を手にするとワンボックスを降り、地下駐車場から外に出た。すると彼の目に飛び込んできたのは五〇メートルほど先にずらりと並んだ地元警察の車輛と、大勢の野次馬たちが花隈公園に近づかないように警察官たちが規制している光景だった。

 つまり地元警察はこの事態に関わるつもりはまったくないのだ。それはいつものことだった。国家警察は東南海大震災後、日本が大統領制に移行したことにともない新設された組織で地元警察を管轄している警察庁とは敵対していた。そのため、なにがあろうと見て見ぬふりを決め込むのだ。

 大原は拳銃を手に国道二号線に出ると、規制されて車の走っていない国道の真ん中に戦闘服の男が立っているのが見えた。その相手を射抜くような鋭い眼光には見覚えがあった。

 男はなにか黒い筒状のものを肩に担いで大原のほうに向け、両足をゆっくり肩幅に広げて踏ん張った。

 大原にはそれが対戦車用ロケット砲だとわかった。

 見物に来ている野次馬たちからはどよめきが沸き起こった。

 大原は拳銃を男に向けて二度引き金を引いたが、男は防弾チョッキを着ているのか胸に小さな穴が二つ開いただけだった。そのあとすぐにロケットランチャーからロケット弾が大きな破裂音と炎とともに容赦ないスピードで射出されたのが見えた。そのとき大原は人生で初めて神に祈った。

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