植え付けられた恐怖
整備されていない森の中はひどく走りにくい。
小枝や茂みに足を取られてしまうユウトは、できるだけ他の三人から遠くへ離れようと思っているのに、そのせいでうまく進むことができなかった。
それでも自分を標的に絞った大イノシシが、同級生たちを完全に無視したことに一応の安堵をする。
この間に、彼らがなるべく遠くへ逃げてくれるといいのだけれど。
(僕の足では、このまま横方向に逃げるのは無理かな……。上も無理。だとしたら、突進してきたと同時に足元に逃げる……?)
イノシシは大きい分、体高もある。どうにか足元に入り込めば、攻撃をかわせる可能性があった。
(……あとは大イノシシを退治に来てるっていう業者の人が来てくれるといいんだけど……)
おそらく不意を突いてかわせるのは一回が限度だ。
そもそもユウトは運動ができる方ではないし、体力もそれほどない。その後に自力で逃げ果せることはほぼ不可能と考えて、ユウトはふうと息を吐いた。
これから来るだろう突進のその一回で、この場所を周囲に知らせるのが肝心だ。
ここに大イノシシがいることさえ分かれば、きっと業者の人が来てくれるだろう。
(でも、僕自身が無事で済むのは難しいかな……)
すでにユウトの息は切れている。
それでもどうにか付近で一番高い木の根元に辿り着くと、くるりとイノシシを振り返った。突進してきた獣がこの木を折り倒せば、この場所に気付いてもらえるはずと考えたからだ。
丸腰のユウトはそれに掛けるしかなかった。
ふう、ふうと努めて息を整えながら、闇を見つめる。
真っ暗な森の中ではそのシルエットが確認しづらいけれど、音と振動で獣がそこまで来ているのは分かっていた。
そして、ユウトが足を止めたことで、突進して来ようと地面を蹄で掻いていることも。
闇に浮かぶ赤い瞳は、ずっとこちらを見つめている。
それに緊張していると、不意に大イノシシの方からこちらに向かって、紫色の靄が流れてきた。
さっきも付近に漂っていたものだ。
何となく嫌な感じがして片手で払うようにすると、それはユウトを中心として波紋を描くようにふわっと揺れ、そして跡形もなく消え失せた。
(……え? 何なんだろう、今の……?)
その波紋が大イノシシに到達したあたりで、突如獣が大きく吼える。バタバタと四足と鼻先を動かす音がして、まるで何かのダメージを負ったようだった。
ブモウ、ブモウと頭を振って吼えまくる。
突然の咆吼にわけが分からず驚き怯んだユウトに、何故か怒りで興奮した大イノシシの光る瞳が向く。
(な、何があったのかよくわかんないけど、とりあえず今の声も目印にはなったよね。後は足下から逃げて一旦攻撃をかわして、ひたすら走るしか……)
頭ではそう思ったものの、すぐにこちらに向かって突進してきた大イノシシに虚を突かれて、ユウトの足は竦んで動かなくなってしまった。
言うなれば、大型ダンプが正面から猛スピードで迫ってくるようなものだ。それをとっさに車体の下を潜ってかわすなんて、頭で分かっていても大して運動神経も良くないユウトにできるはずがなかった。
せめてもの回避行動でうずくまり、身体を低くして身を縮こまらせる。
ああでも、こんなのでは無理だ。
ユウトは固く目を閉じて、思わずただ一人の肉親に祈った。
「助けて、レオ兄さん……!」
「ユウト!!」
「……え?」
一瞬、幻聴が聞こえたのかと思った。
しかし次の瞬間大きな打突音と衝撃波、そして獣の悲鳴に近い鳴き声を聞いて驚く。
……兄が来てくれた?
それを確認したいけれど風圧に顔を上げられず、ユウトはその衝撃をやり過ごしてからようやく視線を上げ、目を見開いた。
「ユウト、大丈夫か!?」
果たして目の前には、助けを求めた兄がいた。
その背後にいたはずの大イノシシの姿は見えない。一体何が起こったのか。
ただ、気遣わしげにユウトの身体に傷がないか手早く確かめるレオの手に、危機を脱したのだと根拠も無しに理解する。
少し怖い顔をしているけれど、その手は優しい。
「レ、レオ兄さん……」
「怪我はないようだな、良かった」
その腕に抱えられると、安堵に体中が弛緩する。
ああ、もう大丈夫だ。
そう思った途端に、ユウトの緊張の糸と意識は、ふつりと切れてしまった。
ユウトが走って行った方向をハラハラと眺めていた三人は、逃げることもできずにそのまま留まっていた。帰る方角すら分からないのもあったけれど、自分たちのせいでこんな目に遭わせてしまったユウトを残しては行けないという思いがある。
性格が悪い自覚はあるけれど、だからと言って悪人でありたいわけではないのだ。
もちろんここに居たところで、何ができるわけでもない。大きな咆吼が聞こえた時には、竦み上がることしかできなかった。
それでも逃げずに立ち尽くしていると、突然ユウトの行った方向から大きな塊が飛んできて目を丸くした。
一体何が起こった??
バキバキと木をなぎ倒し、少し離れたところにそれは落下する。大きな地響きと砂煙が、皮膚に容赦なく叩き付けられた。
それに思わず目を閉じたものの、正体を知ろうとやがて恐る恐る目を開ける。
するとその落下物は呻くような鳴き声とともに四足をじたばたと動かしており、三人はそれが先ほどのイノシシだとすぐに理解した。
「うっそ、あの巨体が飛んで来たのか……!?」
「何何!? 向こうで何があったんだ!?」
「お、おい、こいつまだ生きてるぞ……!」
ユウトに何が起こったのか分からないが、再び自分たちの側に危険な獣が現れたのは間違いない。
三人は今度こそ死の恐怖に戦慄した。
のだが。
間を置かずに近くの木陰からザッと何かが飛び出し、木の枝を蹴って月光の空を舞ったことに目を丸くした。
……人だ。シルエットしか見えないけれど、背の高い男だ。
それは木のてっぺんの高さよりも上に跳躍すると、そのまま大イノシシに向かって落下した。
そして無言のままに長い足を振り上げ、次の刹那、鋭く振り抜くように獣の眉間にかかとを落とす。
そのインパクトの瞬間、大地が割れたかと思うような衝撃が三人を襲った。
固いものが砕ける音と同時に地面が揺れ、先ほど以上の風圧が小枝や小石を吹き飛ばし三人の身体に向かって打ち付けたのだ。まるで間近に隕石でも落ちてきたようだった。
思わずきつく目を閉じて、うずくまってやり過ごす。
そうしたまましばし待てば、ようやく周囲に静けさが戻ってきて、三人は怖々と顔を上げた。
「うわ……」
「何これ、どうなった……?」
「た、助かった、のか……あ、あれ!?」
その視界に入ってきたのは、地面にめり込んでピクリとも動かなくなった大イノシシと、その前に立っている長身の男だった。
男はどうやら携帯端末を取り出して、誰かと連絡をとっているようだ。
その姿を月光の下で改めて見た三人は、驚きに目を丸くした。
男の腕の中に、気を失ったユウトが抱えられていたからだ。
もしかすると怪我でもしたのだろうか。ユウトの状態を知りたくてそわそわする三人は、男が通話を終えるのを待った。
「猿田、ターゲットはこっちに現れた。……ああ、もう始末したから、依頼人への連絡と処理を頼む。……すまんな、俺のユウトが天使で清らか過ぎるせいで」
そんな男の口から、ユウトの名前が出たことに三人は目を瞬いた。
この巨大なイノシシを身ひとつで倒したこの男は、どうやらユウトの知り合いらしい。
スーツに眼鏡の、一見サラリーマンにしか見えない長身の男は、一体何者なのだろう。
やがて通話を終えて端末をポケットにしまった男は、ユウトを優しく抱え直す。そして、こちらから声をかけるまでもなく、そのまま真っ直ぐこちらにやって来た。
……何だろう、その視線が人を射殺せそうなくらい怖い。
三人は思わず固まってしまった。
そんなこちらの前に立った男は、それぞれの顔を一瞥すると、地を這うような低い声で話しかけてきた。
「貴様ら……後藤と山本と飯田だな?」
「は、はひっ……!?」
「な……何で俺たちの名前……」
「俺の可愛い可愛い弟をいじめている奴がいると聞いて、調べていた。貴様らのことは万死に値する者として認識している」
弟。
ということは、この今にも自分たちを殺しそうなこの男は、ユウトの兄ということだ。
自分たちが完全に彼の排除対象になっていることに、三人は青ざめた。
「ユウトをこの森に連れ込んだのも貴様らだな。夜の森には入るなとホテルに通達もされていたはず……。それをわざわざ連れ出して、こんな危険な目に遭わせるとは、断じて許されることではない」
その冷たい瞳が、さらに細められる。
「そんなに死にたいか? どうせ俺が間に合わなかったら貴様らもイノシシに殺されていたところだったんだし、今死ぬか?」
「ひぃ! す、すみませんでしたっ……!」
これは脅しではない、本気の目だ。
三人は震えながら謝罪をする。
大浴場で入れ違いになったリョウが「ユウトの後ろにはヤバい奴がいる」と言っていたけれど。おそらく、いや間違いなく、この男のことだ。
あの時「連れてきてみろ」なんて笑い飛ばした自分たちをぶん殴りたい。
「……んん……」
こんな地獄のような空間で、不意に男の腕の中のユウトが身じろいだ。
「ユウト!」
途端に男の殺気が嘘のように消え、その視線が弟に注がれる。
三人はそこでようやく息が吸えるようになり、今まで緊張で息をするのを忘れていたことに気が付いた。
ユウトの目覚めは三人にとって、まさに救いの神が舞い降りた瞬間だった。
「レオ兄さん……?」
うすぼんやりと目を開けた弟を片手で抱えたまま、兄が逆の手でその頬を撫でる。さっきの殺意丸出しの男とはまるで別人のようだ。
「ユウト、どこか痛いところはないか? 怖かっただろう、俺が来たからにはもう大丈夫だ」
声音も甘やかなイケボになっている。
しかしユウトにとってはこちらが普段通りのようで、兄に突っ込むことなく周囲をきょろきょろと見回した。
「あっ……大イノシシが倒されてる……? それに、みんな無事だったんだね。良かった」
「あ、ああ……」
ほにゃりと笑ったユウトに、この状況のせいかいじめっ子三人は初めて癒やしを覚えて困惑する。
これまでこの屈託のない笑顔が癪に障っていたはずなのに。
ここに来て、あんな目に遭わされながらも三人の無事に心底安堵している様子のユウトに、絆されてしまったのだ。
何より彼はさっきも、そして今も、後藤たちの命の恩人であった。
三人の無事を喜ぶ弟を兄は複雑そうな顔で見ていたが、後藤たちは見ないふりを決め込む。
ユウトはほわほわした笑顔のまま、そんな兄レオの顔を見上げた。
「ところで、レオ兄さんはどうしてここに?」
「……ん? 俺はユウトのいるところなら本能で分かるからな」
「本能……? ふーん、まあいいや」
絶対別の手段を使っているに違いないが、そのあやふやな回答に特に突っ込まないのは、いつものことだからなのだろうか。行動が何でも把握されているって、結構怖いことの気がするのだけれども。
……まあ、本人たちがいいなら黙っておこう。
「じゃあさ、大イノシシを倒してくれたのは誰なの? 僕たちのこと助けてくれたお礼言わなきゃ」
「あ、それは……」
「俺が連れてきた業者の人間だな! あれは彼らの仕事だから、別に礼など言わなくて大丈夫だ!」
ユウトの問いに山本が答えようとすると、何故かレオが被せるように事実と違うことを答えた。
「俺がユウトを保護している間に、そいつが大イノシシを退治してくれたんだ。俺の今回の仕事はたまたまその業者と地主を引き合わせる仲介役でな、運良く同行していた」
「そうなんだ。近くで仕事があるってこのことだったんだね」
「ああ。その業者は、今はもう退治を終えた報告をしに地主のところに行ってしまった。……そうだよな? お前たち」
不意にレオに水を向けられて、三人はビクッと肩を震わす。その視線は肯定しか許さない鋭さだ。
どうやらこの兄は、弟に自分が大イノシシ退治をしたことを知られたくないらしい。
後藤たちはそれを察して、慌ててコクコクと頷いた。
「そっか。じゃあレオ兄さんがその人に会ったら、僕がお礼を言ってたって伝えてね?」
「分かった、伝えよう」
レオのことをまるで疑わないユウトは、兄に言伝を頼むことで納得したようだ。頭を撫でてくる手を素直に受け入れると、彼はまた周囲を見回した。
「ところでレオ兄さん、僕たち帰り道が分からなくなっちゃったんだけど、帰り方分かる?」
「ああ、問題ない。近くまでリョウが来ているから、そこまで送ろう。あいつのところまで行けば帰れるはずだ」
「本当!? 良かった……。みんな、帰れるって! 一緒に行こう!」
「あ、ああ」
兄の腕の中からにこにこと笑顔を振りまく弟に、三人は曖昧に頷く。レオがものすごく不本意そうな顔でこちらを睨んでいるせいで、直視できない。
それでもユウトの意思を尊重するらしく、レオは舌打ち混じりにこちらに声を掛けた。
「チッ……ユウトがこう言っている。俺の後をついてこい。……ただ、次があると思うなよ」
最後の言葉は明らかな威嚇である。それに竦み上がりながらも、この暗闇から脱せる安堵に三人はレオの後を追った。
兄が抱えた弟に当たらないように小枝を払って行くおかげで、彼の後ろは幾分歩きやすい。コンパスの違うその背中を懸命に追っていると、やがて視線の向こう側に知った顔を見付けた。
「レオさん! ユウト!」
「リョウくん! こんなところまで向かえに来てくれてありがとう!」
「ホントにいた……」
後藤たちは、どうしてレオが迷うことなく真っ直ぐリョウの元に辿り着いたのか不思議に思った。けれど、彼の手元にユウトの携帯端末があることに気が付いて納得する。
おそらくあれには、弟の位置情報を知る見守り機能がついているのだ。
そしてきっとこのリョウも、兄にとっては弟見守りのツールのひとつ。
レオはユウトを見付けたのは本能だとうそぶいていたが、間違いなくリョウが彼に連絡を入れたと思われる。
そのリョウが、レオの後ろについてきた三人にも目を向けた。
「……よお。よく無事で帰って来れたな」
彼の言葉は、嫌味や嘲りではなく、多少の驚嘆が含まれている。
多分、ユウトに悪さを仕掛けておいて、よくこの兄にしばかれずに済んだなという驚きなのだろう。
後藤たちはバツが悪い気分で目線を逸らした。
その間に、ずっとユウトを抱えたままだったレオがその身体を地面に下ろす。そしてリョウに弟を預けた。
「リョウ、ここからの帰り道は問題ないな?」
「ああ。レオさんは?」
「仕事は終わったし、今から一度荷物を取りにベースに戻る。シューズも履き替えないといかんからな。後は猿田に任せたから大丈夫だろう」
「親父に報告はしなくて平気? まあ被害はないし、このくらいなら無視しても大事にはならないだろうけど」
「なかったことにしとけ。余計な始末書書くのは面倒だ」
「了解」
どうやらリョウは何か訳知りのようだ。
しかし、三人は疑問など挟まずに二人のやりとりを聞き流す。とりあえず言葉の端々から、この森での一件をなかったことにするらしいことだけを辛うじて理解した。
「レオ兄さんは、また後で来るの?」
「ああ、荷物を取ってきたらすぐ行くから、教師に断ってロビーで待ってろ」
「うん。……あ、でも身体汚れちゃったから、もう一度お風呂入ってから行くね」
「そうか。まあ、俺が早かったら先に待っているから構わん」
レオはそう言うと、三人には目もくれず、ユウトの頭を撫でて去って行った。
「……はあ~~~……」
途端に緊張から解放されて、その場に蹲ってしまった自分たちを、誰が責められようか。
ただユウトが、何があったのかと気遣わしげにおろおろした。
「えっ、どうしたの? 大丈夫? 先生呼んでくる?」
「気にする必要ないぞ、ユウト。こいつらは生きてホテルに帰れることに安心しただけだからな」
「……そうなの?」
そうです。
人生で初めてトラウマ並の恐怖を植え付けられて、正直今日は三人で手をつないで、ひとつの布団でないと寝れない気分だった。