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みぞおちパンチ ~コロナの日々でぼくたち/わたしたちは 2020・晩夏~

作者: Yuki-N

コロナのせいで部活の夏合宿が中止になって、陸上部のトレーニングが出来ない。

せめてもということで、僕は夜遅く、涼しくなってきた頃合いを見計らって、ジョギングに出ることにしたんだ。

その時間がだんだんに遅くなる。

だって、何時になっても暑いのだ!

そして、僕は玄関を出ながら、68-152、と呟く。

僕は毎日、数えていた。

最後に真紀を見かけてから、68日。

もちろん、鈍いあのオンナは、僕に見られたことなんか、気づかない。

それから、最後に真紀と話してからはもう、152日——。


僕は、小さい頃から大人受けの良い子供だった。

法事の時にはじっと黙って座っていることが出来たし、好き嫌いなく何でも食べられたし、学校の宿題を忘れたことはなく、遅刻もいたずらもしなかった。

大人たちは誰もが、僕のことをお行儀が良いねと褒め称えた。

そういうマジメくんはイジメに遭いそうなものだが、体格が良く、運動は何をやってもたいていクラスで一番か二番だったので、いじめっ子たちが僕に近づいてくることはなかった。

ヤンチャな男子たちを僕はいつも少し離れて見ていた。

本当は、彼らの仲間に入ってふざけてみたかった。でも、そんなことをしていいのかと強く戒める自分がいて、そうするうち混ぜてもらう時機を逸してしまった。

そして僕は冷たい子でもあった。

やはりクラスにはイジメがあって、でもそれほど激しいものではなかったから、多分、僕が本気で動けば止まったんじゃないかと思う。

でも僕は動かなかった。

正直に言おう、僕もまた、そのいじめられっ子が嫌いだったからだ。

おどおどして、卑屈で、そのくせ、空気を読もうとしなくて——、そう思えた。

僕は、いじめられている子の立場になって考えることも出来ない、冷たい子だった。

だから見ているとイライラしてきて、それで助け舟を出すことはなかった。

そんな時には、決まって、あのオンナが現れる。


「あんたたち、何やってんの! かわいそうじゃないか!」

沢崎真紀。

突撃するオンナ。

それは昔からなのだ。

僕と真紀は幼稚園は別々で、小1の時、同じクラスになった。まだまだ幼稚園の延長でカオス状態のクラスの中で、イジメ案件が生じると、真紀は必ず果敢に止めに入った。

うぜえ、と思った。

僕がそう思うくらいだから、止められたいじめっ子たちも、みな、そう思ったに違いない。

でも、小1、小2と、不思議と真紀がクラスで浮くことはなかった。

自分が止めたいじめっ子たちにも、そのすぐあとから、何のわだかまりもない調子で話しかけていく真紀の、おそらくはちょっと規格からはみ出したような明るさ、さっぱりとしたところに、みんな、丸め込まれていったんだと思う。

それは僕も、まったく同じだった。

真紀が笑っていると僕も笑ってばかりで、それで自分が暖かくなるのが分かった。


小学校へは地域ごとにグループを作って纏まっての登下校で、それぞれのグループには色の名前が付いていた。

川沿いの道を行く僕はピンクグループで、そこに真紀もいた。

だから僕と真紀は、毎朝、そして帰りと、一緒に登下校することになった。

とはいえ、今となっては、毎日何を話して歩いていたかなんて、ほとんど、覚えちゃいないのだ。

覚えているのは。

「クー! おはよう!」

毎朝、インターフォンも使わずに門の外から僕のことを呼ぶ、真紀のでかい声。

小学校ではみんな、僕のことを、「工藤」という苗字の頭一文字を取って「クー」と呼んだ。

僕の家は真紀の通学路の途中にあり、だから毎朝、グループ登校の時には必ず真紀が僕の名を呼ぶ。

それから。

真冬、橋の欄干に積もった雪を川に落としながら歩いたこと、猛暑日には、駆け回って熱中症になりかかった真紀を家まで送っていったこと、朝の空気の瑞々しさ、夕日が空も川もみんな茜色に染めていたこと、そんな切れ切れの断片ばかりなのだけれど。

でも、いくつか、とても深く記憶に残っていることもある。

それはやはり、真紀の涙だ。


はじめて真紀の涙を見たのは、まだ小1の時。

真紀が僕の家に遊びに来た。

そこで、僕の家の仏壇に目を止めたのだ。

仏壇には、その頃の僕と同じくらいの歳の、つまりは6歳の男の子の遺影が飾られている。

その遺影を前にすると、それまで僕の家の初訪問で興奮気味に喋りまくっていた真紀が、しんと静まった。

「これ、誰?」

と真紀。

「僕のお兄ちゃん」

「死んじゃったの?」

「うん。——まだ、僕が生まれる前のことだけど」

「どうして?」

「交通事故。公園で遊んでいて飛び出したんだ」

真紀はしばらくの間、黙っていてから、また口を開いた。

「お兄ちゃんが死んじゃって、クーのお父さんやお母さん、悲しんだかな」

「そうだね。——だからさ、僕は絶対に、お父さんやお母さんを悲しませちゃいけないんだ」

それは僕にとっての信念、いや信仰のようなものだったかもしれない。

でも。

「だから?」

真紀は僕の目を覗き込んで尋ねたんだ。

「だからクーは、いつもいい子にしているの? じっと我慢して、いい子にしているの?」

それで、はっと思った。その通りだったからだ。

でも、真紀に言われるまで僕はそのことに気づいていなかった。

真紀はそれで、——涙を浮かべたのだ。

「え? 何で泣くの?」

僕は不思議になり、真紀に尋ねた。

「だって、かわいそうだから」

「お兄ちゃんが?」

「違う」

「お父さんやお母さんが?」

「違うよ。クーがだよ」

そうか。

僕はかわいそうなのか。

でもそれよりも何よりも。

真紀の瞳から涙が次々に零れだして、僕はどうしたら真紀が泣き止むのか、そのことばかりを考えていたような気がする。


そして、次に真紀が泣き顔を見せたのは、小3の時。

クラスの子もみんないっぱしになってきて、もう、真紀の正義のパワーは全然効果がなくなり、却って真紀が何かを言えば言うほど、浮くようになってしまったのだ。

実際、真紀がイジメの標的になる、スレスレのところにいた。それでも真紀は正論を吐き続け、——孤立していったのだ。

学校からの帰り道。

「あたし、間違ったこと言ったかな」

と悔しがって尋ねる真紀に、僕は、

「そんなことない、真紀は正しい」

と答えた。

「どうしたら良かったのかな」

と真紀が泣きじゃくれば、

「あれで良かった。真紀は頑張ったよ、間違ってない」

そう言って励ました。

「でも、あたしが悪者みたいに」

真紀は葛藤していた。

「俺、分かってるから」

僕は、葛藤に負けて欲しくなかった。

「ホントに?」

「うん、絶対」

そうして僕はいつも、真紀の背中を、ちょっと強めにぱん、と叩いた。

僕は本当は、大人になれよ、と真紀を諫めるべきだったのかもしれない。

でも、僕はそうしなかった。

真紀にはずっと真紀でいて欲しかった。

いかにも子供っぽいのかもしれないけれど、逃げずに正しいと思ったことを貫く。

それで、太陽みたいに、輝いていて欲しかった。

僕は真紀に憧れていた。

そして、——僕はそのことで真紀を泣かせたくなかった。

だから、下校の時に背中をぱんと叩く一方で、僕はクラスでは一生懸命に根回しして回った。男子の僕に、女子も絡む友だち関係の調整はなかなかに難しい仕事ではあったけど。

太陽になれず、太陽に憧れた、大人の受けの良い僕に出来る精いっぱい。

そしてもちろん、そんなことは、真紀には言わないでいたけれど。


幸いなことに、小5、小6と、真紀のクラスにはとても良く出来た女子のボス格がいた。それで真紀が正義の味方をする必要はなく、その結果、真紀が浮くことも、帰り道で泣くこともなくなり、僕に平穏な日々が戻ってきた。

と同時に、お年頃になってきて、男子と女子の間の距離が広がった。

僕と真紀が話をするのも、本当に登下校の時だけになってしまい、もちろん、互いの家に遊びに行くこともなくなり、——さらには小6になると、放課後は別々の塾通いになった。

それでも、毎日、必ず登下校で顔は合わせていた。それに、互いの家は歩いて5分と少しの距離でもあり、卒業が近づいて来ても「離ればなれになる」切迫感みたいなものは何もなかったんだ。

真紀は私立の女子中学、僕も男子校に合格。

「やったね!」なんて言い合ったけれど、要するにいつでも会おうと思えば会えると思っていた。

駅や駅前のスーパーや本屋や、そんなところで、しょっちゅう顔を合わせるだろうと思っていた。

でも違ったんだ。

いきなりのコロナウイルス感染拡大で中学は休みになり、僕たちも不要不急の外出はしなくなった。それで、偶然ばったり、みたいなことは起きようがなくなって。

そうして、僕は日数を数え始めた。

あれは、緊急事態宣言が明けてしばらく経った頃。学校が再開して、駅で隣のプラットホームの一番離れた方に、小さく、豆粒のように小さく、真紀の姿を見かけた時、どれほど、ドキドキしたことか。

それももう、68日前。

卒業式で最後に真紀と話をしてから、152日。

この、訳の分からないコロナな毎日の中で、真紀はどうしていただろう。

中学で、正義の味方をやり散らかして、また浮いたりしていないだろうか。

そうだとしても、もう小3や小4の時のように、僕が何とかしてあげることは出来ない。

僕が出来ることと言えば、——出来ることと言えば、おそらくは、背中をぱんと叩いて、

「俺は、いつも絶対に味方だから」

そう言ってやることくらい。

でも、会えなければそれすら出来ない。

それなのに、僕は、偶然に期待するばかりで、真紀を誘うことはしなかった。誘い方が分からなかった。なぜって、改まって、「会おうよ」なんて誘ったことは、今まで一度も無かったから。

要するに僕は、幼児の頃から何にも変わらない、大人受けだけ良い意気地なしだってことで、それは良く分かっていた。


毎日の、深夜のジョギング。

会わなくなって、68-152日目。

家の門を後ろ手で閉めて、さあ走るかと軽くダッシュをかけようとしたら、橋の欄干にもたれ、街灯をスポットライトのようにして、見覚えのある少女が座っているのが見えた。

真紀だ——!

もちろん、すぐに分かった。

68-152で記録更新終了だ。

僕は、熱帯夜に、小さなこの橋に、瞬く星々に、白っぽい街灯に、合宿が中止になったことにさえも、ありがとうと感謝して回りたい気持ちになった。

真紀は僕が近づいていくのに、全然、気づかない。

この鈍感がと思ったけれど——、どうやら、泣いているようなのだった。

そのことに気づくと、僕は、みぞおちにパンチを喰らったみたいに苦しくなる。

息が出来なくなる。

この感覚——。

蘇った。

僕は、真紀が泣くといつも、いつもいつも、こんなふうになった。

そして思うのだ。

真紀が泣かないで、いつも太陽でいてくれるように、そのために僕はここにいるのだと。

この感情が何ていうものなのかを、僕はもう知っている。

誘い方が分からないなんて言って、偶然を待っていた僕は愚か者だ。

もう僕は待たない。

僕は。

「真紀?」

僕はそっと彼女に声をかけた。



この小説は、別途本サイトに掲載している「背中ぱん」と双子の関係にあります。

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