第一章
「はい、終わり!」
「起立! ──礼!」
『さようならー』
いつものように一日の授業が終わり、晴れて放課後と相成った。もっとも、今日はあたしが日直なので、あたしの放課後はあと数分ばかりお預けなんだけども。
「ええっと……書いた、書いた、書いた。よっし完成!」
休み時間と昼休みの合間に書いておいた項目を確認し、本日の出来事やら感想やらを無難に書き記して日誌を閉じる。はい放課後!
「──っとと。危ない危ない」
教室を出る直前に回れ右。黒板に向かい、本日の日直である、『四ヶ郷棗』と書かれた部分を、なんの躊躇いもなく消し去る。
「ナツ! 私の名前書いといてくれるか? 明日の日直私なんだ」
「あいよ~」
今しがた消した場所に声の主である『赤岩詩乃』と書き直す。
「悪いな。で、今日の何部の助っ人だ?」
「剣道部と卓球部。毎度お馴染みの練習台よ。あとなんか知らんけど生徒会からの呼び出し。そっちはバイトないの?」
詩乃はいつもならバイトがあるため、ホームルームが終わるなりそそくさと帰ってしまうのだが、今日は珍しく本を読んでいたので尋ねてみた。
「ああ、あるぞバイト。すぐ行っても中途半端だから時間潰してるだけだ」
本に眼を離さぬままではあるものの、返事は律義に返してくれる詩乃。
「またいつもの歴史書? 好きだねー。詩乃は実用書とか読むイメージだったけどな」
「どうせ私の堅苦しそうな印象からそう思ったんだろ?」
なんのきなしに言うと、詩乃は本に落としていた視線をこちらへ向けてきた。
長い髪は三つ編みにまとめられ、キリっとした顔を鋭角気味の眼鏡がより一層引き立てる。とどのつまり、赤岩詩乃という人間はだいぶ真面目そうに見える。当人の申告通り、身になるような本を読んでいる方がずっとそれっぽい。
「そりゃね。人の内面は、その人の外見に引っ張られる。詩乃が言ったんじゃんよ?」
「──だとしても人は見かけだけじゃない。とも言ったはずだぞ?」
「そこはホラ、詩乃だから。あたしにはわからない裏の理由があるのではと」
大げさな動作を織り交ぜ、そういえば今まで聞いたことなかったと思い聞いてみる。
「裏の理由か。……なんだかんだで『向こう側』の話だからかな? 所詮は行けない場所の話って割り切ってるからこそ、おもしろいのかもな。……まあ、なんとなくだ」
「ほーん」
確かに何かを好きになる時、理由が先にくるってのは、実際あまりない。なんとなくって感覚が入り口なのは、あながち的外れでもないのかもしれない。
「あと、漫画に比べて値段の割に長い時間楽しめるってのはあるぞ」
「何よあるじゃんちゃんとした理由。さすがは守銭奴」
「ご挨拶だな。私は倹約家であって、ケチんぼではないつもりだぞ?」
いつもと変わらない軽口の応酬がなんとなく心地いい。
「はいはい。じゃ、あたし行くよ。また明日ね」
「おお、またな」
言いながら読書を再開し、プラプラと手だけを振る詩乃。
「さて、今日もやるか」
腰に手をあてて強引にやる気を引き出し、格技棟に向かって歩き出す。まずは剣道部だ。
「はぁぁーっ!」
面の縦金越しに相手を見据え、気合いを乗せて腹から叫ぶ。自身の声と息遣いが、面の中で反響して鼓膜を震わせる。
初心者はよく『そんなに叫んで意味あるの?』と言うが、大ありだ。
勝負事は勝つと思った方が勝つ。技術や経験も当然必須だけど、最後の最後でものを言うのが『勝ちたい』『負けたくない』という心意気だ。
「────」
相手との距離を意識し、すり足で円を描くように移動する。向こうさんがあたしを間合いに引き込もうとする一瞬を見極め、合わせるように軸線をずらす。
今手合わせしている先輩は、打ってくる時、わずかに竹刀の先を上下させるクセがある。無意識に音頭を取っているのだ。その動作が収まり、竹刀が振り上がる瞬間──
「いやぁぁっ!」
「──‼」
叫びながら踏み込み、今まさに攻めかからんと高められた気勢を削ぐ。
その時その時、相手がやられたら一番嫌なことを絶妙な間で行う。これだけ聞くと卑怯とも言えなくもない。だけど、勝負に臨む情熱と相手を見極める冷静さ。この両方が合わさってようやくまともな勝負ができるのだ。
「────」
「────」
大声が打って変わり、互いの道着と防具がこすれる音のみが格技棟に存在している。
次の動作で勝敗が決まる。
この場所、この空気、この気持ち。ここにある全部をひっくるめた緊張感が、あたしはたまらなく好きだ。全身の細胞一つ一つが、100%完全稼働している感覚がたまらない。
「──ふぅ」
ふざけた気持ちは一切ないけど、口角が吊り上がり、自然と顔がにやけてしまう。
「小手ぇぇーっ!」
「ぬぅぁぁ⁉」
直後、両手に激痛が走り、竹刀を取り落としてしまった。
しまった油断した! という叱責と後悔が一拍遅れで全身を駆け抜ける。
「そこまで!」
審判を務めていた部員さんの合図に、竹刀を拾ってから収め、互いに礼。
「ふう~」
さっきまでの緊張感がスルスルと抜け落ちていく。
なんだかんだで剣道一筋の先輩と、たまに助っ人でやって来るあたしとでは、技術や経験に差が生まれるのは必然ということか。
「いや~先輩お見事。ちょ~っと気が逸れた途端にやられちゃいましたよ~」
小手を外して面の紐をほどく。防具の圧迫から解放され、周囲の空気が顔を冷やす。
「私の方こそ参ったわよ。まさかあんなに何かする度ネッチネッチ邪魔されるなんて」
勝ち負けに関係なく、全力で戦った相手を称え合う。正々堂々戦い向いたという清涼感が、あたしの身体を心地よく吹き向けていく。
「──ってことはさ、何かクセがあったってことよね?」
さすが先輩、向上心が高い。さっそく今回の解説をご所望の様子。まあ、今日は試合してみて、先輩の弱点を探すってのが、あたしの役目なわけなんだけど。
「はい。先輩が仕掛けようとする時、竹刀が少しだけ上下に振れるんですよ。ほんとに少しですけど。なのでそこを意識すればだいぶ動きが読まれないと思うんですよね」
「マジで⁉ わかった、気を付けてみる」
事前に頼まれているとはいえ、後輩の言うことにも耳を傾けてくれる心の広い先輩。
「ねぇ四ヶ郷さん。やっぱ剣道部入らない? あなたがちゃんと仕込んだら絶対いい線いくよ? そうなってたら私、絶対勝てなかったし」
「あはは……ありがとうございます。でも、まだなんか一つに決めかねるっていうか……ゴメンなさいです」
いつもの勧誘ではあるが、言い訳がうまくまとまらず、とにかく頭を下げる。
「あっそ。……これも様式美ってやつね。別にいいわよ。気にしてないから」
さすがに二つ返事で快諾するとは思っていなかったらしく、先輩はあっさり引いてくれた。
「それにここで抜け駆けしたら、私が部長会で袋叩きにされるしね。四ヶ郷さん、今日はありがとね。次、卓球部でしょ? ぼちぼち行ってもらわないと私があとで怒られちゃうわ」
と、先輩の指さす時計は、卓球部との予約時間に近づきつつあった。
「ヤッバ! すいません失礼します! 試合、頑張って下さいね!」
借りた防具を片付けて、そそくさと格技棟を出る。先輩は楽しそうに手をヒラヒラさせながらあたしを見送ってくれていた。
──パコン! ──パコン! ──パコン! ──パコン! パァンッ!
さっきの緊迫した空気とは正反対に、軽快な音が体育館に響く。
剣道が張り詰めた中からの一発勝負なのに対し、卓球は試合の流れを感じ取り、相手の隙とこちらの好機を見極めなければならない。
まさに今、その読み合いに負けてスマッシュをいただいてしまったのだけども……。
「よっし! 棗先輩から一点返した!」
「いやいやいや。助っ人相手にそんな喜ばれてもね」
「何言ってるんです? 棗先輩強いじゃないですか? こう──からめ手がうまい!」
後輩ちゃんが穢れを知らない、真っすぐな笑顔で訴えてくる。
「人をひねくれ者みたい言わないでくれるかな? あたしこれでも正直者よ?」
「じゃあ先輩。アレやって下さいよ! なんかこう──やってすごい曲がるやつ」
「ん~? ああ、横回転ね」
後輩ちゃんの全身を使った説明で、どうやらあたしが必殺的な感じで使っているサーブのことを言っているのだとわかった。
「いいわよ~。正直者だけど球はひん曲げてあげましょう~」
「はい、お願いします!」
ご要望にお応えして、真上に放った球をラケットで斜め前に切り、横回転を加える。
こと卓球の試合において、横回転はあまり使われない。
放ったサーブを相手が返した場合、自ら繰り出した横回転がそのまま返ってきてしまうからだ。球速や軌道が読みづらく、何よりフォームがカッコいいもんで初心者はやりたがるけど、よく考えないと自滅する諸刃の技なのだ。当然、あたしはよく考えて使っている。
「うあ……っ!」
あのサーブをわざわざ指定してくるぐらいだから、対抗策があるのだろうと構えていたが、後輩ちゃんはサーブの勢いを殺しきれず、球を高めに打ち上げてしまった。こっちのコートに入りはしたものの、これではスマッシュ打ち放題だ。
「──ふっ!」
奇をてらうこともなく、これでもかとスマッシュ。打てる時に打つ。これ基本。
「はあっと!」
すると後輩ちゃんは、ちゃっかり後ろに下がり、床ギリギリで球に下回転を加え、あたしのコートに返してきた。いわゆるカットというやつだ。
「──はっ!」
「……いよっ──と!」
もう一度、次は逆方向スマッシュを繰り出す。
「はぁ!」
するとまた、後輩ちゃんは同じ要領で応戦してくる。
それを何回か繰り返していると、たまたま弱めに返してしまったスマッシュを、待ってましたと言わんばかりに、後輩ちゃんがスマッシュで叩き返してきた。
「な⁉ くぅ!」
焦りをねじ込み、一歩下がって球をさばく。防御重視のカット戦術から打って変わり、前のめりな攻めに切り替えてきやがった。
卓球に限った話ではなく、短い時間で判断するということは、競技において必要不可欠だ。
『前にもあった流れだ、今回は?』『回転の具合は?』『あたしだったらどこを狙う?』『返された場合の軌道は?』『相手はどこを見ている?』『その球が来た場合、どこなら返されない?』
そんなあらゆる疑問を、勘と経験則から導き出して実行する。
この小さな卓球台で、たった40mmのピンポン球が高速で往復している間に、それだけの情報を処理している。そう考えると、つくづく人間ってのはすごい生き物だと痛感する。
剣道は張り詰めた静寂の中、一瞬で勝負が決してしまう場面が多いけど、こういう流れの中に駆け引きを織り交ぜていくのも、方向性が異なって刺激的だ。
──ってことで、後輩ちゃんが『次で仕掛ける!』という眼をしていたので、それより先に仕掛けることにする。
「……いよっと」
大仰なことは何一つなく、軽い下回転をお見舞いするだけなのだが。
「へ? わわ──」
案の定、引き気味に陣取っていた後輩ちゃんのラケットが届くはずもなく、足をもつれさせながら卓球台に手をつく。はいあたし勝利。
「先輩ヒドい! 『次超強いの返す!』って顔してたのに~」
やはり納得できないらしく、後輩ちゃんが噛みついてきた。
「ふっ、まんまと引っかかったわね。これは駆け引き。駆け引きが大事だから」
「このひねくれ者~っ!」
あたしの背中をポコポコと叩いてくるかわいい生き物。
「まあまあ。にしてもあんた、カットマンにでもなるの?」
「はい。前からやってみたかったので。棗先輩風だと、『ふっ、そろそろ選択肢を増やしたいのよね』みたいな感じで」
「……あたしって普段からそんな殴りたくなるような嫌味言ってる?」
この子の大根演技的に考えて、ここまではひどくないにしても、仕草一つでそう捉えられることもあるのかと、ちょっとショック。
「そんなことより先輩~、一緒に卓球やりましょ~よ~。上手なのにもったいない~」
「おおぅ。きたかこっちからも」
絶対くるだろうと思いつつやっぱりきたお誘いに、もはやなんの感慨もない。
「先輩聞いてるんですか~? ブラブラしてないでそろそろ落ち着きましょうよ~」
グラグラとあたしの肩をゆすってくるこの子は、あたしが割と気にしていることをグサグサと突いてくる。怖いもの知らずな後輩ちゃんだなまったくもう。
……この子はアレだね、深く考えないで男子にベタベタして勘違いされる類のアレだね。魔性の女だね。どうし魔性女子だね。お~怖っ!
「あ~もう、うざったいわね! あたしだって何も考えてないわけじゃないわよ!」
「具体的には?」
「へ、え?」
大声を出してしまったのも束の間、いきなり虚ろな眼で問いかけてくる後輩ちゃん。
「いや、ですから、何を、具体的に、考えて、るんですか?」
真っすぐとこっちを見つめてくる瞳に、さっきまでのふざけた雰囲気は一切ない。
「う、うむ……」
うーん、どーしよ? これちゃんと答えないとマジで怒るやつだぞー。
「……あヤッバ! あたし生徒会に呼ばれてるんだった! ゴメンお先に失礼します試合頑張ってね影ながら応援してますから割と‼」
体育館にかかっている時計を確認し、早口で全力疾走。厳密には時計そのものを見ただけで時間なんか見ていない。あくまでもフリだ。
「あ! ちょっと棗先輩⁉ 卑怯者~っ!」
最終的にあたしが過去の経験則から導き出した答えは、『怒られる前に逃げる』だった。笑いたければ笑うがいい。真っ先に浮かんだのがコレだったんだ文句あるか!
後日捕まったら結局意味ないけど、今怒られるよりは冷めていることを願いましょう。
などど打算で頭をこねくり回し、今度は生徒会室に向かうのだった。
「失礼しまっすー」
毎度のことながら部活二つを渡り歩いて疲れたせいか、ついノックもせずドアを開けてしまった。まあ、着替えてたりしてるわけでもないし、問題ない問題ない。
日も傾き始め、生徒会室はすっかり夕焼け色に染まっていた。
その奥に、窓から景色を眺めている一人の女子生徒がいた。
あたしより低い背丈。腰辺りまで伸びた後髪は、先の方で丁寧に束ねられている。その輪郭が、まるで影絵みたいに放課後の夕日を切り取っていた。
「来たわね~」
宮境高校生徒会長・中田唯音が、楽しそうに振り返った。
成績は常に上の下でありながらそこそこ鈍くさく、優しいくせに押しが強いという、いい意味で非の打ちどころのない性格を持ち、男女問わず人気と人望を集める逸材だ。
何よりこの人の強みは、とにかく顔が広い。
卒業生はもちろんのこと、小・中学校や商店街の寄合に町役場と、どこに出向いても知った顔がいる。今年の宮境高校において、この人ほど生徒会長に向いている人もいない。
「そりゃあ、会長が呼んだんですからね。来ますよ」
「いいわよ~いつもの呼び方で。わたしたちしかいないんだし」
唯音会長は後ろ手に組んで、爪先を軸にクルッと一回転。あざとい。
「んじゃ、お言葉に甘えて。──んで、なんの用よ? 唯姉さん」
向こうさんの許可も下りたところで、一気にいつも通りを開放。手近な椅子を引き寄せ、ドカっと腰を下ろす。
「相変わらずねー。あなたのそういうとこ大好き」
「知ってる知ってる。で、だから何さ? そろそろ帰って夕飯作りたいんだけど」
タメ口全開。普通の先輩相手ではただの無礼者だが、唯姉さんとは幼馴染という名の腐れ縁であり、今更なんのことはない。つまりあたしも、この人が持つ広い顔の一部ってわけだ。
「今日は何部の助っ人だったの?」
こっちの質問には答えず、ズケズケと自分の質問から切り出してきやがる生徒会長様。
「……剣道部と卓球部。だけど?」
「どっちも『一緒にやらないか?』って誘われたでしょ?」
「……だったらなんなのさ?」
「いやね、余計なお世話だってことはわかってるんだよ? でも棗みたいに学年を超えてちょこまかできる人ってそうはいないから。そろそろどこかに腰を下ろす気ないかなって?」
唯姉さんは会長専用の椅子に腰かけ、肘をつきながら手を組んだ体制で淡々と語る。この流れには覚えがある。次にくるであろう台詞も。
「例えば~わたしの後任とか~」
「ほぉーらきたやっぱその話か!」
絡め手も変化球もへったくれもない予想通りの展開に、ツッコまずにはいられない。
宮境高校の生徒会長は、前任の生徒会長が指名で決定することになっている。さらに指名された新生徒会長は、同じように他の役員も指名できる。公立の高校でその仕組みは、何度考えてもおかしいの一言に尽きる。
この構造上、生徒会は会長を中心とした友人関係で独占される。悪い言い方をすれば、仲良し連中の独裁が成立してしまうということになる。
──なのだが、これまた不思議なことに過去の歴史をさかのぼっても、それが原因で問題になったことが一度としてないらしい。なんとも不思議な風習だ。
つまりこの方は、その権限であたしを次期生徒会長に指名しようとしているのだ。
「あのさ……いつも言ってるじゃない? あたしは親が共働きだから帰って家事やらなくちゃいけないって。そもそも部活の助っ人だって、単発なら時間の都合が付きやすいからできてるってだけで、毎日は無理なんだから」
唯姉さんからのお誘いは今に始まったことではない。あたしを買ってくれてるのは素直に嬉しいのだけど、いい加減ウンザリはしている。
「別に一人で全部やれって言ってるわけじゃないよ? わたしだってみんなと分担してやってるんだし。いいじゃない、詩乃ちゃんとか誘えば──」
「詩乃はダメ絶対! あの子、家計を助けるためにバイトしてるんだから!」
ここはさすがに捨て置けず、声が大きくなる。
詩乃はお母さんと二人暮らしで、お兄さんが隣町の病院に入院している。あの子が毎日バイトに明け暮れているのも、生活を少しでも助けようという気遣いからなのだ。
自分のことならともかく、詩乃にまで迷惑はかけられない。あの性格からして、頼めばきっとやってくれるだろうけど、家庭の事情を知っている以上、そんなことできるはずもない。
あたしと詩乃は高校からの付き合いだから、接点の少ない唯姉さんはそこまで把握していないのかもしれない。──と思ったけど、情報網がいろいろすごいこの人にことだ、絶対知った上で聞いている。抜けてるようでそういうとこだけは策士だな。
「……それにさ、どこかに決めるにしても、やっぱりまだ足りないのよ。なんて言うかその……『コレだ!』っていう何かがさ」
「あんだけいろんな人といろんなことで戦ってるのに?」
「それは、そうなんだけど──」
唯姉さんのごもっともな指摘に言葉もない。部活の助っ人では、文化部・運動部関係なく首を突っ込んでいるけど、未だ一つの場所に決めるには至っていないのが現状だ。
「──ゴメン。うまく言えない。助っ人やってればいつかわかると思ってたんだけど」
「あなた、小さい頃から勝負事大得意だもんね~」
優柔不断なあたしを責めるでもなく、唯姉さんはただ事実だけを語る。
そう、それが傍から見ればちゅうぶらりんなあたしが、部活の助っ人という例外中の例外を認めてもらっている理由でもある。
普段、練習では別段何かが『ズバ抜けてうまい!』ということはないんだけど、これが試合という形式になると途端に腕が冴える。血が騒ぐと言ってもいい。
そんな性分が学校中に知れ渡り、今では新人戦や季節の大会が近づいてくると『練習台』という名目でいろんな人の相手をしている。
「……そっか。ま! 今日いい返事がもらえるなんて思ってないし、棗が納得するまでやってみなさいな。でもできれば生徒会も選択肢に入れといてほしいな~。とか」
「はいはい。考えておきますよ……」
ちゃっかり自身の思惑を織り交ぜつつ、唯姉さんは話を締めた。
「てか唯姉さんもしつこいっていうかよく飽きないね? あたしなんかより会長に向いてる人、いっぱいいるでしょうに」
「ん~……、棗って意外と押しに弱いから、じっくりちまちま切り込み入れてれば、その内ポッキリいくんじゃないかなって?」
「ああそうかよぜってーやんねーかんな‼」
「むっふっふ~。いいよ~時間ならたっぷりあるから~」
あたしの全身全霊の拒絶をもってしても、この人はなんら臆することなく微笑んでいた。
夕焼け色の空が夜色の空にどんどん追いやられていく。
太陽はすでに山に隠れ、峰から漏れてくるわずかな明かりが帰り道の田園地帯を弱々しく照らす。寂し気ではあるけど、これもこの町が誇る風景の一つだ。
暁天空領第八領、神衆島は枩科藩。宮境町。
周りを見渡せばひたすら山! 山! 山! と、圧倒的な自然が立ちはだかり、人間以外の生物たちがこれでもかと幅を利かせている。
○○屋さんと付くものはほぼ一軒ずつしかなく、電車も一時間に一本しか来なければ、派手なお店も遊び場もない。
ここで生まれ育った愛着を差し引いても、特別でもなんでもないどこにでもある普通の田舎町だ。それでも住んでる人たちはどこか暖かく、日常を彩る出来事に退屈することはない。
そんなこの場所があたしの、あたしたちの町だ。
「いやっほーい……」
意味のない独り言を風に流し、薄暗くなった道を『知ったことか!』と自転車で容赦なく突っ走る。暗くはなってきたけど、辺りは田んぼと畑しか存在せず、あたしを邪魔するような人もいなけりゃ車もない。
「──っと」
とはいえ、うっかり見回り中の駐在さんに見つかっても面倒なので、一応ライトはつけておく。スイッチを入れると同時、ペダルが少しばかり重くなる。
時間的にも遅いので、唯姉さんに一緒に帰らないかと誘ってみたのだが、もう一仕事してから帰ると言われてしまい、生徒会室で別れた。今にして思い返すと、あたしを呼んだのもただの小休止だったのかもしれない。あの人らしい時間の使い方だ。
「どうしたもんかしらねー」
唯姉さんに付かれた図星について考える。よく考えなくても、これは卓球部で後輩ちゃんに言われたこととも無関係ではない。
『ブラブラしてないでそろそろ落ち着きましょうよ~』
『そろそろどこかに腰を下ろす気ないかなって?』
二人の言葉が脳内で繰り返される。どっちも自身の思惑が絡んでいるにしても、要は『どれか一つに絞った方がいいんじゃない?』って意味に関してはまさにその通りだ。
『あれもこれも手広く』よりも、『何か一つをずっと』。
進学にせよ就職にせよ、後者の方が好印象を持たれやすい。誰かに評価してほしいわけじゃないけど、助っ人をやっている最中に一度は頭をよぎってしまう現実だ。
このまま助っ人を続けていても、『何かができる』ことはあっても、『何かになれる』ことはないんじゃないかという、漠然とした不安もある。このまま現状維持していたら、そのうち引き返せない場所までズルズル行ってしまいそうな危機感と一緒に。
『何かになれる』
きっとそれは、現在の延長線上には存在しない。もっと根本的にあたし自身のあり方を変えなくては、ここから抜け出すことはできないだろう。
じゃあどうやって軌道変更すりゃいいの? ってのもわからない。かといって、部活なり生徒会なり、固定された居場所を作ってみようとも思えない。
「我ながら面倒な奴だねー」
あたしだってまさか、こんなことで悩むなんて予想だにしなかったよ。
田んぼに張られた水がそよ風になびくのを眺め、延々と思考の渦にはまっていく。
ズゥゥゥゥーーーーン‼
「⁉ な、なんだ? 地震⁉」
気を抜きまくっているところに突然、地面から突き上げるような感覚が自転車から伝わり、底から唸るような地鳴りが轟く。
「ちょっ! マジかよこんなところで!」
慌ててブレーキを踏んで自転車から飛び降り、腰を低くする。
この辺は田んぼや畑ばかりでパッと見室内より安全そうに見えるけど、近くに断層が走っている可能性がある。それが足元にありでもしたら、隆起した断層の角度によっては最悪、地面に引きずり込まれてしまうかもしれない。
「…………」
息を殺し、辺りを窺う。
一分くらいそうしていたが、辺りは静かな田園風景のままだ。今はもう、風で草木がこすれる音しか聞こえない。どうやら一発目が派手にくるやつだったようだ。
「はあ、よかった~。びっくりさせんなよな──」
ズゥゥーーンッ! ズゥンッ! ズゥゥーーンッ!
ほっとしたのも束の間、今度はさっきよりも小さく、なおかつ不規則なのがきた。
「うひぃぃ⁉ 勘弁してよー」
半泣きになりつつ再び警戒体制へ。まったくもうなんて厄日だよまったくもう!
「う~……ん? ──もしかして……揺れて、ない?」
散発的に地鳴りは聞こえてくるのだが、地面が揺れたり裂けたりするような気配はない。
「え? 何がどうなって──な、なんだアレ?」
立ち上がって周囲に眼を凝らしていると、少し先にある森の入り口付近から、フラッシュを焚いたような瞬間的な光がパッ! パッ! と漏れているのが見えた。
「まさか……森の中で火遊びでもしてんじゃないでしょうね⁉」
再び自転車にまたがり、全力走行で森の入り口へ向かう。
宮境町の人がこんな場所・時間・季節に火遊びをするなんてまずあり得ない。きっと余所から来ている連中がおもしろ半分で遊んでいるのだろう。山火事になりでもしたら一大事だ。とりあえず現状を確認して、場合によっては町に知らせないと!
森の入り口に自転車を止め、カバンに入れてある懐中電灯をかざしながら奥へ。
「はあ、はあ、はあ」
薄暗い砂利道はずいぶんと歩きずらい。精神的にも負担なのか、息も上がってきた。
「な⁉ なんだ……コレ?」
しばらく道なりに進んだところで息を飲む。
チロチロと燃える草。不自然にひしゃげた木々。大砲でもぶっ放したんじゃないかってぐらいボッコボコに抉られた道。これでもかとばかりに森がめちゃくちゃにされていた。
「……火遊びって次元じゃないでしょコレ?」
微かに火が残っている草を手前から優先して踏み消す。草木の焦げ付いた臭いと、土を掘り返した時特有の湿った臭いが同時に鼻孔へと入り込み、なんともいえない気分になる。
ガサ、……ガサガサ──
「誰かいるの⁉ ならさっさっと出──」
シュッ! ドゴ‼
「うお⁉ とっとっ──ぐえ!」
物音から突然、何かがお腹に突っ込んで来た。衝撃に態勢が崩れ、尻餅をついてしまう。
「痛っ……まったく、なんなのよさっきから──って……は?」
驚きと痛みに辟易しつつ上体を起こすと、懐に子犬がいた。
子犬はハッハッハッと短く呼吸をしながら、あたしを見つめている。茶色の毛並みにクリッとした瞳。どっからどう見ても典型的な柴犬だった。
「どうしたのあんた? 傷だらけじゃない」
子犬はひどく傷ついていた。足は四本すべてに切り傷があり、血が滲んでいる。毛もところどころ焦げ付いていて、クゥーンと弱り切った鳴き声が痛々しい。
「騒ぎに巻き込まれたのね。ちょっと待ってなさい」
ハンカチを取り出し、傷口の血を擦らないように当てる。気休めにしかならないのは百も承知だけど、ダラダラ垂れ流すよりは幾分マシだろう。
「ちくしょう! こんな犬っころまで。いったいどこのバカが──」
「……ーーい! ──に行ったのよー⁉ ……さいよー!」
反対側の茂みから、人の声が聞こえてくる。この子を傷つけた犯人だろうか? このままここにいたら確実に見つかってしまう。
「仕方ない。ごめんね」
子犬を抱きかかえ、一番近い大木に身を潜める。
できるなら説教の一つもしてやりたいけど、この子をこんな目に合わせるような輩に、話が通じるとは考えられない。ましてや森を荒らし回る現行犯の前に丸腰で出ていくなんて無謀の極みだ。まずは自分たちの安全を第一に動かないと。
「…………」
息を潜めただじっと待つ。声がだんだん大きくなるのと一緒に、カサカサと草の根をかきわける音も鮮明になっていく。
「──まったく……。いいかげんにしてよね~。帰りたいんだから~こっちは~」
すっとぼけたように間延びした、少なくとも大人ではない女の声。根拠はないけど、なんとなくあたしと同年代くらいのように感じる。
「おいっ! どこにいんだって言ってんだろ‼ さっさと出てこいクソ犬‼」
前触れなく癇癪を起こす犯人。クソ犬ってことは、この子を探しているのか? ますますもって見つかるわけにはいかなくなった。
「…………」
犯人の足音が少しばかり遠退いたので、こっそり顔を出し、背格好を確かめる。
「な、なんだあの恰好?」
イライラした横顔は、やはり、あたしと同年代。度肝を抜かれたのは服装だ。
薄暗い中でもわかる向日葵色にフリフリしたフレアスカート。長い髪をポニーテールにまとめているバカデカいリボン。
『魔法少女』
あの姿を見て、真っ先に思い浮かんだ言葉がそれだった。まあ、同世代っぽいし少女って言れりゃそうなんだけど……。ちょーっと無理があるかな?
極めつけは、どこぞの総会屋が持っていそうなコッテコテの機関銃が、その手に握られているところだ。取り合わせが異色すぎて、似合う似合わないの問題以前に意味がわからない。
「……許せない」
あの様子で合点がいった。たぶんあいつは、仮装して動物を相手に狩りごっこにでも興じていたのだ。そして、たまたま見つけたこの子を目標にした、と。とんだ腐れ外道だぜ。
「うっ──ちょっと……っ!」
傷が痛むのか、小犬が窮屈そうに腕の中で身じろぐ。
「お願い、もう少し大人しくしてて。お願いだから」
うめき声が漏れないように、頭をそっと撫でてやる。
《こっちにはいないみたいだね。入り口の方を探してみよう》
と、愛嬌があるのにどこか機械的な、すごく変な声が耳に飛び込んできた。
「……仲間がいたのか?」
そんなはずはない。足音も気配も、ずっと一人だった。
てかそれどころじゃないマズい非常にマズい! このままでは奴がこっちに来てしまう。
隠れて移動するのはまだなんとかなるけど、入り口にはあたしの自転車が置きっぱなしになっている。あれを見られたら近くに人がいることがバレ、帰りの足も押さえられてしまう。
ザッ、ザッ……ザ。
徐々に徐々にと、草を踏みつける音が近づいてくる。
どうするどうする⁉ ヤバいヤバい来た来た! 考えろあたし考えろあたし!
「ああ、もう……っ! 一か八かだ」
足元の小石を三つほど拾い、入口反対側の茂みに狙いをつける。
シュッ! シュッ! …………シュッ!
ササッ──ササッ──ザッ!
「! そこにいたか死ね~‼」
チチチチチチチチチチ‼
確認もなければ警告もなく、奴は問答無用で機関銃をぶっ放してきやがった。
草木を薙ぎ払い、土をえぐり散らし、火薬の臭いが一面に立ち込める。
消音機でも付けているのか、銃声は破壊の限りを尽くす派手さに反して静かだ。……てかアレ、まさか本物か⁉
「よ、よし! 行くわよ。あと少しだけがんばって──」
とにかく隙はできたので、小犬を抱えたまま一目散に走り出す。振り返ると、奴ははまだ茂みに向かって掃射中で、こっちに気が付いている様子はない。
無事だった自転車の前カゴに子犬を放り込み、スタンドを蹴り上げるのももどかしく、助走をつけて一気に乗り込む。
「はあ! はあ! はあ!」
立こぎ全開! ライトなんてあとだあと!
辺りはすっかり暗くなり、道を照らすのは等間隔に設置された弱々しい街灯のみ。
数秒置きに振り返り、追跡されてないかを入念に確かめる。まずは田園地帯を抜けだして遮るものの多い住宅地帯に逃げ込まないと!
「は──、は──、はぁ!」
耳からはビュービューと風を突っ走る音が絶えない。近年稀にみる本気で漕いでいるので息も早々に上がってくる。それでも、ここで速度を緩めるわけにはいかない。
あいつの持っていた機関銃が本物だったとしたら、たかだか数十メートル離れたところで意味なんてない。こんな開けた場所で見つかれば、背中から撃たれて人生即終了だ。
生憎とあたしはまだ死にたくない。怪我をしても逃げ回っていたくらいだ、この子だってそのはずだ。
「く──っ! うお⁉ ……っと!」
何度目かの後方確認。勢いよく振り返った反動で重心が揺らぎ、転びそうになるのをどうにか耐えた。
「……大丈夫、か?」
後ろから追手が来る気配はない。どうやら、うまく撒けたらしい。
「はあ、よかった──」
安心した途端、どっと疲れが押し寄せ、ペダルが一気に重くなる。
昔ながらの瓦張りの屋根たちがちらほらと見えてきた。なんとか無事に住宅地帯に辿り着けた。脱力したままノロノロとこぎ進む。
物寂しかった街灯が打って変わり、町の明るさが眼に痛い。
早く家に帰ってこの子の手当てをしてあげたいけど、知らない間に尾けられている可能性も否定できないので、遠回りをしながら裏路地に入ったりして家を目指す。
「つ、着いた……」
『這う這うの体』というのは、まさにこんな状況を差すのだろう。ようやく見慣れた我が家に到着だ。なんかもうマジ疲れた。
「…………」
カゴの中で縮こまっている小犬と眼が合う。
「はいはい。わかってるわよ。ちょっと待ちなさい」
このまま休みたいのは山々だが、まずはこの子だ。
自転車を止め、子犬を抱き上げる。片手が塞がってしまい鍵を開けるのに少々手古摺る。
「ただいま~」
玄関に両親の靴がないので返事がないのはわかっていたが、家に対してってことで言うことは言う。風 呂場へ直行し、シャワーで子犬の傷口をささっと洗い流す。救急箱を開き、消毒をしてからガーゼと包帯を巻く。
なんとここまで、この子は暴れることもなければ吠えることもなかった。犬のことは詳しくないけど、こいつがすごく賢い子だってのは伝わってきた。
「さて、晩ご飯だけど……あんた何食べたい?」
「…………」
手当ても終わり次は食事だ。とりあえず尋ねてみたけど、当たり前だね答えない。『君が作ったものならなんでもいいよ!』とか言われたらそれはそれで腰抜かすけども。
「ん~確か缶詰がこの辺に──」
台所の戸棚をあさり、犬が食べられそうなものを探す。
グゥゥ~~ッ!
あたしのお腹と思われる辺りから、可愛げなど微塵もない重低音が。そりゃあ、部活帰りに変な奴に遭遇して子犬を助け出して全力疾走で帰宅したのだ。腹の一つも鳴るってもんよ。
「──あったあった」
空腹に耐えながら缶詰を発見。無難にツナ缶を選ぶ。
「う~ん。このまま出しても……大丈夫よね?」
ツナ缶片手に首をひねる。何分、動物に餌なんぞやったことがない。ましてや犬が食べてはいけないものなんてまったく知らん。うろ覚えだけど、ネギはダメだった気がする……。
「……まあ、大丈夫か魚だし。猫だって食べるし」
己を納得させ、中身を皿に盛りなおす。一応、一緒に入っている油だけは搾っておくことにした。こっちはのちほど、人間の夕飯にでも使えばいいでしょう。
「よし、食っていいぞ!」
子犬は『おせーよ』とでも言いたげな顔をあたしに向けてから、ワシャワシャとツナを食べ始めた。食欲があるということは、ケガはともかく元気な証拠だ。
「よしよし、よさそうね。じゃ、あたしも──」
活き活きとした食べっぷりを見届け、一緒に出した卵焼きの缶詰を開く。父さん母さんが帰って来る前に夕飯の支度をしなきゃだけど、さすがに何か食べておかないと持たない。
「んん~! いけるいける。缶詰もおいしくなったもんね~」
出来立てホヤホヤとはいかないまでも、フワっとした柔らかさとほんのりした甘みが結構イケる。温めて盛り付ければ楽勝であたしが作ったって嘘付けるぞこりゃ。
「お、食べ終わったわね。少し休んでなさい。父さんたちが帰って来たら説明するから」
皿を回収するついでに頭を撫でる。気持ちよさそうに眼を細めているのがかわいらしい。
《ふう、ごちそうさまでした。それにしても運がいい。まさかこんなにもあっさり出会えるとは》