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魔引きの魔女  作者: 片桐 楚江
〈反乱編〉
19/39

第三章

「せぇ~のっと!」

 バサァ!

 灯子に当てがわれている部屋に堂々入り、かけられた薄毛布を無慈悲に引っぺがす。

「さあ、灯子! 朝だよ起きなさい!」

 灯子は股の間に両手を差し込み、胎児のように丸くなっていた。

「うう……なんだよこんな朝っぱらから」

 眉間にシワを寄せ、鬱陶し気に呟く灯子。

「夏休みだからってダラダラしてんじゃないよ! さあ、起きた起きた!」

 そんな様子に構わず、声を張り手を叩き、とにかく灯子を起こしにかかる。

「あ~はいはい。わかったから静かにしろようっさいな~」

 グチグチ文句を垂れつつ、ようやく身体を起こす我が家の居候さん。

「よし、おはよう! さっさと準備して、行くよ!」

「え? ……い、行くってどこに?」

「川!」

「は、え? か、川? なんで?」

 寝ぼけ顔ではてな印をポコポコ頭に生やし、灯子は眼を点にしている。

「いつまでもしみったれた顔されてもこっちも迷惑なのさ。たまには外に出て気分転換しようって話だよ! 当然、あんたに選択肢はないから。だから、行くよ!」

「……いや、泊めてくれてるだけでも十分だし、わたしに構わなくても──」

「当然、あんたに選択肢はないから。だから、行くよ!」

「…………だから──」

「当然、あんたに選択肢は──」

「ああぁぁもううるっせーな‼ わかったよ行くよ! 行けばいいんだろ行けば⁉」

 灯子は絶叫とともに開き直った。小学生の誘導など、赤子の手をひねるより容易いのだ。

「最初からそう言えばいいのさ。手間のかかる居候だね」

「んぐ──っ! 魔女とか関係なく潰してぇ……」

 拳をワナワナ震わせ、灯子は悪態をつく。我が家で生活するようになって早数日、抜け殻みたいに一日中ボケっとしていた当初を思えば、打てば響くだけだいぶマシだ。

「んじゃまあ、適当に準備して。駅前に集合だから」

「駅前? この町って駅あったのか?」

「バカにすんなし! あるよ立派な駅舎が! ……一時間に一本しか来ないけど」

「……まさかとは思うけど、上下線でか?」

「そうだよ上下線でだよ! 単線舐めんなよ⁉」

 何に対してキレているのか自分でもよくわからない。

「わたしが悪かった。この通りだ」

 ベッドの上に正座して、灯子は奇麗にお辞儀した。

「いつになく真面目に謝るなよ! いつもの生意気な方でこいよ頼むから⁉」

「さすがにわたしも地域をバカにするのはちょっとな」

「~~っ! とにかく準備して。下で待ってるから。いいね!」

 灯子から醸しだされる器の大きさに、なぜだかいたたまれなくなり、あたしは逃げるように部屋を出たのだった。



「ふぅ~。今日もあっついね~っ!」

「ああ」

 日射しはガンガンに強く、セミはミンミンやかましい夏の道を、明らかに乗り気でない灯子を連れだって歩く。

「服大丈夫? きつかったりゆるかったりしない?」

「大丈夫だ」

「……そう」

 着の身着のまま連れてきたので当然着替えなどあるはずもなく、現在灯子の衣服はあたしのお下がりでまかなっている。妹ができるかもと言い張り、頑なに捨てなかったかつての服たちが、まさかこんな場面で役に立つとは。

「まあ、ここは天京に比べて湿度が低いから、わたしにしたらかなりすごしやすいけどな」

「へ~、そんなに違うもん?」

 珍しくあっちから話しかけてきたので、ここぞとばかり乗っかっていく。

「ああ。同じ気温でも、あっちではエアコンがないとかなりキツい。汗も乾かないし」

「ほーん」

「というか、お姉ちゃんと出掛けたんなら知ってるだろ?」

「え? あれが毎日なの⁉ あたしはてっきりあの日が特別暑いのかと……」

「だからイモ臭いんだよお前は。天京の夏は、そこら辺の田舎よりずっと厳しい。高い建物が多くて風が通らないからな。土が剥き出しなんて基本ないから路面の照り返しもツラい」

「そ、そうっすか……」

 返す言葉も見つからず、ただかすれたように答える。ここ数日でいろんな天京人と接して自身の田舎者具合を実感したせいか、すっかり腹も立たなくなってしまった。

「はあ……なんなのかね。こういうのって」

 奇妙な達観を覚えながら、空の果てまで続く入道雲を見上げる。

 天京や家族の話題をだしても、灯子は気にせず普通に受け答えしているように見える。吹っ切れた、なんてわけはないのだろうが、現状を受け入れられるだけの冷静さは取り戻してくれたらしい。晃子を始め、数多の魔法少女の仇であるあたしではあるけど、願わくは今日の川遊びで少しでも気が紛れ、あたしたちを期限付きでも信用してくれればと願うばかりだ。

「お、二人ともいるじゃん。おーい、おっはよー」

 とかとかいろいろ考えているうちに、集合場所の宮境駅前に到着。すでに動きやすい格好に身を包んだ詩乃と渚が、日陰に隠れるようにして待っていた。

「おはようございます、姉上。灯子も、おはようございます」

「お、おはよう……」

 敬語であいさつしてくる渚に、灯子は押され気味。

 自分は誰にでもタメ口なくせに、逆をされるのは気持ち悪いらしい。なんだかんだ口をきく機会の多いあたしと違い、接点の薄い渚に対しては未だに苦手意識があるようだ。まあ、『太陽ルチル』二度目の壊滅を引き起こした張本人相手に無理もないけど。

「よう。今日はずいぶん身軽だな?」

 こちらは自前のクーラーボックスに腰を落とし、釣竿の入った筒を肩にかけ、見るからにやる気満々の詩乃。サングラス付の帽子に小道具満載のベストと装備も本格的で、とても女子のする格好とは思えない。乱暴な言い方をすればおっさんそのものだ。

「あんたは準備万端ね。こっちでも一応用意はしてるけど、お昼頼むよ?」

 隣の空いたベンチに座り、詩乃に釘を刺す。本日の昼ご飯は、詩乃が釣りあげた魚にする予定となっている。なので釣れなければ、当然飯抜きだ。

「おう、まかせろ。サクッと人数分釣りあげてやるさ」

 普段は確約的な発言を避ける詩乃だけど、今日は珍しく言い切った。釣れなかった場合を考えないとは、余程自身があるのだろうか?

 プップッーッ!

 と、駅前に灰色のライトバンが現れ、あたしたちの前に乗り付けてきた。

「おお、来た来た!」

 すかさず立ち上がり、車へ駆け寄る。

「やあ棗さん、久しぶりだね」

「お久しぶりっす純平さん。今日はよろしくです」

 運転席の窓が下がり、表情のやわらかい好青年が現れる。

「暑いけど晴れてよかったね」

「ですね。日頃の行いがいいっすからね」

「そう言うと思ったよ。相変わらずだね」

 向こうもこちらの冗談に気持ちよく応じてくれる。

「姉上、この方は?」

 あたしたちのやり取りを見ていた渚が、代表で尋ねる。

「そっか、みんな初めましてか。こちら、唯姉さんのお兄さんの中田純平さん。本日車を出していただく大変ありがたいお方です」

「どうも。唯音の兄の純平です。いつも妹がお世話になってます」

「どうよ⁉ これがわたしのお兄ちゃんだよ! 普通でしょ? カッコよくないでしょ?」

 と、助手席から唯姉さんがひょっこり顔を覗かせる。本人は自慢しているつもりなのだろうが、要点がまったく伝わってこない。そもそも普通って結構大事なことだし。

「ナツ、ちなみにあの人は──」

「ああ、うん。何も知らないから、魔の付く話はなしの方向で」

 耳打ちしてくる詩乃に、指でバツ印を作る。

「だよな。了解だ」

 さすがにその辺は慣れたもので、すばやく察してくれる詩乃さん。

「じゃあ、荷物積んじゃって行こうか」

「はい。今日はよろしくお願いします!」

『お願いしまーす』

 改めてお願いし、一同揃って頭を下げる。

 とはいえ主だったものはすでに唯姉さんたちが用意してくれており、こっちが積み込むものは詩乃の釣り道具くらいしかなく、準備そのものはあっけなく完了した。

「準備できたね? 忘れ物ないね? よし! それじゃあ出発!」

『お~』

 全員が乗り込み、唯姉さんの号令のもと、車は出発した。

「でさ、これがまたすごかったんだよ──」

「なのであの局面では、あのように判断した次第です──」

「ああ、それはそうかもしれんな──」

 ワイワイガヤガヤ。発進してすぐ、瞬く間に車内は雑談になった。

 早めに現地入りしたくて早朝の集合にしたのだが、あたしを含めみんなこの行楽に浮ついていて、一向に眠気は訪れない。おそらく、帰りの車中では反動で全員ぐっすりだろう。

 ちなみに席順は、運転席と助手席が当然中田兄妹。真ん中は灯子を挟んであたしと渚。詩乃と釣り道具が後部座席という具合。

「そういえばさ~、わたしたちの中で棗だけ『妹』じゃないよね~」

「藪から棒に何さ?」

 市街地を抜けて高速に入り、流れる景色が速くなり始めた頃、唯姉さんがおもむろに話題を投げ込んだ。

「だってわたしと詩乃ちゃんはお兄ちゃんがいて、灯子ちゃんはお姉ちゃん。ナギちゃんも実家に兄弟たくさんいるんでしょ? ほら、棗だけ『妹』じゃない!」

「いやぁ~あたしにも手間のかかる姉みたいのがいるっすよ~」

 向こうさんの用意した台本で一方的に言い負かされるのも癪なので、ここぞとばかりにやり返す。こういうのはやはり、対等に殴り合わないとおもしろくない。

「あっはっは! そうだね。棗さんは唯音の妹みたいなもんだよね~。小さい頃からべったりだったし。今でもそれは変わらないみたいだけど」

「……むう」

 本日の功労者であり、最大の不確定要素でもある純平さんがあたしの敵に回る。

「だよね~。わたしも出来のいい妹を持って鼻が高いよ~」

 我が意を得たりとばかりに唯姉さんが勢いづく。どうやら、いらぬ地雷を踏んでしまったらしい。もしやあの反撃すら読んだ上で泳がされていたというのか?

「いくつになっても変わらないみのって、やっぱりあるんだね」

「そうだね。それだけでこの町に生まれてよかったって思えるよ」

 さすが兄妹、悪い意味で息ピッタリだ。精神的死ぬぞ、これ。

「くく……」「……ふふ」

「誰だ今笑ったの⁉」

「「…………」」

 イライラしながら振り返ると、詩乃と渚は真顔で外を眺めていた。その白々しいお澄まし顔が、余計にあたしの心を逆なでる。どうせ両方笑ってたんだろうけど、ここまで外野を決め込まれると無性に腹が立つ。

「いやー棗さんも人気者になったね」

「いやーないですないですわりとマジで」

 こればかりは否定から入らざるを得ない。

 当初はそうなのかなと思ったりもしたけど、ここ最近の雑な扱いから考えるに、ひょっとしなくてもこれ、おもちゃにされてるだけなんじゃないかと感じ始めている今日この頃。

「来期の生徒会長がこれなら、来年の宮境高校も安泰だね~」

「うおおぉぉいっ! なんですかその話⁉ あたしやるなんて一言も言ってないですけど⁉」

「そうなの? 商店街や町役場じゃ棗さんが次期生徒会長だって話してたけど?」

 目線は正面に据えたままで、純平さんが首を傾げる。

 妹に負けず劣らずそこそこ有名人であるこの人が言っているのだから、そういう話が流れているのは間違いない。そしてどこの誰が質の悪いデマをばら撒いてるのかも想像がつく。

「おい! 町中にまで拡めてんじゃないよ洒落になんねーだろが生徒会長さんよぉ!」

 学校だけでは飽き足らず、町の中枢まで抑えにかかるとか、完全に首を取りにいってるとしか思えない。鬼かこいつは? いや、魔女か。

「え~? わたしわかんな~い♪」

「こんの──」

「姉上落ち着いて下さい。一応車内なんでここ」

 いい加減首の一本も引っこ抜いてやろうかと身を乗り出したところを、渚が肩を掴んで制止する。命拾いしたな運のいい奴め。

「たくもう……っ! てか唯姉さんさ、あたしたちとばっか遊んでるけどクラスの友達は? 高校生最後の夏休みだし、どっか行ったりしないの?」

 これ以上足掻いても状況がひっくり返らないことを悟り、投げやりに問うてみる。

「うん。みんなで旅行に行く計画があるよ。その時は悪いけど、諸々よろしく!」

「お、おう任せて。どんとこいだよ」

 一瞬口を滑らすかと身構えたが、さすがにそんなヘマはしないか。

 か弱い女子高生だけというならいざ知らず、今や唯姉さんは魔法少女の存在を脅かす魔女の一人だ。表だって動きはせずとも、事件事故といったあらゆる危険を遠ざけられる利点を考えれば、こんなに頼もしい用心棒もいない。

「思い出作りはいいことです。今という瞬間が、いつまでも続くわけではありませんし」

 体験談なのか、妙に重たい持論を展開する渚。

「いやいや、あんたこそどうなのよ? 友達、ちゃんとできた? ダメだよあたしらとばっか一緒にいちゃ。一年生あんた一人なんだから」

 我ながら保護者くさいもの言いだが、こればかりは本当に心配なのではっきり伝える。

「それなのですが──」

 渚は歯切れが悪そうに切り出した。

「なんと言いましょうか、クラスの方たちと未だ距離があるというか、壁を感じます。実際に何かをされたとかは無論ないのですが……あれはなんなのでしょう?」

「どっかの誰かが唾付けてるからだろ?」

 考える時間すら挟まずに、答えを導き出す我らが参謀。

「そうだね。棗の妹ってことでみんな遠慮してるのかもしれないね」

「なるほど。やはり姉上がすべての元凶なのですね」

「ええー、それもあたしのせいなの?」

「そう言ったつもりだが?」

「あっそ。……はあ」

 もはやお決まりとなってしまった総口撃に、真面目に付き合うのもアホらしくなってくる。つか妹じゃないしねそもそも!

「ナギちゃんの場合は転校してくる時期も悪かったからね。二学期がんばろ!」

「二学期は出だしに体育祭もある。結構忙しいから、手伝いにかこつければ輪に入っていくのは簡単だと思うぞ」

 唯姉さんの励ましの続き、詩乃も柄にもなく応援を送る。

「わかりました。要は悪目立ちしない程度に出しゃばれ。という話ですね」

「その言い回しだとやたらと難しく感じるな……」

 現実はその匙加減でかなりの人が四苦八苦するからなー人間関係って。

 とはいえ、渚も当初は超大型新人ともてはやされて部活に引っ張りだこだったわけだし、友達を作る土台は十分なはずだ。

「そういえば、君は町の子じゃないよね? 棗さんの親戚?」

「え? その……あ、と──」

 純平さんにミラー越しに見つめられ、ここまで終始無言だった灯子の顔が困惑に彩られる。

『…………』

 事情を知り得ない純平さんの踏み込んだ質問に、あたしたちはうっかりピリリとした空気になってしまった。駅前で聞かれなかったから大丈夫かなと油断していた。

「そ、そうなんです! この子はえっと……と、遠い親戚で、ちょっといろいろあってしばらく家で預かってるんです! はい。不愛想な子ですみません」

 固まっている灯子に変わって、しどろもどろなりに勢いを駆使して突っ走る。

「……え……う、うん」

 灯子はなおも、うまく言葉を紡げずにいる。

 この数日、一緒に生活してみてわかったが、普段の灯子は実に正直で、とてもいい子だ。そんな性格だからか、必要悪とはいえ嘘をつくのに抵抗があるのかもしれない。

「……へえ、そうなんだ。せっかくだから、君も楽しんでいってね」

「はい」

 何かしらを察してくれたのか、意味深な間がわずかばかりあっただけで、純平さんはそこから掘り下げなかった。

 唯姉さん同様、純平さんもあたしにとっては兄貴みたいな存在だ。口先だけで誤魔化したところで、嘘か本当かなんてのは筒抜けなのだろう。

 こちらの反応で察し、追及してこないこの人の心遣いは本当にありがたい。こういう気回しをさらっとできる人が『大人』なんだなと、妙に納得させられる。

「さあ、もうすぐ到着だよ!」

「そうだね! わたしたちは荷物降ろすから、お兄ちゃんは受付よろしくね」

 気を取り直すように音頭を取った純平さんに、うまい具合に乗っかっていく唯姉さん。ふと窓を覗くと、車は高速を抜けて一般道へ入っていた。

「灯子、そろそろだからそっち見てな」

「へ? うわ──」

 灯子の肩を叩いて右側に注目させると、木漏れ日をチラチラと瞬かせる雑木林が一転、二百メートルはあろうかという大河が視界いっぱいに広がる。

「おー……」

「ん? どいた方がいいですかね」

 灯子は渚を押しのけると、瞳を爛々と輝かせて流れていく光景に見入っている。

「どうよ? これが神衆島の誇る大河、上内井川(かみうちいがわ)よ」

 感激している灯子の横で、郷土愛を全開にして解説する。

 地域によって名を変えながらいくつも分流し、枩科藩を始めとする五藩すべてを横断する巨大河川。それがここ、上内井川だ。この辺りは本流にあたり、川幅がもっとも広く、見る者を圧巻させる場所の一つだ。

「おお……っ!」

 両手とおでこを窓に当て、灯子は飛び出さんばかりに食いついている。ちょくちょく訪れるあたしでさえ来る度に圧倒されているのだから、都会育ちの小娘には強すぎる刺激かな。

「はは。こりゃあ何言ったところで聞いちゃいないな」

「これほどの絶景、口で説明する方が無粋というものです」

 詩乃と渚が、年相応にはしゃぐ灯子を微笑ましく見ている。いつもならひねくれた言葉の一つも吐きそうな場面だけど、当人は外の世界に夢中で耳を傾ける素振りすらない。

 でも、不思議と悪い気はせず、むしろ嬉しくさえあった。大自然を前にすれば、人は誰しも言葉を失う。眼前に広がる威容こそが、すべてを物語っているからだ。

 やっぱり、連れて来てよかった。まだ目的地についてもいないのにね。

「あそこのキャンプ場だよ」

 とかやっている間に、目的地である野営場に到着した。駐車場に他の車はなく、あたしたちが一番乗りだ。

「止め放題だね。楽でいいけど」

 純平さんは鳴れた手際で車を駐車場へ滑り込ませる。

「はい到着。お疲れ様でした」

『ありがとうございました』

 お礼を伝えて車から降りると、セミとトンビの鳴き声があたしたちを出迎え、川の匂いを含んだ風が吹き付けてきた。昼前の陽光が容赦なく降り注ぎ、さっそく汗が滲んでくる。

「じゃあ行ってくるから、荷物よろしくね」

 純平さんは言い残し、受付のため入口にある管理棟へ向かった。

「うん。行ってらっしゃい」

「さて、とっとと荷降ろしするか。みんな手伝ってー」

 後ろのドアを開き、詰められた荷物を取り出していく。とはいえ所詮は日帰り川遊び。大げさな道具などなく、みんなで分担すれば一回で運びきれる代物ばかりだ。

「受付してきたよ。はいこれ、一応読んでくれって」

「はい、どうもです」

 戻ってきた純平さんは、注意喚起などが書かれた簡単な冊子を手渡してくれた。

「雨は降らないみたいだけど、鉄砲水には気を付けてね。夕方には迎えに来るから」

「うん、ありがとうお兄ちゃん。帰りもよろしくね」

 役目を終えて帰っていく純平さんの車を、唯姉さんはブンブン手を振って見送る。

 プップッ!

 あちらも軽快にクラクションを鳴らし、その姿に答える。ホント仲いいなこの人たち。

「我々の送り迎えだけのために、わざわざまた来ていただくのですよね?」

「……聖人かよ」

 去っていく車を見ながら、純平さんの人となりをまだ知らない渚と詩乃が呆然としている。わかるぞー優しくされすぎてかえって不安になる気持ち。

「ちなみに純平さんにはちゃんと彼女いるから、変な気起こさないように」

 こいつらに限ってそんな間違いは微塵も起こり得ないだろうが、万が一の過ちがあっても困るので言うだけ言っとく。

「ああ、そうなのか。むしろ安心した」

「ええ。あれで特定の誰かに慕われないのであれば相当な怪物ですよ」

「よせやい照れるじゃないの~」

 どう解釈すればそういう反応になるのか、唯姉さんは手を頭にかざし、嬉しそうにニコニコしている。まあ、兄が怪物なら妹もある意味怪物だし、似た者兄妹って感じで。

「そんじゃ、諸々切り替えて準備しますか」

「え? まずは遊ばないの?」

「先にやることやってからね。ほら、行った行った」

 後ろからみんなを促し、川の方へ降りる。車は駐車場までなので、ここからは歩きだ。ゴツゴツした石に足を取られないように注意して進み、川の音がだんだんと近づいてくる。

「にしても見事な川ですね。里を思い出します」

 だんだんと鮮明になっていく川を眺め、渚が感慨深げに呟く。地元に残した家族を思っているのか、横顔はどこか柔らかく、口元もわずかに緩ませている。こんな顔ができるのなら、クラスで友達なんてすぐできるだろうに。

「あんたの里……鳴波にもこんなとこあるんだ?」

「はい。こことも負けずとは劣らない、立派な名川です」

「なら、今度帰った時に案内しなさい。楽しみにしといてやるから」

「無論です。その際は是非」

 渚は簡潔に、それでいて嬉しそうに言い、視線を前に戻した。

 しばらく無言で歩いていると、決して止まることのない緩やかなせせらぎがあたしたちを迎えてくれた。水面は夏の快晴をきらきらと反射させて視界を焦がし、上流より運ばれてくる涼やかな風が、汗ばんだ身体をみるみるうちに乾かしていく。

「この辺でいいんじゃない? 早くやることやって遊ぼう!」

「はいはい、わかったから。じゃああたしと詩乃がテント張るから、唯姉さんと渚は──」

 作業を分担して──というか一方的に指示して──設営を開始する。

 屋根だけの簡単なフライを建ててから、折り畳み式のテーブルや椅子を広げる。ここは規則で焚き火はできないので、簡易コンロを用意して詩乃の釣ってくるお昼ご飯に備える。

「うんうん。まあ、こんなもんでしょう」

 そうこうしているうちに設営完了。みんなが能動的に動いてくれたので、あっという間に終わった。共同作業で手間取らない辺り、日頃の連携が活きてるんだなと実感。

「もういいよね? 遊び行ってもいい? いいでしょ?」

 出来栄えに浸りながら頷いていると、幼児退行した唯姉さんが迫ってくる。

「よし、行ってよし!」

「ヤッホーイ! ナギちゃんバドミントンやろー」

 唯姉さんは手にしたラケットでブンブン風を切り、もう片方を渚に手渡す。

「いいですね。お相手いたしましょう」

「よっしゃ! 負っけないよ!」

 唯姉さんは威勢よく叫び、渚の背を押して奥の方へ行ってしまった。

「んじゃ、私は適当にやってくっから。あとよろしく」

 かたやクーラーボックスを担ぎ、川方面へ出陣していく詩乃。

「あ、待って詩乃! できればあんまし遠くには行かないでほしいんだけど?」

「心配するな。今の私たちなら溺れたところでどうなったりしない。何かあったら念話を飛ばすから、期待して座ってろ」

 無茶はしないように呼び止めるも、サラッとあしらわれてしまった。

 お互いの正体がバレた当初は、魔の付く世界は信用できないとか語っていたクセに、すっかり生活の一部になり果ててしまっている。あたしも人のこと言えないけど、考え方ってのは結構変わるもんなんだな。便利さに屈しただけと言えなくもないけど。

「……座るか」

 作業も一段落し、一気に手持無沙汰になってしまい、出したばかりの椅子に腰を降ろす。

「しっかしものの見事にバラバラだなー」

 これも仲間としての在り方の一つなのか、一緒に出掛けて現地で別行動とか、つくづくあたしたちらしい。自由人ここに極まれりだ。

「ああ~……」

 温泉に浸かるおっさん然とした唸り声がうっかり漏れてしまう。疲れとは違う一種の満足感が全身を満たし、まどろみが押し寄せてくる。これでは帰りどころか今まさに眠りこけてしまいそうだ。

「……は⁉ いかんいかん!」

 マジで寝墜ちしそうになり、弾かれたように上体を起こす。せっかく上内井川くんだりまで繰り出したってのに、テント張って寝てるだけとかもったいなさすぎる。

「あれ、灯子?」

 さっきまで傍らにいた少女の姿がなく、首が回る範囲で見回してみると、興奮も冷めて通常運転の灯子が、フラフラと引き寄せられるように詩乃の方へ歩いていくのが眼に入った。

「す、少しだけ──」

 いけないこととはわかっていながらも、二人のいる方角へと念話を絞ってみる。

『おお、どうした? 暇そうだな』

『……釣れるのか?』

『釣り人に野暮な質問すんじゃねー』

 意識を澄ましていると、登場人物全員ぶっきら棒な会話が聞こえてきた。

「大丈夫大丈夫。今のあたしはあの子の保護者みたいなもんだし」

 急ごしらえの免罪符を担ぎあげ、心を鎮める。

『じゃあ、何が釣れるんだ?』

『この辺りなら、ヤマメとイワナだな。さっと捌いて刺身にしてもいいんだが、お前もいるし無難に塩焼きだな。うまいぞ』

『そうか』

 両方とも快活に喋る部類の人ではないので、やりとりが坦々として話がぶつ切りだ。

 無口な親の趣味に付き合わされた無口な子という、お互いがお互いに面倒くさそうにしている図がなんとも現実的だ。

 母さんの『詩乃は父親』っていう指摘も、こうして聞いているとあながち間違ってもいないんだなと納得してしまう。年の功特有の着眼点ってやっぱすげーな。

『つかお前、ヤマメとイワナがどんな魚か知らないだろ?』

『ああ、知らない。場を持たせるために聞いてみただけだからな』

『まったく、可愛げのねーガキだな。まあ、待ってろ。食ったら絶対忘れられなくなるぞ』

『そこまでうまいのか?』

『味ってより、場の雰囲気だな。お前、どうせ野外料理なんて学校の遠足ぐらいでしかやったことないんじゃないか?』

『バカにするな。バーベキューぐらいやったことはある』

『親と晃子にくっ付いて、だろ?』

『……悪いか?』

『天京人ならそんなもんだろうな。お? 言ってるそばから──』

 さっそく獲物が食い付いたらしい。こちらからも竿がしなっているのが見える。

『まずはイワナか。そこそこの大きさだな。ほれ、針取ってみ』

『うわぁ⁉ なんだよ自分でやれよ!』

 釣れたて眼の前に出され、灯子はすばやく後ずさる。あたしは料理するから慣れっこだけど、あれくらいの女の子なら普通の反応だろう。

『ナツはお前を客扱いしてるみたいだが、私は違う。みんなで遊びに来ているからには、お前にもなんかしらやってもらうぞ。さしあたって、ほれ』

 詩乃は再び、灯子の前に再度ピチピチ跳ねるイワナを持っていく。

『うう……』

『お前は指示だけだして奥で踏ん反り返ってるだけの臆病者だったか?』

『……どうすればいいか教えろよ』

 詩乃らしい発破に、灯子は観念して踏み出した。

『まず利き手じゃない方で胴体を掴め。針は内側に返しが付いてるから、引っかからないよう逆向きに力を入れろ』

『こ、これで合ってるか?』

『ああ。そのままゆっくり抜け』

 灯子はへっぴり腰で顔を引きつらせ、意地と根性でイワナに立ち向かう。

『で、できた。どうだ……?』

 どうやらうまくいったらしく、一仕事終えた灯子の横顔が満足そうに詩乃を見上げている。魔法少女の時こそ冷徹な判断も下せるアカリだが、こうしていると小学生そのものだ。

『最初にしては上出来だな』

『だろ。わたしだってやればでき──』

『よし。じゃあ次から流れ作業で頼むぞー』

『え?』

 気が大きくなった灯子の瞳から、みるみるうちに光彩が失われる。

『なんだよ? これで終わりなわけねーだろ。甘ったれんなガキ。お? 次きたぞ次!』

『……おう』

 すぐさま引き始める竿を前に、眼に見えてしょんぼりする灯子。厳しいのはともかく、上げて落とすのは性格の問題だと思うんだがね。

『文句があるならお前が相手しろ。考え無しに押しつけやがって』

「ひぃ──⁉」

 詩乃は河原からギロリとこちらを睨みつけ、念話を飛ばしてきた。討伐顔負けの闘気をバリバリと放ち、すでにご立腹の様子。

『ご、ごめん……』

 ほとんど反射で謝罪する。すべてお見通しとは、さすが地獄耳。

「さ、さぁーて、あっちはーっと」

 射すくめられて無償にいづらくなってしまい、逃げるように唯姉さんたちが遊んでいる方へ行ってみる。

「ふ! いよっ! ほい!」

 シュ! シュ! ヒュゴォ!

「──っ! は! ──っ!」

 シャンッ! シュ──シャンッ!

「お、おう……」

 こっちはこっちで、眼にも留らぬ速さで一進一退のバドミントンに興じていた。あれに割って入りでもしたら、そのまんまの意味で挽肉にされかねんな。

 魔力で強化しているのか、両者の握られたラケットは折れもしなければ曲がりもせず、高速で往復する羽も同じくビクともしていない。

「って魔力使うなって言ってんだろうがいつも!」

 見なかったことにしてとっとと立ち去りたかったのだが、さすがにこれを見逃すわけにはいかない。あたしたちだけとはいえ、誰が見ていないとも限らないのだ。

ズゥゥンッ!

「ちょ──うわひゃあ⁉」

 足を踏み入れた途端、スマッシュショットが足元で炸裂。地面が軽く吹き飛び、土やら石やらが容赦なく襲いかかる。もはやちょっとした爆発だ。

「あーもう! いい加減にしろよあんたたち!」

 全身に振りかかった小砂利を払いながら、声を荒げずにはいられない。なぜこいつらはあの手この手であたしを亡き者にしようとするのか?

「乙女の神聖な決闘にのこのこ入ってくるからだよ! せっかくいいとこだったのに~」

「中田会長の仰る通りです。覚悟もなく戦場に踏み入る方が悪いのですよ」

「く……っ! よくもいけしゃあしゃあと──」

 真顔で冗談をかます渚に捨て台詞を吐き、泣く泣くその場を去る。二人にも袖にされてしまい、いよいよ居場所がなくなってしまった。

「はあ、どーしよ?」

 陽光眩しくはね返す真夏の大河を横にして、なぜかあてもなく彷徨う。

「にしてもあいつ、ホント真面目にバカやるようになったな」

 馴染んでいるのはいいんだけど、ハメの外し方が独特でいろいろとついていけない。その矛先があたしに向けられているのも腑に落ちないし。

「……もしかしなくてもこれ、あたしが一方的に信頼してるってだけで、あっちはそんなことなかったりしねーよな?」

 だとしたら悲しすぎる一人相撲だぜまったく。

《何を言いだすかと思えば、心にもないことを》

「そうだよそうだよ! みんな棗姉ちゃんのこと、すごく頼りにしてるよ」

「はいはい、ありがとさん。ちょっと気が楽になったわ。ちょっとだけだけど」

 両隣であたしを励ますケンと仁に小さく礼を言う。

「──って! なんでいんのあんたらまで⁉」

 あまりに自然すぎて流しかけたが、家で留守番しているはずという事実が遅れてやってきたことにより、ノリツッコミのような格好になってしまった。

「は? え? 車乗ってなかったよな? 忘れてたわけじゃないよな⁉」

《棗、もっと自身の見たものに確信を持って下さい》

「さっきケンと転移で来たんだよ~」

「そ、そうか」

 一人と一匹の説明になぜか安堵する。これが今の今まで天然で無視してたなんて流れになれば、あたしら全員とんだ腐れ外道だよ。

「じゃあケン、僕らも遊ぼう! ここならいくらでも走れるよ!」

《はい主。さっそくですがフリスビーの方、お願いします》

「いいよ~。せーの! 取ってこ~い!」

 仁により放たれたフリスビーが勢いよく飛んでいき、ケンは嬉しそうに川原を駆けて抜け追いかける。

「元気有り余ってんな……」

 イスに腰かけ、すごい勢いで小さくなっていくケンと仁を呆然と眺める。

「うう……ああ、もう……」

 人工的な効果音が減った途端、狙いすましたかのごとくまどろみが襲いかかってくる。

「しゃーない。ちょっと寝よ……」

 無理して起きているのも集中力が途切れがちになってよくない。いっそここは少しだけでも眠って意識をしゃっきりさせた方がいい。

「…………ふう」

 決めてしまったら現金なもので、まぶたが一気に重くなり、意識もすぐに遠のいていった。



「──ナツ、おい!」

「はえ⁉ な、何……どうかした?」

 突如耳元で発せられた大声に、全身が浮くほど驚く。というか絶対浮いた。

「やっと起きか。ずいぶんぐっすりだったな。せっかく上内井川くんだりまで来たってのにもったいない奴だな」

 ついさっき、どっかの誰かが思っていたことを丁寧に代弁してくれる釣り人さん。

「あーそっか」

 結局睡魔に抗うのを諦めて、ちょびっとだけ寝てすぐ起きようと思ってたんだった。そのおかげか、先程までの靄がかかったような眠気はない。思い切って寝てみて正解だった。

「で、どうかしたの?」

「どうかしたも何も、もう昼時だぞ? 飯作るぞ飯」

「……え、昼? そんな寝てたのあたし? ──うげ!」

 携帯を開いて時間を確認すると、時刻は完全にお昼前になっていた。そら気分もすっきりするはずだよそんだけ寝れば。

「うわ~マジ損した~──うおっとと!」

 無為に消費してしまった時間を嘆き、イスからずり落ちそうになる。

《おかえりなさい、詩乃。首尾はどうでしたか?》

「いっぱい釣れた~? 僕たちの分もある?」

 後悔に頭を抱えていると、存分にはしゃぎまくったであろうケンと仁が戻ってきた。

「おう、やっぱお前らも来てたのか。ほら、括目しやがれ!」

「んん? ……おおぉ!」

 含みのある前置きとともに開かれたクーラーボックスの中には、一目見ただけで人数分以上あるとわかるヤマメとイワナがひしめき合っていた。

「やるじゃん詩乃! 大漁じゃん!」

 さすが我らの屋台骨。求められれば最高の形で実行する。仕事人の神髄を見たね。

「すっごーい! よくこんなに釣れたね。釣り名人だよ!」

「一部の隙の無く果たされる有言実行。さすが赤岩先輩です」

 いつの間にか戻ってきていた唯姉さんと渚も、溢れんばかりの収穫に賛辞を贈る。

「だから人数分は釣るって言っただろ? 聞いてなかったのかお前ら」

 口々に発せられる称賛の嵐に、すっかり褒め殺し状態の詩乃。口元が緩みまくり、自慢気が隠しきれていないが、これは威張るのも当然の戦果だ。

「じゃあさっそく用意すっから。塩焼きでいいよね?」

「あー……せっかく釣った獲物だし、私にやらせてくれめか?」

「もちろん、お任せするよ~」

「ああ、任せろ。というわけだ灯子、手伝え」

「……ああ」

 抵抗したところで無駄と悟っているのか、灯子は粛々と詩乃についていく。横顔はどこか無機質で、魚の扱いに慣れたというよりは諦めたというそれに近い。

「で、どうすればいい?」

「最初は下っ腹を切って内臓を取り出す。まずは見てろ。こんな感じで──」

 と、口調はぞんざいながら面倒見のいい詩乃父さん。意識してしまったが最後、わりとマジで父親にしか見えなくなってきた。これ本人に言ったら絶対拳が飛んでくるやつだわ。

「こんな感じだな。いけるか?」

「……やってみる」

「焦らなくていいぞ。誰も煽ったりしないし、怪我される方がはるかに迷惑だからな」

「は、話しかけるな……っ!」

 まな板に置かれたヤマメへ眼を放さず、灯子は見よう見真似で腹に包丁を入れる。

『…………』

 悪戦苦闘する灯子の背中を、一同生暖かい空気で見守る。

「これでどうだ?」

「おお、うまいじゃないか。その調子でとりあえず人数分やってくれ。しつこいようだが、ゆっくりでいいからな」

「ああ」

 詩乃が出来栄えを確認しながら念を押し、灯子は黙々と解体作業を続ける。ぎこちないながらも動きが滞ることはなく、そこには流れのようなものが生まれていた。

 そうして内臓が取り除かれた魚たちを、今度は詩乃が表面に荒塩を塗り込んで仕上げる。口から串を波のように通し、あとは焼くだけというところまでもっていく。

「よし、準備できたやつから焼いてくぞ」

 灯子の返事も待たず、詩乃はコンロに火を入れ、テキパキと魚を焼き始めた。ゆっくりでいいと言いつつも適度に焦らせて集中力を煽るとか、意地の悪いやり方するな~。

「なあ、焚き火に刺して焼いたりしないのか?」

「は、焚き火? ぶ──っ! ふはは!」

 灯子の初心者らしい疑問に、不意を突かれたように詩乃が噴き出す。

「な、なんだよ? 別におかしくないだろ? ……笑うなよ」

 詩乃の反応に灯子はムキになったように顔を赤くしている。どうやら当人も的外れなことを聞いてしまったという自覚はあるようで、後ろになるにつれて声が萎れていく。

「焚き火に刺すって、無人島かよ! あはは!」

 恥じらう灯子に構わず、詩乃はお腹を抱えて笑っている。

「ここは焚き火禁止なのさ。というか今時の野営場はみんなそんなもんだし」

「うんうん。やるにしても事前に許可取らないといけないし。場所も決まってるから早い者勝ちだし。意外と大変なんだよ」

 このままだといくらなんでも可哀想すぎるので、唯姉さんと補足してあげる。

「私たちが田舎者なら、お前は都会者なんだよ。お前だって私たちのこと何も知らないじゃないか。あーおもしろい、あっはっは!」

「んが! 触るなこの、裏切者!」

 あたしたち助け船を最速でブチ壊し、詩乃はこれで対等だと言わんばかりに灯子の頭をポンポン叩いている。何があったかまでは聞くまいが、あたしよりこのメガネの方がよっぽど都会人に対する鬱憤が溜まっているようだ。

「なんだよ、クソ……」

 ぶつくさと愚痴こぼし、灯子は作業に戻る。生来の性格か、単におちょくられてご立腹なのか、顔をしかめながらも詩乃の仕事の速さに食らいついている。

「さて、じゃああたしたちはっと──」

 二人がガヤガヤと獲物を焼いている間に、あたしは早起きしてこしらえたおにぎりと、お供である漬物などを並べ、昼ご飯の準備を整えていく。

 本来であれば肉や野菜をガンガン焼いて盛り上がるのが定番なんだろうけど、悲しいかなそこは高校生。費用を安く抑えようとすれば、真っ先に削られるのが食材なのだ。

「…………」

 まさにそのことを考えている最中なのか、魚を捌き終わった灯子がどこか物足りなさそうにテーブルのおかずを見ていた。こればかりは申し訳ない限りだ。

「そんな顔しないで灯子ちゃん」

「気持はわかりますが、これはこれでなかなかイケんですよ?」

 両袖から挟み込む形で、唯姉さんと渚が漬物のよさを擦り込む。

「知ってる。毎日毎日朝昼晩どころかおやつにも出てくるからな」

 と、灯子はひどくうんざりした表情を浮かべている。

 ご飯のおかずから酒の肴に至るまで、枩科藩民はとにかく漬物を食う。食べなければ死んでしまうんじゃないかってほどに。まあ、食べすぎても塩分過多でろくなことにはならないのだが、そこは汗を流してトントンという方向で。

 最近は保存技術が発達しているから塩分控えめの漬物も増えてきたけど、藩外の人間にしてみれば『なぜそうまでして食べたいのか?』って話だわな。……食べたいんだなこれが。

「……──」

 とか思っているそばで、灯子は素知らぬ顔で漬物が並んだテーブルに近づき、たくあんを一切れひったくり、里に降りてきた小リスのようにポリポリかじっていた。まだまだ馴染んでいるとは言い難いけど、味覚だけはこちら側に染まりつつあるようだ。

「何食い意地張ってだよ。これで最後だからもうちょい待ってろ」

「いいだろこれくらい。だから触るなって──」

 微笑ましくてつい野放しにしていた灯子のつまみ食いを、詩乃はお構いなしにいじり倒す。

「二人とも、準備できたから黙りなさいっての」

 じゃれ合っているなんちゃって親子を注意して、野外用のコッヘルを人数分出し、最後に水筒で保温していた味噌汁を注ぐ。詩乃たちが作ってくれた焼き魚も忘れない。

「さあ完成ってね。冷めちゃうからさっさと座りなさい」

「は~い。ご飯ご飯~」

「一から十までありがとうございます。後片付けはおまかせを」

「おいしそーだねーケン」

《はい、主》

 思い思いの感想を口にして、全員が席に着く。

「じゃあ、いっただきまーす」

『いっただきまーす』

 あたしが音頭を取り、全員で手を合わせ、魚を釣って捌いて焼いてくれた二人に、魚たちを育んでくれた土地の恵みに感謝を込めて、声を揃える。

「さーてさて、まずは一口」

 こんがりうまそうに仕上がったイワナを見回し、そのまま腹へかぶりつく。粗塩が口の中でしゃりっと砕け、程よく火の通った身の味をこれでもかと引き出している。骨が刺さらないように、ゆっくり丁寧に噛み、身を味わう。

「うんめぇ~」

 単純かつ簡潔な感想が自然と口をつく。左手に焼き魚、右手におにぎりの二刀流で、交互に口へ運ぶ。余計なものの一切を取り除いた、これぞ最高の食べ方だ。

『…………』

 あたしが口火を切った以降会話はなく、全員が黙々と食事にありついている。せわしなく箸を動かす音。漬物を噛み砕く音。味噌汁をすする音。大自然を背景に彩られた食事は、そんな質素な効果音で進行していた。

「ナツ、お茶漬けにしてくれるか?」

 詩乃がおにぎりの上に昆布を乗っけたコッヘルを差し出してきた。

「はいよ」

 その中に沸かしたてのお湯を注いでやると、その勢いでおにぎりはホロリとほぐれ、昆布の出汁が染み出して全体を薄い茶色に染めていく。

 あたし特製おにぎりが、あたし特製お茶漬けへと進化した。

「おう、これだこれ」

 詩乃は無感情に言うと、フーフーしながらお茶漬けを掻き込み、たくあんをバリバリと噛み砕く。どうやら食べるのに集中しすぎて、表情を変える手間さえ惜しいようだ。

「やっぱひと汗かいたあとの漬物は最高だな。普段の倍うまい」

「藩の名物と言い張るだけあります。味も歯ごたえも鳴浪のものとは比べ物になりません」

「朝漬けと梅干しもあるから、そっちも食べてねー」

 平らげていく面々に満足し、あまり減っていない品目も勧める。

「ふっふ~んと♪」

「あーまたやってる!」

 隣から聞こえてきた鼻歌に意識を向けると、唯姉さんが食べ終わって空いたコッヘルにこれまた食べ終わった魚の骨を入れ、お湯を注いで身を取っていた。みっともないと常々注意しているが、まったくやめる気配がない。

「いいじゃんいいじゃん。余所じゃ絶対やらないからさ~」

「余所とか家とかの問題じゃないっての! そういう気構えでいるといつか恥かくぞって言ってんだよあたしはさ!」

 なんでこんなところまでこの人に説教してるのか? もっと純粋に楽しませてくれよ。

「おかんだな」

「おかんですね」

《ええ、間違いなくおかんです》

「おかん、おかわちょうだ~い」

「やかましいぞ外野共!」

 観客を決め込んだ一同に一喝。言ったところでのれんに腕押しは百も承知だが、黙っているともっとうるさくなるので言わざるを得ない。

「あ、じゃあわたしもおにぎりもう一個ちょうだい。なつ──じゃなくて、おかん!」

「わざわざ言い直さんでよろしいっての!」

 半ば奪うように唯姉さんのコッヘルをひったくり、おにぎりを入れてやる。

「灯子、あんたは? おかわりいる?」

「え? ……うん、ほしい」

 目立たないように魚を突いていた灯子は、どっかの誰かとは対照的に、遠慮がちにコッヘルを差し出してくる。魔の付く世界とか以前に、ここにいる面子は元から自己主張が激しいのばっかりだから、気後れするのも無理ないか。

「はい、どうぞ」

 おにぎりの上に梅干しを乗っけて海苔を散らし、お茶漬けにして渡してやる。

「ありが、とう……」

 灯子は擦れるような声で応えてくれた。そうそう、こういうのなんだよ! あたしが求めていた反応はさ。

「私たちとはずいぶん対応が違うな?」

「ねぇ~。なんか優しすぎない? 灯子ちゃんがかわいいからって露骨だよねぇ~」

「それはあれですよ。おかんは娘に甘いですから」

「「誰が娘だ誰が! ……」」

 と、連中の言いたい放題につい、声が重なってしまった。

「「……あ」」

『ぷっ──はははは‼』

 気まずそうにチラチラ視線を交わすあたしと灯子を見て、他の面々はもう限界だとばかり爆笑する。

「ちょっと! あ、あんたらいい加減──あ゙あ゙ーもううるさい黙れ~っ!」

憎らしくもいつもと変わらない掛け合いをやったりやられたりして、トコトコと川原の昼食は進んでいった。



「ではでは、ごちそうさまでした」

『ごちそうさまでした』

 賑やかな雰囲気で食事もあらかた平らげ、みんなしてまったりしたのち、先程と同様に唱和していったん席を締める。遊びだからといってダラダラせず、その場その場で気分をすっぱり切り替えるのも大切。

「でしたら片付けますので──」

 後輩としての性か、渚が率先して食器類を重ね始める。

「姉上、洗い物終わったらキャッチボールしましょう」

「やだ!」

 健気な妹分から投げかけられたお誘いを問答無用で却下する。

「そ、そうですか……」

 取りつく島もなく直球で拒絶され、渚はガックリ肩を落とし、洗い物を抱えて流し場へ。狙って言っているわけじゃないところが余計に質が悪い。こっちは思い出しただけでも手が痛くなってくるってのに。身体の方が先んじて恐怖に反応するとかどんだけよ。

「後輩のお願ぐらい聞いてやれよ。器の小さい奴だな」

「うんうん。ナギちゃんかわいそ~」

 あたしが渚の魔球──文字通りの意味で──を受けて死に悶えてるの見た上で、二人は冷淡な態度を崩さない。

「あたしに死ねと申すか⁉ じゃああんたたちが相手してやれよ!」

「指名されたのはお前だろ! 殺す気か⁉」

「その死地へ今まさに送り込もうとしたのはどこのどいつだよ⁉」

「大丈夫だよ! 棗なら手の一本や二本」

「会長の言う通りだぞ。両手あるんだから二回まで取れるじゃないか。私はやらないけど」

「お前らホントもぉ──」

 理不尽と無茶振りのてんこ盛り。一体何からツッコんでいけばいいのやら。

 結局その後あたしは、二人の押しに負けて渚と時折魔力が弾け合う午後の対戦で完膚なきまでに叩きのめされ、無駄に気力と体力を消耗するハメになった。

 それから山の向こう側へ沈む太陽を全員で見届け、迎えに来てくれた純平さんの車内で泥のように眠ったのだった。

 楽しかったのはもちろんは楽しかったのだが、『マジで何しに行ったんだろう?』という身も蓋もない疑問も、ついぞ晴れることはなかった。



「せぇ~のっと!」

 バサァ!

 灯子に当てがわれている部屋に堂々入り、かけられた薄毛布を無慈悲に引っぺがす。

「さあ、灯子! 朝だよ起きなさい!」

 灯子は股の間に両手を差し込み、胎児のように丸くなっていた。

「うう……なんだよこんな朝っぱらから」

 眉間にシワを寄せ、鬱陶し気に呟く灯子。

「夏休みだからってダラダラしてんじゃないよ! さあ、起きた起きた!」

 そんな様子に構わず、声を張り手を叩き、とにかく灯子を起こしにかかる。

「あ~~! 昨日あんだけ遊んだんだから寝かせといてくれよ……」

 グチグチ文句を垂れつつ、ようやく身体を起こす我が家の居候さん。

「よし、おはよう! さっさと準備して、行くよ!」

「え? ……い、行くってどこに?」

「幼稚園!」

「は、え? よ、幼稚園? なんで?」

 寝ぼけ顔ではてな印をポコポコ頭に生やし、灯子は眼を点にしている。

「あたしの卒園した幼稚園が今日と明日でお泊り保育でね、その手伝いに行くのさ! 当然、あんたに選択肢はないから。だから、行くよ!」

「…………いやいやいや! マジ勘弁してくれ! それは嫌だ! 絶対嫌だ!」

 これまで見た中で一番必死な形相で、灯子は布団にしがみつく。

「わがまま言ってないで、ほら! 行、く、ん、だ、よ──」

 あたしはそんないたいけな少女を、全力で引き剥がそうと試みる。

「頼む! 嫌だったら嫌なんだ! わたし子供苦手なんだ~っ!」

「子供のクセに子供が苦手とか何様だい⁉ それ言い出したらあたしだって子供だよ! 生意気言ってないで観念しなさい! さあ!」

「一生のお願いだぁ~っ! 今日は一日大人しくしてるからぁ~っ!」

「大人しくしてたら務まんないんだよこの仕事は!」

 お子様の鉄板台詞を駆使して涙声で訴える灯子と、それを棄却するあたし。

「……何やってんだお前ら?」

 呆れた表情を浮かべ、詩乃がひょっこり顔を覗かせる。

「おう詩乃、おはよう。来てたの」

「お前がこの時間に来いって言ったんだろ」

「何々~どしたの~?」

「朝からずいぶんと賑やかですね」

 詩乃を皮切りに、毎度の面子が部屋になだれ込む。

「おはよう灯子ちゃん。なんかもう死にそうだけど大丈夫?」

「浮世の終わりのような顔をしていますね。気分が優れないのですか?」

 灯子の顔を覗き込み、二人は首を傾げる。

「それがさ──」

 本気で心配している唯姉さんと渚に、今のやりとりをかいつまんで話す。

「なるほどな。まあ、お前みたいな小さい頃に手がかからなかったようなガキは、そうでないガキの面倒とか苦手だろうな。お前末っ子だし」

 だとしても連れて行くけどな。と、詩乃は毎度のように意地悪く微笑んでいる。こっちはこっちでまったくブレないな。

「嫌なものは嫌なんだよ! 勘弁してくれよ!」

「でもな灯子よ。そうやって臭い物には蓋をするような生き方してたらろくな大人にならんぞ? ナツみたいにとまでは言わんが、いろんなことに興味持たないともったいないぞ?」

「うおー親父クセー。さすがお父さ──んぎゃ!」

 その拳の片方があたしに飛んできたパート②。

「うるせぇ黙れぶっ飛ばすぞ!」

「そう! まさにこんな大人になる! あんたも気をつけなよ灯子!」

 頬を押さえつつ、暴力による解決を図る三つ編みメガネを糾弾する。

「うう……ホントに行くのかよ?」

 身体を張ったやり取りすら袖にされ、話が振りだしに戻る。

「往生際が悪いねあんたも。行けば行ったでなんとかなるかもしんないじゃない?」

「……不確定の根性論者が。なんとかならないかもしれないだろうが……」

 口の悪さは平常運転なのに、口調にいつもの覇気がない。たかが数年とはいえ、これが人生経験の差か。どうやらそこまで前向きには考えられないらしい。

「とりあえずご飯食べよ~よ。お腹がいっぱいになったら気分変わるかもしれないよ?」

「腹が膨れたところでどうなるもんでもないと思いますがね」

 期待の薄い唯姉さんの提案に、詩乃が苦笑気味に答える。

「そういう流れだから灯子──行くぞ!」

「だーかーらーっ! 嫌だって言ってんだろーが!」

 空気が緩んだところでいけると踏んだのだが、灯子は未だ根を張ったように布団から離れなかった。



「ふぅ~。今日もあっついね~っ!」

 昨日とまったく同じ台詞を口にしながら、昨日とまったく違う形をした雲々を見上げる。

 抵抗激しい灯子を四人がかりでどうにか組み伏せてから昼食をささっと済ませ、あたしたちは一路、町外れにある幼稚園を目指す。

「にしても姉上、昼すぎからとはずいぶんのんびりした時間運びですね?」

「毎年こんな感じだよ。わたしたちお手伝い組は午後から参加でみんなと遊んで、それからお夕飯一緒に食べるの」

「その後に花火やってキャンプファイヤーね。出し物どうしよっか?」

「ほー、そいつは楽しそうだな。よかったじゃないか灯子。念願の焚き火が見られるぞ」

「……ああ」

 詩乃の嫌味のこもったまぜっ返しも虚しく、灯子の足取りは重い。あたしたちと比べて歩幅が短いから遅いとかそういう意味ではなく、単純に気持ちの問題で。

「みんなちゃんとズボン履いてきてるし、今年も滞のなくいきそうだ」

「あと濡れても透けない恰好だっけか? 一応準備は抜かりないが、そこまで用心しなきゃいけないのか? 人数いるっていっても幼稚園児だろ?」

「ちっちっち。園児の行動力を侮ってはいけないよ詩乃ちゃん」

「ええ、乱暴な言葉を選ぶなら、奴らは『性欲』と『汚い言葉』の塊です。舐めて下手にでると痛い眼を見ますよ」

「そ、そうなのか……」

 詩乃の初心者らしい質問に、経験豊富な先達たちが脅し気味に答える。毎年参加しているあたしからしても、文句の付けようがない好回答だ。

 お手伝いは基本全員ズボン着用。スカートなんてもってのほかだ。

 あいつらはスカートをめくるまくるなんてのはもちろん、中には直接潜り込んでくる猛者までいるのだ。そんな悪戯されたら例え子供相手でも一生のトラウマものだ。

「…………はあ」

「あー、あったねー。棗、顔真っ赤にして怒ってたよねー。でも泣いてたから全然恐くなかったよねーははは」

 ため息をつくあたしを見て、唯姉さんが読んでくれなくていい心を読んでくる。

「なるほど、過剰な対策は体験談からでしたか」

「ぜひとも現場にいたかったな。一生ネタにできたのに」

「まったく、他人事だと思って……」

 雑談しながら──というか一方的におちょくられながら──今日の概要を説明しつつトボトボ歩く。

「見えてきた見えてきた。あそこが宮境幼稚園ね」

小川を越えてしばらく進むと、あたしと唯姉さんの出身園、宮境幼稚園が見えてきた。

「おーい! お前らーっ!」

 正門が見えてすぐ、横で腰かけたおじいちゃんがこちらに向けて手を振っていた。

「おー園長! 出迎えなんて珍しいね?」

「見ての通り、老いには勝てなくてな。今の俺は邪魔をしないのが仕事みたいなもんさ」

 これ見よがしに杖を振り回し、宮境幼稚園園長、延徳喜(えんとく)(きすけ)先生が年甲斐なく無邪気な笑顔で出迎えた。

「詩乃、渚、灯子。この人がここの園長──」

 スルリ──

「うひょぁ⁉」

 三人に紹介しようと園長に背を向けた瞬間、お尻に下から撫で上げるなんとも怖気の走る感覚が服越しに伝わってきた。

「っておい! のっけから何してくれてんだエロジジイ!」

「んー? 去年より少しばかり硬いな。格闘技でも始めたのか?」

「んぐぅ⁉ こんの変態が!」

 一撫でしただけでなんかいろいろ見抜いてくるスケベ園長の発言に、条件反射で後ずさる。

「これはまたなんというか……」

「……元気なご老体ですね」

「…………」

 初対面である三人が三人とも、出会って早々のセクハラにドン引きしていた。考えうる限り最悪の第一印象だな。完全な自業自得だけども。

「園長先生久しぶり~」

「おお、中田の小娘か。お前、顔は昔から変わらんくせに胸だけはどんどんデカくなるな」

「あはは~、ありがとう」

 久々に会っていきなり繰り出される園長のセクハラパート②に、唯姉さんまったく動じていない。強いというよりも、どこか強かさを兼ね備えた大人の対応だ。

「はいはい。バカ言ってないでちゃんと自己紹介してね。おじいちゃん」

「⁉ ……おお、そうだな」

 上から両肩をガッ! と押さえつけられ、園長が脅えたように頷く。なんだこの力関係?

「ここの園長をしている、延徳喜助だ。夏休みにわざわざ来てくれて感謝する。奉仕活動という名目ではあるが、礼はキッチリさせてもらうので、今日はよろしく頼む」

「赤岩詩乃です。特別何ができるわけでもありませんが、お手伝いさせていただきます」

「日野渚です。本日はよろしくお願いします」

 完結に名乗り、恭しく一礼する二人。こんなアホみたいに茶番見せつけられたあとで、よく余所行きの顔ができるもんだ。面の皮厚すぎだろ?

「んで、そっちのちっこいのは?」

 園長は詩乃と渚の間に隠れている灯子を見やり、尋ねてくる。

「親戚の子。暇そうだったから連れてきた。ほら灯子、あいさつ」

 もはや定番となった流れに、こちらもツラツラと嘘で応じる。純平さんの件からこっち、すっかりこのでまかせにも慣れてしまった。

「さあ、灯子」

「ビビってないで、あいさつくらいちゃんとしろ」

「あ、おう。屋代、灯子……です。こんにち、は」

 両脇から強引に送り出され、灯子は途切れながらも声を出し、ペコリとお辞儀した。

「うむ、よろしく。とりあえず、詳しい話は担当の先生方に聞いてくれ。中田よ、職員室に案内してやってくれるか?」

「うん、わかった。あっちだよ、行こう」

 唯姉さん請け負うと、三人を連れて中へ入っていく。

「……おい、ジジイ。唯姉さんのは触んないのかよ? 背中がガラ空きだぞ?」

 誰が聞いているわけでもないのだが、なんとなく耳打ち。

「あれはシャレにならん。お前もわかってるだろ?」

「…………まあ、なんとなく」

 これはつまり、『お前はお手頃だから』と言われているのと同義であり、本来ならば打首も辞さない構えなのだが、悲しいかなあっちの言い分もわかってしまう手前、強くは出られない。

「まあ、その、なんだ。……なんだかんだで毎年すまんな」

「別に。あたしも好きでやってるから」

「……そうか」

「うん……そう」

 意図せず二人きりになってしまった親戚同士的な空気に、会話がぶつ切りになる。

「お前、よく見たら姿勢もよくなってるな」

「え? そ、そうかな?」

「ああ。全身から自信がみなぎってる。お前はガキの頃からそういう奴だったが、今は根拠というか確信がある。少なくとも、俺にはそう見える」

「マ、マジか……」

「考えたくはないが、やっかいな事に巻き込まれてるんじゃなかろうな?」

「…………えっと、ですね」

 心当たりありまくりすぎて言葉が出ない。さすがは腐っても園長。小娘がちょっと澄ました程度の誤魔化しなど無意味ということか。

「ったく。言いたくないならもういい。とっとと行け」

「は、はい。じゃあ、失礼……」

 しっしっと手を払い、あたしを追っ払う園長。腹の立つ物言いではあるけど、この雰囲気から逃げられるなら願ったり叶ったりだ。

「ホントなんでわかんだよおっかないなー」

 容赦ない園長の見抜きに本音が零れる。昨日の純平さん然り、昔馴染みに会うのは想像以上に危険なのだと痛感する。口が滑るどころか、突っ立ってるだけでも見抜かれるもんな。

「さあみんな! 今日は宮境高校から、かわいくてキレイでカッコいいお姉ちゃんたちが来てくれました~。はい拍手~」

 パチパチパチ~。

 園庭に行ってみると、進行役の先生がみんなを紹介しているところだった。

「あ! なつめねえちゃんだ!」

「うげ⁉」

 端っこでコソコソしていたあたしを、目端の効く子がいち早く発見。いきなり叫ぶ。

「ホントだ! なつめねえちゃん!」

「やったーっ!」

「えースカートじゃないのー?」

 園児たちの歓声はあっという間に波及し、のっけから大騒ぎになってしまった。

「あ~……はいはい~。どうもどうも~」

 この場の全員から一斉に注目されてしまい、退くに退けなくなってしまったので仕方なく詩乃たちの列に加わる。こういうのって、いくつになっても恥ずかしい。

「人気者だな」

「まさか。ちょいちょい顔出すから覚えられてるってだけよ」

「それだけでこのような空気にはならないでしょう」

「うんうん。ちゃんと棗の魅力に気が付いてるんだね」

 こちらの言い分などどこ吹く風と、唯姉さんは勝手に納得している。

「……っ。……っ」

 反対側に視線を送ってみると、灯子は案の定、カチンコチンになっていた。高校生の中に小学生が紛れ込んでいるこの状況で、早くも心が折れかかっているようだ。

「はいはい! じゃあみんな遊んでいいわよーっ! 棗さんも恒例のカレー、よろしくね。私たちも楽しみにしてたんだから」

「はい。今年もお願いします」

 先生にも託され、踵を返して夕飯作りを手伝うために調理室へ。

「え~、なつめねえちゃんはいっしょにあそばないの~?」

 声に振り返ると、女の子が一人、あたしの足元に抱きつき、寂しそうに見上げていた。

「うん、そうだよ。あたしはお夕飯の支度だから。うまいカレー作ってあげるから、今日はそっちの姉ちゃんたちに遊んでもらいな」

 膝を折り、女の子に目線を合わせてから質問に答える。

「うん、わかった」

「よし、いい子でよろしい。じゃあ、気合い入れて遊びなさい」

「うん、わかった!」

 曇りのない快活な返事をして、女の子はみんなの輪に戻っていく。その後ろ姿を見届け、あたしはあたしの戦場である調理室に向かうのだった。



「たくあんにナス、きゅうりにカブっと」

 夕飯に添える漬物を、菜園隣にあるぬか床から拝借する。大した量ではないけれど、こういう時に食材を融通できるのが自給自足のいいところ。

「ふう。こんくらいで大丈夫っかな~っと♪」

 自分でも謎な音程を取りながら、持ってきたお盆に漬物たちを放り込み、立ち上がって腰を伸ばす。

 上履きに履き替え、昔より少しボロくなった園内の廊下を進むと、やいのやいのと園児たちのはしゃぐ声がここまで聞こえてくる。

 ふと、誰もいない教室に並べられたイスやテーブルが眼に入る。

「毎年来てるのに、不思議なもんね」

 小さい頃はあたしも外の連中と変わりなく、やんちゃに遊び回っては先生に怒られて座らされたものだ。まだ十七年とちょっとしか生きてないけど、かつてお世話になった品々をこうして眺めていると、なかなかに感慨深いものがある。

「あいつらはちゃんとやってんのかな──」

 懐かしさに浸りつつ、みんなが遊んでいる園庭をチラっと覗いてみる。

「あっはっは~甘い甘い~」

「うげぇ!」

 唯姉さんはその豊満なお胸をなんとしてでも触ろうと殺到してくる園児たちを、あの手この手であしらっていた。

「何さ何さ~? みんな弱っち~な~」

「あぎゃぁ!」

 ある者は無慈悲に空中へ放り投げ、またある者は容赦なく地面に叩きつける。完全に悪鬼の所業だが、あんだけ派手にやってて園児側にすり傷の一つできないのが謎すぎる。

「おい、しっかりしろ!」

「うん、だいじょうぶ。まだいけるよ!」

 全身が土や砂にまみれようと、園児たちは眼前にそびえる双丘をその手に掴まんと、泣き言もこぼさず果敢に立ち向かう。動機は置いておくとして、すさまじい情熱だ。

「あははーん!」

「「うぎぁぁぁぁ⁉」」

 そして彼らが絞りだす決死の努力を、笑顔のステキなお姉さんが絶叫に変えていく。

 まあ、やり方はどうであれ、現実の厳しさを心身ともに刻み込むという点で考えれば、一番正しい方法ではあるわな。あいつら、手加減とかしても調子乗るだけだし。

「…………さて」

 割って入ると絶対面倒なので放置し、少し離れた一団に視線を動かす。

「いいですかみなさん。喧嘩をするのは結構ですが、怪我をさせてはいけません。心の底から相手に負けたと思わせることが大切なのです。そしてそれは、直接的な暴力である必要はありません」

 渚はやんちゃで気が強そうな園児たちを集め、正しい喧嘩の仕方を教えていた。

「ではそこの君、失礼して──」

「いたたたた! 痛い、痛いよ!」

 渚は手近な園児の腕を軽く捻り、関節の極め方を伝授し始めた。

「抵抗できないでしょう? むやみやたらと殴り合うより、この方がカッコいいですよ」

「ホントだ。すごいカッコいい!」

「おしえておしえて! ぼくにもおしえて」

「ええ、もちろん。ただし、みなさんはまだまだ身体が大きくなる途中ですので、力を入れすぎてはいけません。あくまで練習です。では、喧嘩せず順番に並んで下さい」

『は~い!』

 渚は群がる園児たちを言葉巧みに整列させて、一人ずつ丁寧に技を教え込んでいく。

 なんて物騒なもん教えてんだよと思ったが、物心ついた時から施設で育ち、周囲から浮かないように、はたまた舐められないようにと生きてきた渚だ。ある意味これは、もっとも実践的かつ実戦的な英才教育と言えよう。活かす機会が訪れないに越したことないけど。

「…………うむ」

 さっきのよりはマシそうだけど、割って入ると面倒なのは眼に見えているので放置し、さらに少し離れた一団に視線を動かす。

「おねえちゃんおねえちゃん! こっちほってこっち!」

「よしきた。ちょっと待ってな──」

「こっちもこっちも! ズザザーってまっすぐ!」

「はいよ。よっこいしょっと!」

「ダムできたよ。おねえちゃんみずいれて」

「いいぞ。せーの!」

『おおおおっ!』

 詩乃は砂場でせっせとシャベルを動かし、園児たちの指示のもとダムやら川やらを作ったりつなげたりと、土建屋も真っ青な突貫工事に勤しんでいた。

 いつもちっちゃなスコップで少ししか掘り進められない園児たちからすれば、一度に大量の砂を掘り出してくれる人間を意のままに動かせるなんて楽しくて仕方ないだろう。バケツも大人用のデカいのだし、水流の勢いも手伝って結構な迫力だ。

「…………ふう」

『そうだよこれだよこうゆうのだよ!』と、なぜか感動。その健全な光景が微笑ましすぎるので放置し、今度こそ見つからないようにこっそりとその場を去る。

「……にしても、誰も止めないんだな」

 今日のあたしたちはあくまでお手伝いであり、みんなのそばには担当の先生がそれぞれついてくれているのだが、基本見ているだけで口出しはしてこない。

 唯姉さんは無駄に荒っぽいし、渚に至っては言葉遣いが丁寧なだけの戦闘訓練であり、待ったがかかってもよさそうなものだが、誰一人微動だにしない。

「ここの放任主義って一貫してるよなー」

 これぞまさに野放し。かくいうあたしもここの申し子の一人だと考えると内心複雑だ。

「お?」

 古巣の方針について改めて考えさせられていると、最近よく見る後頭部を部屋の中に発見した。姿が見えないと思ったら、室内に引っ込んでたのか。

「どれどれ」

 気配を消して接近し、窓の影から灯子の様子を窺う。

『わたしに構うなよ』オーラを全周囲に放ちまくった効果なのか、手を引いて遊ぼうとせがむ子はいない。あの年頃はそういうのに敏感だからね。あえてぶち壊しにかかるあたしみたいのもいるけど、さすがにここは空気を読んだか。

「も、もう少し──」

 小声で言い訳しながら身を乗り出してみると──

「そこで翔子は、持っていたトンボ玉を地面に叩きつけました──」

 なんと灯子は、外で遊ぶのが苦手そうな子たちを集め、絵本を読み聞かせていた。

「何さ……やればできんじゃん」

 外の三人と毛色は違えど、自分なりにできることをやっている灯子の姿を見て、あたしは心の底から安心した。

「…………」

 上履きを脱ぎ、擦り足で退散。雰囲気を壊さないようにこれまで以上に気を配る。

 今の光景を見れただけでも、灯子を連れて来てよかったと、胸を張って言える。

 姉の晃子と同様に、灯子もまた聡く賢い。あれだけの逸材にあの歳で、守りに入るような生き方はしてほしくなかった。

 とはいえ灯子が子供を苦手としている感覚も、年齢的にはわからなくもない。

 あたしたちは高校生であり、園児が多少不躾な態度を取っても、『子供ならこんなもんか』と、向こうの本心はどうあれ軽く流せる。しかし小学生となると話は違ってくる。幼稚園児とはとにかく元気の結晶。手加減などという概念はなく、常に全力全開で向かってくる。

 園児たちからすれば灯子ぐらいの子は、歳が近くて気軽に接しやすく、背も高くないのでじゃれつくには恰好の標的。まさに最高の遊び相手なのだ。

 そんなやんちゃ連中に激流のごとく揉みくちゃにされてしまえば、苦手意識の一つも芽生えようというものだ。朝の嫌がりようから想像するに、当たらずと雖も遠からずな目に会った経験があるのだろう。誰かに面倒を見てもらったことしかない末っ子ならなおさらだ。

 灯子の居候生活はあくまで非常事態の緊急避難であり、一時的なものだ。具体的な対策はまだないけど、いずれはすっぱり解決し、天京へ帰る。……と信じたい。

 整った生活環境。溢れかえる娯楽。最先端の技術。

 天京にいれば、いろんなことができるだろう。なんてったって首都なんだから。

 でも、天京いたらできないことだって必ずある。多くはないかもだけど、この町でしかできない何かだってあるはずなのだ。あたしはそれを灯子に、できるだけさせてやりたい。

 最終的にどう受け止めるかは本人次第だけど、得られた刺激と経験は形を変えて、必ずこれからの人生で活きてくる。……と信じたい。

「戻りましたー」

 決意を新たにしつつ、足を器用に動かして調理室のドアを開ける。さしあたっては、眼の前にある障害に立ち向かわなくてはなるまい。

「お漬物採ってきましたんで、刻んでおいてもらっていいですか?」

「ありがとうね棗さん。ちょうど棗カレーの話してたのよ」

「棗ちゃんの作るカレーってホントにおいしいわよね~」

「私は初めてのお泊り保育なので、楽しみにしていました」

 戻ってきて早々、先生方の異常な前評判があたしを待っていた。

「……あの、気持ちは嬉しいんですけど、普通のカレーですよこれ? こだわりとか別にありませんし、ホントなんの変哲もないただのカレーなんで」

「またまた謙遜しちゃって~。秘伝の香辛料とかあるんでしょ実は?」

「毎年お母さんたちからも『子供が食べたがるから作り方教えて』って大好評なんだから」

「いえ、ですから──」

「今年も棗カレーの虜が増えるのねー。私も楽しみだわ」

「…………はあ」

 もはや糠に釘かと悟り、調理に戻る。

 当時お世話になった先生方から、卒園してから入ってきた先生方に至るまで、揃ってあたし特製カレーを絶賛してくれる。照れくさいのと同時に、『一子相伝秘伝の味』が独り歩きしているのが怖い。あとで大事になっても知らんぞ?

 先生方が切っておいてくれた野菜たちをさっと炒め、幼稚園にいる全員分を余裕で賄えるドでかい寸胴にブチ込む。しばらくグツグツやり、頃合いを見てルーを投入すれば完成だ。

 そもそも、あたしは先生たちのお手伝いでここにいるのに、なぜにあたしが主導で動くのが前提なのだろうか? 今に始まった話じゃないけど、なんともおかしな状況だ。

「あーらよっとー」

 箒の柄と言っても遜色ない長い棒で鍋をかき混ぜる。

 こうしていると、絵本とかにでてくる悪い魔女が秘薬を調合している場面が思い浮かぶ。見方によってはあたしも悪い魔女なので、ある意味お似合いの役目ではある。……こさえている代物がカレーってところが微妙に笑えないけど。

 今更誰も聞いてはくれないだろうが、本当に特別なあれこれをしているわけではない。

 強いて挙げるなら、野菜嫌いな子たちの選り分け対策として、みじん切り一歩手前まで刻んだりはしているけど、これはあくまで工夫の範疇であり、味にはそこまで影響しないはず。

「せっせっほっと!」

 鍋がいい感じに頃合いとなり、すかさず固定ルーを放り込む。

 ちなみに『○○カレーがいい』とか『△△カレーじゃないとイヤ!』などと言われないように、こいつは宮境町で買える限りの銘柄を揃えたごった煮となっている。

「……もしかしてこの配合がうまいこといっててうまいのか?」

 ルーの種類や量も毎年適当だから味は違うはずだけど、逆に中毒性をだしてるとか?

「んなまさか」

「棗さん。ここはもういいからみんなのところ行ってきていいわよ」

 溶けていく固形ルーを棒で突き、悪い魔女ごっこに興じていると、先生からお達しが。

「え? でももうじき完成ですよ?」

「ええ、ご苦労様。だからもう大丈夫よ。せっかく来てくれたんだから、みんなとも遊んであげてほしいのよ。さあさあほらほら、行ってきなさいって」

「いえ……あの、ちょっと⁉」

 勧められるというより、半ば強制的に調理室から追い出される。ここの先生たちってこんなに人の話聞かなかったっけか?

「……どうしよ?」

 放りだされた途端、暇という概念が全方位から押し寄せてくる。なんかつい昨日もあったなこんなの。さすがに眠くはないけど。

「う~ん……遊ぶっていってもな~」

 園庭で盛り上がっているあいつらの一団に、後乗りでズカズカ割って入るのも何か違う気がする。関わるとろくなことにならないのもわかりきってるし。

「んじゃまあ、灯子のとこ行ってみっか」

 突っ立っているだけではそれこそ時間の無駄なので、ひとまずは手近にいる灯子の教室を見学してみる。

「どれどれ、今度はなんの──」


「こうやって1から9を並べてって、こっちは逆に並べるてやると──隣同士を足すとみんな10になるだろ?」


「ほんとだ! しらなかった!」

「こういうのを覚えておくと、頭の中で計算する時、みんなより早くできるぞ」

 今度はなんのお話しかな~と、ウキウキで窓を覗くと、なんと灯子は先程絵本を読み聞かせていた子たちに算数を教えていた。

「おねえちゃん。コレとけたよ! あってる?」

「どれどれ──おお、全部正解だよ。すごいすごい」

「ホントに? やったー」

「これ、小学校で習う問題なんだよ。お前、頭はもう一年生だな」

 灯子は気だるそうにしながらもしっかりとした言葉で、できない子には効率のいいやり方教え、できる子には褒めてやる気にさせている。

「……完全に先生じゃねーか」

 あちらに聞こえない声量でツッコむ。

「おねえちゃん、ほかにもなんかもんだいだして!」

 眼を爛々に輝かせ、もはや生徒となっている一人が手を上げる。

「問題? そうだな……だったら──」

 灯子は園児たちの要望に応えようとしばらく考え込むと、黒板にカリカリと計算式を書き連ねていった。

「これやってみろ」


 ○+○=5

 ◇−◇=6

 □+□=7

 △−△=8


「ほえ~……」

 出された問題を目の当たりにし、間抜けな吐息が静かに漏れる。まさに眼から鱗だ。

 あんな風に教えてくれたら自分から進んでやろうって思えるし、正解がいくつもあるから考えるのも楽しい。ぜひ現役の頃にやってみたかったぜ。

 スルリ──

「うひゃぁ⁉」

 物陰から灯子の教師然とした姿をジットリ見守っていると、お尻に下から撫で上げるなんとも怖気の走る感覚パート②が服越しに伝わってきた。

「ちょっ──だから何すんだよエロジジイ!」

 園長の胸ぐらを掴んで持ち上げる。目撃者もいないし今度こそ逃がしはしない。一度ならず二度までも。とうとう脳みそまでボケ倒したのだろうか?

「おお⁉ やっぱお前だいぶ鍛えてるな。これじゃ男も寄り付かんぞ?」

「話逸らすんじゃねーよ」

「なんだ、殴るのか? いいぞ、お前に殴られるなら本望だ。さあ、好きなだけやれ」

 絶対に殴らないと高を括っているのか、園長は浮いていながら余裕綽々だ。確かに殴りはしないけど、なんらかのお仕置きは必要だと思う。いっそ腰でも反対に曲げてみるか?

「まったく、こんなピチピチの女子高生相手に悪戯して恥ずかしくないのかよ?」

 灯子も近くにいるので、今回だけは不問とし、クソジジイを解放してやる。

「は! 自惚れるなよ。お前みたいな畑臭いイモ女、誰が好き好んで相手するってんだ?」

「あ゙あ゙⁉ 外道今なんつった⁉ しゃあないだろ田舎もんは田舎もんなんだから」

 丸め込む気満々の話題逸らしではあるが、そこを突かれると痛い。事実が事実すぎて。

「わかってんならいい。抱くなら断然、都会の女に限るってもんだ」

「いや、それもどうなの?」

 さすがに同意しかねる。つか、田舎の爺さんなんてそれこそ見向きもされないのでは?

 どうやら肉体は弱っても精神の方はまだまだ現役らしい。園長からしてこれなのだから、教え子たちがあれだけ血気盛んなのも無理からぬことか。

「あの子、訳ありか?」

 すっかり先生やってる灯子を見つめたまま、園長が尋ねてくる。

「ああ……やっぱわかる?」

「人をバカにすんのもほどほどにな。俺が今日まで、どれだけの子供たちを送り出してきたと思ってんだ? 千や二千はくだらないぞ?」

「……に、二千は言いすぎじゃないかなおじいちゃん?」

「……だな。今ざっと暗算したら千五百人くらいだった」

「そ、そうかい」

「おう……」

 沈黙。どうすんだよこの空気? あたしのせいじゃねーよ?

「いや、だとしても十分スゲーだろ? こちとら戦争前からやってんだから」

「うん、まあ、そーなんだけどー……」

 そういやこういう人だったなーと、遅まきながら思い出す。

 いい悪いを問わず、この人との思い出はたくさんある。

 母さんに内緒で神社の狛犬に乗っけてくれたこともあれば、身長が縮むんじゃないかってくらいの特大ゲンコツをもらったことだってある。あの時なんで怒られたか憶えてないってことは、まったく反省してないんだなあたし。

 当時は『世界で一番恐い』存在だったこの人が、ゆっくりと衰えていく姿を見せつけられるのは、理屈を抜きにして寂しいものがある。

「お前みたいにしょっちゅう顔出すのもいれば、卒園したら二度と来ない奴もいる。俺より先に逝っちまう親不幸なんかもいる」

 どいつもこいつも勝手なもんだと、どこか辛そうに天窓の空を見上げる園長。

 常日頃から子供と触れ合っているからか、園長から溢れる活力は未だに若々しい。だからこそ、身体が心についてこられないもどかしさは相当なものなのかもしれない。

 考えてみれば、あたしがここにいた頃、園長はすでに園長だったのだ。あたしが卒園してかれこれ約十年以上経っているわけだから、そら足腰の一つも立たなくなるわなって話だよ。

「──たく。こっちは俺の死に顔お前らに見せんのが楽しみだってのによ」

「それはまた一回こっきりな楽しみっすね……」

 投げやりに吐き捨てられた園長の重ためな愚痴を、なんの気なしに拾ってみる。

「まあ、長生きしろなんて言わないけどさ、せめて死ぬまでは生きなよ」

「そういうのは俺じゃなくて親に言え。照れくさいかもしれんが、死体になってからじゃ遅いんだからな。間違いないぞ? 俺が言ってんだから」

 あたしの四倍近くを生きている大先輩の言葉が、胸の辺りをキリリと締め付ける。この手の台詞にこれほど説得力を待たせられる人物も、そうはいない。

「話せない事情があるのは見ててわかる。だとしても何かあれば教えろ。張りぼてぐらいにはなってやれる」

 園長は力強く、キッパリと言い切る。

「まあ、あんだけ頼れる仲間がいれば、ジジイのお節介なんて不要かもしれんがな」

「うん、いらない。あたしなんかにはもったいないくらい、気のいい奴らだから」

 だからあたしも、キッパリと言い返す。

「気のいい、か。じゃじゃ馬がずいぶんと粋な言葉を選ぶじゃねーか?」

「当ったり前よ。誰に仕込まれたと思ってんのさ? 人をバカにすんのもほどほどにな」

「そうだったな。ははっ」

 園長は小ばかにしたように鼻を鳴らすと、機嫌よさそうに笑い始めた。

「──あいわかった。老いぼれは黙って若い奴らの背中見といてやる」

 園長は肩を小刻みに揺らし、昔よりシワの増えた顔で大見栄を切った。

「ったくもう、いつまで笑ってんのさ? あんましやってっと腰に響くよ?」

「年寄り扱いするな。嫁入り前の小娘が。……そろそろ夕飯の時間か。お前も厨房に戻れ。俺はお前の注いだカレーしか食わんぞ」

 酌をせがむ酔っ払いみたいな文句をのたまい、再び手を払ってくる園長。優しい言葉をあえて苛立たしげに言うのも、この人の悪いクセだ。本人はカッコよく決めたつもりなのだろうけど、振り回される身としては面倒極まりない。

「ほいほい。んじゃ、またあとでね」

「おう」

 慣れたやり取りで園長と別れ、調理室へ戻る。

「「「…………」」」

 と、廊下で魔の付くお三方が揃って背を向け、行く手を塞ぐようにたむろっていた。

「おうおう。みんな何突っ立ってんの邪魔だよ!」

「あ、棗」

「姉上」

 強めに呼んでみると、今こちらの存在に気が付いたように、唯姉さんと渚が振り返る。

「いや……あれ」

 呆けているというより、何か見てはいけないものを見てしまったような切迫した表情を顔に浮かべ、詩乃が教室内を指差す。

「ん~? あれってどれ──」

「じゃあ、8×8は?」

『64!』

「正解。じゃあ次、7×9は?」

『63!』

「いいぞいいぞ。じゃあ最後、9×9は?」

『81~っ!』

「よし。お前たちは今、小学二年生の一学期まで来たぞ。明日帰ったら親に自慢してやれ」

『お~っ!』

「え、え~……」

 さっきまで足し算引き算を教わっていた園児一同は、灯子の音頭に合わせ、掛け算を唱和していた。



 カポーン!

 桶の転がる音が気持ちよく反響する夜の中田湯で、キャンプファイヤーですっかり煙臭くなってしまった身体を洗い流し、湯気立ち込める浴槽につま先からゆっくり全身を沈める。

「うあ゙あ゙ー最っ高!」

 ほぼほぼ貸し切り状態の女湯に、親父くさい唸り声が響く。みっともないとわかってはいても、出てしまうものは仕方がない。それだけ、この快感には抗いがたい力がある。

「やはり風呂は広いものに限りますね。家風呂は狭くてどうにも」

「まったくだ。私もまさか、銭湯にここまでハマるとは思わなかった」

 続いて入ってきた渚が、故郷を懐かしむように表情を弛緩される。詩乃も肩までしっかり浸かり、趣味の一つとなった大風呂を楽しんでいる。

「うんうん、気に入ってくれてわたしも嬉しいよ。これからも御贔屓にね!」

『…………』

 この場にいる全員の視線が、唯姉さんの胸部へ集中する。

「うっふっふ~ん♪」

 当の唯姉さんはといえば、あたしらの注目に恥じらもせず、むしろ見ろとばかりに特大のそれを惜しげもなく晒している。身も心も砂まみれにされた園児一同には申し訳だが、この光景を拝めるのも、ある意味同性の特権と言えよう。

『はあ~……』

 まあ、拝んだみたところでご利益など一切なく、残るのは突きつけられる現実という虚しい結果のみなのだけども。

「べ、別に! 大きすぎても戦闘の邪魔になるだけだし」

「だな。今はいいだろうが、歳を取ってから垂れてもイヤだしな」

「お二人とも捻くれていますね。自分は普通に羨ましいですが」

「「…………」」

 妙なところで素直な渚の発言に、言葉を失う。同調圧力に屈しない心意気は買うけど、これじゃああたしらの器が小っちゃい奴みたいじゃんか! この場合小さいのは胸だけど。

「と、灯子! ど、どうよ湯加減とか?」

「ああ……うん。ちょうどいい……」

 諦めにも似た哀愁から逃げるように、端っこで体育座りをしている小学生に話を振る。複数人で風呂に入る習慣がなかったのか、単に唯姉さんに圧倒されているだけなのか、灯子はここでも気後れしている。

「ほいじゃあまあ、わたしも失礼して──」

 あたしたちの色とりどりな反応に満足したのか、唯姉さんも無駄に色っぽい身運びで湯船に身体を預ける。

「ふい~。それにしても大好評だったねナギちゃんのバク転! カッコよかったよねあのシュバってとこ⁉ グワっていって、グルグルーってさ!」

 一段落する間もなく、唯姉さんは身振り手振りの効果音付で先程のキャンプファイヤー振り返る。一緒にいたからまだわかるけど、これだけ聞かされてたら絶対に理解できんな。

「はい。まさかあれほど盛り上がるとは。やり応えがあったというものです」

「……まあ、あのグダグタな歌のあとだったしね」

「あれはヒドかったな。笑いになったわけでもないし、歴史に刻まれる規模の惨劇だ」

 詩乃も湯気が滴る天井を見上げ、苦笑いを浮かべている。

 幼稚園児に掛け算を教えるという、灯子の超絶手腕を目の当たりにしたあと、あたしたちはみんなで食卓を囲み、お泊り保育のメインイベントとなるキャンプファイヤーに望んだ。

 各班の合唱や園長の落語に先生方の人形劇と、実に内容の濃い出し物だった。

 その足を大いに引っ張ったのがあたしたち助っ人組で、当初ぼんやりと考えていた歌も、歌おうにも全員が知っているものが一曲もなく、いたずらに時間だけが流れてしまった。

 魔の付く世界では、事前の備えよりも直観が運命を左右する。

 刹那の現場で揉まれまくり、意図せず太くなってしまった神経が、『本番になったらなんとかなる』という慢心に繋がり、あの結果を招いてしまったのだろうと、今更ながら反省。

 まさに悪夢と呼んで差し支えない醜態を救ってくれたのが他ならぬ渚で、『でしたら自分、バク転やります』としれっと宣言し、準備も予備動作もなくいきなりクルッとその場で回ってみせた。これにはあたしたちはもちろん、わざわざ見に来ていた卒園生や保護者の方々に至るまで大いに沸き上がった。

 気をよくした渚は、前方回転に側転、ついにはあたしたちを踏み台にしてキャンプファイヤーを飛び越えるなんて荒業もやってのけた。もし幼稚園が住宅のど真ん中にあったら、確実に苦情が殺到していたであろう大歓声だった。

 近年稀に見る好評の中、キャンプファイヤーは無事終了。興奮冷めやらぬ園児たちはこぞって渚の真似をしようとし、『適切な訓練を受けていないと危険なので絶対に真似しないで下さい』と、念を押して回るのにかなり苦労した。

 かくして我々の歴史に残る赤っ恥は、約一名の機転によってどうにか帳消しにできたのだった。ホント、いくら感謝しても足りない。

「ふぅ~……。で、どうよ灯子? ここ何日か過ごしてみて」

 いい機会なので、隣で縮こまっている灯子にさり気なく聞いてみる。

「なんていうか……目まぐるしい。……こういうとこって、もっとゆっくりしてるもんだと思ってたから」

 灯子は下を向いたまま、ポツリポツリと呟く。田舎ってバッサリ切り捨てなくなったぐらいには、この子もこの町に親しみを持ってくれたって感じなんだろうか?

「そりゃ夏だから。やれることはやっとかないとね」

「二学期もいろいろと目白押しだよ! なんてったって大宮境(だいみやざかい)(まつり)があるからね!」

「ああ、やっぱりやるんですか? あれ」

「もちのろんだよ! わたしそのために生徒会長になったんだから」

「なんです? 大宮境祭って?」

「祭りってぐらいだから、祭りなんだよな?」

 聞き慣れていない単語を反芻し、渚と灯子が揃って疑問符を浮かべている。

「そっか。あんたたちはまだ知らないか」

 考えてみれば渚はこの間、灯子に至っては数日前に宮境町へ来たのだから当然か。

「大宮境祭ってのは名前のまんま、宮境町全体でやるお祭りね。神社の祭事と小・中・高校の文化祭、商店街に自治会の催し物とか、とにかく全部いっぺんにやるのさ」

「町をあげての一大事だから開催は不定期なんだが、会長は『わたしの代で必ずやる~』って宣言しててな。周りを含めてすっかりその気さ」

 宮境初心者な二人に、詩乃と一緒に大宮境祭なんたるかを説明する。

「……大掛かりだな」

「町を挙げてのお祭りですか。楽しそうでいいですね」

「やるのは秋口だからまだ先の話だ。そういうのがあるってだけ覚えてればいいさ。こんな時期から焦っても仕方ないしな」

 詩乃はそう言って話を切り上げると、『それはそうと!』なんてわざとらしく話題を切り替えてきた。

「驚いたぞ、灯子。ガキどもに掛け算教えてたのは!」

 やっとその話すんのかと、あたしも身体に力が入る。

「別に。あれは習ったことを真似してやってみただけで、わたしが思いついたわけじゃないし」

「謙遜ですね。教わったことを解釈し、理解できるように他者へと伝えるのは想像以上に大変です。相手が幼ければ、なおさら。あれは誇るべき才覚です」

「大げさな」

「あんた、教師とか向いてるんじゃない?」

「きょ、教師? ……わたしがか?」

「「「「他に誰がいんのよ」いんだよ」いるのよ」いるんですか」

 思わずツッコみが重なる。

「……始めて言われた……そんなこと」

 いきなり進路指導室みたいな空気になり、ひたすら戸惑っている灯子。

「でもあれは、たまたま聞き分けのいい子たちばかりだったからうまくいっただけだし──」

「ガキが生意気に口答えすんな。そこは一言ありがとうって言っときゃいいんだよ」

「うんうん。学校が大変なら塾の先生って手もあるし、そういう進路も考えてみたら?」

「才能とはすべての人間が等しく持っているとは限りません。その存在に気付き、人生に役立てられる者はさらに減ります。灯子、あなたはとても幸運なのですよ?」

「そうそう。もっと自信持ちな。あたしらは何もバカにしたりしてるんじゃないしさ」

「う、うう~……」

 高校生四人が織り成す全方位口撃に居たたまれなくなったか、灯子はついに顔半分を湯船に埋めてブクブクし始めた。

「……ふう」

 ここにきてようやく表れた、灯子の年相応な反応に、なんとなくほんわかする。

「なんだよ。子供扱いしやがって」

「子供だよあんたは。どっからどう見ても」

「…………」

 年上ぶったあたしに対し、灯子は拗ねたような眼でこちらを見ている。

「あんたは確かに、『太陽ルチル』を引っ張ってきたリーダーかもしれない。でも今は、アカリじゃなくてただの屋代灯子でしょ? なら、あんたはただの子供だよ。もちろんあたしらも、どこにでもいる田舎住まいの高校生ってね」

「クセも強けりゃアクも強いけどな」

 珍しくカッコよく決まりそうだったのに、狙ったがごとく詩乃が横槍を入れる。

「そこは個性的って言っとこうよ」

「個性で片付けるには何かとぶっ飛びすぎだろ? とくにそっちの二人」

「ふえ?」

「は?」

 指名された二人の眼が点になる。

「んもーまたまたー、何言ってくれちゃってんだいあんたたち」

「我々をぶっ飛んでいると称するのであれば、掘り当てたあなた方も大概では?」

「「いやそれはない」」

 二人は侵害だとばかり咬みついてくるが、こいつらは元々ただの押しかけ屋と当たり屋であり、そんな物騒な連中に胸を張られてもあいさつに困る。

「ぷ──」

「どしたの灯子?」

「ふふっ……ふふ。いや、なんでも……ふふっ」

 灯子は静かに笑っていた。声を張るような派手なものではなく、内から外へゆっくりと染み出していく、素朴な笑い声だった。

「……よかった。なんかホッとしちゃった」

「はい。やはり子供は笑っていなければダメです」

「…………うむ」

 その笑顔にみんなしてほっこりしている中、内に秘めた父性がそうさせるのか、詩乃は楽しそうに灯子の頭をワシャワシャし始めた。

「うわ! 何すんだやめろ! せっかく洗ったのに!」

 一瞬で笑顔を引っ込めてしまった灯子が腕を振り回すも、体格差ですべて空振りに終わってしまう。もういろいろと微笑ましすぎる光景だ。

「んもぉ~かわいいな! わたしもやるぅ~!」

「え? 会長待──」

 詩乃は灯子もろとも唯姉さんに押し倒され、三人があたしに迫る。

「ちょっ! 詩乃待──」

 バシャーンッ!

 三人に押し倒され、将棋倒しのごとく湯船に沈む。組んず解れつ状態で下敷きにされているため、軽く溺れる。つか、風呂屋の娘が先陣切ってふざけるとかアホなのかな?

「──っ! ──ぶはぁ! はあ……はあ、ざっけんなよあんたはいつも!」

「なんだいやるのかい⁉ いいねいいね! 夏の風物詩だね!」

「あんたの脳みそは年中常夏でしょうが!」

「やや意味が二重だが、おもしろい! そのケンカ乗ってやりますよ!」

「おーそうかいそうかい。だったら二人一緒にかかってきなさいな!」

「「……っ!」」

 視線を交差させ、互いの意志を確かめ合う。日頃の成果がこんな場面で役に立つとは。

「灯子、大丈夫ですか?」

「あ、ああ。ありがとう」

 渚が灯子を救い出しているのを横目に確認。これで後顧の憂いもなくなったと、身も心も戦闘態勢に切り替えていく。

「いつでもおいで。ぺったんこのお子様方」

「「‼ 上等だこのアマァ!」」

かくして、この醜くも至極どうでもいい乱戦は混沌を極め、痺れを切らした純平さんに男湯越しに怒鳴られるまで続いたのだった。

みんなしてのぼせたのは言うまでもない。


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