4話
ボリスとティモが魔王への忠誠と兄弟の愛情を確認しているのをこっそりと見ていた者がいた。
「……ふん、やはりこいつらではないのか」
白銀に輝く毛艶に鋭い眼。
赤い唇からちらちら覗くのは獣の牙である。
「矮小な下級魔族とはいえ、あれへの忠誠はまぁ認めてやっても良いだろう」
不遜な言葉とは裏腹に、その尻尾はゆるゆると機嫌よく揺れている。
全ての魔物を操るとされる獣王。
側近の中でも一際体躯が立派な彼は、どこか艶のある仕草で自らの毛並みを整える。
白銀の髪の間から飛び出る獣の耳を時折動かしながら、気だる気に水鏡を再度覗き込んだ。
アラゴルドは魔王の側近として、また魔王軍の将軍の一人としてその側に仕えていた。
獣の性を持つ者として下に見る魔族を狩りては魔王に力技で躾られていたり、今よりも若い頃は傍若無人な魔王に首輪をつけられそうになったりと色々と恨みやら不満やらを抱えていたりもしたが。
「……やはり、声が大きい者が急にいなくなると調子が出ぬの」
無神経な輩とはいえ、いなくなると調子が狂うとぶつぶつと愚痴やら言い訳を零しつつ、アラゴルドは自身の千里眼を持って魔王城を中心に魔界各地の様子を監視していた。
さすがにアラゴルドと実力を同じにする側近達に感づかれないようにするのには骨が折れたが、それでもまあまあ各自の立ち位置というものは把握できた。
アラゴルドの目を眩まわすためにあえて演技をしている者もいるかもしれないが、基本的に魔族は力押しが得意で自分の欲望に忠実なのだ。
特にダイモスの側近達はアラゴルドも含めてかなりの脳筋族である。
陰謀やらそういったことには正直疎い。
「にしてもあやつ…… 意外と信望があったのだな」
意外だとばかりにアラゴルドは独り愚痴る。
自分の事を犬っころ呼ばわりして無理矢理お手やら伏せの特訓をされていた頃を思い出すだけで腸が煮え返るのだが、まぁ、魔王としてのカリスマだけは認めてやってもいいとアラゴルドは素直じゃない気持ちを持て余しながらもその後も他有力魔族達の動向を探った。
既に諦めている者もいるが、アラゴルドは他よりも少しは冷静だった。
混沌の闇などという、千年前を境にぱったりと記録が途絶えたらしい災厄に対してアラゴルドは懐疑的であった。
千年は長い。
神々から見ればそうでもないだろうが、アラゴルド達魔族にとっては一世代前の出来事になる。
人間からすればもはや神話や伝説の類であろう。
それなのに今だ混沌の闇が人間たちの間で真実として語り継がれているのは神聖帝国を含め、彼らが崇める神との距離が魔族よりも近いからだ。
神と魔族は互いに干渉しないが、代わりに人間はその両方と関わっている。
神を崇拝の対象とし、魔族を敵意の対象とするように。
神託として実際に神と言葉を交わす神官や魔術師達がいる神聖帝国の連中は今頃さぞや慌てているだろう。
彼らが縋る神ですらも把握できていないとされる混沌の闇に希望の象徴である勇者を奪われたのだから。
話に聞けば今代の勇者は帝国の王子でもあるそうだ。
あの日の戦場で見た勇者の姿は確かに眩しいほど輝いていた。
魔族にとっては毒に等しい存在である。
歴代最強とも謳われた魔王ダイモスに抗い、膝を屈さないとはさすがのアラゴルドも驚いた。
「さてさて…… 帝国の輩ならばもうそろそろ神託を仰ぎ終わった頃か」
人間側から神に交信することは滅多にない。
恐れ多いという気持ちが強いのだろうが、今は緊急事態だ。
帝国を守護する神も災厄の気配を、世界から突如として魔王と勇者の魔力が消えてしまったのを感じたはずだ。
それよりも暇を持て余した彼ら神の内何人かはあの日の戦場を鑑賞していたことをアラゴルドは気づいていた。
個人主義の塊である魔族は今まで混沌の闇についてまったく関心がなかった。
実際に上級魔族や一族単位で巻き込まれたという話は時折聞くが、自分達に害がなければ手がかりを探そうとも対策を練ろうともしないのが彼ら魔族の常識である。
今回は魔王という唯一無二が大勢の魔族達の前で攫われた、或いは呑み込まれたからこそ各側近達が己の眷属の長老に話を聞きに行ったり、魔族の間でも珍しい学者達や研究者達を穴倉から無理矢理引っ張り出したりと、今更ながら名前しか聞いたことのない混沌の闇について調べ始めているのだ。
細々ながらも神と交流し、歴史の記録も小まめにしているらしい人間達の動向が気になったアラゴルドである。
他の魔族なら矮小な人間に何ができると切って捨てるだろうが、ある意味魔物という獣に近い彼の眷属達と人間の争いは長く、その分他の魔族に比べて互いの脅威を理解していた。
その繁殖能力の高さと智慧や知識といったものを後世に残す習性。
それがどれだけ厄介かをアラゴルドは知っていた。
だからこそ、そんな人間に気まぐれに神が手助けする現状が面白くなかったし、危機感すら抱いている。
「さぁ、人間共よ。貴様らの成果をこのアラゴルドに見せよ」
だからこそ、それを利用しようと思った。
鋭く伸びた爪がそっと水鏡の淵を撫でる。
水鏡が小さく波打ち、やがてぽやっとした光が映された。
(さて、神聖帝国の連中は何か手がかりを掴めたのだろうか?)
徐々に鮮明になっていく水鏡。
そこに映るのは……
*
ダイモスはふきふきと濡れた布巾で口を拭かれた。
「まぁ…… こんなものかしら」
目の前で溜息を吐き出す母親。
その足元に縋り付きながらじぃっとダイモスを見上げる少女みちる。
「はい。もう汚しちゃ駄目よ? 洗うの大変なんだから」
「わー! ありがとう、ママ!」
両手でダイモス(見た目うさちゃん)を受け取ったみちるはにこにこと嬉しそうに微笑む。
そんな娘の姿についつい顔が綻び、さっきまでぐちぐち叱っていたのが嘘のように娘の頭を撫でる母親。
ダイモスには親子の記憶がないし、そもそも人間達の営みを知らない。
だが、その母親がどうしようもなく娘に甘いことは分かった。
(この小娘…… 意外と狡猾だな)
ぎゅうぎゅうに首(?)を絞められながらダイモスは無機質な目でみちるを仰ぐ。
まさか可愛らしいうさちゃんがそんなことを思っているとは知らず、みちるは「ママ、だいすき~」とそのまま母親の胸の中にダイブした。
その手にダイモスを抱き締めたまま。
(くっ……!?)
調子がいいんだから~と言いつつ抱きしめ返す女。
(ふ、ぐっ……っ!? い、息が……!)
母娘に挟まれたダイモスは突然の息苦しさに悶絶しながらも、早くこの馬鹿げた現状を把握しなければと薄れゆく意識の中で思った。
(元に戻ったら、絶対に殺す)
心の狭いダイモスが殺意を漲らせていることも知らず、平和な母娘はにこにこ微笑んでいた。
怒れるダイモスはまだ気づいていなかった。
全ての感覚が鈍っていた頃と違い、今の自分が息苦しいと分かるまでに五感が鮮明になっていることに。