3話
魔界。
魔王の従者の一人である《ボリス》は主の不在のままの玉座に縋り付いていた。
下級魔族の血をひく、小柄な美少年が涙にくれる姿は人々の哀愁を誘う。
「ううう…… ご主人様……」
謁見の間の大理石の床を踏みしめる甲高い靴の音がボリスの嘆きを容赦なく斬り捨てた。
「いつまでそうしているつもりだ」
残念ながら人ではない彼ら魔族は水だまりをつくりながら泣き続けるボリスに同情はまったくしなかった。
個人主義の塊である魔族を統率する魔王がいない今、魔界の力の均衡は大きく変わろうとしている。
「ティモ……」
双子の兄弟の無感情な瞳がボリスを射抜く。
「だって、ティモ…… もう、三日もご主人様がいないんだよ? ご主人様の魔力の残滓ですら少しずつ消えて行ってる…… 俺、もう不安で仕方がないんだよ」
「ボリスは寂しいだけだろう。そんな風に泣いていたってご主人様は帰ってこない」
「だってぇ……」
ぐずぐずと鼻を垂らすボリスにティモは銀色の目を冷たく光らせる。
その目がほんのりと赤くなっていることにボリスは気づいた。
「もう散々べそをかいたじゃないか。俺達にはやるべきことがあるだろう」
「……」
ボリスだって分かっている。
いつまで泣いても仕方がないと。
混沌の闇に呑み込まれた自分達の主を探さなければならないと。
今も、主に忠誠を誓う側近達が手掛かりを求めて駆けずり回っているのだ。
「でも…… 俺達にできることなんて……」
魔王を取り戻したい気持ちは他のどの魔族にも負けないという自信があった。
だが、現実問題としてボリスもティモもただの従者でしかなく、眷属を動かす権限もなければ、魔族としても歳が若すぎる上、力不足だった。
悪戯は得意でも、下級魔族である二人の力は弱い。
上級魔族ではない二人が出来ることなど、ほとんどないと言ってもいい。
統率者である魔王がいなくなれば信条も嗜好も違う彼ら魔族は互いに協力するという考えがそもそもなかった。
「それをまず考えることから始めなきゃ、本当に何も始まらないだろう? できないできないと言って嘆いてばかりいるよりも、その方がずっといいはずだ」
「ティモ……」
いつにない兄弟の強い物言いにボリスは目を丸くする。
「……ご主人様だって、ずっとめそめそしているようなサボり屋は嫌いだろう」
不遜な物言いに反し、ティモは泣くのを耐えるようにしてボリスに手を差しのべる。
しばらくその手を無言で見つめた後、ボリスは恐る恐る手を伸ばした。
「ボリス。俺達は何も役に立たないかもしれないけど、この忠誠心だけは他の奴らには負けていない。そうだろう?」
「……うん! そうだよ、俺達兄弟が一番ご主人様に忠実だ」
単純なボリスの満面の笑みにティモも小さく微笑み返した。
「そうだ。俺達だけが、本当にご主人様の帰還を望んでいるんだ…… 例えこの身が朽ち果てたとしても、永遠に……」
他の奴らとは違う。
それを口に出すような愚行はしなかった。
今、このときもきっとボリスとティモを、いや、魔界そのものを監視し、腹の探り合いをしている力ある魔族全て、いつ敵になるのか分からないのだから。
今はまだ魔王の権威が力強く魔界に影響しているとはいえ、実力主義で力を欲する魔族の本能がいつ反乱を引き起こすか分からない。
本気で魔王を案じ、嘆いている者も多いだろうが、いつまでも玉座を不在にするわけにはいかないのだ。
遅かれ早かれ魔王捜索は打ち切られ、次代の魔王の座を争う戦いが始まるだろう。
その前になんとしても魔王ダイモスを取り戻さなければならない。
難しいことだと分かっている。
それでもティモは、ティモとボリスは自分達の主を諦めたくなかった。
今は何をするべきか分からない。
二人だけでは足りない。
今の段階で信用できる者を、協力者を探さなければならなかった。
果たして庇護者でもあった魔王を失った彼ら兄弟にまともに取り合ってくれる魔族がいるのか。
まずはそこが問題である。
(ああ、ご主人様…… ダイモス様…… やはり貴方は偉大な御方です…… どうか、ご無事で……!)
涙を耐えながら、ティモは抱き着いて来るボリスを抱き締めた。
*
一方、その頃。
「うさちゃん、はいっ、あ~ん!」
(うぐっ……!?)
行儀悪く食卓の上に乗せられたダイモスを目の前にしながら、《みちる》と呼ばれた少女はもぐもぐと頬を膨らませながら朝食らしきものを食べていた。
だが、何を思ったのか母親が少し椅子を立った隙を見て、今までの覚束ない手の動きが嘘のようにみちるは皿に残された食材をフォークでぷつりと刺して片方のうさ耳を垂らした状態のダイモスに笑顔で差し出した。
うさちゃんもおなかがすいたよね?と当たり前だがダイモスの返事なども聞かずそのままにっこりマークで刺繍された口らしきところに無理矢理フォークに刺した食材をくいくい押し込んで来る。
「うさちゃん、おいしい?」
(おいっ、やめろ! 口が縫い付けられているのが見えないのか!? 食えるわけないだろう!)
動けるなら手足をばたばたと振って抵抗しただろうダイモスだが、今の彼はただのうさちゃんである。
無邪気なみちるの厚意(?)を拒絶することができない。
「もぐもぐ、もぐもぐ♪」
(こ、こいつ……!)
楽しそうに口ずさむみちるに、ダイモスが本気の殺意を抱いた瞬間、
「……みちる? 何しているのかしら?」
「……ま、まま…………」
みちるの背後から笑顔を引き攣らせる母親が登場した。
ぽろっと、ダイモスを苦しめた食材がフォークから落ちて皿の上に転がる。
妙に明るい色のそれは何かの野菜らしい。
「また人参を残して! まったく、この子ったら!」
「ち、ちがうよ! うさちゃんがたべたいっていうから……」
(だから言ってねぇよ……!)
ギャーギャー喧しい母娘にダイモスの憤りは伝わっていない。
「もーっ! うさちゃんの口元をこんなに汚して……」
「で、でも…… うさちゃんはにんじんがだいすきだって、おばあちゃんもいってたよ?」
怒る母親の顔が怖いのか、慌ててダイモスを抱き込んで上目遣いで言い訳するみちるにダイモスは怒りで毛が逆立つかと思った。
(こ、この餓鬼……)
ダイモスは必死に言い訳するみちると、屁理屈言うなと叱る母親の姿を無感情な目で見る。
だが、その奥には憤怒の炎が揺らめいていた。
(てめぇーの嫌いなもんを俺に押し付けただけじゃねぇかっ!?)
俺を誰だと思ってるんだ!と叫ぶダイモスに気づかず、みちるは涙目になりながらも結局もそもそと人参を食べた。