1話
そこはまさに地獄と呼ぶに相応しい戦場であった。
「くっ…… まさか、これほどとは……」
闇よりも黒く、夜よりも艶やかな黒髪を乱しながら、その男は凄惨な笑みを浮かべていた。
腰まで届く男の長髪から覗くのは人外じみた秀麗なる顔だ。
冷たい海色の目は屈辱と怒りに彩られ、妖し気な光を放っている。
「ははは…… さすがは《勇者》と言ったところか…… この俺様と戦いながら、未だ膝を屈さない人間がいるとはな……」
闇の鎧を纏い、夜色のマントを羽織った男は神聖帝国を侵略しようと企む邪悪なる《魔王》である。
世界を混乱させるためだけに、魔王「ダイモス」は神聖帝国の半分をたった二晩で侵略した。
魔族にも引けを取らない数多の神官と聖騎士を抱える神聖帝国は魔王の気まぐれともいえる侵略で滅亡の危機に瀕した。
だが、唯一魔王を止めることができる人間がいた。
「魔王よ、御託はいい。我が祖国を踏みにじり、領土を穢し、善良なる民を苦しめた貴様の悪行の数々……! 決して許しはしない……!」
白い鎧が薄汚れながらも、魔王を決然と睨みつける男の輝きは少しも薄れなかった。
森の妖精族の血をひく緑髪の青年の黄金色の瞳は怒りの焔で揺れていた。
神聖帝国第二王子「ジュリウス」。
輝くような美貌と正義の心を持つ生まれながらの《勇者》であった。
満身創痍な魔王と勇者。
それを見守ることしかできない魔族と人族。
戦いは膠着状態に陥っていた。
闇そのものである魔王と生まれたそのときから妖精王と女神の祝福を受けたジュリウスとでは互いの相性が悪すぎたのだ。
その場に立ち続けることが苦痛なほど、両雄の発する魔力は強大であり、あまりにも性質が異なるそれが鬩ぎ合う空間は第三者にとっては毒でしかない。
「ジュリウス様……」
顔を青褪め、今にも倒れそうになりながらも聖女「ジャンヌ」は必死に神に祈りを捧げた。
魔王はあまりにも邪悪であり、いくら神々の祝福を受けたとはいえ、人間同様生まれてまだ十数年しか立っていないジュリウスではいずれその力の前に屈してしまうだろう。
今は怒りと正義と使命感で奇跡的に魔王に痛手を負わせているが、少しずつジュリウスの魔力は魔王の魔力に押されていることをジャンヌと帝国の他数名の者達は悟っていた。
それは向こうも同じである。
魔王の後ろでジャンヌ同様に見守る魔族達は傷を負った魔王に驚きながらも、その勝利を疑っていない。
魔王の身体から発せられる蒸気が治まる頃には、その傷は跡形もなく消えてしまうだろう。
一方のジュリウスは治癒に割く魔力すら惜しいぐらいに弱っている。
治癒術を使い過ぎてしまい、魔力が回復しきっていない今のジャンヌには何もできなかった。
ただ、祈ることしかできない自分の無力さをジャンヌは呪った。
両者が睨み合う中。
力と力がぶつかり合い、精霊達が悲鳴を上げる中、二人は互いの武器を同時に身構えた。
「行くぞ、小僧。地獄で後悔するがよい」
「……それは、こちらの台詞だ」
二人の魔力が唸り、嵐のように石畳の上の瓦礫を飛ばしながらぶつかり合った。
その場にいる誰もが決着をつけるときが来たのだと理解し、息を呑む。
狂気的な笑みすら浮かべる魔王と真っ直ぐその視線を受け止める勇者。
傷だらけの二人が足を踏み出したその瞬間。
渦を巻くような雲に覆われた空が突然割れた。
「なっ……!?」
「っ……!?」
そのとき魔王と勇者は突然全身を、いや魂ごと乱暴に鷲掴みにされたような、巨大な《何か》に引っ張られた。
そして、二人の意識はそこで強制的に途絶えたのだ。
*
目が眩むような光。
想像を拒むほどの得体の知れない力が身を貫き、気づけばその場にいた魔族も人族も皆大なり小なり内臓を引っ張られたような気持ち悪さと吐き気を感じていた。
本能的な恐怖に怯える身体を叱咤し、ジャンヌはふらふらと立ち上がり、そして目を見開く。
「ジュリウス様……!」
魔王とジュリウスが対峙していた広場は跡形もなく消滅していた。
スプーンで抉られたような丸く巨大な穴しか、そこにはなかった。
そこに濃厚に漂う残滓にジャンヌはその場に崩れ落ちた。
「そんな…… まさか……!」
ジャンヌと同じように魔族達もまた顔を青褪め騒ぎ始める。
彼らもジャンヌと同じものを感じたのだ。
「《混沌の闇》……」
混沌の闇。
それは神ですら把握できていない、得体の知れないものだ。
いつ、どこで。
どのような条件で発生するのか、誰も知らない分からない。
理屈ではなく、神ですらどうすることもできない《災厄》だった。
混沌の闇は無条件でどこにでも発生し、誰にでも等しく襲い掛かる。
一年に一度、千年に一度。
その周期すら出鱈目なのだ。
そして、混沌の闇に攫われた者は今だ一人もこの世に帰って来ていない。
そう、神ですら。
魔族と人族。
突然の災厄に、憎み合う彼らですらその場でただ呆然と不気味な力の残滓を見つめることしかできなかった。
「ジュリウス様……」
婚約者であったジュリウスを奪われたジャンヌは目の前が暗くなるのをただ受け入れることしかできなかった。
混沌の闇に攫われ、或いは呑み込まれ巻き込まれた者達がその後どうなったのか知る者はいない。
聖と邪が争う世界に起きた悲劇は、まだ始まったばかりである。
* *
魔王ダイモスは自分が混沌の闇に攫われたと認識した途端意識を失った。
(ん…… ここは……?)
そして、攫われた後の自分が今どこにいるのか。
どういう状態なのか、しばらく朦朧とした意識の中で必死に頭を巡らせた。
(生きて、いるのか?)
果たして五体満足なのかどうか。
身体を動かそうとするも、何故か上手く動かない。
五感すらも、どこか曖昧で鈍い。
(くそっ…… 一体ここはどこだ? 俺はどうなったんだ?)
部下も眷属もいない今、つい素で焦ってしまうダイモスはなんとか落ち着こうと深呼吸しようと思った。
そもそも呼吸ができるのかすら把握できていなかったが。
そのとき。
きゅっと身体に何かが纏わりついていることにダイモスは漸く気づいた。
少しずつだが、感覚が蘇りつつあるのだ。
だが、そうなると今ダイモスを拘束しているのは一体何なのだろうか。
(くそったれ! 何も見えねぇ…… 俺の目は飾りもんにでもなったのか?)
ある意味それが正解であることを後のダイモスは知る事になる。
「んん……」
くぐもった声が耳に入る。
ダイモスは突然の気配に驚きながら、自分をぎゅうぎゅうに羽交い絞めにするそれが徐々に鮮明になっていくのが分かった。
(な……!?)
叫び出しそうになったが、ダイモスの口はまったく開かない。
それに気づく余裕もないほど、ダイモスは少しずつ明るくなる視界に見えた光景に絶句した。
やがて、《それ》はもぞもぞと動き出す。
「ふぁ~……」
小さな口で欠伸をしながら、今だ寝たりないのが分かる目を擦る。
「んん~ ……うさちゃん、おはよう……」
ダイモスには聞き慣れない、ふにゃふにゃに甘く舌足らずな声だ。
今だ夢の世界に半分意識を持って行かれつつも、それはダイモスをぎゅっと胸に抱きしめて嬉しそうに笑った。
「きょうも、いーっぱい! あそぼうね♪」
ふふふっと鈴を転がしたような声でダイモスは笑いかけられる。
ダイモスはひどく困惑していた。
巨人族の娘に抱きしめられたかと思えば、随分と良くなった視界に映る自身の腕に驚愕した。
「……!?」
そして、自分の口が縫い付けられたように動かないことにも今気づいた。
数分後。
謎の巨人族の少女に抱っこされたまま鏡の前に連れて行かれたダイモスは危うく意識を失うところだった。
にこにこと微笑む少女の腕に抱えられた無機質な目と目が合ったときのダイモスの心境はまさに絶望だった。
「ねぇ、うさちゃん。きょうはなにしてあそぶ?」
「………………」
ダイモスの目は死んでいた。
いや、そもそもその目は円らな形に反してひどく無機質だった。
ダイモスは何故か、兎らしき耳のついたなんだかよく分からないもこもこ体型になっていたのだ。
それが俗にいう人形、《ぬいぐるみ》だと知るのはもう少し後である。