魔法の知恵の輪
PART Ⅰ
とんがり屋根の工場の煙突の向こうに、赤い夕日が沈む頃、少年はネオンが輝き始めた街からとぼとぼと歩いて帰ってきた。なんともやる気のない疲れた足取りで、川沿いの道を行く少年の背中に煙突の長い影が差していた。
少年は、本当にやる気をなくしていた。家にいても、学校に行っても楽しいことなんて何もなかった。誰も相手にしてくれないからだ。父ちゃんも母ちゃんも、毎日「忙しい、忙しい」ばかり口癖のように繰り返すだけで、まともに話を聞いてくれたりしない。たまに少年の方から話しかけても「お金かい? いくらいるんだ?」と言って、千円札を二三枚くれる。「お金なんて本当は要らないのに‥」少年は心の中でそう呟く。でも、父ちゃんにも母ちゃんにも、そんな少年の声なんて全然聞こえていないみたいだった。いつも「忙しい、忙しい」と繰り返すだけだ。
少年は塾へ通い、両親が進める私立の進学校へ背伸びをして入学した。だから学校だってそうだ。背伸びをして進学したから、勉強ができるわけでもなく、部活もせず、体育やスポーツが得意ということもなく、学食だって美味しいとは思わない。先生は、成績のことばかり口にするし、友だちだってみんな自分のことばかり考えているから、おとなしい少年のことなんか誰も相手にしてくれたりはしない。少年はいつも独りぼっちだった。やる気を出せというほうが無理な話だ。
とんがり屋根の煙突の長い影が、少年の背中を飛び越して、更に長く伸びていった。少年は、うつむきながら川沿いの道をゆっくりと歩いていた。その時、少年は自分の目の前三メートルほど先の道端に、何か光る物が落ちているのに気がついた。
「なんだ?」と思って、少年は光る物のそばに近寄ってみた。拾い上げた少年の手のひらには、金色に輝く知恵の輪の片方だけがぽつんとのせられていた。「なんだ?」少年は思わず呟いて辺りを見回してみた。夕暮れは、もう黄昏に変わっている。辺りは静まりかえっていて、ただ川の流れる音だけが休みなく続いているだけだった。
PART Ⅱ
少年は自分の部屋でぼんやりしていた。少し遅い夕食をとった後は、本当に独りぼっちの夜しかなかった。見たいテレビ番組もないし、聴きたい音楽もなかった。机の上には読みかけの雑誌‥
ベットに腰掛けていた。手のひらには、さっき拾ったあの知恵の輪がのせられている。捨ててしまってもよかったのだが、結局家まで持って帰ってきてしまったのだ。知恵の輪の美しい輝きを見ていると、ふっと心のどこかで暖かい風に包まれているような気がした。それに、片方だけの知恵の輪は、必ずもう一つ別の知恵の輪と結びついている。つまり少年は、もう一つの知恵の輪を持つ誰かと見えない糸でつながっているような気がしたのだ。少年は馬鹿らしいなと思いながらも、ぼんやりと本来の持ち主であるもう片方の知恵の輪を持っている人のことを考えてみた。
「こんなに美しい知恵の輪の持ち主なんだから、きっと可愛い女の子なんだろうな。うん、きっとそうだ。お金持ちで、可愛くて、そして‥そして、きっと寂しがりやの女の子に決まっている。」
少年は空想の世界の中で、一人の女の子を描きながら、軽く微笑んでみた。‥でも、それっきりだった。やがて微笑みはため息に変わり、寒い部屋が余計に冷え冷えと静まってしまうだけだった。少年は知恵の輪を机の引き出しの中に入れ、少し早かったが、することがないので眠ってしまった。
次の日の夜、少年が眠ろうと思ってベッドの中に入った時、部屋の窓を叩く音がした。「誰だろう?」少年は不思議に思って、窓の鍵を開けてみた。するとそこには少年の知らない少女が一人ちょこんとたたずんでいた。少年は、あっけにとられてしまい、暫くの間何も言えなかった。いくら窓といったって、ここは住宅街の一角にあるマンションの五階だ。
「君は誰? どうやってここまで来たの?」
「私、私はサチカ。探し物があって、ここまで来ました。」
「サチカ? ‥変わった名前だね。‥で、探し物って何だい?」
「知恵の輪です。」
「知恵の輪?」
少年は、その言葉に思わずビクッとした。「そうか、あの知恵の輪はこの子の物だったのか‥」少年は感心するように、自分の目の前にいる少女を見つめた。
「あのぉ‥」
「えっ?」
「中に入ってもいいですか? ここ寒くて少し疲れるんです。」
少年は、中に入ってきた少女と向かい合ってみて、初めてその少女がとても美しい娘であることに気づいた。今まで一度も見たことのない、美しく可愛い女の子だった。多分、自分と同じ年ぐらいなんだと思う。窓を隔てて見た時とはまるで違う感じのする、おとなしそうな女の子だった。
「それで? 一体どういうことなのか、もう少し詳しく話してみてくれないかい?」
「はい、実は‥」
と言いかけて、少女は自分の胸のペンダントをはずし、それを少年の目の前に差し出した。それは、美しく銀色に輝く『片方の知恵の輪』
だった。
「この銀の知恵の輪のもう片方の金の知恵の輪を探しているんです。」
「どうして?」
少年は、不意に自分の心の中に意地悪な風が吹き抜けていくのを感じてしまった。「あぁ、それならここにあるよ」と言ってしまえば、それですむ筈だったのに、心のどこかで「今返してしまったら、それっきりじゃないか」という思いがわきあがってきたのだ。考えてみれば、友達のいない少年は、今までにこんなふうに女の子と話したことなんて一度もなかったのだ。もう少しの間この女の子にここにいてもらいたかったので、少年は暫くの間知らんぷりをすることにした。
「私、あの知恵の輪がなかったら困るんです。あれは私にとって、とても大切なものなんです。」
「何故?」
「あの‥実は‥ 私、魔女なんです。」
「えっ? 魔女?」
少年は、思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。
「魔女って、あの箒に乗って空を飛んだり、魔法を使ったりする、あの魔女のこと?」
「ええ、そうです。まだ見習いなんですけど‥ それで、一人前の魔法使いになるために『魔女検定試験』に受験するために、魔界からこの人間世界に来たんです。」
「魔女検定試験?」
「はい。一人前の魔女になるために、試験官から三つの問いを出されるのです。私の場合、一つ目の問いは『人間社会で不必要になった道具をいかにして有効に使うか』というものでした。私は、山の中の谷川のそばにあった今は使われてはいない水車小屋の水車に『不思議の鐘』を取り付けて、小鳥や動物たちに楽しい音楽を聞かせてあげられる楽器にしました。コトコトコットンと水車が回るたびに『不思議の鐘』は楽しく美しい音楽を奏でてくれるんです。」
「ふ~ん‥」
少年は、もちろん心の中では、少女の話すことなんて全然信じていなかった。魔女だなんて、この世の中にいるわけないじゃないか。この少女は、きっとメルヘンチックな夢を見ているのか、そうでなくっちゃきっと頭がおかしいんだ。
‥でも、少年は少女の話をやめさせようとはしなかった。この自分の目の前にいる少女の、優しそうな眼差し、歌うような声、甘く切ないラベンダーの花の香り‥ 今はただ、少女の側にいるだけでいい。たとえそれが、少年にとってどんなに馬鹿げた話であったとしても、誰とも話さず独りでいるよりはずっといいではないか。話の中身なんて問題じゃあない。
「それで? 二つ目の問いというのは、どんなものだったの?」
「二つ目の問いは『冬眠できなくて困っている蛙を助けてあげるには、どうすればいいか』というものでした。‥これはとても大変でした。北の国で、眠れなくて困っている蛙さんを探し回って、やっと見つけたのですが、その蛙さんは、あくびばかりして、私の話をちっとも聞いてくれないんです。タイマー付きの睡眠薬というのもありますが、これでは来年も、その次の年も困ってしまうので、とにかく私は、蛙さんの悩みを聞いてあげることにしました。そしたら、その蛙さんの悩みというのが『夢を見るのが恐い』ということだったんです。そこで私は蛙さんの夢の世界の中に入り込んで、枯れた花々を七色に咲かせ、暖かい太陽の光を振りまき、小川にはたくさんの蛙さんの仲間たちを遊ばせました。‥そんな楽しい春の世界になったところで、蛙さんを呼び出したんです。始めは恐がっていた蛙さんも楽しい夢の世界に来て、思わず『素晴らしいなぁ。まるで夢のようです!』って叫んだんです。おかしいでしょう? だって、そこは蛙さんの夢の中の世界だったんですもの。」
「‥それで? その蛙さんはどうなったの?」
「これで安心して眠ることができますって言って‥それでもう眠る準備を始めちゃったんです。」
「ふぅん。‥それで、三つ目の問いというのは、どんな問いだったの?」
PART Ⅲ
少女は、魔女検定試験に合格するべく、魔界から人間世界に降りてきたのだけれど、どうにかこうにか二つの問いにパスして、いよいよ最後の問いに取り掛かろうとしていた。三つ目の問いというのが一番難しいというのが魔女見習いの仲間の評判だった。何故なら、三つ目の問いというのは人間相手であることが多いからだ。「人間」というのは、だましたつもりでいても反対にだまされたりするし、せっかく親切に何かをしてあげても、ちっとも気づいてくれなかったり、自分たちが一番偉いと思っている。動物や植物の妖精、そして魔法使いのことなんて全然気にもとめていないことが多いからだ。もちろん、この世の中に「魔女」がいるなんて本気で信じている人間なんて今ではほとんどいない。そんなわけで、少女も気持ちを引き締めて頑張らなければいけないなと思っていた。
少女の三つ目の問いというのは「独りぼっちの人間に愛する喜びを与えるには、どうすればいいか」というもので、やはり人間相手のものだった。少女は、自分が一人前の魔女になれる日を夢見て、人間が住む街にやってきた。そして『心の望遠鏡』を取り出し「独りぼっちの人間」を探し始めた。 ‥ところが、いざ探し始めてみると「独りぼっちだと思っている人間」が余りにも多いことに気がついたのだ。
「これは一体どういうことなの?」
少女の目から見ると、こんなに素晴らしい文明社会を持っている人間が、どうして寂しい独りぼっちばかりなのか、不思議でならなかったのだ。
少女はどうすればいいのか分からなくなってしまった。一体誰に「愛する喜び」を与えたらいいのか‥ 来る人も来る人も、みんな寂しそうな影を引きつれて歩いていた。困り果てた少女は、仕方なく「魔法の知恵の輪」に相談してみることにした。少女は知恵の輪のペンダントを手のひらにのせ、絡まったままの金と銀の知恵の輪を二つに離して、片方の金の知恵の輪を指でつまみながら「ねぇ、一体どうすればいいと思う?」と呟いた。
風は秋色のベールを脱ぎ捨てて、少しずつ冬の香りが混じっていて、肌寒い感じさえするほどだった。魔女検定試験の締め切りは、後もう何日もなかった。少女に残された時間はわずかしかない。迷っている暇はなかった。とにかく、早くしなければ‥
‥と、その時少女は、たった今まで指につまんでいたはずの金の知恵の輪が無くなっているのに気がついた。慌てて自分の身の回りを探してみたけれど、どこにも見当たらない。少女がぼんやりと考えごとをしている間にどこかへ転がってしまったのだろうか? 少女は、まだ見習いの魔法使いだったので、「魔法の知恵の輪」がなければ、魔界に帰るための呪文を唱えることさえできないのだ。魔女検定試験どころではなかった。
「困ったなぁ‥ とにかく、探さなくっちゃいけないわ。」
少女は、夕暮れの闇に包まれていく人間の街の方へと向かって、ゆっくりと川沿いの道を歩き始めたのだった。
PART Ⅳ
少年は、今自分の前にいるサチカという少女が心配そうに話す横顔を眺めながら、ぼんやりと考え事をしていた。少女の話は何から何まで信じられないことばかりだった。魔法使いだの、魔女検定試験だの‥ 誰が聞いたってきっと笑い出すに決まっている。
しかし、少年が考えていたのはそんなことではない。この少女が探し物をしているということは、どうやら本当のことらしい。そして、その探し物である「魔法の(?)知恵の輪」の片方を持っているのが、この自分であることも確実なのだ。問題は「この先、一体どうすればいいか」ということだった。何もかも全部話して「知恵の輪」を少女に返してしまうか、それとも‥ 少年は、さっきからそんなことばかり考えていた。だから少年は、少女が「それでね?」と声をかけた時にも、思わず「えっ?」とたじろいでしまったのだ。
「‥だから、それでね? 貴方がもしかして知恵の輪のゆくえを知っているかなと思って、今夜こうして訪ねて来たんです。」
「あぁ、知恵の輪ね‥」
少年は、また心の底の方で激しい痛みのようなものを感じながら、「どうしよう?」と迷った挙句、思い切って少女の瞳をじっと見つめながら、ゆっくりと言った。
「知恵の輪が‥どこにあるのかは、知っているよ。」
「えぇっ?」
「‥ただ、君がもしも本当の魔女見習いで、僕の願い事を一つだけ叶えてくれるのなら、教えてあげてもいいよ。」
少女は、驚きと喜びがごちゃごちゃになったような瞳で少年を見つめていた。この今の気持ちをどう言葉にすればいいのか、よく分からないというような感じだった。
「‥どうするの? 僕の願い事を叶えてくれるの?」
「‥願い事って、どんなことですか? もしも知恵の輪のことを教えてくださるのなら、私にできることは何でもします。」
「本当だね? ‥それじゃぁ言うけど、僕を君たちが住んでいるという国『魔界』へ連れて行ってほしいんだ。君といつまでも一緒にいたいんだよ。」
「えぇっ? 魔界へ? ‥それは、ちょっと無理だと思います。」
「どうして? 魔法使いの君にできないはずはないだろう?」
「それは‥確かにそうですけど、人間は魔界に行ってはいけないんです。そういう決まりがあるんです。もしも魔界で誰かに見つかったら、二度と人間世界に戻ってこられないばかりか、魔界の罪として『石』にされてしまいます‥」
「構わないよ。ここにいるよりは、ずっと君と一緒にいられる方がマシだよ。」
「どうしてですか? 貴方は今の生活に満足していないのですか?」
「もちろんさ。ここに独りでいるのはもう嫌なんだ。寂しいんだよ。たまらなく寂しいんだよ。」
「寂しい? 貴方も『独りぼっち』なんですか?」
「あのね? 君は、誰もいない所に一人でいることが『独りぼっち』だと思っているらしいけど、それは違うよ。知っている人がたとえ何百人いたって、その誰からも相手にされなくなった人間が、本当の『独りぼっち』だと言えるんじゃないのかい?」
「じゃぁ、貴方は『本当の独りぼっち』だと言うんですか?」
「あぁ、そうだよ。‥親からも、学校からも、そして友だちからも見放された、正真正銘の独りぼっちさ。」
少女は、暫くの間目を閉じ、考え込んでいたけれど、やがてゆっくり目を開け「分かりました」と呟いた。
「貴方が、知恵の輪のありかを教えてくださるのなら、貴方を魔界へご案内いたしましょう。」
少年は、ここらが潮時だなと思い、立ち上がると自分の机の上の引き出しから、片方の知恵の輪を取り出し、その美しい輝きを手のひらで味わいながら、少女の前に座り、ゆっくりとそれを差し出した。
「君が探している知恵の輪というのは、これだね?」
少女は美しい瞳を、よりいっそう輝かせながら頷いた。そして、少年の手から金の知恵の輪を受け取ると、さっそく自分のペンダントに残されていた銀の知恵の輪と結びつけてみた。少年は、少女の手の中で軽く震えながら銀の知恵の輪と絡まって一つの知恵の輪になってしまった金の知恵の輪を見つめながら、ちょっぴり後悔する気持ちと「これでいいんだ」という気持ちがごちゃ混ぜになってしまい、思わず目をそらしてしまった。
「ありがとうございます。これで安心して魔界へ戻ることができます。」
少女は瞳を潤ませながら、囁いた。
「これでいいんだ。こちらこそ、すまなかったね。もっと早く返してあげればよかったんだけど‥ さぁ、もう遅いからお家へお帰り。」
少年は、自分に言い聞かせるようにそう呟いて、少女の方へ目を向けた。これでいいんだ。少年は少女の話なんて始めから信じていなかったし、もちろん自分が少女と一緒に『魔界?』へ行けるなんて本気で思ってはいなかった。‥ただ、少年は少しでも長い間、この少女と一緒にいたかった。ただそれだけなんだ。だから、これで少女がこのまま黙って帰ってしまえば、少しだけびっくりした。「楽しい思い出」になるはずだった。
ところが、やがて立ち上がった少女の口からこぼれた言葉は、こんなものだった。
「さぁ、約束ですから‥出発しましょう。」
「えっ? 何を言ってるの君は‥ まさか本気で僕を『魔界』に連れて行くつもりなのかい?」
「はい。もちろんそのつもりです。魔法使いは、例え見習いであっても約束を守るように教えられてきました。」
「だって、君‥ 作り話じゃなかったのかい? 君は本当に本物の『魔女』なの?」
「はい。魔界では『知恵の輪のサチカ』と呼ばれています。」
「知恵の輪の‥サチカ‥?」
少年は、驚きの余り少女が話す言葉の意味が分からなくなってしまった。冗談のつもりだったのに、この少女はまだ本気らしいのだ。少年はどうすればいいのか、よく分からなくなってしまった。せっかく少女に別れのチャンスをあげたつもりなのに、この少女はまだ夢の世界にいるらしい。仕方ないから、少年は少女の夢に付き合うことにした。
「分かった。僕はいつでもいいよ。」
少年も立ち上がって、少女の瞳をじっと見つめた。少女はゆっくり頷くと、まるで妖精のように可愛らしく挨拶をして「これから、私の言うことをよく聞いて、決して驚いたりしないで、私のやるようにしてくださいね?」と囁いた。
「分かった。」
「では、ただ今から魔界へ出発します。‥まず貴方に魔法をかけますので、目を閉じて大きく深呼吸してください。」
少年は、少女の言う通り目を閉じて、大きく深呼吸した。そして、少年がそのまま黙っていると、どこからか不思議な音楽が流れてきた。やがて少年の唇に甘いラベンダーの香りがする温かいものが触れるのを感じた。少年は軽い眠気に誘われながら、薄れ行く意識の中で、今自分の唇に触れたのが「少女の唇なんだ!」と思った時には、もう夢の世界に入り込んでしまっていて、何がなんだか分からなくなってしまったのだった。
PART Ⅴ
少年は、長い長い夢を見ているような気がした。牛やキリン、その他いろいろな動物の夢‥ アメリカやオランダ、その他いろいろな国の夢‥ それに、自分の記憶を遡っていく夢‥ 懐かしい風景、優しかった父ちゃんや母ちゃん。一緒に山にハイキングに行った時、川で水遊びをしていて、川に流されてしまった少年を必死になって助けてくれた父ちゃん。ずぶ濡れになった二人の服を焚き火で乾かしながら、涙混じりで笑っていた母ちゃん‥ そんな幼い頃の思い出が、少年の胸を熱く通り過ぎて行った。少年は、薄れ行く意識の中で、父ちゃんと母ちゃんの話す声を聞いた。
「ケンタのためだ。二人で力を合わせて働かなくっちゃいけないだろう。」
「でも、この子はきっと寂しい思いをするわよ。」
「俺はこいつに、いい高校、いい大学に入ってもらいたいんだ。‥だが、そのためには、いい塾に入れないといけないし、とにかくたくさんの金がいるんだ。不景気で今の俺の稼ぎだけじゃ、満足に絵本だって買ってやれやしない。俺もお前も働いて働いて、働きぬいて、こいつのためにお金を稼ぐんだよ。こいつにだけは、金のことで不自由をさせたくないんだ。」
「私たちには、ケンタしかいないんですものね。この子のためにも、頑張らなくてはいけないのね。」
少年は、暗い闇の中にいて、ぼんやりとしていた。意識はほとんどなく、身体も自由に動かない。誰かが少年を呼んでいるのだが、その声はとても遠くて、誰が少年を呼んでいるのかはっきりしなかった。
「ケンタ‥」
「父ちゃんなの?」
「ケンタ‥」
「母ちゃんかい?」
「ケンタ‥」
声は段々近づいてきて、辺りに甘い香りが漂ってきた。「こっちだよ!」少年は思わず声をあげ、それと同時に目を覚ました。
「あれっ?」
「目覚めたのね?」
「ここは‥?」
「もうすぐ魔界に着きますよ。貴方の願い通りにここまでご案内してきたのです。」
少年は、ゆっくりと起き上がり、自分の隣にいるのが、サチカという魔法使いの見習い(?)の少女であることに、戸惑いと安心した気持ちになって、同時に周囲の様子が自分の部屋ではない、不思議な空白感に包まれていることに気がついたのだ。
「ここは‥?」
少年は、周囲をもう一度見回し、そこが現実の世界とは完全に違うことに気がついた。何故なら、そこは地上ではない、空の上だったからだ。もちろん、飛行機やヘリコプターでもない、ただの空中だったのだ。つまり少年と少女は、白いシルクの布の上で空中に浮かんでいたのだ。
「ちょっ、ちょっ‥ちょっとここは空の上なのかい?」
「はいそうです。魔界の入り口です。」
「そんな馬鹿な‥」
PART Ⅵ
少年は、少女の言っていたことが、本当に本当だったんだということを知った。確かに少女は魔女だったし、約束通り少年を魔界へ連れてきてくれたのだ。少年の目には、お伽話に出てくるような魔法の国が眩しく感じられた。
しかし、少年にはまだ何となく信じられないような不思議な感じがあって、ただあっけに取られてしまうしかなかった。少女は、そんな少年の戸惑い方がおかしいのか、クスッと笑いながら少年に話しかけた。
「今、私たちの下に広がっているのは『想い出の森』という所で、たくさんの死に絶えた生物‥動物や植物、そして人間たちが暮らしているところです。この森では、人間はもちろん、動物や草花さえ言葉を持ち、みんなが仲良く楽しく暮らしているんです。アルキメデスも、織田信長も、小さな蟻さえも、みんなここで一緒に生活しているんです。‥つまりここは人間が言う『天国』のような所なんです。」
「じゃぁ、死んでしまった人間や動物は、みんなここに住んでいるのかい?」
「ええ。」
「だったら、僕のコロも、ここにいるのかなぁ‥」
「コロ?」
「あぁ、僕の大切な小犬さ。‥三年前にダンプに轢かれて死んじゃったんだけれどね。」
少年は、愛犬コロのことをふっと思い出していた。楽しかった頃のことが、はっきりと甦ってきたのだ。生まれたての野良犬を拾ってきた日のこと。父ちゃんや母ちゃんに隠れて育てようと思いながら、ご飯を探しに行った隙に見つかってしまった時のこと‥ 始めは「このマンションでは犬は飼えないのよ」なんて言っていた母ちゃんが、泣いてばかりいた少年と、小犬の余りの可愛さに負けてしまい「隠れて育てようか?」なんて言って、すっかりその気になって、二人で夕焼けの河原に散歩に出かけた時のこと‥ そんな楽しかった日々のことが、少年の心の中でメリーゴーランドのように駆け抜けて行った。
そのコロが、ダンプに轢かれたのは、飼い始めて三ヶ月目のことだった。散歩の帰り道に、ちょっと油断した隙に、道路に飛び出してしまって‥ あっけない一生だった。
「きっと‥ 貴方のコロもこの森にいると思います。‥でも、貴方を見ても、どこの誰だか分からないんですよ。」
「どうして? あんなに可愛がっていたんだもの! 会えば分かるに決まっているよ!」
「それが駄目なんです。‥『想い出の森』の住人たちは、みんなカタルシスといって、生きていた頃の記憶を消されてしまって、のんびりと暮らしているんです。過去もなく、病や死もなく、自分が誰なのか、何故こんなところにいるのかも分からずに、自由に生活しているんです。死んでしまった者にとって、生きていた頃のことは心残りですから‥ そんな煩わしいことは忘れて、のんびりと暮らすのが、この森のねらいらしいんです。」
「ふぅん‥」
「‥じゃぁ、次に行ってもいいですか?」
少女が、人差し指を立てて軽く二三度振り回すと、白いシルクの布はゆっくりと動き始めた。少年は「まるで魔法の絨毯みたいだな」などと思いながら、コロのいる『想い出の森』に、ちょっぴり心を残しながら、次の場所へと移動していったのだった。
二人が乗ったシルクの布は『想い出の森』を後にして、夕日が美しく輝いている海岸へたどり着いた。二人はシルクから飛び降りて、砂浜で貝殻を集めたり、水遊びをしたりして思いきり遊んだ。
「こんなに綺麗な海岸、今まで見たことないよ。」
「ねぇ、何か気がつきませんか?」
「何かって、何?」
「あの夕日‥」
「夕日? ‥そう言えば、さっきからずっと太陽が沈まないね?」
「ここは『夕焼けの海岸』という所で、一年で一番美しい夕焼けが大切に保存されているんです。」
「ふぅん‥ どおりで綺麗なはずだね。魔界ってすごいね!」
「次は『虹の館』という所にご案内しますね?」
「虹の館?」
少年は、少女と共にシルクの布に乗り、汚れた手や足の砂を払い落とした。少年は、自分の手についた砂の粒を見て、おかしなことに気がついた。つまり砂の粒の形が変わっているのである。いや、変わった形どころではない。よく見てみたら、鋏や鉛筆の形や、車や飛行機の形もあるし、ギターやラッパの形だってある。
「この砂、おもしろいね?」
「あぁ、これは、海の妖精たちが作った砂の細工なんですよ。」
「とても小さいのに、よくもまぁこんなに綺麗に作れるもんだなぁ‥」
「海の妖精たちは、波しぶきの小さな泡の中にも細工ができるほどに器用なんです。」
「ふぅん‥ 魔界って、本当にすごいんだね!」
いつまでも沈まない『夕焼けの海岸』に別れを告げた二人は『虹の館』にたどり着いた。『虹の館』は小高い丘の上に建てられていて、その名の通り七色の虹に包まれている、とても美しい館だった。少女は、白いシルクを館の前庭にある泉のほとりに降ろすと、少年を誘い、四季の花々に包まれた庭の中を踊るように歩き始めた。少年は、お伽話の西洋のお城のように美しい風景に少し戸惑いながら少女の後について行った。
やがて二人は、館の庭を通り抜けると、薔薇の花で囲まれた金色の大きな門をくぐり抜け、重い扉をきしませながら館の中へと入って行った。館の中はとても静かで、古い洋風の家具が並べてあり、古びた物が持っている美しさで包まれていた。
「ここは、五千年の歴史を持つ古い館なので、少しカビくさいかもしれませんが、それでも館の中の七つの部屋は、今でも大切に保存されているのです。」
「七つの部屋?」
「そうです。この館は、その名の通り虹色に輝いていますが、それはこの館の中の七つの部屋が、それぞれ虹の色を作り出す仕組みになっているからなのです。赤、橙、黄、緑、青、藍、紫‥それぞれの部屋で美しい光の糸を織り成す妖精たちの仕事場になっていて、やがてそれぞれの糸が一つに絡まって、七色の虹に仕上げられるのです。」
「こんなに美しい館だからこそ、本当に美しい虹ができるんだろうね。」
「虹は、私たちの世界と人間の世界を結ぶ大切な架け橋になるんです。だから、私たちにとって、この館は一番大切な宝物なのです。」
「そんなに大切な所に来ても大丈夫なのかい? 見つかったりしないかな?」
「大丈夫だと思います。‥ただ、虹の妖精たちは、大きな音が嫌いなので、大声を出したり、大きな音をたてたりすると管理人に捕まってしまいますから気をつけてくださいね。」
少女は、そう言うと微笑みながら軽く人差し指を口にあてた。
「じゃぁ、黙っていればいいんだね?」
少年は、肩を寄せながら小声で囁いた。それから、ずっと気になっていたことを少女に尋ねた。
「‥それにしても、さっきから気になって聞こうと思っていたんだけれど、この世界には、君以外の魔法使いがいないみたいだね? 他の魔法使いはどこにいるの?」
少女は、少しうつむきながら、ためらいがちに更に小声で、呟くようにこう言った。
「それは‥ 魔界の住宅地区に行っていないからです。あそこへ行くと、貴方はすぐに見つかってしまいます。見た目に貴方は私たちと変わりませんが、私の知恵の輪のように、魔法のアイテムを持っていない貴方は、すぐに人間なのだと分かってしまうのです。‥私が、貴方を魔界へご案内したのは、貴方の心に『愛する喜び』を見つけて欲しかったからなのです。貴方がここで見たものは、すべて魔界の美しい部分ばかりなんです。魔界は、もともとはこんな美しい楽園ばかりだったのですが、最近は少しずつすさんできているのです。‥貴方は、ここへ来る前に、魔界で住みたいなんて言っていましたが、それは‥きっと無理だと思うんです。愛する心を持てない者にとっては、魔界も人間世界も同じなんです。いつかは飽きてしまって、ただのつまらない所になってしまうのです。‥貴方は、もしも魔界で暮らすことになったとしたら、五百年も千年も生き続けられることができますか? 私は‥こう見えても、もう三百年も生きているんですよ? 『ただの魔女の見習い』として‥ 貴方にそれができますか?」
「‥‥」
少年は、言葉につまってしまい、何も言えなかった。少女の呟く一言一言が、少年の心を重く打ちつけていた。五百年、千年という言葉の重みもさることながら、『愛する心』を持てずにいる自分がたまらなく悲しかったのだ。そんな少年を、優しくいたわるように見つめながら、少女は少年の耳元で囁いた。
「さぁ、それでは参りましょう。虹の館は、きっと貴方に『愛する喜び』を与えてくれると思います。‥ここから始まるんですよ。貴方の人生も、そして私の人生も‥」
「サチカ‥僕は‥」
「自信をお持ちなさい。貴方は本当は寂しいだけ‥ 心を開いて素直になればいいんですよ。」
少女は、少年の手を取り、館の奥へと入って行った。館の中は暖かい光に包まれていて、どの部屋を見ても美しく、そして五千年という歴史の持つゆとりに支えられている感じがした。「敵わないな」と少年は思った。砂や水しぶきにさえ細工をする海の妖精たち、そして三百年たっても見習いのままの魔法使い‥ 少年いとっては、どれをとっても、とても真似のできないことばかりだった。どの部屋も限りなく美しく、どの部屋も今まで一度も見たことのない優しさに溢れていた。少年は、思わずよろけそうな身体を支え、そしてそこにいるはずの少女を振り返った。
‥ところが、そこには誰もいなかった。さっきまではサチカが一緒にいたのに‥ どこで迷ってしまったのだろう? 少年は、急に不安になり、それでも小声で「サチカ?」と呼んでみた。‥しかし返事はなかった。少年は、いつの間にか「独りぼっち」になっていた。それは少年にとって、今まで「当たり前」のことで、ずっと慣れていたはずだった。そうだ。少年は、ずっと「独りぼっち」だったんだ。それなのに、今はたまらなく不安だった‥
「サチカ?」
少年は、もう一度少女の名を呼んだ。少年の心には、どうにも消せない炎のようなものが燃えているのが分かった。少年は、今自分がいた「緑の部屋」を出て、「青の部屋」へと向かった。隣の部屋と言っても、広い館の中では、細長い廊下を歩かなくてはいけない。頭の中は空っぽで、ただ少女の微笑む顔だけが少年の心を捉えて離さなかった。少年は、段々速く、やがて走り出すようにして「青の部屋」へと駆け込んで行った。そして、そこで少女の後姿を見た途端、つい大声で「サチカ!」と少女の名を呼んだ。
振り向く少女の困惑したような顔‥少年は慌てて口を抑えたけれど、もう遅かった。辺りは次第に光を失い、暗い闇へと変わっていった。少年は少女の名を、そして少女は少年の名を互いに呼び合いながら、それぞれの闇の中へと落ち込んでいったのである。
PART Ⅶ
少年は、暫くの間何が起こったのか、よく分からなかった。今はただ暗闇が続くだけの、どことも分からない世界だった。
「ここは、どこなんだ?」
少年は、記憶の糸をたどりながら、何故自分が今ここにいるのかを考えた。
「僕は、サチカと一緒に『虹の館』にいて‥ そうだ。僕がサチカからはぐれてしまって、そして僕が大きな声を出してしまったんだ。だから、こんな所に‥ サチカ? サチカはどこにいるんだ? これから一体、僕たちはどうなるんだろう?」
少年は、何をどうしたらいいのか分からなかった。とにかく待つしかない。これから始まる何か‥ それを待つしかなかった。少年は、膝を抱えて座り込んだ。そして、あの暖かい春の日差しに包まれた『想い出の森』や、いつまでも沈まない『夕焼けの海岸』や、雨上がりの爽やかさと、古い歴史に守られた『虹の館』のことなどを思い出した。そして、そのどの思い出の中にも、必ずサチカが寄り添っていた。少女と一緒にいるだけで心が暖まる気がした。こんなに安らかな気持ちになったことなんて、本当に随分久しぶりだった。少年は、少女の美しい眼差しを心の中に描きながら楽しい空想に耽っていた。
‥と、その時である。少年の耳に、ざわざわと人の声のような物音が聞こえてきた。「あれっ?」と思って、立ち上がった少年の目の前に、二つの大きな火の玉が見えてきた。少年はずっと暗闇にいたので、その火の玉の光が眩しくて、思わず目をそらしてしまった。すると、その火の玉の方から、重くのしかかるような低く大きな声が響いた。
「目をそむけるでない。ただ今より裁判を行う。被告人を連れて参れ!」
「裁判? ‥被告人?」
少年は、聞き慣れない言葉に驚いて、火の玉の方へ向き治った。火の玉だと思っていたのは、実はとても大きな二つの暖炉の炎だったのである。左側の暖炉の炎は、赤く激しく威圧的に燃え上がっていた。右側の暖炉の炎は、熱を感じさせないほどに青く美しく燃えていた。そして、二つの暖炉のちょうど中央に、大きな、そしてとても立派な椅子があって、その椅子に、鬼のように恐い顔をした大男が座っていた。少年は、その大男の顔を見て、初めて「裁判」というのが、自分とサチカの裁判なんだということに気がついた。
「ケンタ‥」
少年は、聞き覚えのある美しい声に、思わず振り返った。そこには、悲しそうな瞳でじっと少年を見つめている少女がいた。
「サチカ!」
少女は、二頭の羽根の生えた馬の間に挟まれるようにして連れてこられてきた。悲しみをこらえきれずにいる少女の顔を見た少年は、思わず「大丈夫?」と囁くように声をかけた。少年の隣に連れて来られた少女は、少年の元気そうな顔を見て、ホッと安心したように、ゆっくりと頷いて涙声で言った。
「ごめんなさい。私のためにこんなことになってしまって‥ 私、貴方に何て言ったらいいのかしら‥」
「何を言っているんだ。悪いのはみんな僕じゃないか。我がままばかり言って、君を困らせたのは、みんな僕じゃないか。‥そんなに悲しそうな顔をしないでおくれよ。」
少女の瞳がキラッと輝いたのは、きっと自分の気持ちが少女に伝わったからだと、少年は思った。
「では、これより魔女見習い『知恵の輪のサチカ』の裁判を行うこととする。判定は、この魔王自身が行う。何しろ魔界始まって以来のことであるからして‥慎重に審議せねばならぬ。‥罪状は、そこに控えし魔女見習いのサチカが、ケンタとか申す人間をこともあろうに魔界へ連れて参った‥とあるが、サチカよ、その罪状に間違いないか?」
「はい。間違いございません。」
「うむ。‥聞くところによると、そなたは『魔女検定試』の最中だったと聞くが、その事実について、証人として魔女検定試験官の証言を聞くこととする。」
二つの炎の中央に座っている大男‥魔王は右手を軽く上げ、左右に二三度振ったかと思うと、間もなく少年と少女の目の前に白いマントのような衣装を着た一人の老人が煙のようなものに包まれながら現れ出てきた。驚いている少年の耳元で、少女が「魔女検定試験官のゼノン先生です」と教えてくれた。
「お呼びでございますか? 大魔王様。」
検定試験官のゼノンは、魔王の前で深々と一礼し、うやうやしく言った。
「うむ。そなたに聞きたいことがあってな。そこに控えしサチカのことじゃが‥」
ゼノンは、後ろへ振り向き、サチカの顔を見届けると「このサチカが、何か‥?」と聞き返した。
「うむ。そのサチカが、実は重大な罪を犯してのぉ‥ その罪というのが、それ、その隣におる人間を、この魔界へ連れて参ったのじゃ。」
「はぁ? 人間をでございますか?」
「そうじゃ。」
「そんな馬鹿な。サチカは魔女見習いの中でも、とても真面目で成績優秀。心も優しく、他の者の良き手本として、今回の検定に臨んだのでございます。とてもサチカがそのような大それたことをするとは思えません。何かのお間違えでは‥?」
「何、間違いじゃと?」
「いいえ! 大魔王様に限って、そのようなことはございませんでしょう。‥きっと、その人間にだまされたのではないかと思うのですが‥」
「なるほど‥」
魔王は、微かに頷くと、目を閉じて考え込んでいた。‥と、その時少女が身を乗り出すようにして叫んだのである。
「いいえ、違います!」
「何?」
魔王は、サチカを鋭く睨みつけ、問いただした。
「何が違うと言うのじゃ?」
「私は‥私は、だまされたのではありません。私は、私の意志でケンタをこの魔界へ連れてきたのです!」
少年は、何か言いかけていたけれど、胸がキュンと熱くなって、言葉がうまく出てこなかった。
魔女検定試験官のゼノンは、少女の方を向き、小声で少女を叱りつけた。
「サチカ、何を馬鹿なことを言っているんだ。ここでお前が有罪になれば、魔女見習いのお前は魔界追放ではなく、永久に石にされてしまうんじゃぞ。その人間のことなどに構うな。三百年も見習いとして生きてきた苦労を、そんな一人の人間のために無駄にすることはない。‥な? 謝れ。今すぐ大魔王様に謝るのじゃ。そして、一人前の魔女になるのじゃ。この人間のことだったら、後で私から大魔王様にうまく取り成して、ここでの記憶をすべて消し去って、人間世界に帰れるようにしてやろうじゃないか。心優しい大魔王様も、きっとそうしてくださるに違いない。な? サチカよ。とにかく今の言葉を取り消すのじゃ。」
少女は、溢れる涙も構わず、検定試験官のゼノンに深々と頭を下げ「ありがとうございます」と言った。少年は、思わず息を呑んでしまった。‥だが、その次の少女の言葉を聞いた時には、もっと驚いてしまった。
「大魔王様。私は、確かに魔女の見習いです。‥ですから、魔女の見習いが重罪を犯せば、魔界追放ではなく、永久に石にされ『想い出の森』に放置されることもよく知っております。それに、心の広い大魔王様のことですから、私が罪を認めず『ケンタにだまされました』と申し上げれば、或いは私もケンタもお赦しくださるかもしれません。‥でも、大魔王様。私にはどうしてもそうできないのです。」
「何故じゃ?」
「ケンタに『愛する喜び』を伝えるためなのです。」
「愛する喜び?」
「はい、そうです。このケンタは、とても寂しい心を持った人間でした。心の鍵を固く閉ざしてしまっていて、自分の心に誰も寄せ付けようとはしなかったのです。本当は、たくさんの人から愛されているのに、それに気づかず、ただ自分だけの世界に閉じこもっていたのです。‥私の検定試験の三つ目の問いというのが『独りぼっちの人間に愛する喜びを与えるには、どうすればいいか』というものでした。私は‥私は、ケンタの閉ざされた心を開くために、私の意志で、ケンタをこの魔界へつれてきたのです。‥お願いです。大魔王様! 私は、どうなってもいいのです。ケンタを‥ この独りぼっちの人間を、どうかお助けください‥」
「命を賭ける、と言うのじゃな?」
少女はその場にうなだれながら「はい」と答えた。魔王は、それっきり目を閉じて考え込んでしまった。魔女検定試験官のゼノンも、うなだれる少女の姿を哀れむようにじっと見つめているだけだった。
少年は、心の中に燃え上がる熱い炎をどうしても消すことができなかった。こんな自分のために、三百年という長い長い魔女見習いの生活も、自分の命さえも、すべてを捨てようとしている少女のために、自分が何か言わなければいけないと思った。少年は、何か言いたかった。何でもいいから、とにかく何か言いたかったのだ。大魔王に、魔女検定試験官に‥ そして、誰よりもまずサチカに‥ 少年が心を決めて立ち上がって叫ぼうとした時、不意に魔王の鋭く低い声が少年の言葉を呑み込んでしまったのだ。
「では、判決を申し渡す。」
張り詰めていた糸がぷつんと切れてしまったように、少年はその場に座り込んでしまった。魔王の言葉は、そんな少年の思いもお構いなしに、冷たく続いた。
「魔女見習い『知恵の輪のサチカ』、お前が犯した罪の重さは、魔界始まって以来のことである。‥しかし、そなたの申し立ても十分に分かるし、試験官ゼノンの証言も、もっともなものである。従って、当法廷における判決は次のようなものとする。今から下す判決のうちの一つを魔女見習いサチカが自ら選ぶものとする。‥一つ、魔女見習いのサチカの見習い期間を五十年延長し、少年ケンタを人間世界へ連れ戻すこと。ただし、魔界の掟により、その際ケンタの魔界での記憶はすべて消去すること。‥一つ、魔女見習いサチカを永久に魔法の石に封じ込めること。そして、少年ケンタを魔界の住人として認めること。‥どうじゃ、サチカよ。お前は、お前の意志で、この少年を連れて参ったと申し立てておったが、今度はお前が、お前自身の未来を選択する番じゃ。さぁ、どうするつもりじゃ?」
長い沈黙が続いた。少年は、いたたまれなくなって、少女のそばへ近寄って囁いた。
「もういいよ‥ サチカ。君はこんな僕のために、自分の命を捨てることはないよ。僕は、もう十分に分かったよ。‥だから、もういいんだ。」
「ケンタ‥」
「二人とも助かろうよ。」
「‥ケンタ。貴方は何も分かっていないわ。本当に愛するということが何であるのかを‥ 人を愛するということは、その人に心を預けるということなのよ。その人のことしか考えず、その人のことだけを思って生きること‥ たとえ、その人のために死ぬことになっても、本当に愛することができたのなら、ぎりぎりまで生きて、生きて、生き抜いて、そして喜んで死ぬことができる‥ それが、本当に愛するということなのよ。」
少年は、少女の話す一言一言に頷きながら涙を流した。やがて少女は、ゆっくりと立ち上がり、魔王の前へと進み、一言一言をかみ締めるようにして言ったのだった。
「大魔王様。私、魔女見習いの『知恵の輪のサチカ』は、大魔王様のご判決のうちの一つを、私の意志で選びました。私は喜んでその罪を認め、その罪に従うことをここに誓います。」
「‥して、その答えとは?」
「はい。ケンタをここに残して、私は石になります。」
PART Ⅷ
魔王は、少女の答えを聞くと、ゆっくりとした動作で立ち上がった。少女は、少年の方へと振り返り、涙をためた瞳をいっぱいに輝かせながら「さよなら」と呟いた。
少年は、言葉を無くした案山子のように、ぼんやりと立ちすくむだけだった。
‥それは、ほんの一瞬の出来事のように思われた。魔王は、右手をゆっくりと高く上げ、そして振り下ろした。その途端、青白い光が目の前をかすめ‥そして少女は、少年の目の前から消えてしまったのだ。
「サチカ‥」
少年は、深い悲しみの中にいた。少女の命を奪ってしまったのは、自分なんだという思いで胸が一杯になってしまった。自分の我がまま、自分の心の狭さ、卑怯な気持ちしかない臆病な自分‥ そんな自分が、サチカを石に変えてしまったんだ。
魔王は、小さくなってしまった『サチカの石』を手のひらにのせると、少年の方へそれを差し出しながらこう言った。
「ケンタよ、見るがいい。これが、お前を守り、お前を助けてくれた『サチカ』じゃ。魔界の掟によって、この石は『想い出の森』に放置されることになっておる。哀れなやつじゃったのぉ‥ まぁ、そんなことはもういい。それより、お前はサチカの願い通り、魔界の住人として永遠の命を得たわけじゃ。これからどうする? 魔界に残るか、魔法使いとして人間世界に行くかを、お前の意志で決めるのじゃ。」
「待ってください!」
少年は、立ち上がって思わず叫んでしまった。何をどう言えばいいのか自分でもよく分からなかったのだけれど、とにかく「このままではいけない」という思いが、少年の心の中に湧き上がってきたのだ。
「どうした? ケンタ、何か言いたいことでもあるのか?」
「はい‥ 僕は、うまく言えませんが、このままではいけないような気がするんです。」
「何故だ?」
「それは‥つまり、僕だけが幸せになってはいけないということです。サチカは、石にされる前に『愛する者のためなら、喜んで死ねる』と言っていたけれど、それでは残された僕は、余計惨めです。‥だから、僕も石にしてください。」
「何を言う。お前は何の罪も犯してはいない。そんなお前を石になどできるはずがないではないか。」
「‥では、こうしてください。僕が今から、たった一つだけ願い事を言います。それを叶えてください。それが叶えば、僕はどうなっても構いません。」
「なるほど‥ して、その願い事とは一体どんなことだ?」
「はい。時間を過去に戻していただきたいのです。」
「何じゃと? 時間を戻せじゃと?」
「はい。確か三日前の‥十一月十五日の午後五時頃まで、時間を戻してください。」
「お前は‥ そうか、最初からやり直すつもりじゃな? しかし‥」
魔王は、暫くの間考え込んでいた。確かに魔王の力で時間を戻すことは、そんなに難しいことではない。‥しかし、魔王は、時の流れに逆らうことが、果たしてこの二人のためになるのかどうか考えていた。サチカはともかくとして、この少年の心をここまで変えたのは、サチカの命がけの愛があったからこそではないのか?
魔王は、答えを出しかねていた。だが、やがて手に持っていた『サチカの石』を見つめながら呟いた。
「サチカよ。私は、判断を下さねばならぬ。そこで私は、今私なりに考えた答えをケンタに申し伝えるつもりじゃ。お前は、それを喜んでくれるのか? それとも悲しい思いをするのだろうか‥」
やがて魔王は、魔王としての誇りと、威厳を持って、ゆっくりと立ち上がった。そして、二つの炎の間をくぐり抜けて、少年の前まで来た。少年は、目の前で見て、魔王がこんなに大きかったのかということを改めて感じていた。少年は、間近で見る魔王の大きさと恐ろしさで、思わず膝がガクガクと震えたが、魔王から目をそむけようとは決してしなかった。
「ケンタよ。お前にこの『サチカの石』を授けよう。もしも、お前がそこにある右側の『誓いの炎』の中へこれを投げ入れれば、お前は魔界の住人として、永遠の命を受けることができる。しかし、もしもお前がこの石を、左側の『反逆の炎』の中へ投げ入れたならば、その時はお前が石になるのじゃ。そして永久に『想い出の森』で眠る代わりに、ただ一つだけ、お前の願いを叶えてあげることとしよう。」
魔王は、少年に『サチカの石』を渡すと、いずこかへ消えていった。魔王から『サチカの石』を受け取った少年は、石を手のひらの中で優しく包み込んだ。微かにサチカの甘いラベンダーの香りが残っていた。少年は、甘い香りに包まれながら、この美しい魔界での様々な出来事を思い出していた。美しく、優しくて、そして清らかなこの魔界での出来事を忘れたくはなかった。もしも、この石を青く燃え上がる『誓いの炎』の中へ投げ入れれば、この魔界で永遠に生き続けられることができるのだ。そして、それが「サチカの願い」でもあったのだ‥
しかし‥しかし、少年は赤く燃え上がる『反逆の炎』の前へとゆっくり進んで行ったのだ。
「この石をこの中へ投げ入れてしまえば何もかも終わるんだ。この魔界でのことも‥そしてサチカとの楽しかった思い出も、みんな消えてしまうんだ。今までと同じような退屈な、そして独りぼっちの生活にまた戻ってしまうんだ‥」
そんな思いを打ち消しながら、少年は自分の顔を赤々と照らし出している『反逆の炎』のそばで、手のひらの『サチカの石』をしっかりと握りしめて、まるでサチカに話しかけるように呟いた。
「サチカ? 僕は、今初めて本当に愛することの喜びを知ったような気がするよ? ‥こうして、今の自分をこの魔界から消し去ることだって、僕はちっとも恐くないし、笑顔でその時を迎えることができそうな気がするんだ。‥サチカ、本当にありがとう。そして、本当にさようなら‥」
少年は、手のひらに握りしめていた『サチカの石』を思いっきり力一杯『反逆の炎』の中へと投げ入れた。すると少年の視界は、急に閉ざされ、やがて辺り一面がまたあの暗闇の世界へと変わっていった。少年は、薄れゆく意識の中で、何度も少女の名を呼び続け、やがて完全に何もかもが分からなくなってしまったのだった。
PART Ⅸ
とんがり屋根の工場の煙突の向こうに、赤い夕日が沈む頃、少年はネオンが輝き始めた街からとぼとぼと歩いて帰ってきた。なんともやる気のない疲れた足取りで、川沿いの道を行く少年の背中に煙突の長い影が差していた。
少年は、本当にやる気をなくしていた。家にいても、学校に行っても楽しいことなんて何もなかった。誰も相手にしてくれないからだ。父ちゃんも母ちゃんも、毎日「忙しい、忙しい」ばかり口癖のように繰り返すだけで、まともに話を聞いてくれたりしない。たまに少年の方から話しかけても「お金かい? いくらいるんだ?」と言って、千円札を二三枚くれる。「お金なんて本当は要らないのに‥」少年は心の中でそう呟く。でも、父ちゃんにも母ちゃんにも、そんな少年の声なんて全然聞こえていないみたいだった。いつも「忙しい、忙しい」と繰り返すだけだ。
少年は塾へ通い、両親が進める私立の進学校へ背伸びをして入学した。学校だってそうだ。背伸びをして進学したから、勉強ができるわけでもなく、部活もせず、体育やスポーツが得意ということもなく、学食だって美味しいとは思わない。先生は、成績のことばかり口にするし、友だちだってみんな自分のことばかり考えているから、おとなしい少年のことなんか誰も相手にしてくれたりはしない。少年はいつも独りぼっちだった。やる気を出せというほうが無理な話だ。
とんがり屋根の煙突の長い影が、少年の背中を飛び越して、更に長く伸びていった。少年は、うつむきながら川沿いの道をゆっくりと歩いていた。その時、少年は自分の目の前三メートルほど先の道端に、何か光る物が落ちているのに気がついた。
「なんだ?」と思って、少年は光る物のそばに近寄ってみた。ところが、拾い上げようとした少年の手のひらに、どこからともなく飛んできた石が、激しくぶつかってしまったのだ。
「ううぅ‥」
少年は、痛みをこらえきれず声をあげた。その場にうずくまりながら、手を見ると赤い血が流れ、傷の激しさを物語っているようだった。一体誰がこんな石を投げてきたのか知らないけれど、少年は本当に情けなく思った。「ついてないなぁ‥」と呟く少年の口元は、少しゆがんでいた。
‥と、その時である。少年は、背後に人の気配を感じると、同時に優しく美しい声がしたのだ。
「どうしたんですか?」
少年は、その声のする方に振り返った。するとそこに一人の少女が心配そうに少年の顔を覗き込んでいた。
「ちょっと、怪我しちゃったんだ。」
「怪我?」
少女は、少年のそばに寄り、その場にしゃがみこむと、怪我の具合を見て「まぁ、大変な怪我! 血が出ているわ。」と言うと、自分のシルクのスカーフを解き、少年の手を優しく包み込むように巻いて、人差し指で、その手を二三度お呪いのように軽くつついた。
少年は、見知らぬ少女にこんなに優しくしてもらったことなんて一度もなかったので、ただ茫然とされるままして、優しい少女の顔や手つきを見ていた。だから少年は、少女が「これでいいわ」と言って、立ち際に、そっとポケットの中に何か光る物をすべりこませたことなんて、全然気がつかなかったのだ。
「どう? まだ痛みますか?」
「あれっ? 不思議だな‥ さっきまでの痛みがほとんど消えているよ。」
「良かった! ‥じゃぁ、またね。」
「ありがとう‥」
少女は、まるで妖精のように挨拶をすると、川沿いの道を夕焼けに向かって歩き出した。少年は、もう一度大きな声で「ありがとう!」と言って、少しためらいがちに「‥またいつか会いたいな。君、なんていう名前なんだい?」と聞いてみた。
少女は、くるっと振り返ると、優しく答えてくれた。
「私? 私はサチカ‥ 魔法使いのサチカよ。またいつか、貴方が困った時に、会いに来ます。さようなら‥」
「魔法使いの‥サチカ‥?」
夕暮れは、もう黄昏に変わっている。辺りは静まり返っていて、ただ川の流れる音だけが休みなく続いているだけだった。
少年は、遠ざかる少女の影を見つめながらもう一度「魔法使いのサチカ」と呟いてみた。少年は、魔法使いなんて、この世にいるはずがないということをちゃんと知っていたし、きっと少女が冗談のつもりで言ったんだろうなと思っていた。でも、先程少年の手を打ち付けた足許の小石が不思議なことに少女と同じ、甘いラベンダーの香りがすることに気がついた。
「よし、お前に名前をつけてやろう。『魔法使い、サチカの石』ってね。フフフ‥」
少年は、そう言うと、その小石を大切な宝物のようにして、上着のポケットにしまいこんでゆっくりと歩き始めた。
秋の日の風は、草や木や、そして人の心までも、冷たくしながら吹き抜けて行くのだけれど‥ 少年の心には、いつまでも消えることのない、暖かな春の風が吹いていた。そして少年は、口笛を吹きながら家路へと急いだのだった。
その頃、魔界では石になってしまった少年にどこからともなくやってきた仔犬が、その石に無心にじゃれついていることなんて少年や少女はもちろん、魔王でさえ知らないのだった。
(了)