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トンネルの向こうへ(著:雨蛇

 一瞬だけ全身に強い痛みを感じた。ようやく痛みが引いたときには、左腕の間接が三つになっていたが、それら全てが意のままに動きはしなかった。

 真ん中の一つのみが辛うじてピクピクと、

(電流を流されたカエルのよう)

 ──に、私の脳の命令に応じようとするが、残念ながら、依然のように曲がるということはない。手首の間接は、これほど捩れることができるんだよ! という感じでその新事実を私に突きつけているのみ。三つ目のそれについては一つ目と二つ目の間に先程出来たばかりで、動く動かない以前の気がする。

 手が熟れた果実のような赤紫色になって、ブラブラと腕の先で揺れている。これは落ちるのではないかと肩ごと揺らしてみると、

 案の定、ボトリと。下に。

 温かな血の殆ど外へ抜けてしまった体では寒気が酷い。どこから垂れ落ちてしまったのかと傷を探すが、……完膚無きとはこの事だろう。あまりに流れ出る箇所が多すぎて、どこかどこかと探せばキリがない程なので、私は早々に考えるのをやめた。二十代の女の子として多少なり美容にも気を付けていたというのに──こうなってしまっては、ぱぁ、だ。

 随分と内臓もつぶれてしまったようで、動くと内でべちゃべちゃと気持ちの悪い感触がする。下腹部は押されて破裂した為、歩くと腸を引きずる形となった。こんなにもかさばるものが今までぎゅうぎゅうに詰まっていたのだと思うと、お腹ってすごいな、と思った。もう少しお腹を労ってやれば良かっただろうか……今となってはその役割もまさに投げ出してしまっているお腹だが。

 呼吸をしようとすると、喉の、骨の飛び出た所で空気と肉が漏れて、肺にまで酸素が届いているのか心配になった。これでは呼吸の意味が──

(いや、そもそも)

 ふと立ち止まる。

(今の私に酸素は、必要なのか?)


***


 鼓膜が破れるかと思うくらいの大音量が耳を貫いた。どんな音だったか聞いたそばから既に忘れてしまったのだが、不快ででかい音、ということには間違いがない。耳を押さえ嫌な顔をしながら起き上がり、私は周りを確認した。

 前方には、上を見ても頂点が分からない程に高い、ツルツルとした印象を受ける崖──に、車一台がようやく通れるだろうという、小さなトンネルが掘ってある。木々が、今私のいるところとそのトンネルを、半円状に避けるようにして立ち並んでおり、地面には背の低い草や色とりどりの小さな花が自己主張することなく生えていた。

(トンネル……)

 トンネルは、天井に灯るオレンジの明かりによって、多少なり中が見えるものだというのが、私の認識なのだが。目の前にあるそれは、入り口から先が真っ暗、もはや真っ黒と言った方がいい気がする有り様だ。子供がトンネルを描くなら、黒のクレヨンでこんな感じに塗り潰すかもしれない。

 近付いて手を伸ばしてみる。トンネルの中に入る、手が黒に呑み込まれて全く見えなくなった。引っ込めると黒は消えて、手は普通に見えるようになる。これは、ちょっと面白い。が、これ以上、体を入れるのは……怖い。ここに全ての自分を納めてしまったが最後、後戻りは出来なくなるのだと、察していた。

(やめよう)

 進むのは無理だとそこから立ち去ろうとする。だがぐいと何かに引っ張られるような感覚に、そちらを確認すると、小学生くらいの男の子が私の服を掴み、こちらを見上げている。

 蒼白い肌をした子で、目は泣き腫らしたのか真っ赤……本当に真っ赤だ。くりくりと大きな目は黒いところも白いところも赤の絵の具をぶちまけたかのような色をしていて、周囲の皮膚は異様に膨れ上がっている。その膨らみが男の子の顔よりも大きいので、体に対して頭の大きさが釣り合わない事になっていた。

(小さい子がカエルを描くならこんな感じになりそうだ)

 きっと自身の血のほぼ全てをそこに集めてしまったから、こんな格好になってしまったのだろう。針か何かでつついたら、水風船のようにぱしゃりと、彼の目元は破裂するかもしれない。

 なんて。

「……おかあさん……どこ……」

 掠れきった声で男の子は言った。五時間カラオケで歌いまくったとしても、きっとこんな声にはなるまい。枯れ木が風に揺れてカサカサと音を立てているのと相違ないような声だ。

「私は、君のお母さんじゃないよ」

「おかあさん……おかあさん……」

 優しく言ったつもりだった。しかし彼にはそうは聞こえなかったのか、泣き出してしまった。粘りけのありそうなどろどろとした黄色い涙を、だらだらと頬に垂らしている。

「きっと、お母さんもすぐに来るから」

 そう励ますと、男の子は何度も頷いて、しかし私から離れる気配はない。……心細いのだろう。このままでも特に問題は無いので、私は、男の子と一緒にお母さんを待つことにした。

 ……。

 暇な間、男の子との会話を楽しもうかとも思ったのだが、喉から抉り出すようなあの声をあまり出させるのも気の毒なので、私たちは石を積んで遊ぶことにした。これには会話は必要なかった。どちらが高く積めるかという勝負だったが意外と難しく、ことごとく私は負けてしまった。

 やがてどれだけの時間が経ったかも分からないが、何人かがトンネルの中に消えていった頃、不意にとんでもなく甲高い悲鳴だか叫びだか分からないものが響くと、誰かがこちらへ走ってくる音が聞こえた。

「おかあさん!」

 そちらをみた男の子が、今積み上げたばかりの石たちを蹴飛ばして、ぱっと駆けていく。見ると、やけに首の長い女性がひしと我が子を抱き締めて何やらキィキィと言っているのだが、ほぼ超音波のようなそれは聞き取ることが出来ない。

(聞き取れないのは、きっと、私とあの人が初対面のせいなのだろうな)

 女性は、飛び出た目に私を写して軽く会釈をしてくれると、男の子と共にトンネルへと消えていった。

 私は腕を振って、見送った。


 踏み出す勇気のないまま、トンネルの近くに座ってぼんやりと色のない空を眺めていると、不意に視界を横切る棒があった。何事かと思って視線をやれば、棒ではなかった。黒のスーツの服装からして、きっと男性なのだろうが、彼は非常に細長い。きっと胴体でも私の腕ほどないだろう。だが見上げれば顎っぽい何かがなんとか見えるくらいで、身長の高いこと高いこと。

(そんなに高くても不便なだけでは?)

 さてこの人、この小さなトンネルをどうやってくぐるつもりなんだろうか。そのままでは膝までも入れるか分からない。

 その人は何度か入れないかを試していた。が、しばらく考えるような仕草をしてから、よいしょと自分の足を持った。何をするのかと思えば、ボッキリとそれを折ってしまった。

(確かに折れば小さくなるが)

 そしてあれよあれよとボキボキ、男性は自分を、どんどん小さくしていった。コンパクトになった肉体──肉体とは言い難い棒──の一部は、次々とトンネルの中に放り込まれ、徐々に見えてきた彼の顔は……

(案外、普通の人だ)

 肩から上だけになった彼は頭も投げ込んで、最後に腕のみ、這うようにトンネルに消えていった。

(あんな面倒な事に私の体がなっていなくて、良かったなぁ)

 うんうんと一人頷いてから、また空を見る。


 辺りが暗くなってきて、そろそろ一日が終わるのかなという頃、ふと寒気が……いや、ずっとしてはいるのだけれど、もっと酷い寒気がして、思わず嫌な気配の方へ首を回してしまった。

(……女性?)

 ただ、長い茶髪は山姥のようにボサボサで、俯いている為に顔は見えないので、もしかしたらおじさんという可能性も捨てきれない。格好からしてはOLのようではあるが。

 胸元が深く切り裂かれており、歩いて振動がある度に赤い心臓がそこから落ちる。べちゃりという水音と共に地面に。

 幾つも、幾つも。

 その心臓はしばらく脈打ってから、地面に吸い込まれて消えた。時々自分でそれを踏んでいる事に、果たして彼女は気がついているのだろうか?

 彼女が近付くにつれて、声が届く。女の子らしい可愛い声──ではないかもしれないが、今の私には可愛く聞こえた──だが、氷水を耳に流し込まれているかのような感覚に、身震いをせざるを得ない。

「き、き……モ……ち……イイ……」

 何がどう気持ちいいのか全くもって理解できないが、それを本人に聞く勇気はない。少なくとも私にそういう趣味はない……あったとしても、流石に心臓だだ落としプレイは、どうだろう。したいと思うだろうか。

 彼女がトンネルに差し掛かり、みんなと同じように先にいくのかと思いきや、まるで見えない壁があるかのように女性はその場で足踏みをし始めた。様子を見ていると、女性が面を上げたため、顔を、ぐちゃぐちゃという表現がまさにぴったりなそれを見ることができた。精巧に作られた人面の粘土像を、間違えて床に落として、さらに踏みつけてしまったら、ああいう感じになるかもしれない。

(こっちを見た)

 ……気がした。

 だが女性はくるりと踵を返すと、元来た道を戻り始め、どこかへと行ってしまった。


 すっかり暗い。しかし、トンネルだけはしっかりと見ることが出来る。

 そろそろ、私も行かないといけないのは、分かっていた。

「いつ、向こうに行かれる予定ですか?」

 知らぬ間に後ろに立っていた、老婆は聞いてきた。振り向き、顔を見合わせる。ぴんと背筋を伸ばし、歳を経ても美しい顔立ちのその人は、今まで来た人とは違うとすぐに分かった。紫の着物は皺ひとつなく、きっと高価なものなのだろうと思った。

「……明日には」

「昨日も、そう聞きましたよ」

(昨日?)

 初めて会った気がするのだが……。

「今日はもう決心がつかないのです」

「一昨日も、同じことを仰っていましたよ」

(一昨日……)

 その口調は私を案じてくれているようだった。

「明日には、きっと」

 繰り返すと、老婆はため息をひとつ残して、跡形もなく消えてしまった。

(そう……明日には)

 目の前が闇に覆われていく。

 トンネルも、また。

(明日には、トンネルの向こうへ)


 行けるだろうか。

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