受容
走る、走る、走る。
ここがどこなのかも、村はどこなのかもわからない。
どれだけ走っても、見覚えのある景色は現れない。完全に迷ってしまったようだ。
……俺の方が速いようで、魔物の気配はそこそこ遠くなった。
だが、俺が向こうの気配を感じるのなら、向こうもまた俺の気配がわかってもおかしくはない。
「来い、蒼空」
そう唱えたが、俺の手に蒼い直槍が握られることはなかった。
「……なんでだ?」
俺が――魔物になったことが原因……なのだろうか。
否定したい。俺は人間なのだと。
でも、俺の右腕は変わらず異形の甲冑と化している。どうしようもなく、魔物を自分であると認識してしまう。
…………これ以上の否定は無駄だ。わかってるんだ、そんなことは。
「――畜生」
ああ、認めよう。そうしなければきっと、俺は前に進めない。
どれだけ悩んでも、苦しんでも。現実が変わることなどなかったことを、他ならぬ俺が知っているのだから。
……さて、これからどうしたものか。
どこまで逃げても、あの魔物がどこまで俺を知覚出来るのかがわからない。
ともかく……それを探るために木の上に登ってみよう。
俺のようになんとなく他の魔物の位置がわかるのであれば、木の上でも関係なく襲いかかってくるだろう。
しかし、そうでないのなら。視覚や聴覚に頼っているのなら、この鬱蒼とした森の中では俺をすぐには探せないはずだ。
……まあ、俺の位置をぼんやりと掴んだ上で他の感覚でそれを補う形だったなら、どうしようもないのだが。
どうせ俺の魔力では魔法なんぞ効かない。蒼空も顕現出来ず、俺は現時点で攻撃手段がない。
蒼空は基本的に俺の右手に顕現されるのだが、その右腕は今魔物のそれになっている。恐らくそれが原因だろう。
腕が魔物になんてならなければ、まだ打つ手は……いや、待て、そうか。
思い出した、魔物の習性を。奴らは結界の外に基本的に生息しているが……奴らが餌とするのは人間でなく魔力そのもの。だから無魔力者は魔物の被害に遭わない。
だが奴らは存在しているだけで魔力を消費し続けてしまう。しかし魔素濃度の薄いこちらの世界では、全身が魔力の塊である魔物の肉体を維持することは出来ない。だから共食いをするのだが……。
そう、この右腕は魔力の塊なのだ。
魔導武装に魔力を纏わせている状態に等しい……のではないか?
……確証はないが、可能性は非常に高い。確かに試す価値はあるだろうが……違った場合のリスクもまた大きい。
この実験的な戦闘は右腕で直接殴る、という形になるだろう。それは、ゼロ距離での戦闘だ。
もし右腕の攻撃が通らなければ……反撃を受けるだろう。そして、その攻撃は俺にとって致命傷になる。
――イチかバチか、だ。
だが、このまま何もしないという選択肢は取れない。
ずっと追いかけてきているのだし。
ともかく、木の上に登ろう。葉に隠れれば、どう俺を認識しているかの見当がある程度つくかもしれない。
俺は、軽くジャンプして木の幹にしがみついて登ろうとした。……そう、したのだ。
だが。何故だか俺の身体は木を遥かに飛び越えて、俺は鬱蒼とした森から一瞬だけ解放される。
真緑のカーペットが眼下に広がる。俺はいつものクセで、空中を蹴ろうとするが……いつものように跳ぶことはなかった。
「う――お、おッ?」
魔導武装を装備している時と同じような身体能力の向上。馬鹿な、走っている時は変わらなかったのに?
跳ぶ、という行為のみ向上した……ということか?
ともかく俺は空中で体勢を整え、そのまま落下したのち、着地する。
俺はすぐに真上を向き、太く育った――人間一人は乗れるであろう大きさの枝に向けて、軽く跳ぶ。
身体を動かす感覚は魔導武装を装備している状態に近い。違いといえば、いつもよりもっと力が入ってしまう、というところだろうか。
……数分、息を潜めて魔物を待つ。どんどんと魔物が近付いてきているのを感じる。
そして、奴は辺りをウロウロとし始めた。俺を探しているのだろうか?
俺がこの周辺にいる、ということはわかっても、木の上にいるということまではわからないらしい。
頭らしい部位を動かしているところを見るに、視界に頼っているタイプ……だろうか。
嗅覚の有無は調べようがない。ならば残るは聴覚か。
左手を幹に手を添え身体を支えながら、右手で近くに生えていた細い枝を思い切り揺らす。
が、特に反応はない。
本当に魔力のセンサーと視覚だけで敵を探しているようだ。
魔物は周囲を探し回ったあと、頭を上に向けてきた。下にいないので上にいるのだとでも考えたのか?
先手必勝だ。俺は高所を取っている。奴が視覚だけでこちらを認識しているのなら奇襲が可能だろう。これならば攻撃が仮に通らなかったとしてもすぐさま撤退出来る。
…………よし、やってやる。俺は右手を強く握った。
勢い良く、枝から跳び、魔物の真上へ。右腕を大きく振りかぶり、落下の速度を利用する。
そのまま、思い切り魔物を殴った。
「ギュイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイッ!」
つんざくような叫びを上げる。俺の拳は魔物の肉体を貫いていた。
――効いてる!
俺はすぐさま右腕を引き抜き、もう一打を加えようとするが俺のいる位置の空気中の魔素の流れが変わる。
何かが来ると察知し、俺はその場を離れる。すると、魔力の爆発が起きた。
魔物は魔法を使えないはずなので、あれは爆発の魔法でさえなく……一箇所に凝縮させた魔力に刺激を与えて破裂させているのだ。風船をイメージするとわかりやすいだろう。
「う、おおッ――――!」
距離を取ってすぐ、俺は地面を蹴って水平に跳ぶように近付く。蜘蛛魔物は俺に視線を向けた。
俺の目の前に魔力が集まるのを感じる。魔物の腕を得てから、空気中の魔力の流れがわかるようになったらしい。
何度も繰り返される魔力の爆発を回避しながら、少しずつ蜘蛛魔物に近付いてゆく。ここまで抵抗が激しいのはやはり警戒されているということなのだろう。それがダメージを与えたからなのか、同じ魔物同士だからなのかはわからないが。
そして、俺と蜘蛛魔物は肉薄する。
「お、らァッ!」
顔面に向かって、思い切り拳を突き出す。
それは、蜘蛛の頭部分についていた人間の顔を貫いた。全身にあった血の涙を流す男性の顔が、口を開き金切り声を上げた。
「やったか!?」
だが、蜘蛛魔物は一瞬怯んだ後、全身の顔の口から、糸のようなものが大量に噴出される。よく見ると糸ではなく人間の腕だった。
その腕は蜘蛛魔物の身体を包み込んでゆき、繭のようになった。
――身を守っているつもりか?
俺はまた拳を突き出す、が。
ゴン、と鈍い音が鳴る。
「――――――――!」
俺は右手を抑えてうずくまる。かっっっっっっったい! なんだこれ!
蜘蛛魔物の動きは完全に沈黙した。死んだというわけではなさそうだ。
魔物にとっての死には2つある。心臓である核が壊されるか、魔力を激しく消耗するか、だ。
前者の場合、核は通常の兵器でも壊せるので無魔力者でも魔物を殺すことが出来る。
後者の場合、魔力を纏わせた魔導武装や強力な魔法でなんとかなる。こちらの方が効率は格段に良い。要は魔力でボコボコにするだけで死ぬわけだし。
あと、魔物は傷を負ってもすぐに塞がってしまう。治癒のスピードは核に近い部位ほど早い。
……じゃあなんで目の前のこいつはこんな繭にくるまっているんだ?
現時点で俺に出来ることと言ったら殴ることだけなのだが、そのパンチさえこの繭には通用しない。試してはいないが……俺の魔力では魔法も効かないだろう。
少しだけ待っていると、繭がもぞり、と動いた。
距離を取って警戒する。繭の一部に穴が空き、そこから全体にヒビが入り、繭が魔素となって霧散した。
「……う、うわぁ」
そんな声が出た。先程まで見ていた蜘蛛に、頭と手足のない女性の人体を大量に繋ぎ合わせたような羽根が生えているのだ。形状としては蝿のそれに近い。
とことん人体。どの分類なんだろうこれ。人間型なのか、昆虫型なのか。前者だったら多少の知能がある分厄介なのだ。
しかも、俺が奇襲した分と苦労して接近して顔面パンチした分が完全に回復してしまっている。なんてこった。
更に言えば、羽根で飛んでいるのが非常に戦いにくい。蒼空が出てくれさえすれば、空中戦が出来るのだが……。今もジャンプ力は強化されているようなので、それだけでなんとかするしかない。
結界を探して逃げていればよかったと後悔する。そうだ、美術館に行ったあの日、魔物と化した人間も平然と結界内に入ってきていたではないか。なら、俺だって結界の中に入れるはずだ。
……そうとわかれば、今からでも逃げてしまえばいいのではないか?
俺は踵を返す。あの巨体で、しかも凹凸の多い羽根だ。そう速くは飛べないだろう。
脚に力を込めて、思い切り地面を蹴るように走る。魔導武装を顕現している時よりも速く走れている。顕現しているだけで身体能力が上がる魔導武装と違い、魔力を込めるイメージを常に維持しなければいけないようだが――代わりに上昇幅は大きいようだ。
後ろを振り向く。魔物の姿は見えない。数秒と経たない内にかなりの距離を移動したはずだ、もう振り切ってしまっただろう。
前に向き直る。……いや、待て。
真上に、なに、か。
咄嗟に真後ろに跳んだ。地面が抉れるほどの力で。
一瞬前まで俺がいた場所に、魔物が落下してきた。俺のつけた窪みよりも数倍大きなクレーターを生じさせて。
おかしい。気配を感じなかった。近付かれて初めて気付いたほどだ。
それどころか、俺のあのスピードについてきてたってのか。
――まさか、繭から出てきてついたのは羽根だけじゃなかったのか?
いや、それよりも。
こいつからは、逃げられない。その事実が、俺に重くのしかかった。




