変異
「――――ッ!」
目を覚ます。
そしてすぐに首だけ動かしてゆっくりと辺りを見回すが、魔物の姿は無かった。
身体を起こそうとするが、どうも動かない。いや、力が入らない。
意識もかなり朦朧としている。頭がうまく働かない。血を失いすぎたようだ。こうして覚醒したのも奇跡かもしれない。
「…………ぐっ」
まだ右肩は痛む。動かなくてはならないのに、痛みや倦怠感が俺の足枷になる。
どうして。どうしてこうも上手くいかない?
残った力を振り絞る。だが、最早上体を起こすことさえできない。
もしも、生きていたのが咲月だったのなら、結果は変わっていただろうか。
もしも、ここに居合わせたのが悠人だったなら。俺ではない誰かだったなら。
全ては、変わっていただろう。
俺は、いつだって無力だ。今までも、これからも、きっと。
悠人のような力もなく、康太のような明るさもなく、エリオットのような誇りもなく、エミリアのような優しさもなく。
アルカニアのような責任も、幽ヶ峰のような情熱も。
エルゼラシュルドで出会った全ての友人たちは。
俺の持っていないものしか持っていなかった。
……いや、違う。違うな、そうじゃない。
俺はきっと初めから。何一つだって持ってやいなかったのだ。
力も、明るさも、誇りも、優しさも、責任も、情熱も。
彼らは当然のように持っているその全てが、俺には到底手の届かないものだったのだ。
咲月が死んだ日。咲月と交わした言葉。
ただ。俺の手には、俺の心には、俺の魂には。
それしか無かったのだ。彼女の夢を叶えるのだと。ずっと一緒なのだと。
だから、俺はそれ以前の「ぼく」を捨てた。俺はそうして「おれ」になった。
彼女の前で付けていた格好を、俺の鎧にした。
鹿沼大輔は、怒らない。鹿沼大輔は、泣かない。
何をされても咲月には怒りを向けなかった。
何があっても咲月には涙を見せなかった。
本当はことあるごとに腹を立てていたクセに。本当はどうしようもなく泣き虫だったクセに。
あの日から俺は、咲月と共にいる。いっしょに、いる。
だから、どこにいたって俺は、彼女の前にいた時の「おれ」のままだ。
嘘の自分の、ままなのだ。
六年間、あの日から。
「おれ」はずっと、「ぼく」を否定し続けてきたのだ。
そんな奴が、果たして何を手に出来るだろう。
……何よりも。
今、こうして考えている間でさえ、俺は「おれ」であり続けている。
右腕を失って泣き喚きたいのに。目前に迫りつつある死に恐怖しているのに。
泣いても無駄だと知っている。変わることなどなにもないと、理解出来てしまっている。
咲月に見られているような気がして。「ぼく」に見られているような気がして。
そして、この感情はいつだって変わらない。
悠人の力を目の当たりにした時。康太のランクを知った時。エリオットにボコボコにされた時。エミリアに全てを見透かされた時。アルカニアに巻き込まれた時。幽ヶ峰に凍らされた時。
――――俺はいつだって、諦めてきたのだ。
変わろうとしないのに変われぬと嘆き、諦めた。魔力の保有量は不条理だと宣い、諦めた。裏方に回っていれば良いと笑い、諦めた。
自分が活躍出来ぬのは当然だと胸を張り、諦めた。どうせ全て、彼がなんとかするだろうと目を閉じ、諦めた。彼には殺せぬと悟り、諦めた。
自らの危険などなんとでもなると驕り、諦めた。不慮の事故でも気にするなと気遣い、諦めた。
だって、そうだ。俺なんかが諦めたところで、世界は何も変わらない。
諦めなければ世界が変わるのならば、俺はきっと今頃、彼と互角の勝負でもしているのだろう。
弱い自分を受け入れたフリをしよう。傷付いてなんていないと声高に叫ぼう。何も気にすることなどないと道化のように笑おう。
そうだ、俺は弱いとも。だから身の丈に合った生き方をしている。大変な事態が起きても俺は巻き込まれただけで、そんな中でも俺は弱いのだから諦めてしまえばいいのだ。
……それなのに、分不相応なことをやった。姉は俺にやめろと言った。それでも俺は止まらなかった。
どうして?
状況があの日に似ていたからか? 目の前で親しい人間が死ぬ感覚を味合わせまいと願ったからか?
きっと、そうやって飛び出した想いはきっと、俺の嘘じゃないものだったのかもしれない。
だけれど、それでも。
どうして、姉や羽田さんに任せなかったのか。どうして、俺は飛び出したのか。
まさか。
俺にだって何かが出来ると、思ったのか、俺は?
――は、はは。
弱りきって口から出せなかった笑いが、心の中でふつふつと込み上げてくる。
どんどんと、肉体の感覚が薄れてきている。かなりの出血をした。もう死ぬのだろう。
それなのに、俺の心はどうしてか、笑っている。
……違う。俺は、俺を嘲笑っているのだ。
何も出来ぬとわかっていたくせに諦めなかった俺を。いつもなら誰かに丸投げしているようなことだったのに、それでも諦めず、心の底から子供を救おうとした俺を。
――ああ、そうか。
俺は、この世界の何よりも。
俺のことが、嫌いだったのだ。
諦めてばかりの俺が嫌いだった俺は。
俺を否定したいがために、諦めなかったのだ。
こんなことじゃダメだと。
変わればいいじゃないかと。魔力なんてどうとでもなるじゃないかと。裏方だって立派じゃないかと。
活躍出来ぬなら活躍出来るように努力をすればいいじゃないかと。彼がいなくたって自分が代わりにやってやろうじゃないかと。魔物だって殺せるじゃないかと。
立派な作戦だったじゃないかと。事故だって少しは怒ってもいいじゃないかと。
わかっている。わかっているんだ、そんなことは。
でもどうしようもないんだ。俺は弱いんだから。魔力が全てなんだから。そういう世界なんだから。
諦めれば心は傷付かないじゃないか。出来ないことばかり見せ付けられて、追い付こうとして、挫折して。惨めな思いをし続けるくらいならば、最初から努力しなければいいじゃないか。
そうだ、俺はどっちつかずの俺が大嫌いだ。いなくなってしまえばいいとさえ思う。
――ああ、あの時、咲月の代わりに死んでいられれば。こんなに苦しまずに済んだのに。
「――――――?」
声にならない声が、漏れた。朦朧としていた意識が。死ぬ間際になってもなお、諦めようとしていた意識が。
急にハッキリとしてくる。現実へ引き戻されてゆく。
きっと死ぬ寸前だったろう。まさか、回復魔法でも受けているのだろうか。
身体に力が戻ってくる。起き上がれるだけの力だ。
倦怠感こそ変わらないが、それでも走ろうと思えば走れるぐらいには体力が戻ってきている。
右肩を見ると、しかし相変わらずそこには何もなかったので、仕方なく左半身を使って立ち上がった。
火事場の馬鹿力、というやつだろうか。とはいえ、こんな怪我で魔物を追いかけたところで何が出来るというのだろう。
――ああ、また諦めようとしている。だけど、利き腕を失ったのだ。仕方ないじゃないか。
どうしたものかと首を捻っていると、俺の身体に異変が起きる。
失ったはずの右腕が、ある。指先まで、感覚がある。
急いで右肩を見るが、さっきと変わらない。
「……なんだ?」
見えない腕があるような感覚。そして。
その感覚だけの腕が、激痛を発した。
「ッ、っぎ?」
突然の有り得ない痛みに、声が漏れる。
そこには何もないのに、どうして。
どんどん痛みは大きくなってくる。切断された時はその切り口だけが痛かった。だが、今は違う。右腕の全てが痛い。右腕を余すところなく刃物で傷付けられているような、鋭い痛み。
右腕なんて、ないのに。まるでそこにあるかのように、痛みだけが襲いかかってくる。
「ぐ、う、ううううううううううううッ!」
切断面が、最も強い痛みを発していることに気付く。
「な、なんッ――――」
そして。
真っ黒な肉塊が、右肩の切断面から噴出した。今までの人生で受けたことのないほどの痛みを伴って。
「ッぎ、い、あ、ぎゃあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
みっともない悲鳴を上げて、俺はその場に膝から崩れ落ちる。
あまりの痛みに涙を流し、左手で右肩を押さえるが、痛みが和らぐ気配はない。
「っぐ……あ……」
肉塊の出現は止まり、右肩の痛みは余韻を残すのみとなった。が。
次に、全身に痛みが走る。
それは、右肩の痛みとは比べ物にならないほどの苦痛。気を失わないことが、ショックで命を落とさないことが不思議なまでの、苦痛。
痛み以外の感情が入る余地がない。
痛い、痛い痛い痛い痛い痛い痛いいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたい!
「ぐ、あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああッ!」
書き換えられる。俺の身体が。上書きされてゆく。今までの肉体の内側に、新たな何かが生まれている。
俺の肉体の中に、もう一つの肉体の感覚が芽生えてゆく。何かが、俺の中に入ってきている。
天を仰いで、ただ。叫ぶ、叫ぶ、叫ぶ。静かな山に、俺の悲鳴だけがこだまする。
数秒だろうか、数時間だろうか。
痛みが、徐々に収まってゆく。俺の中に生じた違和感は、完全に消失した。
まるで、馴染んだとでも言うように。
痛みは、完全に消え失せていた。何故先ほどまであんなに痛かったのかがわからない。どれだけ痛かったのかさえ思い出せない。
むしろ、身体が軽い。自分のものではないようだ。蒼空を顕現させているときよりも、調子がいいかもしれない。
何よりも。透明に感じられた右腕の感覚が、確固たるものになっている。そこに、俺の腕はある。断言していい。
ゆっくりと、視線を下ろす。痛みのあまり、自然と青空と木々の葉に向けられていた視線を、自分の右腕に、向ける。
それは、自分の右腕だとは到底言えないものだった。禍々しい紫と黒が入り混じったような色の甲冑のようなものが、俺の右肩から文字通り生えていた。
ようなもの、というのはつまり、それが甲冑だとは感じないからだ。
鎧を装備しているにしては、重さを感じない。なにかに覆われているような窮屈さこそあれ、不快ではない。
肉体の一部というには違和感こそあれ、しかし鎧を纏っているのかと問われれば、俺は首を傾げるだろう。
見れば、左半身は至って普通の俺の肉体だ。だが右半身に目をやると、トゲトゲしい甲冑が目に入る。
肩当ては口を閉じた龍の頭のような意匠で、そこから肘にかけて鱗が目立ち、肘当ては小さな翼のようなものがついている。
更にそこから篭手に目をやると、指先は非常に鋭利だ。漫画などで見かける龍の鉤爪のような。
これは、一体どういうことだろう。この姿は、一体なんなのだろう。
しかし考えていても答えは出ない。いや、待て。そもそも――。
子供たちはどうなった?
ぶわり、と。嫌な汗が噴き出した。まさか、もう間に合わないのではないか。
動悸が激しくなる。まるで、迷子になった子が親を探しているときのように。呼吸が荒くなる。取り返しのつかないことになっているのではないかと、悪い考えが頭を巡る。
そこで。
『アンタ、生きてる!?』
――姉の声が、頭の中に響いた。
「……ああ、なんとかな。さっきまで意識を失ってたけど」
『そう、ならさっさと帰ってきなさい! 子供たちはなんとか羽田さんが逃したわ。だけど、魔物がその辺りをまだうろついてる。出くわさないように、慎重にするのよ、いいわね?』
「気をつけるよ」
それっきり、声は聞こえなくなった。
そうか、よかった。子供たちは無事だったらしい。俺は無事じゃないが。
ならば、あとは村に帰るだけだ。
……何故か、思考がクリアだ。抱えていた色々なものが、こう、スッキリした気がする。
「さて、どうするかなあ」
せめて魔物の位置がわかればいいのだが。とにかく、意識を集中させてみよう。
地響きでもいい、不自然に動く葉の音でもいい。なにか手がかりはないだろうか。
……………………。
…………? 遠くに、なにかが、いる。なにかの気配を、感じる。
俺だ。俺が、いる。俺という存在をより濃くしたものの気配がする。
根拠はないけれど、それでも。遠くに感じる気配は間違いなく俺と同じものだ。
見に行って、みるか? この違和感を、解き明かすべきではないか?
少なくとも近くに魔物の気配はしない。なら、少しぐらい遠回りしても罰は当たらないだろう。
俺は、歩き出した。
~~~~~~~~~~
右腕について、少しわかったことがある。
これは出てきた当初こそ肉塊のような形をしていたが、これは魔力の塊だ。魔力そのものが、何故か腕の形を取っているのだ。
火事場の馬鹿力で無意識の内に魔力を練り上げ、臨時の腕としたのだろうか。それにしては消える気配もないし、間違いなく俺の腕だという確信がある。
魔力で出来た義手、と考えると非常に興味深い。
それでもまだわからないことだらけだ。何故これが現れたのか。俺にそこまでの魔力があったのか。
悩んでいるうちに、俺の気配が近付いてくる。
まさか、俺は幽体離脱でもしているのだろうか。自分の肉体に帰ろうとしている……というのは流石に突飛だろうか。
そして、少し開けた場所に出た。
そこにはひときわ大きな木が静かに佇んでいて、広場のようになっていた。
その大樹の裏から、俺の気配がする。
「…………よし」
意を決して、見てみることにする。
ゆっくりと、大樹に沿って歩く。
俺の気配は、すぐそこだ。
そこには、蜘蛛型の魔物がいた。
「――――ッ!?」
俺はすぐさま後退する。馬鹿な、気配も何もしなかった。突然目の前に魔物が現れた。
…………………………いや、待て。
気配はしていた。魔物の、ではない。俺の。俺と同じ存在がそこにいるのではないかという、気配。
――違う。
だが、そこにいたのは俺ではなく、魔物だった。
――違う。
そもそも、感じたのは本当に俺の気配だったのか? いや、そもそも俺の気配とはなんなのだ? 形容しがたいそれは、一体なんだ?
――違う。
逆では、ないのか。俺は俺の気配を感じていたのではない。魔物の気配を感じていたのだ。なら――それをどうして、俺は「俺だ」と思ったんだ?
――違う!
この腕は、なんだ? これが現れた時、俺はどんな状況だった?
――やめろ!
俺は、そう、自己否定をしていた。終わりつつあった俺という存在を、俺そのものでいることを、諦めようとしていた。
ふと。イェルヴァ・シュライグの言葉を、思い出す。
『まずあの……これだけは言っておくけれど……貴方、結界の外に出ちゃダメよ。負の感情が今日会った誰よりも強いもの』
――違う、違う違う違う違う違う!
俺は、魔物になったのではないのか。
――――――。
思考が止まる。
一瞬、数千数万と、否定する材料を探した。
だけど。やっぱり。
少し離れたところにいるあの魔物は、どうしようもなく俺と同じ気配を発している。何よりの証拠だと、言わんばかりに。
そう思い悩む俺のことなど露知らず、蜘蛛魔物は俺の存在に気付いたのか、ゆっくりと近付いてくる。
「う、あ」
思考はただ行き詰まり、魔物は俺と距離を詰めてくる。
そして、俺は。
その場から、逃げた。




