プロローグ
朝起きたら、歯を磨いて顔を洗って朝食を食べる。
それから着替えて学校へ。それが当たり前の日常だと思っていたし、実際に今までそうだった。
いや、そう思っていたというのが正しいのかもしれない。
何故ならば今、俺はその日常が崩れる様を目の当たりにしているからだ。
「…………」
早朝、目覚ましの音で目を開けた俺の視界に飛び込んできたのは、いつも見る部屋の白い天井では無かった。
いや、天井ではあった。問題なのはその天井に穴が開いていることだった。
穴と言ってもそこから屋根裏が目視できるような住宅欠陥的な穴では無い。まるでそこだけが切り取られたような、真っ暗な穴。
まるで暗闇に続いてるかのようなその穴は、時々蠢いてるかのようにも見えた。
「…………」
しばらくその穴をじっと見つめる。
特に何も変化はない。きっと俺が寝ぼけているのだろう。
そう結論付けて起き上がろうとした、その時だった。
「―――え?」
手だ。
手が、穴の中から伸びてきた。
まるで俺を掴もうとするかのように、二つの手が真っ直ぐに。
「ちょっ……!?」
―――正直、ここから先はよく覚えていない。
その二つの手に、もの凄い力で引っ張られたような……そんな気はしたが。
ただ……伸びてきた二つの手はどちらとも右手だったような、そんな気がした。
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「すいません! 遅れました!」
「いやいや構わないよ。学校もあるんだから仕方ない」
「すいません……それで、例の対象が?」
「ああ、これを見てほしい」
そう言って見せられたモニターに映っていたのは、二人の人間。
片方は普通の人間と同じ格好をしてはいたけど、もう一人は異様な姿だった。
鎧だ。もう一人は白銀のフルプレートの鎧で全身を覆っている。
その姿から顔は確認出来ない。後頭部からゆらゆらと、青い炎のように揺れる髪のような衣装だけが不気味に風に煽られている。
その姿は、まるで騎士のようにも見えた。
周りにビルが立ち並ぶ風景に合わないその姿が、更に異様さを引き立てている。
「ここ一週間で急に姿を現したこの【白騎士】は、やはり魔人のみを襲っているようだ」
魔人。
私達がそう呼ぶのは、モニターに映し出された普通の格好をしている男の方を指している。
外見的には普通の人間と区別がつかない。
だけど、その理性は崩壊しており見境なく周囲の者に襲い掛かる危険な存在。
「魔人、か。
我々も随分と研究を続けているが、まだ分からないことの方が多いな」
「人間が重度の魔素中毒に陥ると、でしたっけ」
「ああ。だが我々が普通に暮らす分には魔素の中毒になることは無い。
つまり何らかの外的要因がある訳なんだが……」
魔素、とは私達が住むこの世界に存在する物質。
私達が【魔法】と呼んでいる事象を引き起こす為の核となる存在。
この魔素に中毒症状を起こしてしまうことを魔素中毒と言い、この中毒になると理性を無くし、魔法により周囲を襲う危険な状態になる。
魔に囚われた人間、それを私達は【魔人】と呼んでいた。
だけど、私達が今追っているのはその魔人では無かった。
「ん、モニターに動きがあったよ!」
「魔人が攻撃し始めましたね……」
モニターに映し出された映像は、魔人の男が白騎士に魔法攻撃をしかけている場面だった。
魔法攻撃を物理で防ぐことは難しい。対応するには受け手が魔法防壁を張るか避けるかの二択だ。
だが、白騎士は何もせずに立っているだけだった。
防壁を張るでもなく、避けるでもなくただそこに立っているだけ。
だけど……。
「これは、通ってないね。魔人の攻撃」
「そうですね。あそこまで通らないなんて、相当ですよ」
弾幕の如き魔人の魔法攻撃は白騎士に傷一つ付けることは無かった。
何かしたかとでも言うように、その魔法攻撃の波の中を悠々と歩いて魔人に近づいていく。
魔人までもう少しという所で、白騎士の目元から一瞬だけ、青い光が漏れる。
次の瞬間、私達が気づいた時には既に……白騎士の拳が魔人を捉えていた。
「速い……!」
「騎士みたいな恰好をしてるのに、剣を使ったりはしないんですね」
「過去の映像でも武器を使ったりはしていなかったね。そういうスタイルなんだろう」
白騎士の拳を完全に食らってしまった魔人は、まるで思い切り蹴られたサッカーボールのように吹っ飛ばされて建物の壁に衝突する。
それから少しの間は呻いていたけど、すぐに動かなくなる。
そして、その体はまるで砂のように粒子になって消えてしまった。
「一撃、か。
我々としては有難いが、この白騎士は何故魔人を狙っているのだろうな」
「何か恨みがあるとかじゃないですか?」
そう、これが私達が追っている存在。
魔人のみを狙う、白銀の鎧に身を包んだ【白騎士】。
魔法が通じない圧倒的な防御力。
魔人を一撃で仕留める攻撃力。
そして、目に見えない程のスピード。
全てが圧倒的なスペックを誇る謎の存在。
「とりあえず、我々は引き続き白騎士を追おう。
場合によっては接触も考えなきゃね」
「了解です」
モニターには既に白騎士の姿は映っていなかった。
私はそれを確認してから一礼し、部屋を後にした。
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「ヤバッ! 早くしないとお姉ちゃんが帰ってきちゃう!」
時計を確認しながら帰路を急ぐ。
政府の研究機関で働いている姉は私の唯一の家族であり、一番の自慢でもある。
学校に通いながらそんな所で仕事なんて私だったら絶対無理だなぁ……
「よーし、今日はお姉ちゃんが好きな食べ物をいっぱい作っちゃうぞー!」
だから、私に出来ることはそんな姉を支えることだけだった。
料理は勿論、洗濯や掃除も全部引き受けた。
少しでも姉の負担を減らしたいから、ただそれだけだった。
「……うん?」
自宅のマンションまで辿り着いた。
そこまでは良かったけど、問題はそこじゃない。
人だ。
男の人が、マンションの入口の前で倒れている。
「ちょっ! もしもし!? 大丈夫ですか!?」
近寄って反応を見る。
僅かな呼吸と、時折呻き声が聞こえた。
時折体が痙攣しているかのように動いているけど……。
「ど、どうしよ……病院!? それとも警察!?」
「……を……い」
「な、なんですか!?」
男の人が私の腕を掴んで何かを言ってきた。
途切れ途切れなのと、声が小さすぎてよく聞こえない。
私は男の人の口元まで耳を近づける。
「み、ず……みずを……くだ、さい……」