5 談合行政
昭和16年11月6日木曜日、総理官邸。
毎週2回、火曜と金曜の定例閣議の前日、つまり月曜と木曜には各省次官会議が開かれる。議題は閣議提出案件の事前調整である。だから、省庁間で対立するような案件が、閣議に持ち込まれることはない。予算と法令による省益と縄張りは、次官会議で決定されるのだ。ところが、東條内閣の発足から、すこし様子が変わってきた。
官邸の別の小部屋には、各省の参与官や参与と呼ばれる官僚たちが集まっていた。局長や部長と違って、建制の部署と部下を持たない、次官付きの高級参謀とも遊軍ともいえる存在である。参与官らは、案件や課題ごとに、部や課から要員を選抜して任務にあたる。大臣で言えば特命担当の国務大臣か。
東條内閣では、政策研究やその予備調査・予備研究、それらに関する資料作成が大幅に増えた。従来の3倍ほどにもだ。それら政策案の対象も複数省庁に渉り、従って省庁間の利害調整も甚大となっていた。早い話が、前例のない政策案ばかりである。参与官らは、これまで省庁間での出向も多かったので、こういう仕事にはまさに適役とされた。
「とは、言ってもなあ」
「こき使ってくれるよな」
「終電が多くなった」
「素面でだよ。飲む暇がない」
「なんのために高等文官試験に受かったのだ」
「そりゃ、ご奉公だろう」
「「あっはっは」」
どちらかというと、次官たちが省益や縄張りを奪い取ることを目的とするのに対して、参与官らは不要な予算や余計な法令を極力排除する。つまり、複数省庁の連携で不要不急の政策案件を潰すのが目的だった。もちろん、必要な仕事はちゃんとやる。全政策を拒否して内閣を潰してしまっては、本末転倒であって、彼らや省の利益もなくなってしまう。
そこが、軍官僚と違うところだ。軍官僚は引くことを知らない。奪うばかりで、何も捨てないから、肥大するばかりだ。ついには政府や国を食い尽くしてしまう。もとより、内閣の1つや2つ潰すのはなんとも感じてない。当然ながら、ここには軍官僚は呼ばれない。
「ま、これだけ忙しくては、僕らも喧嘩している暇がない」
「うん。その意味では、今度の内閣は優等だね」
「大きな方向は、大臣が総理から受けて来る」
「細かいことは、書記官長がばんばん決裁してくれる」
「僕らは仕事するしかないじゃないか」
「これは困ったぞ」
「「あっはっは」」
高文をパスした官僚たちにとって、特に参与官らにとって、仕事をするのは苦ではない。部下がいるからだ。まして、今回の内閣は総研を活用しているらしく、下りてくる政策案は妥当かつ具体的であり、さらに有効性も有用性も見込まれた。ならば、その政策案を実現することによって、さらなる省益と出世を計るのが参与官らの使命である。
そうなると、現内閣の寿命が関心の的となる。短命政権や不安定な世相では、一時しのぎの政策しか採用できない。臨機応変といえば聞こえはいいが、基盤となる政治環境や国際情勢が激変するのだから、つまりは朝令暮改となる。
重要政策の実現には、安定した内政や外交が必要である。変化する情勢の中で、内政外交を安定させるには、相応の指導力が内閣に要求される。実力ある長期政権でなければ実現できない政策があり、今、帝国はそれを必要としていた。東條内閣の実力は、新国策で証明された。あとは、どれだけ長く続くかだ。
「武藤中将が満洲に出張って山下中将を口説いているらしい」
「軍務局長が口説くって、なにを?」
「陸相就任だ」
「首相は陸相を降りられるのか」
「たいした自信だな。陸相を降りても、陸軍を抑えきれると判断されたか」
大蔵省は、すべての官庁の予算・執行を監理している。官費で出納をやるなら、証跡・証憑は残る。それらを伝えば、行動は推測できる。その気になれば、ほとんど、まるっと見通すことが出来た。官僚の情報網はすごいのだ。
「松井大将は週末に重慶に入る」
「日支交渉は今月中には結論が出るな」
「日米交渉もそれで捗る」
「年内には方向が見えるな」
「なら、山下中将の陸相就任は年明けか」
「ようやく、帝国の外交が安定する」
「やっと内政にかかれる」
「226以来、6年も放っておかれた」
「リフレが悪性インフレになってしまった」
「まずはそれだな」
動乱だ謀反だ、事変だ戦争だと、騒ぎに忙殺されていたが、実は経済行政が止まったままである。高橋蔵相が226事件で暗殺されて以来、長期的視野で経済を仕切った内閣はない。内外の騒乱に対応するだけで精一杯だった。しかも、高橋蔵相の次の馬場蔵相は、いきなり悪手を打っていた。
「あの時、財政を引き締めるべきだった」
「賀屋蔵相も谷口次官も承知されてる」
「では?」
「いきなりの引き締めは、首相が許さんそうだ」
「しかし、昨年並みの軍事予算では」
「首相も蔵相も狸だ」
「というと?」
「陸軍省予算で、工業振興策をやるらしい」
「上陸戦研究という名目で、貨客船の建造」
「兵器開発名義で、工作機械や金属産業、大学への支援」
「陸軍予算の半分近くは、陸軍の外に流れる」
「内務省の警備隊も、連隊区で訓練するとか」
「たいしたもんだ」
「頼もしいではないか」
「では僕らも本分を尽くすか」
「ああ」
内政の懸案は多い。参与官らは、まだ指示されていない政策課題を推定し、解決策を模索してみる。官僚たちにとって、今まで内閣から指令された試案、研究、調査、それに作成資料を連結して、その裏にある大いなる企図を想像するのは、難しいことではなかった。東条内閣の政策と実行予定は、予想できると思われた。
「これらをやろうというのか!」
「思った以上に、大掛かりだ」
「大変革だな」
「人が足りないではないか」
「翼賛会に出向させた者がいるだろう」
「もうすぐやめるらしいぞ」
「翼賛会をか?」
「ああ。いいことだ。役所や役場を増やしたようなものだった」
「だがアカはだめらしい、絶対に」
「この間、警保局でらむぜい関連の検挙リストを作ったが」
「半分を削除されて、さらに3倍が追加された」
「人数は2倍になったんだな」
「その削除分と追加分で、上の方針がわかる」
「どうわかる」
「影響の大きい順、影響が若年に及ぶ順」
「思想の先鋭さ、過激さは二の次らしい」
「すこぶる健全な思考じゃないか」
「長期政権は可能だな、少なくとも2年か」
「遣り甲斐があるじゃないか」
「そうとも、2年あればできる」
「ならば3年にして、1年は僕らのものにしよう」
「「あっはっは」」
参与官らは、今回の内閣の政策と方針、それに具体化の計画線表が明確になったところで、判定をした。帝国の経世済民を立て直し、財政を健全化するには、お誂えの内閣だ。今回やらなければ、もう間に合わなくなる。これが最後の機会だろう。一蓮托生だ。全面的に後援することに決定した。
「次回は、優先順位か?」
「ああ」
「外務省にも来てもらおう」
「そうだな。資源輸入の問題がある」
「それから、次回はアレもやりたい」
「官僚長官か」
「うむ。将来のためには、次官より上」
「閣僚に官僚代表を送らないと」
「やはり、書記官長を官房長官だな」
「ま、次回ということで」
「よし。諸君、お疲れ様」
「今日は、繰り出すぞ」
「集合は新橋駅前、ヒトナナマルゴ」
「よしっ。ヒトロクサンマルには音信不通だ」
「「あっはっは」」