10 慰労会
昭和16年11月29日、土曜日、夕方。東京府、日比谷。
東京港の竹芝桟橋から北上すれば、帝国ホテルはすぐである。2kmもない。
夕方になると、閣僚たちが三々五々集まって来た。今夜は慰労会である。重光外相の段取りで帝国ホテルの和室が借り切られていた。例によって、全員が浴衣に褞袍、風呂に入って上機嫌だった。ホテル側は和室の周りを閉鎖して、通路には警衛を立てていた。他の客に見せないためである。
帝国ホテルは、大日本帝国の顔であり迎賓館であった。世界各国からの賓客、重要人物が宿泊しているし、内外の重要な会合も行われている。褞袍姿の酔っ払った閣僚を見られてはならない。それには東條も了解して、私服の憲兵や警官を潜ませていた。こちらは護衛のためである。
首相の乾杯で慰労会が始まった。やれやれと、東條はほっとする。豊田海相はと見ると、不敵に微笑んでいた。いやな予感がする。
日中講和の最終条件が妥結した。重光外相によると、満足すべき内容となるようだ。もちろん、帝国の譲歩も大きい。帝国が譲歩したのは、満洲問題がおおきく進展したからだ。
日米交渉も進展している。工作機械、潤滑油に加えて、揮発油製造関連の禁輸が解けた。残る禁輸品は石油全般と屑鉄だ。シアトル航路も再開した。
重光の席には、閣僚たちが次々と押しかけて酒を勧める。なんといっても、日中・日米の懸案を解決している外務省の功績は大きい。外相も愛想よく、差し障りのない範囲で、交渉裏話を漏らす。
藤原商工相が、ひときわ大きな声を出す。
「工作機械と潤滑油が入れば、帝国の産業は復活するのです」
「「そうですとも」」
「蔵相が特別枠をくれた。ばんばん輸入します」
「藤原さん、これで空っ穴です。輸出もよろしく」
「はい、蔵相。来月には日昌丸がシアトルに向かいます」
「おお、サトウキビとバナナを、仏印から運んできた船ですね」
「今、改装中でして」
「なんの改装ですか?」
「橋田さん、巡航見本市船になるのです」
「え」
「岩村さん。日昌丸の船上では見本市が常設される」
「ほほう」
「米国に売る商品の見本市です」
「なるほど、輸出品の」
「はい。生糸だけでは限界です。今、いろいろ集めています」
「そう、それはいい」
「日昌丸には船長とは別に、見本市の責任者をおきます」
「輸出大使ですね。責任重大ですな」
「そりゃもう。次官級をつけようと思いまして」
「見つかりましたか」
「岸君に逃げられました」
「あの岸信介ですか。で、逃げた?!」
「けしからん。藤原さん、心当たりがありますぞ」
「おお、寺島さん。いい人がいますか?」
「いますとも。次官級、いや大臣級の大物です」
「寺島大臣、ぜひお願いします」
逓信大臣兼鉄道大臣の寺島は、ちらと豊田海相の顔を窺ったあと、藤原商工相に向き直った。
「掘悌吉はどうでしょうか?」
「あの堀さんですか!法制局長官の声望も高い」
「そうです」
「「おおお」」
「これは願ったり叶ったりだ」
海軍予備役中将の堀悌吉は海兵32期、海軍の秀才である。軍政畑が長く、ワシントン軍縮会議とジュネーブ軍縮会議では全権随員を務め、外務省にも出向した事があるから、閣僚には見知った者も多い。同じ予備役中将で海兵31期の寺島逓信相とは因縁が深かった。
「どうです、首相」
「藤原さん。それは商工大臣の専権事項ですが」
そう答えながら東條は、海軍大臣を横目で見る。豊田海相は、にんまりと笑いながらうんうんと頷いていた。豊田は海兵33期で、堀の後輩になる。
「わたしとしては、申し分ないと思う」
「では、決まりだ」
「「おおおっ」」
こうして、かつては海軍大臣にも望まれたという堀中将の再就職は、飲み会の席で決せられた。知らぬは本人だけ。部屋の中では、コップや盃を合わせる音がひとしきり続く。
慰労会では、景気のいい話が続いた。
重光は、寄って集って飲まされ、早くも沈没である。
大蔵大臣の賀屋は徳利を振って、次の獲物を狙う。海軍大臣の豊田だ。
「どうです、海相。景気のいい話をひとつ」
「うむむ、しかし」
「まあ、一献どうぞ」
「これは、うむ」
「豊田さん、海軍には破格の予算を回していると思っておるが」
「むむむ」
「海相、お付き合いですぞ。それそれ」
「わわ。これは、ありがとう」
「はいはい、さあ、景気のいいのをぶあーっと」
「そ、そうか。本当に」
「そうですとも」
(ああ、いかん!)
東條がそう思った時、すでに豊田副武は起立していた。
(ま、まさか)
豊田は、凄みのある笑みを浮かべて一同を見回すと、言った。
「海兵33期、豊田副武。行進曲軍艦をいきますっ!」
「「おっ、いいぞ」」
無責任に、賀屋蔵相が拍手をする。
「待ってました!」
「「行け行け」」
逓信相の寺島も、すっと立ち上がる。いつの間にか、胸に手風琴を抱いていた。身体を左右に動かしながら、伴奏を始める。
ちゃんちゃんちゃんちゃかちゃっちゃっ、ちゃちゃちゃちゃちゃっ。
「♪~
守るも攻めるも黒鉄の
長くて太くて硬い筒
龍かとばかり直立す
長くて太くて硬い筒
征くは大洋ど真ん中
撃つは精気の熱い潮」
「「いいぞ、海相!」」
やんやの喚声の中で、寺島も豊田も唄いながら足踏みをしていた。
「「おおっ、そうか!」」
閣僚たちが立ち上がり、足踏みをはじめる。どん、どん。
肩を組んで行進する閣僚たちを目にして、東條は天井を仰ぐ。
(あああ、やはり)
ちゃかちゃっちゃっちゃ。
「♪~
攻めて攻めて攻め続く
長くて太くて硬い筒
退くかと見せてもまた攻める
・・・」
東條は決断を迫られていた。軍艦の間奏は海ゆかばだ。
軍人として、胡坐のまま海ゆかばを聞き流すことは許されない。
(やんぬるかな)
東條は立ち上がった。
「おお、東條さんも」
「いや、わしは、その」
「さあさあ」
「わっ、まて」
東條陸相は、豊田海相を先頭にする行進の最後尾に着く。
「この部屋は狭い」
「廊下に出よう」
「いや、それは」
「行け行け」
ぶーんかぶーんか、ぶんぶん。
ぺたっぺたっ、ぺたっぺたっ。
帝国ホテルの夜は長くなると思われた。




