2 参謀本部乙事件
昭和16年11月5日水曜日、陸軍省。
陸軍省、参謀本部、陸相官邸は、三宅坂にまとまってあった。12月には市ヶ谷に移ることになっているが、これは手狭になったためであり、決して空襲対策ではない。
東條は、赤松と陸相官邸に入り、陸相秘書官の西浦を交えて予定を確認する。溜まった書類の決裁を終えると、陸軍省局長会議である。
陸軍次官、人事局長、兵器局長、兵務局長、整備局長、経理局長、医務局長、法務局長らが集まった会議室に東條陸相が入る。会議室の空気は張り詰めている。なにしろ、陸軍が半分に縮小されるのだ。二人に一人は予備役入り、すなわち首なのである。すでに、人事局長は、富永少将から額田少将に代わった。軍務局長は満州出張で不在、軍務課長が代理出席である。武藤中将は、先週末に大臣に呼ばれて引導を渡されたともいう。陸大卒の中央勤めであっても安穏としてはいられないのだ。
「はじめます」
「うむ」
定例の議事をすますと情報交換、つまり局長間の根回しの場となる。
「南満洲油田ですが、参謀本部が不満のようです」
「海軍に管理を任せるのがか?」
「はい。陸軍が主導すべきと」
「今のところ、油質は揮発油に向かんということだ」
「それですが、燃料廠の研究が進んでまして」
「全部はいらんだろう」
「そうなのですが」
「一定量があればいい。航空機と車両用の」
「肝心なのは、海軍に予算を使わせることだ」
「南進できんようにな」
「岩国の第1製造所が試運転に入ります」
「満洲防衛には、満洲国内に燃料製造所が必要では」
「航空機と戦車を増強するからな」
「満洲の人造石油の予算を回せないか」
「人造石油は、計画を縮小しますか」
「その方向で」
そこで、東條が口を出す。
「撤兵後の編制と復員はどうなっとる?」
(((来たあ)))
「それが、参謀本部から計画が下りてきません」
「はあ?」
「塚田次長からは、もう少し待ってくれと」
「待てるか!」
「「「ひっ」」」
「西浦、省部会議だ。今すぐだ!」
「はっ」
西浦は、全力で駆け出して行く。
陸軍省参謀本部連絡会議である省部会議は、剣吞な雰囲気で始まった。
「次長、撤兵計画がまだ出ないとはどういうことだ!」
「木村次官。下が仕事せんのです」
「なにぃ」
「ま、待て。総長、どういうことですか?」
「それがな、東條。田中作戦部長も服部作戦課長も辻作戦班長も」
「攻撃作戦ならともかく、撤兵作戦なぞ起案できるか!!」
「「「・・・」」」
「と、こうなのだ。塚田次長が今作っておるが」
「作戦課には一歩も入れん。資料も渡さん!!」
「「「・・・・」」」
「と、こうなのだよ」
「「「はああーっ」」」
「どうします?」
「支那は後回しにしても、仏印は進めんと船が回りません」
「わかっとるよ、それくらい」
「光輝ある皇軍が撤退など。絶対、いやだ。俺は!!」
佐藤軍務課長が食い下がる。
「しかし、作戦部長は前回の会議で納得されたのでは?」
一瞬、眉を動かした田中だったが、すぐにそっぽを向いた。
「ふん!!」
「田中中将、国策なのです。抗命されてはいけません!」
佐藤が必死に説得するが、武藤局長ほどの迫力はない。
(裏切りものめっ!!)
田中は、ことさらに、蔑む視線で佐藤を見下ろす。
「「「・・・」」」
「総長!」
「わかった。後は頼むぞ」
「「「は?」」」
「田中。これでもくらえ」
いきなり、杉山参謀総長は、田中作戦部長の横面を叩いた。
びびびびび~ん。
「「「え?」」」
「な、何をする!許せん」
田中が叩きかえす。
びびびびび~ん。
「「「わ!」」」
びびびびび~ん。
びびびびび~ん。
塚田参謀次長が立ちあがり、大声を出す。
「衛兵、衛兵!」
だだだっと、拳銃を抜いた憲兵の一団が部屋に入ってくる。
「田中中将が上官暴行だ。それと命令不服従!」
「はっ。上官暴行、命令不服従」と憲兵大尉が復唱し、憲兵は田中部長を取り囲む。
「な、なにを?」有無を言わさず、捕縄がぐるぐると巻かれる。
「服部大佐と辻中佐も一味だ!」
「了解!」憲兵隊の半分が、だだだっと外へ飛び出していく。
拳銃を突きつけられた田中が引き出される。
そこへ、杉山が足払いをかける。
べしゃっ。
「あぶないっ」
ぱ~ん。
「ひっ」
「ちっ。外したか」
「「「はああ~」」」
ずるずると、気絶した田中を引き摺って、憲兵隊は出て行く。
佐藤課長は泣いていた。
杉山が発する。「東條大臣!」
「はい」
「先日の三長官会議の通りだ。これから参内する」
「お供しましょう」
頬を赤く腫らした杉山がつぶやく。「誠に、残念だ」
ぱん、ぱーんと外で銃声がする。
「もう少しお役にたてると思っておったが」
「「「・・・」」」




