7 政党復活
昭和16年11月27日、木曜日、午後。群馬県高崎市。
国務大臣の中野正剛は、高崎市で開催された時局演説会に、来賓として出席していた。演説にも立つ。中野は演説の名手である。演説会は盛況であった。だが、所詮は官製、大政翼賛会のお手盛りだ。
集まった者は、翼賛会支部の動員がほとんどであった。それに地元選出議員とその後援者、お付き合いの新聞記者たちである。すなわち、いつもの面子であり、内輪の演説会も同然で、時局とあるのも白々しい。
元の政友会、民政党、社会大衆党からそれぞれ一人ずつ弁士が立ったが、内容はおとなしいものだった。演壇脇に立った巡査の『弁士中止』がかかるほど、本音をぶつ者はいない。日支事変の完遂と日米交渉の進展を歓迎するものである。結局は、現役閣僚である中野の演説が最も過激で、巡査を困惑させた。
中野の目的の1つは、演説会の後の打ち上げだ。酒食が出されるから、そこでこそ本音が出る。打ち上げの会場は、元の政党3つと主催者とで4つ、互いに少し離して席が設けてあった。参加した弁士、議員や後援者がそれぞれの席に分かれる。中野は、主催者の翼賛会の席に着いた。
慰労の謝辞と弥栄の乾杯が終わると、酒席となる。主催が大政翼賛会で、現役閣僚も参加なら、つまり政府公認の宴会、天下御免の無礼講だ。ここで遠慮するのはありえない。しばらくすると、あちこちが賑やかとなる。
中野は、すっと自席を立ち、隣に移る。元政友会の席だ。立憲政友会の地盤は、地方の地主たちであった。
「いや、中野さんが飲めるとは知らなかった」
「まあ、多少は」
「今日の演説は良かったです」
「さすが、日本のゲッペルスですね」
世辞と世間話を軽く流すと、中野は演説に散りばめていた用語を囁く。議員たちの本音を促すのだ。挑発ともいう。
「どうです。一世帯で3町歩ほどでは?」
「なにを言われるか」
「しかし、このままでいくとそうなりますよ」
「そ、総理がそのようにお考えか?」
「いや、東條首相の本意ではない。聞くところによると」
「「ごくん」」
「前の総理がそう考えられ、すでに法案も用意してあったと」
「「えええ、近衛公が!」」
「しっ。わたしも国務大臣ですから知ることが出来たのですが」
政府主導の自作農育成策として、まず、昭和13年に農地調整法が施行された。その後も、小作料統制法、臨時農地価格統制法などが相次いだ。いずれも近衛内閣下である。自作農創設は、耕地を解放する地主の側に負担を強いるものだった。
「問題は、保有上限です」
「「ごくり」」
「原案では、一世帯で1町歩」
「「なにっ」」
「一人1石、1反で1石なら、1町歩で十人が食えると」
「「ふざけるな」」
「いや、原案にそうあったのです」
「「なんだと!」」
一人1石は、ひとりで1日3合の米を食すというのが基礎だ。反収1石も、およそ明治の頃の標準である。もちろん、玄米だから、精米すれば1割から2割ほど目減りする。
「大臣、わしは水田もやったことがある」
「はい」
「たしかに反当りの収量はよくなった」
「品種と肥料の改良ですね」
「そうだ。しかし1町歩では10人も食えない」
「そうとも。作男や女中、子守もいる」
「10人が10人とも田畑に出れるわけではない」
「そうそう、女子供はどうする。国民学校だって」
「はい、はい」
「麦や豆も作らんと、味噌醤油が出来んし」
「牛だって草を食うのだぞ」
「草は地面に生える。空から降ってはこない」
「まあまあ、雲の上の人にはわからんのです」
「しかし、法律を作るのは農林省の役人だろ」
「役人は、上には逆らえないのです」
「売る米も作らんと、着物も買えない」
「ま、水田稲作としても、2町歩でも不足だな」
「そして、ここ上州では畑作だ」
「桑、野菜に芋、麦」
「金肥が買えないなら、倍の土地が要るのだ」
「わ、わかりますよ」
「なら、何故そんな無茶な話になるのだ?」
「農家は米だけ作って、他は買うものだと思われていたかと」
「「だからその金はどこから沸いてくるのかと!」」
「おい、声が高い」
「あ、ああ。しかし、お公家さんの考えることは」
「どうです。5町歩からはじめるということで」
「「うむ、まあ。しかし、そうだな」」
地主たちが互いに視線を交わす。ひそひそと話し出す。
中野は知らん振りで、次の、元民政党の席に移った。立憲民政党の支持基盤は、都市中間層とされている。公務員や職員、会社工場の社員など高等学校や大学校卒が中心だ。
「まあ、どうぞ。中野大臣」
「あ、これはどうも」
「ところで、さっきの話は」
「はて、なんでしたっけ」
「ま、不在地主にはいい気味です」
「別の法案もありまして」
「「え」」
「その、近衛公がです」
「まだあるのか」
「これは地主さんより、みなさんに関係が深いかも」
「「な、なんですか」」
「実は、ごにょごにょ」
「「なにを!」」
中野は、さらに、元社会大衆党の席も回って吹聴した。
小一時間ほど会場を巡ると、主催者席に戻って料理に箸をつける。
いつしか、打ち上げの会場では、熱い議論が起きていた。あちこちで、『近衛体制打破』の声が上がる。
(ふふふ。さて、吉凶いずれがでるか)
中野は、ようやく、主催者らと談笑をはじめた。
同じ日、午後。東京府、総理官邸。
総理官邸の小部屋には各省の参与官たちが集まっていた。珍しく紛糾している。今日の課題は税制改革だった。
帝国の予算規模、歳出は、およそ予想がつく。今年度の帝国の歳出は、軍事費を除いた一般会計だけで当初予算が68億、決算では86億と見られていた。
参与官たちは、朝鮮分離を行った後の歳出を、産業振興や開墾治水を加えても50億ほどではないかと見積もる。
しかし、直接税と間接税をどう課税するか、それぞれ税率をどうするかは、国民の生涯所得を見積もらねばならない。それはつまり、国民の人生を類型化することに他ならない。
「日本と台湾の人口が合わせて8000万」
「50億なら一人当たり62円50銭。税率5%として」
「法人所得税と個人所得税を半々し、人口構成を考えると」
「成人ひとり年収1200円がほしいな」
「妥当な数字だ。しかし、勤め人はいいが、農林漁業者はどうだろう」
「うむ。地租に頼れば、将来が不安ですし」
「またアカが蔓延るな」
「そもそも、地租は年貢の代替から出発した」
「そう、根は江戸時代だな」
「もっと古いだろ。土地私有制を禁じてからだ」
「そのこころは賃借料かな」
「だから今は地価の算定に賃借料を用いている」
「いや、明治以前の年貢は村請制だ」
「それはそれで合理的だった」
「村落共同体か」
「土地の私有を認めたから、課税も私人へとなる」
「しかし、実質は、村請から地主請に変わったようなものだ」
大蔵省の要求は、農林水産業を含めて、等しく所得への課税であった。しかし、農林水産業、なかでも農家の所得は掴み難かった。それは、現金を介在しない経済活動や取引が多いからだ。農業の収穫は日々の必需品そのものであり、手広くやれば、現金なしでも生計が成り立つのだ。木材や加工品を売るしかない林業とは違った。
小作人が地主に雇われて、地主の農地を耕し収穫の一部を小作料として引き渡す。ここに現金は発生しない。さらに、地主は小作料として納められた米穀を、価格の動向を見ながら売り払うから、販売価格をもって所得とも言い難い。有り体は商人であり、保管や倉庫、利息などもない訳ではないのだ。
また、子弟など人手に余裕のある自作農が、他の自作農に代わって耕作する場合も多いが、それは小作ではない。しかし、耕地の借り賃は収穫から払われるので、見た目は小作である。
さらに、農業所得といっても、事業所得と自家消費の判別は、外からはつけがたい。
「見えなければ、見えるようにするしかない」
「農家に簿記をつけてもらうか」
「何を言うか。そんなことができるとでも」
「しかし、目端の利く農家なら大福帳ぐらいはつけている」
「農業の事業部分ならできるだろう」
「その区別がつかないなら全部となるな」
「お前は、家計簿を晒せと言われて、できるか?」
「「・・・」」
「まず、小作料はまだ物納だし」
「それは金納にしてしまおう」
「その現金を得るには、作物を売るか、副業に出るか」
「作物を売るにしても、相場や価格は変動する」
「米の価格統制だってうまくいっていないのに」
「それに、大規模な灌漑は国や地方でやっていますが」
「用水や農道、林道などは農家の自前」
「そもそも、土地が生産財というのが怪しい」
「「・・・」」
大蔵省としては、事業規模の小さい者、貧農や小漁師に免税するのはやぶさかではなかった。その分を豪農や大地主にどっと課税すればいいのだ。実際に、明治の頃は選挙権や爵位と引き換えに、地主や富豪などから取り立ててきた。
しかし、東條総理や賀屋蔵相は、女性参政権を含む普通選挙を目指している。となれば、選挙権を得ておいて税を免れるというのは通らない。なにより土地を取り上げられる地主たちが黙っていないだろう。そして、地主たちは、現役の官僚や議員の過半を占めるのだ。
「税金を金納できる自作農か」
「ま、作物を現金化する仕組みはあるが」
「国でやれば、農産物の高値固定を招くな」
「農家によくても、工場労働者には不利益だ」
「農産物を安価に抑えれば、農家の所得は上がらん」
「ならば、農家の費用を減らす方向で」
「地租の免除か。農地・耕地に限っての」
「農地改革、土地改革は避けて通れない」
農林省の参与官は思いつめた目つきで訴える。
「自作中農の育成は農林省の悲願なのです」
それは、明治33年に農商務省に入省した柳田國男から受け継がれる、農業政策の最大の課題であった。その前段階としてこそ、小作料の金納化や不在地主からの農地買収と解放がある。
「わかっているよ」
大蔵省の参与官が優しい声音で返す。
「きっとできるさ」
「「やれるとも!」」
「やはり、あれか。総研高等班の案」
「生業でなく職業としての農業」
「それでいくか」
「ああ、問題点は判明した」
「ここはひとまず本省に持ち帰ってくれ」
同じ日、夕方。群馬県新田郡尾島町。
国務大臣中野正剛は、高崎線を熊谷駅で降りると、待っていた車に乗る。中野と護衛の私服警官を乗せた車は、八王子街道を北上した。北には利根川があって、それを渡ると群馬県新田郡である。しばらく走ると左へ折れて、西へ向かう。目的地は、尾島町押切の中島知久平の屋敷だった。
(これは。たいしたものだ)
中島邸に着いて、中野は驚愕する。屋敷は、まるで神社仏閣の造りである。百万円かけたと聞いたが、まさに。
玄関で迎えた中島は、中野を座敷ではなく洋間に案内した。
「わざわざご足労をお願いしました」
「なんの。たいした寄り道でもありません」
群馬一区選出の衆院議員で、政友会の総裁だった中島知久平は、もちろん昼間の時局演説会にもいた。だが、打ち上げ会でも挨拶以上の言葉はなく、黙したままだった。
中島知久平は、もと政友会総裁ではあったが、頑迷な保守というわけではなく、むしろ革新的なところが多々あった。だから、民政党からも社会大衆党からも一目も二目もおかれている。群馬県の政治家筆頭にして、重鎮であった。
「中野大臣には、昼間の結論をお聞きしたい」
「と言われますと?」
「農地改革や選挙改革が本題ではないでしょう」
「見抜かれましたか。中島さんには別件がありました」
「それは」
「新政党の党首に就いていただきたい」
「ほう」
黙した中島の前で、中野はゆっくりと出されたお茶を飲んだ。すでに酔いはさめていたから、間合いである。
「長い間、議会から内閣首班を出しておりません」
「・・」
「これは、つまり、お上の信頼が議会にないということでしょう」
「・・」
「ご信頼を回復するには、議会の本分を尽くすしかありませんが」
「・・」
「それが、今の全与党体制、大政翼賛会で可能と思われますか?」
「・・・」
中島知久平は、ゆっくりと声を出した。
「もちろん、大臣には考えがおありだ」
「いささかは」
「お聞きかせください」




