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LN東條戦記第2部「変革宰相」  作者: 異不丸
第4章 破れて逃ぐるは国の耻
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3 緊急輸出


1941年11月21日、金曜日、夜。米合衆国、ワシントン府。在米日本大使館。


特命全権大使の吉田茂は、電話がかかってくるというので大使公邸に残っていた。

それがなければ、三女和子の娘婿の、麻生太賀吉が投宿しているホテルに行くつもりだった。孫の相手をするためである。孫の太郎は1歳2ヶ月のまだ赤子だが、将来を期待させるところが大いにあった。馬にも乗れるし、銃も撃てる。なにより、太郎の笑顔は最高だった。


ところが、ハル国務長官からの電話は、なかなかこない。すでに9時を過ぎていた。といって、吉田には、ハルがわざと焦らしているとは思えない。今日はじめて相対したハルは、老練な政治家だった。手練手管は使うが、無意味な細工はしない真っ当な人物である。つまり、ハルの行動は、吉田が予想できた。


おそらく、大統領かその側近の説得に時間を費やしているのだろう。無理もない。1回目の会談で及第点を得たからと言説して、誰が認めるだろう。今日はまだ、吉田が着任した翌日なのだ。



吉田は、電話を待つ間、机の上の書類を眺める。何度見ても腹が立つ。それは、米国の対日制裁と日米交渉のサマリだった。


1939年7月の日米通商航海条約破棄に始まった米国の対日経済制裁は、同年12月に航空揮発油製造を輸出禁止とする。1940年には、特殊工作機械と航空潤滑油製造を輸出許可制にし、航空燃料と屑鉄を輸出禁止とした。今年1941年には、資産凍結と石油の禁輸である。


次々と出された、それらの対日制裁は、それぞれが帝国の行動に相対するものだった。すなわち、1937年の支那事変勃発、1938年の近衛声明、1940年の北部仏印進駐と三国同盟、1941年の南部仏印進駐。

これらすべてが、近衛内閣の失策だ。


近衛前首相は、今年になってようやく本格的な日米交渉を開始した。しかし、うまくいかない。あたりまえだ。米大統領の旧知というだけで、英会話も碌にできない軍人大使に何ができるか。せめて専門の国際法で詰めてくれていればまだしも。

吉田は、後手にまわった帝国政府と外務省に腹を立てていた。



もともと吉田は対中外交が専門である。天津総領事や奉天総領事の時は、積極外交・強硬外交で鳴らしたものだ。陸軍出身の田中義一首相や宇垣一成外相らの下では、外務次官として重光たちを手足に使い、中国問題の収束にあたった。ただ、吉田は人に惚れ込みやすい。かつて、陸軍皇道派の真崎大将に惚れ込んで痛い目にあった。が、今でも嫌いではない。

今度もそうなのかも知れない。


吉田が火中の栗を拾ったのは、重光の懇請が大きいが、それだけではない。

首相の東條を見直したこともある。東條は組閣にあたって、商工相から岸信介を外した。外相も東郷茂徳を厭い、逆に海相は豊田副武を受け入れた。無難な人事を避けているのだ。つまり、東條には貫きたい原則か信念があるに違いない。


首相官邸に挨拶に行った時、直接話を聞いた。東條は、なんと、日米交渉妥結後のことを語ったのだ。

『総理、吉田はまだ東京におりますが』

『なんの、吉田さんがでれば妥結は既定でしょう』

あれでカチンと来た。次に、ようしやってやると思った。

そうだ、わしにとって妥結だけなら簡単だ。これだけの切り札があれば。

その後のことこそ、わしにしか出来まい。東條め、なかなか鋭い。



ようやく電話がかかってきた。ハルからだ。恐縮しているという。

吉田茂は、心持ちが穏やかになるように努める。電話だけの会談では、お互いの顔の表情が読めない。耳と口だけというのは、職業外交官にとっても容易ではないのだ。


内容は、吉田が言った帝国の要求事項を確認するものだった。

今日の午後の会談では、帝国からの要求事項として、資産凍結解除と工作機械・潤滑油の緊急輸出を求めた。代わりに、仏印撤兵を確約した。まず、日米関係を仏印進駐前に戻す。それから、ハル4原則と通商航海条約の本格交渉に入る。それが今日の結論だった。

それらを大統領に確認したと、ハルは告げた。


「長官閣下。誠に、待っていた甲斐がありました。感謝します」

「どういたしまして、大使閣下。これで私もぐっすり眠れます」

「メモランダムが欲しいのですが、長官閣下」

「明日昼前に、わたしの宿舎に来てください。大使閣下」


明日の面会を約束して、吉田は電話をおいた。

(これでよし)

吉田は、大使館から結城書記官を呼んだ。そして、本省への報告電を頼むと、寝室に入る。さすがに今から和子の宿に行くのは野暮というものだろう。麻生太賀吉は30歳だし、和子は26歳だ。太郎はまだ最初の子なのだ。あの笑顔に癒されたいのだが、一族の繁栄を摘むわけにはいかない。



結城書記官は大使館に戻り、当直の山藤書記生を呼ぶと、電報の暗号組みと送信を命じた。外交官補の最初の仕事は、電信室勤務が決まりである。

在米日本大使館の旧要員を吉田新大使は信用していない。重光からの申し渡しがあったらしい。野村大使から書記官まで半分近くが入れ替わることになっている。

当分の間、岩杉公使と結城特派書記官、そして連れてきた官補の山藤重一と宮沢喜一が吉田大使の手と足となる。頭は、必要とされてない。






翌日。11月22日、土曜日、午前。東京府、陸相官邸。


陸相官邸で待っていた東條に、重光外相から電話が入った。

「東條です」

「重光です、首相。来ました。本文『ホトケノカオモサンド』」

「仏の顔も三度、ですね。すぐに発令します」


東條は、多田参謀総長に電話をかける。

「総長、東條です。本文、仏の顔も三度」

「本文、仏の顔も三度。承知した」


多田は、総長室で待機していた本間次長に命じる。

「聞いたとおりだ。本文、仏の顔も三度」

「大本営はふ号作戦開始を発令します」

復唱した本間中将は、総長室を飛び出す。


暗号電『ホトケノカオモサンド』は仏印まで飛んだ。






同じ日。11月22日、土曜日、夜。東京府、某所。


今日は土曜日だ。教育総監の土肥原賢二陸軍大将の晩酌の相手は、いつもの、副官の山内禄雄陸軍中尉である。そしてここは、小さな料理屋のいつもの一室だ。


「まあ飲め」

「はい。いただきます」

(相変わらず、うまいな。ここは)

二人は、しばらく料理と酒を味わった。


「この間の日曜日、な」

「はい」

日曜日はさすがに禄雄も休む。

(何かあったのか?)

「誘われて会合に出席した。叛乱の謀議だ」

ぐぱーっ。禄雄は料理を吐き出した。

「ええい、えんがちょ。勿体ない。非国民め」

「ひ、すみません。ごめんなさい」


がらっ。

怖い顔して老婆が入って来た。呼んではいない。黙って始末すると、出て行った。



「で、その叛乱の会合だが」

「閣下、声が高くないですか」

「ばかもん、そのためのこの場所だろうが」

「はい、そうであります」


土肥原は、会合の一部始終を語った。


「と、言うわけでな」

「なんと」

「わしもなめられたものだ」

「はあ」

「こともあろうに、このわしの前で、謀略を披露するとは」

「しかし、もしも叛乱を起こすとすれば」

「うむ、わしを担ぐのが一番だな」

「ご存知で」

「予備軍司令官だからな、わしは。わかっとるよ」

「では」


土肥原は、禄雄の酌を受ける。溢すことはない、絶対に。


「なにしろ、後任がおらん」

「えと、後継首班ですか、政府の」

「そうだ」

「はあ」

「東條は陸軍も枢密院も皇族方も取り込んだ。たいしたものじゃないか」

「それは土肥原閣下が」

「そうだよ、わしが手伝った」

「もういませんかねぇ」

「少しは自分で考えろ」

「ああ、すみません」

「まったくぅ」


しばらく二人は、煙草を吸いつけた。すー、ぱっ、すぱっ。


「えと、海軍ですか」

「うむ、そうなるな。議会が落ちた今は」

「えへへ」

「ふん」

「しかし、米内大将も岡田大将も、あれです」

「だが、お上は海軍贔屓だ」

「具体的な動きはないでしょう」

「火曜夜の豊田海相が怪しい」

「ああ、来なかった日ですね」


報告した八重はくやしそうだった。

元帥宮様の別邸へ行ってたらしいが、その後の様子がおかしい。


「八重はまだ、豊田を落とせない」

「あと一歩まで行ったのです」

「もう少しでこっちが思う人事に」

「熱海から帰ってきたら、もとの木阿弥」

「別嬪さんにでも会ったんだろう」


意外とそうかもしれない。土肥原大将は男女の機微にも通じている。

少なくとも、年の分だけ経験はあるよな。と、禄雄は思う。


「人事局長が変わりました」

「さて、どうなるか」

「八重は躍起になっていますよ」

「実力行使に出るかな」

「わわわわ。それは」

「しかし、妙なものだ。役柄とはいえ、男が女に嫉妬するのか」

「げふんげふん」



そこへ、特務兵監の樋口中将が入って来た。

禄雄のコップを取ると、残ってたビールを飲み干す。ふーっ。


「どうだった」

「確認できたのは、海軍特務要員2名の変死です」

「どっちかな?」

「2人は一部です。しかし、近辺で二部も目撃されています」

「ほほう」


禄雄は興味津々だ。吾朗が置いていった指令は、海軍特務二部に関するものが主だった。教育総監部においても、海軍特務の情報は特別扱いである。


特務兵監がおかれてから、もとのハルビン特務機関である関東軍特殊情報部もその管理下に入ることになった。樋口は、笠原幸雄少将を通じて、情報の経路を整理中だ。もちろん、梅津総司令官には話を通してある。そっちの根回しは、土肥原総監の仕事だった。


今日の夕方に入った情報は、日ソ国境周辺に関するものだった。朝鮮からソ連領に越境しようとした海軍特務部の要員2名が変死した。ソ連国境警備隊の仕業らしいが、はっきりしない。

樋口は執務室で続報を待っていたのだ。


「なぜ朝鮮からだ。満洲からが近いだろうに」

「そこです。海軍さんですから艦艇なのでは?」

「そうかな」

「なにか」

「その死んだ一部の2人だが、任務は?」

「はて。報告にはありません、しかし」

「待て」

「「・・・」」

「逆ではないのか」

「入ろうとしたのではなく、出ようとした?」

「その先は裏塩軍港。海軍が海軍を見張る。当たり前すぎるか?」

「なるほど。抜かりましたな。電話しておきます」

「ここに電話はあったっけ」と土肥原がとぼける。冗談である。



なんのことだ。禄雄にはさっぱりわからない。

しばらくして、樋口が戻ってきた。


「それで満ソ国境はどうだ?」

「はい。たしかに極東軍のモスクワ移動はあります」

「やはり」

「笠原も苦労しています」

「何を言うか。笠原は情報の整理と評価だ。現場には口を出させるな」

「はっ。シュテルンからの情報と照合中です」


シュテルンは独語で、星の意味である。

樋口は、ようやく腰を落ちつけると、料理に箸をつけた。


「副官はどうした。一人で来たのか」

「繋ぎに残して来ました」

「一人は危ないぞ。近頃はなにかと物騒だ」

(誰が物騒にしているんだ)禄雄はそう思う。

「いや、我等より物騒な者もなかなかいないかと」

「あはは」

「「じろり」」



「ところで、何の話でした。今宵は」

「ああ、あれだ」

「はあ」

「内閣総理大臣、土肥原賢二!」

(げっ)

「それはそれは。悪くありませんね」

「そうだろ、お前はどうする」

「では。侍従武官長、樋口季一郎!」

(げげっ)

「そう来たか。考えたな」

「「あっはっは」」

「り、陸軍大臣、山内禄雄!」

「「じろり」」



まだまだ宵の口である。





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