1 陸軍介錯官
昭和16年11月20日、木曜日、午前10時、宮城。
大本営政府連絡会議は、大本営の「統帥」と政府の「国務」とを一致させるための会議である。新国策を決定した10月29日の第63回会議以来、しばらく開催されていなかった。統帥と国務との間に深刻な乖離が生じてなかったからである。実態は、統帥も国務もそれぞれ静かな混乱の中にあり、会議どころではなかった。
3週間ぶりの第64回大本営政府連絡会議では、参加者の顔触れも変わってきた。
大本営からは4人、陸軍部の多田総長、本間次長、海軍部の永野総長、伊藤次長。
政府からは4人、東條首相兼陸相、豊田海相、重光外相、賀屋蔵相。
幹事は3人、陸軍省の栗林軍務局長、海軍省の岡軍務局長、内閣の星野書記官長。
議長は、東條首相である。
「議事に先立ち、大本営より、欧州大戦の状況をお聞きしたい」
多田大将が頷き、参謀本部第二部長の藤室少将が報告を始める。
「独ソ戦では、前線気象は泥濘から凍結に変わり、独軍の進撃が再開されました。しかし、冬用装備に欠けており、攻撃は不調です」
「すると前の瑞典大使館の報告は」
「正確でした。さらに、ここ数週間は独空軍の出撃が確認されておりません」
「それは?」
「はい、凍結寒冷の為に、戦闘車両や航空機を稼働できないかと」
「いや、帝国は独ソ前線の動きを視認しているのか」
「軍機です。答えられません」
「やや、これは。たいしたものだ」
「「げふん、げふん」」
「軍機ですぞ、蔵相」
「わかってるとも」ぶつぶつ。
大本営陸軍部の多田総長が、総合的判断を示す。
「独ソ正面は、概ね今の前線を保持したまま越冬に入ります」
「独英正面は航空機不足で変化なし。バルカンが落着して、戦線は北アフリカに」
「ほかに、北大西洋の護衛戦で英国海軍に戦術変更がみられます」
重光外相が質問する。
「米国が参戦するとして、どの時機でしょうか?」
「英国への輸送は一定を確保していますから、ソ連次第ですね」
「急ぐとすれば、ソ連の逼迫か」
「ただ、米国内の世論が」
「なるほど」
逆に、多田が重光に質問する。
「英ソ同盟は堅固ですか?」
「7月の英ソ共同協定には、どうも単独不講和が入っているようです」
「実際のところ、英国にソ連支援の意志はありますか」
「大英帝国ですからねぇ。波蘭の例を見ても」
「ああ、それか。ソ連が崩壊しても同盟破棄はない」
「少なくとも、英国からの破棄はない」
「バルカンを失地した英国は、北アフリカ死守か」
「そこで敗れれば中東からイランへ」
「いや、その前に米国が」
議長の東條が本題に戻す。
「欧州大戦は、いまのところ帝国に影響はない」
「「それでいいでしょう」」
「主戦場はモスクワ正面と北アフリカ」
「それと北大西洋です」
「よろしい、議事に入ります」
議事は、新国策4項目に沿って行われた。
「一はよろしいでしょう。完遂は目前です」
「「「うんうん」」」
「二に関して、先の議会で2つの重要法案を可決しました」
「「うんうん」」
「三ですが、まずは日米交渉。どうです、外相」
「数時間前に吉田大使が華府に到着しました」
「そうか。ようやく」
「まもなく第一報が入ります。米国の感触が」
「「「うんうん」」」
「陸海軍の準備はよろしいか」
「最後の障害を排除しました」
「「ふ号作戦は、準備宜しです」」
「では、外相。よろしく」
「外相の私が作戦発動とは、わくわくします」
「「ふん」」
「いいなぁ」
「「げふんげふん」」
「四も、このままでよろしいですね」
「「「うんうん」」」
「では、最後に、ソ連の反応です」
「「うむ」」
「外務省には、マリク駐日大使から抗議が来ています」
「ほう、どんな?」
「なんでも共産主義のせいにするのは遺憾だと」
「正面から抗議はできないわな」
「そりゃ、工作を認めるようなものですから」
「ドイツ大使館からは猛烈な抗議がありました」
「「厄介だな」」
「いえ、オット大使をゾルゲに会わせました」
「「それは大胆な」」
「ゾルゲは容疑を認め、オット大使は黙りました」
「気の毒に。オット大使も無事では済むまい」
「外務省は、この機にドイツへ徹底的な反論を予定しています」
「「ええー」」
「「いやいや、それが外交だ」」
永野総長が何か言えと、多田総長を肘でつつく。
「うまくやってくれとしか言えませんな」
東條首相が言う。
「こんな時のための大島だ。遠慮はいらん」
重光は畏まるしかない。
「は、はい」
東條が脱線した議題を元に戻す。
「それで、ソ連極東軍の動きはありますか」
多田が答える。
「関東軍総司令部からは、国境各地の兵力量は変わりないと」
「「ほう」」
「しかし、ドイツ軍は、首都モスクワの目前まで迫ってるのでしょう?」
「ちょっと、蔵相」
「わしなら、満ソ国境から半分は動かす」
「そうなのです、蔵相」
「え」
本間次長が説明する。
「外見は変わりないが、中身もそうかは判りません」
「そうでしょう。えへ」
「今少し時をください」
「わかるのですね」
「まあ。お知らせできるかは別問題ですが」
「そりゃ、残念」
第64回大本営政府連絡会議は、現状を確認して会議を終えた。
会議室を出ると、賀屋蔵相が重光外相を呼び止める。
「感服しました」
「瑞典では、たまたま大使と武官がうまくいっておるのです」
「たまたまでもいい。瑞典大使館は予算を増やします」
「こりゃ、どうも。えへへ」
「どんどん、やってください」
同じ日、午後。東京府、陸軍省。
陸軍大臣の東條首相は、溜まっていた書類を決裁している。
そこへ、中村次官と額田人事局長が入って来た。
「「大臣」」
東條は、中村が差し出した書類を一瞥する。
「座ってくれ」
二人が座ると、東條は書類を熟読する。書類には、陸軍将官の名前が記されていた。
『仏印、西村琢磨中将、近衛師団長、陸士22期、
中支、阿南惟幾中将、第11軍司令官、陸士18期、
南支、牟田口廉也中将、第18師団長、陸士22期、
満州、河辺正三中将、第3軍司令官、陸士19期、
・・・』
東條は、黙って筆を取り花押を書くと、秘書官に渡す。
そして、二人の前に座る。
「二人ともご苦労さま」
「「いえ」」
「うまくいっておるようだな」
「はい。兵務局長のおかげです」
額田が答える。
「「そう、か」」
「まさに、異才ですね」
「「・・・」」
田中隆吉少将が、大臣室に飛び込んできたのは、ちょうど2週間前の木曜日だった。参謀本部乙事件の翌日である。
「田中兵務局長、意見具申!」
「言え!」
「このままでは杉山大将は夫婦で自決されます」
「なにを!」
「そもそも、元帥宮のあとに杉山大将を推されたのは閣下であります」
「う~む」
「事は、東條閣下の人望に障ります」
「ふん。よくもぬけぬけと」
「終わり!退出します」
「おう」
翌日、東條は田中を呼んだ。
「杉山大将に伝言ですね」
現れた田中は東條の顔を見て悟ったらしい。
(敏い奴だ)
「それで、処遇は?」
「現役のまま軍事参議官。来週中に出す」
「よろしいでしょう、とりあえずは」
「なに、とりあえずか」
「閣下もご存知の通り、杉山大将は明晰な方です」
「うむ」
「情状人事であることはすぐに見抜かれます」
「しかし」
「それに本テキは啓子夫人です、ご存知でしょう?」
「うむ、まあ」
「ここは、もうひと工夫です」
そう言うと、田中は東條ににじり寄って来た。
「な、なんだ」
「実は、ごにょごにょ」
11月20日木曜日、夕方。中支、湖南省、岳州。
岳州の郊外に設けられた陸軍特設飛行場に、1機の双発機が着陸した。
急報に駆けつけて来た整備員たちは、しかし、停止した機体を遠巻きにして近づこうとしない。
「ええい、何をやっとるか」
「しかし、軍曹。不吉であります」
「縁起でもありません」
その百式輸送機は異様だった。黒く塗られた胴体の中央部分に4本の白い帯が縦に入っている。主翼も黒く塗られ、やはり4本の白帯が前から後ろへと走っている。
「心配するな。あれはインベイジョンストライプだ」
「さすが、軍曹。物知りですね」
「少尉どのに聞いた。早く行け」
整備員がおそるおそる近づこうとした時、警笛を鳴らして数台の軍用車両が割り込んできた。自動貨車には憲兵が満載である。そして、輸送機から数人の将校が降り立った。
「うへぇ、ベタ金だ」
「新聞で見たことがあるぞ」
「「まさか!」」
岳州の第11軍司令部では、第2次長沙作戦を起案中であった。9月発動の長沙作戦は、10月に成功裏に終わった。しかし、長沙撤収の機動があまりにも見事であったため、米英の新聞は、長沙に日章旗を見ずと報道する。長沙作戦の要諦は敵第9戦区軍の撃砕にあって、長沙占領は目的ではなかった。
だが、勇猛果敢、熱血直情の阿南司令官は憤った。もともと上級司令部の反対を押し切って決行した作戦だったから、阿南の立場はない。今度は長沙を永久占領して、怯懦な国府軍と米英に目にもの見せてやる。
その作戦室に急報が来た。
『杉山軍事参議官来ル』
「なに!」
「どうした。何の用件だ?」
混乱する司令部に、すでに杉山は到着していた。
「阿南司令官、攻勢は禁止されとる。何をやっとるか」
「これは、杉山大将」
「支那派遣軍の命に従って、撤退計画を起案せよ」
「しかし、あと一押しで敵は瓦解します」
「わからん奴だ。退けといったら退けっ」
「栄光ある皇軍が撤退など。本職にはできません」
「軍命だぞ。ばっかもん!」
「なに。ばかとはなんだ。この老いぼれが」
「阿南。これでも喰らえ」
「え?」
びびびびびび~ん。
「やったな。この」
ぱ~ん。ぱぱ~ん。
「まいど、憲兵隊です。はい、そこまで」
「「ええ?」」
憲兵隊が取り囲み、銃剣を突きつける。
「何をするか。無礼な!」
「無礼はお主であろう」
そういって、杉山大将は菊の鑑札を取り出す。
「「「?」」」
副官が、おもむろに宣言する。
「杉山大将は、勅許により陸軍監察官であらせられる」
途端に、全員が直立不動の姿勢を取る。
かつ、かつ、かつ。ぴしーん。
「そういうことだ。軍命に服せ」
「畏れながら」
「その先は言うな。貴様の首だけではすまん」
「うっ」
「腹を切るなら、舞台は用意してやる」
「なんと」
「が、まだ早い。しばし待て」
「それは」
「阿南の腹はわしがあずかる」
「はあ」
飛行場では、同乗していた機付長に指図されて、整備員が見慣れない発動機を点検していた。
「むしろ小さいんですね」
「ああ、燃料供給が違う」
「これですか。へえ」
そこへまた、警笛を鳴らして数台の軍用車両がもどってきた。杉山大将の後から、阿南中将が降りてくる。
「星2つか」
機付長は、機首に白のペンキで星を書き始める。と、自動貨車から包みが降ろされた。どさっ。簀巻きにされた花谷正少将だった。
「おっと、もう1つか」
機種の星印は、すでに10近くあった。
阿南は杉山に従って、百式輸送機に乗り込む。
先客がいた。縄でぐるぐる巻きにされた西村琢磨中将である。
「んぐ、ふがふが、ぐむむ」
その隣に、簀巻きが運び込まれ、やはり縄で固定される。
「縛帯だ。安全第一」
「むがむが、ふがが」
「うるさい、暴れるな。落ちたらどうする」
杉山が拳固を喰らわす。ごん。
「曳航装置が間に合えば、外だったのだぞ」
「ふぃ・・」
杉山は振り向くと、阿南に言う。
「せっかく監察官になったのに、まだ介錯の機会がない」
「・・・」
「花谷は腹を切ると思ったのだがな」
阿南は、おとなしく席に着いた。
走り始めた機体の中で、杉山が機長に怒鳴る。
「次は牟田口か。機長、広東だ」
「目的地は広東飛行場。了解!」
「よし。全員、軍歌演習!」
「「♪~見たか、黒翼、この雄姿~」」
陸軍介錯官を乗せた百式輸送機二型は、ぶんぶんと高度を上げる。




