1 弱虫宰相
昭和16年11月5日水曜日、首相公邸(日本屋)
東條陸軍大将の朝は早い、散歩代わりに乗馬をする。
7時前には、乗馬ズボンに背広で、愛馬の菊網号に跨る。溜池の首相公邸を出ると北に馬を向けた。国会議事堂の前を通って、三宅坂の陸軍省の前で内堀に出る。お堀に沿って半蔵門を過ぎると、左手に英国大使館だ。そのまま、三番町から九段上、靖国神社へと入る。
靖国神社で写真を撮ると、新聞記者は引き揚げていく。途中で、記者たちはいろいろと唆したが、その手には乗らない。またお堀に沿って騎乗を続ける。ここからは速足である。ずっと宮城を右に見ながら一周し、桜田門で左に折れる。海軍省と外務省の間を抜けて、首相官邸に戻る。乗馬はけっこうな運動量だ。もう11月だが、公邸に戻ると汗をかいている。部屋で着替えて、官邸に登庁すると8時半である。
総理大臣執務室に入った東條は、星野書記官長や秘書官らと今日の予定を打ち合わせる。
日程を確認した後、広橋秘書官に問う。
「どうだ。少しは減ったか?」
「いえ。まだ20通近いです」
昨日届いた郵便の数である。
「で、中身はやはり」
「はい。対米開戦を促すものばかりです」
「やれやれ。用賀はもっとすごいのだよ」
『米英を撃滅せよ、鬼畜米英を倒せ、 待てば亡国、いまこそ立て・・』
『・・弱虫東條やーい、臆したかトージョー、いくじなしはヤメロ』
国民は帝国の真の国力を知らない。
日米交渉が進んでいる今、本当の事を発表するわけにもいかない。つまりは、間が悪い。
かくして、国民は、激しく、厳しく、辛辣かつ痛烈に非難してくる。
(わかってはいる)愉快ではないが、東條は思い直す。
「新しいのはあるか?」
「はっ、その。玉無し、というのが」
「なに!」赤松秘書官が興奮する。
「無礼な!逮捕しろ」
「やめておけ。どうせ騙った名前だ」
「はあ」
「新聞が煽っているのです、この非常時に潤沢に紙資源を使って」
「やたら無敵無敗を喧伝し、煽情の語句を並べ立てるだけ」
「それでどうなった?」
「はい」しぶしぶ広橋が用箋を出す。正の字が書かれている。
「ほほーっ。弱虫が一位で、次いで、意気地なしと臆病か」
「鹿岡中佐、いい読みじゃないか」
「あ、いや」
「外相には、俸給泥棒と来たそうです」と、星野書記官長が言う。
「そうか。重光さんは泥棒になったか」
「「あっはっは」」
秘書官らを出して、星野と二人になる。
「どうです?」
「第1案の企画院と総力戦研究所の合同はだめです」
「やはり、企画院には主義者が多いか」
それは、企画院事件から容易に推察されたことである。
「総力戦研究所は、陸海軍で所長職の持ち回りが予想されます」
「それも、うまくないな」
「第2案の情報局廃止は外務省の反発が大きい」
「対満事務局を渡しても?」
「関東局長官を渡すぐらいでないと」
「今この時期、それは、陸軍を揺るがす」
「そうですね」
人事が出てきた。省益が絡む。長くなりそうだと思った東條が言う。
「星野さん。この件は頼むよ」
「わかりました。法制局長、総務課長とも相談してみます」
「すまんな」
「興亜院も一括でよろしいですか?」
「任せるとも」
話は、次の懸案に移る。
「発動日はどうです?」
「今のところ変更はない」
「では、用賀の警備を増やします」
「ああ」
「どうでしょうか、若い書生を住まわせては」
「そうかなあ」
星野とて、言い出したら引っ込めない。
「しかし、ご婦人だけでは不安です」
「考えよう」
「重臣のご子息を預かるというのは」
「それはいいな」
「半分人質です」
「「あっはっは」」
「しかし、この高等班の連中はすごいですな」
「それほどかね?」
「およそ、すべての選択肢を揃えています」
「それぐらいは」
「いや、取捨選択の結果ですよ、これは」
「は?」
「高等班は、この十倍を演習したはずです」
「まあ」
「よほどの規模の計算要員を持たないと無理です」
「そうですか」
「東條さん、本当に十数人でやってるのですか?」
「ま、いずれは星野さんの下に着くのですから」
「だから怖いのですよ」
「え」
東條が赤松を連れて出て行った後、一人になった星野は呟いた。
(論理学だったか?たしか)
星野とて、帝大を出て官僚の筆頭を極めた身、嗅覚もそれなりにある。数理論理学では、事象や情動を数学のように算術で計算できるらしい。
総力戦研究所高等班では、物事の起こる確率だけではなく、影響の及ぶ範囲を数値化しているのだ。さらに、人間の反応、対応、行動も数値化しているという。
理屈はわかるが、すべてを数値化するのは不遜ではないのか。連中は、どういう価値観の持ち主なのか。
(ほんとうなのか?)
星野は、在学中は不縁であった数学教授の名前を頭の中に並べる。