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LN東條戦記第2部「変革宰相」  作者: 異不丸
第3章 敵の亡ぶる夫迄は
37/53

9 元帥海軍大将宮

昭和16年11月18日。火曜日、昼前。東京府、帝国議会。


第77帝国議会は4日目に入った。


退屈な議事の中で、海軍大臣の豊田大将はふと思った。

そう言えば、海軍大臣に就任して1ヶ月になる。陸助の内閣では対米開戦は避けられないと観念したが、日米和平が国策となった。

(この1ヶ月で・・)豊田は、戦果を勘定してみた。

海軍予算、資源配分、南満洲油田、海防艦、哨戒機・・・。片手では足りない。そして。

ふふふ、水交社に馴染ができた。ぽっ。



まだまだ。

豊田は満足していない。もっと陸助から奪える筈だ。

実際に、今、折衝中の案件は複数ある。相手は大蔵省ではなく、陸助省だった。

大蔵大臣の賀屋は、その昔、ロンドン会議で山本五十六と流血の殴り合いをした猛者だった。なかなか手強い。今はしばしの休戦中である。


しかし、陸助省とは取り引きができた。物々交換である。

例えば、海軍航空機用の発動機の設計図と実物を渡したら、相当する陸軍の開発費が回ってきた。海上航法伝授では、金ではなかったが、タングステンの塊が手に入った。旧型の輸送艦や巡洋艦となら、トン数等価の鉄と交換するという。


豊田は大いに乗り気であった。うまくいけば、4号艦の資材が確保できる。

それに、何も海軍のフネでなくてもいいだろう。逓信相は海軍が担当だ。民間のぼろ船を海軍徴用にした後、陸助に回せば鉄になる。熔かすより手っ取り早い。日支停戦がなければ、いずれ陸助は支那事変の戦果全部を差し出したかもしれない。


しかし、それに水を差す石頭もいる。沢本や第1委員会の連中だ。陸軍の意図を探るのが先だと言う。ふん、そんな頭が陸助にあるもんか。獅子身中の虫だな、あいつらは。うん、なんとかせねば。

豊田海相は、大がかりな人事刷新を考えていた。





同じ頃。静岡県、熱海。伏見宮家熱海別邸。


海軍の大御所、元帥伏見海軍大将宮博恭王は数年前から体の不調を覚えていた。

先週から熱海の別邸へ休養に来ている。伏見宮家には、東京紀尾井町の本邸のほかに、中野、銚子、鎌倉、藤沢、そして熱海に別邸があった。この季節に休養するとなれば、温暖で温泉もある熱海に限る。


「早苗、いるか」

(殿下、参ります)


伏見宮家の熱海別邸は伊豆山にあった。別邸はあきれるほど広い。朝から夕方まで、どこかの部屋で日光浴が出来た。晴れていたならだ。

宮家の別邸に洋室はないから、和室に絨毯を敷き、その上に安楽椅子を置いていた。初冬の日は低いから、縁に出る必要はない。


縁の廊下に白衣の看護婦が立っていた。

「いよいよだと思う」

(殿下、それでは)

「あれを頼む」

(是非もありません)

「どれくらいかかるか?」

(一時間もあれば)


看護婦が去ると、伏見宮は家令を呼ぶ。

「豊田をよこすよう、沢本に」

「はい、殿下。次官に電話します」

家令は復唱すると、去っていく。

その後姿がぼやける。伏見宮は肩で息を継いでいた。



伏見宮家は、皇族の大幹である。分家連枝は多い。他の宮家が後嗣断絶の懼れある時は、必ず伏見宮家から養子を送り込んで安泰として来た。元帥宮博恭王自身も第一王子ながら庶子だったので、一度は華頂宮家に出された。博恭王はその時の名前で、元は愛賢王である。その後、伏見宮家に復籍したが、名はそのままであった。


かつて、博恭王には屈折した思いがあった。親王になれない。そのことである。

父の貞愛親王は、明治大帝、大正天皇が信頼された元帥陸軍大将であった。一時は孝明天皇の養子であった。祖父の邦家親王も光格天皇の猶子であったし、曾祖父の貞敬親王は皇位継承候補でもあった。伏見宮家は世襲親王家であり、当主は代々親王を宣下されていたが、明治22年に裁定された皇室典範では、親王を皇玄孫までとしたのだ。


明治37年に伏見宮家に復籍した29歳の博恭王には、まだ期待があった。日露戦争に出征し名誉の負傷を負ったからだ。だが、大正12年に伏見宮家当主となった時には48歳、期待はもうなかった。その時、大正天皇には四人の親王があったのだ。海軍大将となっていた博恭王は、軍務に専念することになる。



昭和5年1月、浜口首相はロンドン軍縮会議の首席全権に若槻禮次郎を任命した。

海軍軍縮が議題なのに、全権に元総理とはいえ文官をあてたのだ。それまでのワシントン、ジュネーブの両会議では海軍武官が全権だったのにだ。当然ながら海軍、特に軍令部は硬化した。4月に閉幕したロンドン会議の結果を海軍は不満とし、軍令部長が帷幕上奏した。異例のことである。海軍内には条約派と艦隊派の派閥が生まれ、今でも尾を引いている。


伏見宮は、東郷平八郎と共に、加藤寛治、山本英輔、末次信正、高橋三吉、南雲忠一ら艦隊派の首領となる。艦隊派の危機感は、艦艇保有量という重要問題を、軍令部を疎かにして政治が扱うことであった。海軍省は政府内閣の一部であり、つまりは、政府が軍令に容喙することである。海軍内の不協和音と不満、そして『兵力量は軍令管轄』という新解釈は政党にも伝播した。



浜口内閣が成立したのは昭和4年7月である。首相で立憲民政党総裁の浜口雄幸は、昭和5年2月の第17回総選挙で立憲政友会に圧勝し、その政権基盤を堅固にしていた。追い詰められた政友会の犬養毅総裁は、民政党に反撃するために、復党した鳩山一郎の提言を入れる。


昭和5年4月からの議会で、政友会は「兵力量は統帥問題であり、内閣が決定するのは統帥権を犯す」と政府を追及した。ライオン浜口は根回しを嫌った。正面から数で反対論を押し切って、衆院可決を得る。だが、統帥権干犯問題は政局となってしまった。さらに、その後の帝国の運命に大きく影を落とすことになる。


帝国議会には政府内閣の予算審議権がある。予算自体は否決できないものの、削減修正案により、内閣に掣肘することができた。その権限を、政友会と議会は自ら葬ってしまった。兵力量を編成大権にとどめておれば、それは内閣政府の予算編成となって、議会の影響下に置くことが出来る。しかし、自ら『兵力量は軍令管轄』と宣言することで、議会と政党は陸海軍に対する影響力を失ったのである。


陸海軍は、この経過と論点を正しく理解した。統帥権は軍部の伝家の宝刀となる。特に統帥を扱う参謀本部と軍令部は敏感に反応した。海軍軍令部は長い間、陸軍参謀本部に倣って、海軍省に対する権限拡大をねらっていた。

昭和7年、伏見宮は軍令部長になる。軍令部次長ら部下を叱咤して、軍令部長を軍令部総長に格上げしたのをはじめ、兵力量の決定権、軍令関連の人事など、軍令部の権限拡大に邁進した。実質上、軍令部は海軍省の上位となる。




早苗が瑠璃の小壺を持ってきた。

(殿下、整いました)

「どれくらいで効いてくるか」

(1時間から2時間でしょうか)

伏見宮は、小壺の中身を一気に呷った。



昭和13年10月、第一王子の博義王が41歳で逝去した。翌年の8月には王妃経子が57歳で逝った。この時、伏見宮は64歳であり、心中では虚しさを感じていた。人生の憂愁である。この頃から軍務を厭うようになる。今年4月に9年間務めた軍令部総長を辞職した。同時に議定官も辞して無冠となったのだ。



「本当に若年には効かぬのか」

(残念ながら、還暦を過ぎませんと)

「世の中はままならぬの」

八千代薬は巌の苔を用いた生薬である。

口伝で伝わる薬のことを知ったのは、伏見宮家当主になった翌日だった。

「人魚の肉も調合するのか、比丘尼では一桁足りぬが」

(殿下、戯言を)

「言いたくもなるぞ」




十日ほど前、伏見宮は内大臣の木戸に呼ばれた。

東久邇宮稔彦王、秩父宮雍仁親王、高松宮宣仁親王が先に席に付いている。木戸内府は新国策を説明した。皇族の意志統一を木戸は引き受けたのだろう。陸軍から大将宮と大佐宮、海軍から元帥大将宮と中佐宮、それに内大臣なら役者は十分だ。


たしかに伏見宮は、対米強硬論者であった。が、それは秩父宮も同じだろう。

しかし、秩父宮は発言しない。木戸の説明に黙って頷くばかりだ。

(そうか、わしが最後ということか)

それならそれで、考えもある。ここには来ていないが皇族の将官は多い。その中で、対米強硬論は半分を超える筈だ。伏見宮は口を引き締めた。室内には緊張が高まる。


木戸が言う。

「宮内大臣の松平卿が言われました。そろそろ皇室典範を見直す時期だと」

皇室典範は明治22年に裁定され、18年後の明治40年、その11年後の大正7年と2回、増補と改正がなされていた。その後、23年が経っている。


(そういうことか)

伏見宮は得心した。二人の直宮の同席は、陸海軍の若手を代表するものではなかった。これは陛下の御意志だ。自らの約束にするということだ。

逝った第一王子の博義王には王子が一人あった。伏見宮の孫、博明王はまもなく10歳になる。伏見宮家はまた復興する。孫は親王となるのだ。

伏見宮第26代当主博明親王、否がある筈はない。



そうとなれば、万全を期さねばならない。

伏見宮は海軍内の意思統一をなすべきなのだが、それに先立って解消すべきこともあった。

海軍省部には、旧来の艦隊派対条約派の対立の他にも、戦艦対航空や兵科対機関などの確執がある。陸軍協調の前に、まず海軍部内をまとめないと、つけこまれる。

伏見宮は帰宅すると、しばらく別邸で休養する旨の使いを出した。不調なのは本当だし、恭順を示す意もある。だが、本当の目的は、海軍特務の始末だった。




「どれくらい延びる」

(古文書の例では、一年から五年)

「そうか、最短で一年、最長で五年か」

(しかし、それを過ぎれば確実に)

「うまくいけば、見れるかな」

(殿下)

「楽しみが出来た。礼を言う」

(殿下、勿体ない)



伏見宮家には代々、当主に使える地下家の家礼がいた。

もとの任務は内舎人、宮家当主の警護である。

八千代薬を代々伝えた早苗は吉内、吉野童子であった。






同じ日、夕方。神奈川県下の一級国道。


豊田大将を乗せた大型自動乗用車は、傾く太陽を追いかけ、西へと驀進していた。

(まったく、血の一滴を)

東京から熱海まではすでに全線電化されている。石油を節約したい豊田は鉄道で行きたいのだが、そうはできない訳もあった。


一斉検挙の発動、近衛公の受難などで、帝都は厳戒態勢にある。鉄道省は内務省に全面的に協力し、列車の不時停止や間引き運行などを予告なしで行っていた。

列車は人気のない郊外にさしかかると、突如、停止する。それは、警察警備隊の重包囲のど真ん中であり、即座に乗客の人物認定が行われた。

いつ、どの列車が停止するかは、内務省や警察の握る情報次第であり、予期できなかった。


さらに、元帥宮の別邸に行くには伊豆山の急坂を上らなければならない。この時局下、熱海駅に大型で馬力のある自動車を準備できるかは予断できなかった。

(帰りは深夜になるな。今晩はお預けか)

せっかくだから、温泉宿でゆっくりしたいところであるが、明日も議会がある。

(ああ、熱海の夜かあ)



伏見宮家別邸に到着した豊田海相は、妙に顔色のいい元帥宮に面会する。

そして、驚愕すべき話を告げられた。





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