終 朝鮮総督
昭和16年11月14日、金曜日。午後。朝鮮、京城、朝鮮総督府。
朝鮮総督の南次郎予備役陸軍大将は、総督公室で内地からの客と相対していた。
南は、大分県出身で陸士6期。陸軍大臣や関東軍司令官を務めた陸軍の長老である。朝鮮総督になってからは5年が過ぎ、歴代の総督の中でも長い方に入ってきていた。
南総督の隣には、今年陸軍大将に昇進した陸士16期の板垣征四郎朝鮮軍司令官がいる。
内地からの客は、前参謀総長の杉山元陸軍大将と前教育総監の山田乙三予備役陸軍大将の二人である。陸士14期の山田は教育総監を降りると同時に、軍事参議官からの退任と予備役入りを希望し、容れられた。しかし、陸士12期の杉山は軍事参議官として、いまだに現役に留まっている。
「昨晩は、愉快であった」
「はい。久しぶりで」
「やはり、満州事変ですね」
「「「あっはっは」」」
四人の接点は満州事変である。昭和6年9月18日の満州事変勃発時に、若槻内閣で南は陸軍大臣、杉山は陸軍次官であった。山田は騎兵第4旅団長で、豊橋から満州事変に出動した。板垣は、当の関東軍高級参謀であった。四人とも存分に働いた、その思いは共通である。
南、杉山、板垣の三人は陸軍大臣も経験していた。
お茶を飲んで、世間話を済ました後、杉山は用件に入った。
「では、南閣下。そろそろ」
「うむ。昨日の手紙の件だな」
「「はっ」」
南総督は東條陸相から、板垣司令官は土肥原総監から、それぞれ手紙を受け取っていた。その内容については、昨日のうちに、一応の説明を受けている。
「わしはいいぞ。いつでも降りる。そう東條に伝えてくれ」
「南閣下。早速・・」
礼を言おうとする杉山を、南が手を挙げて制する。
「礼はいらんぞ。5年もやった、そろそろ潮時だろう」
「「はっ」」
「後任については、解せんところもある」
((ぎくっ))
「が、わしが口出すことではないな」
「「は、はーっ」」
「南閣下、板垣も異論はありません」
「「おお」」
「正直、東條のやり方には不満も不安もありますが」
「ふむ」
「杉山閣下も山田閣下も納得と言われるのです」
「うむ」
「永田がやれなかったことをやると言うのです」
「それだな」
「存分にやらせてみましょう」
「よし」
「「おおっ」」
板垣は、ずっと満州事変の首謀者とされてきた。
自ら声高に否定したことはない。が、感慨はある。
(決して、嬉々として石原莞爾の陰謀に加わったのではない)
満州事変には、若槻内閣に統制されていた陸軍の復権がかかっていたのだ。
昭和6年、第2次若槻内閣の当時、陸軍は追い込まれていた。
416事件、間島事件、浜口首相狙撃、米価暴落、万宝山事件・・・。内外の情勢は逼迫しているのに、政府・内閣にその危機感はない。政府・大蔵省は昭和恐慌を乗り切るために農村・農民を後回しにした。政府・外務省は国際協調を優先して、満蒙支那の在外邦人を切り捨てようとした。すべてが後手で、かつ緩慢である。党閥闘争に汲々としている議会に代わり、陸軍の行動が期待されている。そう、見えたのだ。
それなのに、陸軍中央は、総理・大蔵省・外務省に完全に抑え込まれて身動きが取れない。ならば、出先が動くしかあるまい。
板垣にとって、満州事変は帝国と陸軍を救うために、やむを得ず取った直接行動であった。ほかに選択肢があれば、石原なぞに同調してはいない。満州事変がなかったならば、515事件や226事件は数年早まっていただろう。
実際に、満州事変以後、陸軍は新聞と国民の支持を得ることができた。外務省・大蔵省よりも優位に立てるようになり、国防が優先されるようにもなった。陸軍の地位は安定し、内閣組閣において陸相の選任は最重要視される。満州事変によって、陸軍は復権したのだ。
謀略首謀とされていても、陸軍を救った板垣が優遇されるのは当然であった。
今また陸軍の危機が来た。が、朝鮮軍司令官の板垣にとって、可能な行動はない。いや、全陸軍の中でも対応できる者は少ないだろう。
今回は、優諚なのだ。
たとえ日支講和は可能だとしても、日米融和は難問だ。帝国臣民の心情を思えば、不可能に近い。それを買って出た真面目馬鹿がいた。大命とはいえ、自ら受けたのだ。ならば、見守るしかない。不満はある。しかし、東條は結果を出しつつある。板垣としては、東條に任せるしかない。
誠に畏れ多いことだ。
「どうだ、少し早いが」
「お断りする理由がありません、閣下」
「昨日の料亭でよろしいですか?」
「「は~い」」
「一度、ホテルに帰りたいのだが?」
「よろしいんじゃないでしょうか、閣下?」
「おぅ、わしも官舎に帰って着替えるよ」
「では、今日は背広ですね」
「そうなるな」
(((わくわく)))
「ほら、あの長身の娘」
「ああ、あの子はよい」
「あんなに背の高い妓生は初めて見る」
「よしよし。今晩こそ」
「総員、捧げ銃ーっ」
「「「あっはっは」」」
明治43年8月22日(1910年)、大日本帝国は大韓帝国を併合した。韓国併合である。
帝国は朝鮮総督府を置いた。10月1日、初代総督の元帥寺内正毅陸軍大将が着任した。
長い間、日本はこの地を朝鮮と呼び、住民を朝鮮人と呼んできた。
朝鮮は、1392年(明徳3年)から1897年(明治30年)まで、500余年にわたって続いた李王朝の国号である。李氏朝鮮は大清帝国の冊封国であり、つまり属国であった。中華秩序では、朝鮮王は大清皇帝の臣下であり、独自の元号は許されない。
日清戦争で敗れた清は、1895年の下関条約で、朝鮮の独立自主を認めた。そこで、朝鮮宮廷の重臣は、独立国に相応しい国号と国主称号への改称や自主の元号制定を上奏した。1897年8月、朝鮮国王の高宗は大清国元号の使用を捨てて、独自の元号『光武』とした。次いで、国号を大韓帝国とし、自身を皇帝と称した。光武帝となった高宗は、清国皇帝ばりの皇帝即位式も決行した。
光武帝は1907年に『ハーグ密使事件』の責で退位させられ、子の純宗が即位した。
条約によって大日本帝国が併合した国は、この大韓帝国である。だから、韓国併合である。
しかし、日本は、併合時に、大韓帝国の国号を朝鮮に戻した。よって、大日本帝国朝鮮であり、統治機関名は朝鮮総督府なのだ。
大韓帝国ないし韓国は、もはや存在しない。
この地が朝鮮と呼ばれるようになったのは、李王朝からである。李氏朝鮮とも呼ばれる。その前は高麗と呼ばれていた。高麗は、470年続いた王王朝、王氏高麗の国号だ。
李氏朝鮮の起こりは興味深い。
李王朝の開祖である李成桂は、高麗の重臣であり、遼東で明と戦うべく出征した。だが、李は敵国の明と通じ、軍を回し、上官と高麗王を殺害して、王朝を簒奪した。李は明に国号の許可を乞い、明の浩武帝から『朝鮮』を賜った。
その料亭は、京城市中央にある朝鮮ホテルから近かった。
ごみごみした路地の奥にある妓生宿とは違って、料理と酒を売り物にした料亭だ。客の希望により、日本人の芸者も朝鮮人の妓生も呼ぶことが出来た。
「朝鮮は周の出先だ、所詮は中華の属郡だ!」
部屋のひとつから大きな声が聞こえた。北京官話である。
「といって、大韓の韓は南部居住の部族名ではないか!」
負けずに、大声が返る。
どうやら、その部屋では朝鮮の国号を論じているらしい。
声音と、北京官話を話せることから、部屋の客は40歳以上だろう。併合され大日本帝国の一部になって31年になる。外国語はまず日本語を選ぶようになった。教養としての漢文は欠かせないし、日本に留学しても役に立つ。だが、会話に北京官話を用いるのは、併合前の世代だ。それに、30そこそこでは、いくら両班でも、店の支払いに困るだろう。
「光武帝が、なぜ帝国と元号にこだわったか?」
「独立自主だろ。しかし、自ら得たものではない!」
「もはや、光武帝ではない、高宗だ」
「いや、ただの李太王だ」
併合後、李王朝の王族・貴族は、大日本帝国の王公族として待遇されることになった。当時の大日本帝国では上流階級として皇族と華族があったが、朝鮮の王族・貴族を容れる為に、皇族と華族の間に王公族を、新しく勅命で創定した。
李氏朝鮮王の純宗は、李王として大日本帝国王族となった。王族は華族の上で、皇族と同等とされた。実際に、李王の父の李太王、すなわち高宗の死去にあたっては大日本帝国国葬が営まれた。日本では、皇族でも国葬が営まれるのは稀であった。
「帝国葬か」
「日本人は確かに律儀だ」
「うん。条約を頑なに守っている」
「清皇帝の溥儀は、10年ですべてを失ったのに」
「朝鮮人の懐柔のためだろうが」
1912年に退位した溥儀だったが、退位にあたっての優待条件は守られなかった。終の棲家であった筈の紫禁城も、わずか12年で退去させられた。
一方で、ほぼ同じ頃に退位した李王や李太王をはじめ朝鮮の王公族に対する約束を、31年の間ずっと日本は守っていた。
「朝鮮とは半島北部のことだし」
「韓は、もともと半島南部を指す」
「古朝鮮も李氏朝鮮も、中華の属国」
「新羅は三国統一にあたって唐に屈従した」
「やはり、自主は高麗か」
統一新羅の末期、後百済と後高句麗が新羅からの独立を宣言した。後三国である。後高句麗では将軍の一人だった王権が権力を掌握し、高麗と国号を変えた。王権は、後三国の再統一に成功した。王氏高麗である。
朝鮮知識人の間では、高麗が唯一、自主独立の国とされている。李氏朝鮮は、その起こりが裏切りと売国であり、李王朝打倒は民族独立を意味していたのだ。だから、その機会を永遠に奪った大日本帝国と李完用は『恨』の対象とされる。
「国号は高麗でいいだろう」
「帝国とするか民国とするか」
「ただの高麗国でもいい」
「それで首班は」
「もちろん、北からだ」
「南はだめだ。特に全羅道は」
「百済人は残っていない」
「上流は日本へ亡命した」
「残ったのは常民と奴婢だけだった」
「常民もほとんど滅んだ」
「それは高麗がやったことだ」
百済・高句麗・新羅の三国のうち一番弱いとされていた新羅が唐と結び、他の二国を滅ぼし朝鮮を統一した。統一新羅である。百済は日本の援軍を得て対抗していたが、敗れて、王族・貴族は日本に亡命した。当時の天智天皇は、首都の近江に定住させた。他にも、百済からは周防長門を中心に西国へ、高句麗からは武蔵甲斐など東国へ、多くの常民が亡命した。
朝鮮知識人の間では、そう信じられていた。
「重慶の、あれはだめだ」
「すると、アメリカに亡命した旧臣たちか?」
「それとも、王公族」
「何をいまさら」
「いや、脈はある」
「ほんとか?」
「どの線だ」
「まだ言えんよ」
朝鮮人が3人集まると7つの派閥ができると言う。
今宵は4人だから、13の分派は覚悟しなければならない。
「まあ、いい」
「おれたちは資金を出すだけだ」
「そう。併合後に儲かるようになったが」
「やはり、上に日本人がいては」
「もっと自由に商売できないと」
「それには、独立だ」
「自主と言え、声が高い」
その時、部屋の前の廊下を客たちが通り過ぎた。
そうっと覗くと、背広を着た初老の日本人が4人。女将が案内している。
「ふんっ」
「そのための北京官話だ」
「朝鮮人でも両班以外には解らん」
「日本人が解るのは書いてある漢文だけだ」
「それもそうだな」
「それより酒だ。そろそろ芸者も」
「そうだ」
「朝鮮語で言わんと、通じらんぞ」
「なに、日本語で注文するさ」
「「「あっはっは」」」
南総督を上座に、山田、杉山、板垣が座についた。
まずは、出てきたお茶をすする。
「なかなか物騒な話をしているな」
「ま、状況が変われば、頼もしい話かと」
「しかし、間抜けだ」
「本命は別だ」
「あちこちにいるだろう」
もちろん、4人とも支那語は解せる。しかも、一番規則的な北京官話だ。
陸士・陸大を出ても、英仏独伊露支のうち2つ以上は理解できないと陸軍中央での出世は覚束ない。
「しかし、百済の話は聞き捨てならんが」
「そうか?初耳ではないぞ」
「ま、それより」
「うむ~」
「「まま、閣下」」
「いや~」
「「閣下、そそっと」」
「帝国の繁栄と帝室の弥栄に」
「「「かんぱ~い」」」
「それから、元気な朝鮮人に」
「「「かんぱ~いい」」」
「「「あっはっは」」」
陸軍大将が4人だけで料亭に来ることは、もちろんない。
密偵たちが先行し、副官や護衛の憲兵隊も私服で同行している。さらに、近くには歩兵小隊が待機していたし、連絡将校や伝令も別の部屋にいた。
朝鮮人客4人については、すでに店の内外で聞き取りが開始されていた。
数時間後に店を出る時、4人は、歩兵小隊の銃剣のお出迎えを受けるかもしれない。
あるいは、ただ、尾行がつくだけか。




