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LN東條戦記第2部「変革宰相」  作者: 異不丸
第2章 外はすなわち国交を親善にし
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10 議案

昭和16年11月14日、金曜日。朝、総理官邸。


明日からは第77臨時議会が開かれる。

直前の今朝の閣僚懇談会の話題は、当然、議会のこととなる。

臨時議会とはいえ、内閣が準備した議案は多かった。


大政翼賛会の体制の中では、議員全員が与党であるといえる。大政翼賛会総裁でもある東條首相がその気になれば、すべての議案を政府の思うとおり通過させることも可能と思われた。

とはいえ、翼賛会には、政友会や民政党だけでなく、左派である社会大衆党も参加している。そもそも、大政翼賛会の成立時にすべての政治結社と政党は解散して合流したのだ。大政翼賛会は左右合同の公事結社であった。


政府議案は予算に関するものが多い。

まず昭和16年度歳入歳出執行状況と追加予算、次に昭和17年度予算編成上の緊急措置、ほかに支那事変のために時限立法した昭和12年、昭和13年法律などの改訂と延長である。それらの歳出増に対応するために、財源として酒税法の改定などもあった。


東條自身は、すべての政府議案を原案のままに通過させようなどとは思っていなかった。会期の限られた臨時議会であるから、議案の軽重による時間配分はあるだろうが、必要な論議は行ってほしい。特に、帝国の将来に関わる議案は、議論に時間をかけてほしかった。そのため、防空法など提出を見送った議案もある。


東條の関心は、国籍法準備法案と陸軍国防用地収用法にある。


国籍法準備法案は、憲法18条の規定を具体化するものであった。憲法18条には『日本臣民たるの要件は法律の定むる所に依る』とあるが、その要件を定める法律はまだ存在しない。帝国にとって根源的で重要な問題だから、いきなり法律作成ともいかないし、司法省の通常予算と組織だけでは十分ではない。ちゃんとした予算をつけて、しかるべき体制を整備しようというものだった。


陸軍国防用地収用法は、国防に必要な土地と建物の接収を容易にしようというものである。国民総動員法に代表される戦時非常時の法体系とは別に、平時でも適用される法案であった。

海軍は、工廠船渠用地とした海軍国防用地収用法を別に準備中であり、次の第78議会に提出する予定だった。

陸海2つの法案は、商工省や鉄道省などの新幹地構想と合同されることを見据えていた。将来は、国土計画基幹法や国土省となるかもしれない。



星野書記官長は、閣僚らに明日からの議会の進行を説明する。

「第1日目の明日は、開院式。それから・・」

「「ふむふむ」」

「主要閣僚の施政方針は2日目になります」

「2日目とは、日曜日じゃないか」

土曜の夜に痛飲するつもりの豊田海軍大臣が文句をつける。

「まあまあ」

中野国務大臣がなだめる。

「議長には、日曜は10時から12時とお願いしてあります」

「それならいいが」

東條が立ち上がる。

「憲法の条項を遵守するように、と御諚をいただいております」

「「ひっ」」

「また、枢密院議長には議会に重きをおくと申し上げたばかりです」

「閣僚の方々には、万難を排して議会に出席されるようお願いします」

「「はあ」」


今議会へ臨む内閣の方針は、一に日支和平の醸成である。日支和平が成れば、日米交渉で有利な立場に立てる。


すでに重慶からの特報は、閣僚全員が承知していた。松井全権は、蒋介石から日支和平の基本合意を引き出していた。すぐに随員や委員を増派して、来週からは本格的な交渉に入る。具体的な条件や案文の作成に入るのだ。


日支和平基本合意の発表は、東條首相に一任されていた。東條は、それを、本会議の中で行うつもりである。発表は、議会で歓迎されなければならない。そのための準備は、すでに開始されていた。


支那事変の完遂、英米との対決に傾いていた帝国の世論は、東条内閣の発足以来、高まりを鈍らせていた。

先週からは、内政外交において共産主義者やソ連の脅威が論じられるようになった。新聞社の報道姿勢に変化があったようだ。今週になっては、日支和平の建白会を機に、日本と支那との関係について多くの選択肢が提議され、紙面で論じられていた。昨日の情報局発表も、大きく影響している。


建白会の直後から右翼は活発に動いていた。建白書に署名した右翼幹部らは、筆頭署名人である頭山満の号令一下、傘下の右翼団体や翼賛会地方組織はもちろん、一匹狼の壮士浪人までも再組織して、『日支和平、対共対決』に合同することに成功しつつある。


陸軍でも、『承詔必謹・人心刷新・部内統一』の名の下に、「対支強硬派、親ソ容共派」があからさまに要職を追われ、予備役に入れられている。在郷軍人会も役員が交代していて、地方役場とはもちろん、翼賛会、学校などとも協力・協同体勢が整っていた。


それまで新聞に対する圧力団体であった右翼と陸軍の変容をみて、最初は様子見という感じだった紙面の論調も、数日後には堂々と、日支和平、講和条件や日満支の新将来像を打ち上げるまでになった。一方で、共産主義者やソ連は、散々に紙面で追及されていた。32年テーゼ、砕氷船理論が詳説され、それらに賛同した親ソ容共派の文化人らが実名で糾弾されつつあった。



「やはり一番の難儀は外務大臣ですね」

潤沢な予算が約束されている豊田海相の声は明るい。

「外相、ソ連大使の回答は?」

「本国の訓令待ちだそうです」

「ちっ。いまさら何を」

「正直言って、いささか気が重い」

重光外相の返事は沈んでいた。

「日支和平の障害はほとんどなくなりましたぞ?」

「はい、それはありがたいことですが」

「後は、条件交渉ですね」

「蒋総統もだいぶ焦っているらしい。うまくやります」

「すると?」

「ははあ、日米の方ですか」

「まあ」


日支和平に誘導するために、共産主義者やソ連との対決を煽ったのは正しい。国民には、怒りの向け先が必要だったのだ。それは、それまでに新聞がやりすぎていたからで、そのつけを政府が用意した格好だ。だからといって、どのみち槍玉に上げられる外務省には迷惑以外の何ものでもない。外務省出身の情報局総裁が、ラヂオや雑誌を優遇し、新聞記者に冷たく当たるのは、ま、そういうことだった。


問題は、日支和平がそのまま日米融和の気運をも生むかどうかだ。重光は否定的だった。対米交渉では、帝国の大きな譲歩が予想されている。いくら世界平和といっても、日本国民は帝国だけの一方的な譲歩には納得できまい。といって、ソ連との対決を大きく掲げれば、ソ連を背後で支援している米国は敵だと新聞は書くだろう。


「外相、いくらかの譲歩は考えていますよ」

見かねた東條が声をかける。

「それは。首相?」

「議員提出の議案で譲歩するのです」

「なるほど」

「大丈夫ですね、中野大臣」

「首相、任せてください。外相もご安心を」

中野は胸を叩いた。

「よろしく頼みます」

さっきよりは明るく、重光は答えた。

重光とて、外相として打てる手は打っている。だが、手は多い方がいいのだ。




同じ頃。

東洋経済新報の本社へ出勤した石橋湛山社長に、一通の書簡が届いていた。


石橋湛山は、東条英機と同じ明治17年の東京生まれで、57歳になる。

早稲田大学特待研究生を出て、東洋経済新報の編集に長い。私大卒なので一年志願兵として入営したが、その後も応招、再志願し、陸軍少尉で予備役となった。予備役後も召集されたことがある。言論界では、中野正剛以上の硬派で通っている。


石橋の主張は、民主主義、平和主義、自由貿易である。特に、経済に関する論調は合理的に展開してきた。政府や軍部の政策を糾弾することに躊躇しない。石橋が硬派とされる所以である。入営の頃から何回も、石橋は社会主義者と誤解されていた。

政府に対して言論・報道の自由を主張する一方で、新聞社の姿勢も批判している。


5年前の226事件報道では、軍部に靡いて時事新報を見捨てた大手新聞社に対して、『現在の言論制限下でも、言論機関が報道し、批判しうることは山ほどある。熱意が足りない』と断じた。

2年前に大手新聞社が8社協同で強硬に英国を非難したときも、報道が感情的に反英・媚独に揺れるのを嘆き、『言論報道の自由は、いろいろな意見やいろいろな報道が、不断に国民の前に提供されることだ』と言い切っている。

どうやら石橋湛山の硬派評には、堅物の意味が強いらしい。


石橋社長は、封を切ると一読した。それから、しばらく黙考していた。

書簡の内容は、東洋経済新報の記事内容を賞賛し、重要な経済記事を冊子として発刊するように勧めるものだった。例とことわりながらも、具体的な題目の指定もあった。最後に、必要な紙とインクの手配も請け負うとある。

(ふぅむ)


雑誌の記事が認められた。出版社の編集者としては、手放しで喜ぶべきであろう。しかし、単行本の発刊、それも連続・全集化するとなれば、経営者として損得を考慮すべきだ。この時局下では、製本材料の配給も不安である。だいいち、読者、購買者がいるのか?

雑誌なら、ほかの雑文や時局記事で売れようが、経済論だけの単行本では難しいだろう。少なくとも多くの冊数は見込めない。


ところが、書簡の差出人は、それらの心配を払拭するものだった。

石橋社長が考えているのは、そこだった。

書簡の差出人は、『情報局総裁 谷正之』とあった。



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