9 取材制限
昭和16年11月14日、金曜日。早朝。東京府下。
国務大臣中野正剛は、総理大臣東条英機と並んで馬上にあった。
「中野さん、どうですか?」
「総理、なかなかいいですよ」
中野は、鐙から足をあげて見せる。
「なにより、軽いのが好いです」
「それは良かった」
「重光さんも気に入られたようで」
「はい」
路面に埋め込まれた線路をかわすために、二人は手綱を引く。
「「どう」」
例によって、靖国神社で新聞記者たちと別れると、二人は馬足を速めた。
今日は閣議が開かれる日で、二人は乗馬の後、閣僚懇談会に出る。
「意外でした。もっとしつこいかと」
「記者たちですか?」
「はい。昨日の今日ですから」
「ま、昨日の会見には私もいましたから」
「なるほど、それもそうですね」
硬派で鳴らした中野正剛が入閣して、東條総理と轡を並べる。
(なかなかのニュース種じゃないか)と中野は思う。
しかし、記者たちは靖国神社を背にした二人の写真を撮ると、あっさり引き揚げていった。
(近頃の若い記者どもは)と、元新聞記者で、新聞を主宰していた中野は、ひとりごちる。
同時に、記者たちの全員が兎のように赤い目をしていたことに、中野は気付いていた。
ほとんどの記者が、徹夜明けだったのだ。その徹夜を強いたニュースの前では、中野と東條の乗馬姿もかすむだろう。せいぜい、来月の写真雑誌の表紙になるか。
昨日、11月13日の午後3時に、情報局で新聞発表があった。
情報局のある帝国劇場に集まったのは、しかし、新聞記者たちだけでなく、ラヂオや雑誌の記者たちもいた。外国の新聞記者たちもいる。全員が、その日の午前中に電話で連絡を受けた本社の命で、駆け付けたのだ。
発表を行ったのは、情報局総裁の谷正之。外務次官も務めた外務官僚で、かつ重光外相の腹心でもある。東條内閣発足と同時に情報局総裁に就任した。
発表の後に質問を受け付けると切りだした谷総裁の後ろには、内閣から東條首相兼内相、重光外相、星野書記官長の三人がいた。まったく、異例なことだ。
谷総裁の発表が始まると、その内容に全員が驚愕した。
「先月検挙された、東京朝日新聞記者の尾崎秀実、独逸人の新聞記者のリヒャルト・ゾルゲ、この二人を首領とするソビエト連邦の諜報団の全容が判明しました」
「「えええーっ」」
被疑者の実名を名指しするよりも、ソビエト連邦の国名を明言したことが衝撃だった。
「詳細は、発表後に配布する冊子をご覧ください。発表を続けます」
「「「わーっ」」」
騒ぎ出す記者たち、立ちあがろうとする記者らを警衛が制止する。警衛は右手を拳銃嚢にあてていた。
「「「・・・」」」
「・・リヒャルト・ゾルゲは、22年前に独逸共産党に入党し、その後ソビエト連邦共産党に入り、ソビエト赤軍参謀本部第4局に配属された・・」
独逸人の記者以上に、ソ連人記者の顔色は真っ青である。
「11年前に上海に派遣された。その時の暗号名がラムゼイであります・・」
「上海で接触した相手の一人に、米国の寄稿家がいます。女性です」
谷総裁は概要と言ったが、内容は具体的だった。
もちろん悪化している対米関係を遠慮して、女性寄稿家の名前は明かさないし、彼女が米国共産党員であるとも言わない。それは、記者たちが取材すれば判明することだ。
「彼女の居宅のすぐ近くには大韓民国臨時政府を名乗る一味の本拠もあり・・」
「さらに、初代中華民国総統の旧宅と・・」
独逸人、ソ連人どころではない、出席の外国人全員が青い顔になった。情報局の発表は、上海での交際関係や地誌も含まれており、事件の捜査が国内だけに限られてないことを意味していた。
谷総裁の発表は終盤に入った。
「・・かかる事件の性質は、正に帝国への内政干渉以上のことを意味する」
全員が、谷の次の言葉に愕然とした。
「ソビエト連邦国は、大日本帝国の政府転覆活動を指令したのか否か・・」
「「あああーっ」」
「さきほど、帝国外相とソ連大使との会談にて詰問されたところであります」
「「「ま さ か !」」」
日本は、ソ連を敵国呼ばわりするのか?
記者たちは、ほんの数か月前、独ソ開戦の直後に論議された北進論を思いだしていた。
谷総裁の発表は、30分ほども続いた。
その後、出席の記者たちに冊子が配られて、休憩が取られた。配布された冊子は、日本語のほかに、英文も用意されていた。
10分強の休憩の後、質問に入った。記者たちの質問は、およそ3つに分けられた。
・ゾルゲ、あるいはラムゼイ諜報団の団員と、その出自について
・諜報団の目的、反政府運動、特に敗戦革命について
・帝国政府の対応策、分けても対外政策について
諜報団員と、その出自についての質問は、日本の記者からだった。
「総裁、首相経験者を含む政界の重鎮の子息が複数名も!?」
「まことに遺憾ですが、事実です」
「事実とは、その~」
「すでに検挙して取調中です」
「「ええーっ」」
質問した記者は、頭の中で回想する。元老西園寺公爵の孫、犬養元首相の三男・・。記者の取材源であり、つい数時間前に連絡を取ろうとして取れなかった相手だった。
(あの時、すでに収監されていたのか)
(え。すると?)
記者は、ほかに連絡が取れなかった人物を頭に浮かべる。前の総理大臣で公爵、五摂家筆頭の・・。まさか!
「敗戦革命とは?」
内相の東條が立ち上がり、回答する。
「共産主義者の主張は武力革命であり、内乱などで治安が乱れているのが前提です」
「「はあ」」
「内乱以上に国が乱れるのが、国が敗れた時、すなわち敗戦」
「「あ、あ」」
「帝国が敗戦するような相手国や状況を設定する」
「「えっ」」
「そうして、帝国が敗戦した時に決起し革命を起こす」
「「そ、そんな」」
「コミンテルン1932年テーゼとして、確認されてあります」
「「あっ」」
「記者諸君らは、ま、よくご存知だろう」
「「え、え?」
帝国の対応策、対外政策については、重光外相が回答した。
「国交を親善にする。これが帝国の施策であります」
「「あ。あの~」」
「何か、問題でも?」
「事が事実ならば、これはソ連の侵略ではないか」
「さきほど、首相が内相として32年テーゼを言われた」
「「は、はい」」
「敗戦は、戦争するから起こるのです」
「「は、はあ」」
「人類はみな兄弟。世界平和こそ、帝国の対外政策であります」
「「そ、そんな~っ」」
質問時間が終わった。
谷総裁は閉会を宣言したが、日本人記者は治まらない。しつこく、聞き出そうとしている。それは、事実や状況を聞き出そうとするのではなく、何故そういう判断や施策になるのか、政府の判断根拠を追及しているかに見えた。
一方で、外国人記者のほとんどは納得していた。すべてが政府から説明されるなら、記者は要らない。ここからが、記者の本分なのだ。それにしても、情報局=日本政府の発表は水際立っていた。不要な宣伝=プロパガンダはなかったし、必要な情報は得られた。これから数日は、職業記者として充実した日が過ごせる。そう、その点は大日本帝国政府に感謝してもいい。
谷総裁が宣言した。
「今回発表しました案件、事件に関しての重要性はご理解いただけたと思います。これを受けて、しばらくの間、内閣と中央官庁では取材制限を設けます。ご協力願います」
「「・・・」」
しばらく、反応は起きなかった。
「「・・・」」
「「・・・・」」
「「ええ?」」
「「「ええ、えーっ!!!」」」
「閣僚大臣、中央官衙の課長職以上の官僚への取材は許可制になります」
「「なにをーっ」」
「情報局窓口へ取材を申請ください」
「「な、なんて・・」」
「おわります」
「「「え?そんな」」」
会場の出口の一部が紛糾していた。
出口では警衛がひとりひとりの取材許可証を確認していた。外国人記者は、そのまま出口へ行けるようだったが、邦人記者の列の先頭でもめ事は起こっているらしかった。
警衛が問う。
「半年分の協賛費です」
記者が答える。
「はい。じゅうごえんごじゅっせん、ですね」
警衛は、同僚に目配せをすると、宣言する。
「よし。そっちへ」
「はい」
次の記者が来る。
警衛が問う。
「半年分の協賛費です」
記者が答える。
「はい。じゅうごえんごじっせん、ですね」
「そっちへ、どうぞ」
また、次が来る。
「ちゅうこえんこっちゅうせん」
「こっちへ、どうぞ」
ばたっ、ばたっ。どたっ。ばたっ!!
「「・・・」」
「次の方、どうぞ」
「ああ、はい」
大日本帝国は混乱の中に入ろうとしていた。




